恋人に逃げられた伯爵令嬢、親が許婚として連れてきた従弟と畑をやってます。継母は私を追い出したいみたいだけど。
柴野いずみ様主催の【スパイス祭り】参加作品です。
スパイスのチョイスは『サフラン』です。
ちなみにサフラン、クロッカスの仲間です。クロッカスに似た紫色の可愛らしい花を咲かせます。
スパイスっぽくないという突っ込みは、心の中だけにしてくださるとありがたいです(汗)
1.
モニカ・バーニック伯爵令嬢は、およそ貴族令嬢とは思えぬ出で立ちで、農地で精を出していた。
精を出していたというのは少々前向き過ぎる言い方かもしれない。
どちらかというと、ただむやみやたらと鍬を振り回している……?
「くっそ~! アルベルトめ!」
さっきからモニカは、ずっと好きだったアルベルト・サスマン侯爵令息への悪口が止まらないのだ。
モニカは鍬を振り上げ、力いっぱい土に突き立てた。
「私という者がありながら、別の女と結婚するってどういうことよーーー!!!」
さっきからずっとこんな調子で耕しているため、農地の土は深くふっかふかになっている。
「うん、いいね! その調子だ、モニカ! いい感じで耕せてるぞ。農地拡大だ!」
モニカの従弟のフランク・ランバートがモニカに満面の笑顔を向ける。
「フランク~~~!!! 土のことはどーでもいいのよ! 慰めてくれてもいいじゃない!」
モニカはキーっと怒った。
「モニカ。アルベルトのことは言ったってしょうがないだろ」
フランクは苦笑した。
「それに、俺はおまえの畑づくりを手伝わされている身なんだからな。むしろ俺を労ってくれ」
「なんて言い方するの!? 私を可哀そうだとは思わないの?」
モニカはフランクを詰ろうとしてまた鍬を振り上げたが、ふと思いついた。
「いや、待てよ、アルベルトの結婚は人づてで聞いただけなんだから、もしかしたら嘘ってことも……」
「それはないんじゃない」
フランクはさらっと言った。
「俺も聞いたから」
「うわあああ~。アルベルト~!」
モニカはまた涙目になった。
「いい加減アルベルトのことは忘れろって。婚約してたわけでもなかったんだし。そもそもモニカの前から消えてもう3年にもなるだろ」
「消えたとか言わないで。なぜかわからないけど、もう会わないって言っただけよ」
「そう。会わないって言って3年だぞ!? モニカのことなんかもう完全に忘れてる」
「絶対忘れてないわよ! フランクのバカっ」
「バカって……」
フランクは一瞬むっとした顔をした。
「アルベルトはこうしてこの花をくれたのよ。私はこんなに大事に育ててるの……」
モニカは恨めしそうに、足元に咲くクロッカスに似た紫色の花を見た。
「ああ、知ってるさ! どんなに大事に育ててきたか。俺はモニカからこの花の手入れを任されて、この3年間、ずっと枯れないか見張ってたんだからね。そして、この花は、今や畑にまでなった!」
フランクは口を尖らせた。
「だって……。だって!」
モニカは涙目になった。
「あの日。大好きだった少年のアルベルトが急に『もうお会いできません、さようなら』って言って私の掌の中にこの紫色の花を押し付けたのよ。彼の苦しそうな顔をいまだに覚えているわ。私はアルベルトの思い出を失いたくなかったんだもの」
「分かってるよ、モニカ」
フランクはため息をついた。
「そして、モニカが大事に育て増やしたから、このサフランは利益を生む一大商品になったと」
「商品とか言うな!」
モニカは怒った。
「俺にとっては商品だよ。3年前に麗しの少年が思い出に差し出した紫の花……って規模じゃなくなってるだろ、どーみても! 見ろよ、このサフラン畑!」
「そ、それは途中からフランクが商売っ気を出してサフランを追加したからでしょ!」
モニカは拳を握って言い返した。
フランクはもう一度ため息をついた。
そう。この広大なサフラン畑こそが、モニカのアルベルトへの愛の深さ。
俺も、よく3年もこの畑づくりに付き合ってきたものだ……。
まあ、モニカの悲しむ顔を見たくなかったし、モニカの一途さを踏みにじるのも嫌だった。
だから、不本意ながら、他の男の思い出の花をこうして一緒に世話してる。
3年前まで、そう、少女のころのモニカにとってアルベルトがどれだけ大事な存在だったか、俺は隣で見てきたからよく知ってる。
フランクが10年前、ここ叔父のバーニック伯爵領に引き取られた頃、ちょうど時期を同じくしてサスマン侯爵家のアルベルトは、この遠縁に当たるバーニック伯爵の領地に静養に来た。
生まれてからずっとこの辺境の地にいたモニカは、フランクのこともアルベルトのことも歓迎してくれた。しかしアルベルトへの歓迎ぶりは特別だった。モニカにとっては王都から来たアルベルトがとても珍しかったようだ。
もともとモニカは好奇心旺盛な娘だったし。
モニカより二つほど年上のアルベルトは聡明で何でも知っていた。そして王都の礼儀作法を全て身に着け洗練されていたし、物腰も柔らかくイケメンだった。
さらにとても優しかった。
モニカが誘えば馬の遠乗りにも付き合ってくれたし、お茶にも付き合ってくれた。
面白い本をモニカに薦め、一緒に内容を語ったりもしていた。
そう、当時はモニカとアルベルトは毎日一緒に過ごしていたのだ。
アルベルトにとってもモニカはたぶん大事な娘だったのだと思う。
遠乗りで馬から落ちたモニカを背負って、血相を変えてバーニック伯爵家へ届けてくれたのもアルベルトだった。
継母と何やら喧嘩して屋敷を飛び出したモニカを、家中の者で一晩中探し歩いたときも、結局見つけたのはアルベルトだった。
あの時フランクは、モニカが行方不明になり生きた心地がしていなかったので、モニカが見つかって心からホッとしていた……はずだった、本当は。
しかし、アルベルトの胸にしがみつくモニカを見たとき、フランクはホッとするどころか胸が痛くて苦しくなった。見つけたのが俺だったらよかったのに、と何度も思った。
当時領内では、もうモニカとアルベルトは婚約するんじゃないかともっぱら噂されていた。
領内で公認の仲だったのだ。
なのに、急にアルベルトは、3年前のある秋の嵐の夜、『もうお会いできません、さようなら』とモニカに告げ、バーニック伯爵領を去っていったのだった。
突然のことに呆然としていたモニカの手の中に、この紫色の花を押し付けて。
モニカはアルベルトが去ったことを分かっていなかった。
毎日「アルベルトは?」と尋ね、「もう領内にはいらっしゃいません」と侍女が答え、アルベルトが訪ねてこない日を何日も重ねて、ようやくモニカは理解したようだった。
アルベルトが去ったということを。
数日間、モニカは紫の花を眺めてぼんやりしていた。
水をやるのも忘れていたので、そのうち花が萎れかかってきた。
それでモニカははっとしたらしい。
「フランク! たいへんよ、私の花が枯れてしまう! なんとかして!」
と泣きながらフランクに頼って来た。
そしてフランクがこの花の責任者になった。
フランクはモニカのために、庭師と一緒に花を調べ、この紫の花がサフランという名前だと言うことを知る。
運よく球根付きだった。
フランクはその花を土に植えてやった。
花が終わりかけた頃、モニカが泣きべそをかきながら
「枯れたら終わり? 種は取れるの?」
と庭師に聞くと、
「種はできませんがね。球根で増やせますよ。」
と庭師が答えた。
モニカの目が輝いた。
「毎年咲かせられるのね! じゃあ想いだって永遠だわ!」
それ以来ずっと、フランクはこのサフランの花を育てるのを手伝わされている。
最初は数本だったサフランの花は、一年ごとに株を増やし、そして、3年もすればけっこうな数になった。
だがフランクはモニカのアルベルトへの想いまでには付き合えない。
(えーっと、なんで俺こんな花の世話に忙殺されてるんだっけ……?)
アルベルトが残した花を前にして、フランクは度々はっと我に返る瞬間があった。そのときの虚しさは格別だ……。
フランクは「俺は商業的にサフランを育てているのだ」と自分に言い聞かせた。
サフランの花の赤いめしべが香辛料として使えるから。
料理や美容やらに絶大な人気を誇るのに、めしべしか収穫できないサフランはグラム当たりの価格がたいそう高い。
フランクは我ながらこのアイディアが気に入った。
そうだ、これは商売だ! 俺が育ててるのは恋敵のアルベルトの思い出なんかじゃない!
畑で栽培する価値が十分にある、スパイス!
わはははは、これは商品だのだ!
そしてフランクは、どうせ世話するんだし、と別の区画に大量にサフランを追加し、ついにこうして、畑と呼べる規模まで広がったのだった。
さらに、バーニック家のサフランは、モニカの手前、使用人も世話に手を抜けず、おかげで色付きも香りも最高級。とても値が付いた。
……だって、それ以上どうできるというのだ?
アルベルトへの思いを断ち切れと俺がこの畑を焼き払えば、モニカが俺のものになるとでも?
そんなことは絶対にない。
モニカがアルベルトを忘れられるまで、付き合うしかないじゃないか。
2.
その頃、バーニック伯爵宅では、バーニック伯爵とその夫人がモニカの今後について話し合っていた。
バーニック伯爵夫人とは言っても、モニカにとっては継母に当たる。
モニカの母が一人娘のモニカを残して15年前に病死してから、バーニック伯爵家へ迎え入れられた後妻だ。
バーニック伯爵は男の子を欲しがっていたが、この後妻との間に生まれたのは結局女の子一人、モニカの異母妹に当たるメリッサだけだった。
「旦那様。サスマン侯爵家のアルベルト様が結婚なさったようで、モニカが荒れているんですって」
バーニック伯爵夫人は人目を憚るような言い方をした。
バーニック伯爵も頭を悩ませていた。
「モニカはちっともアルベルト殿のことを忘れておらんようだ。まったく、いくら遠縁とは言え、あんな者を受け入れなければよかった。儂は、モニカと結婚させてバーニック家を継がせるために、わざわざ妹の元からフランクを連れてきたんだぞ。なのにモニカはちっともフランクとの婚約を承知せん!」
バーニック伯爵夫人は、伯爵の『伯爵家を継がせる』という言葉に一瞬眉を顰めた。しかし気を取り直すと猫なで声になった。
「旦那様、モニカはアルベルト様を慕ったまま一生独身で暮らすと言っております。このままではフランク様との縁談はさっぱり進展しないんじゃないですか。もうフランク様にはメリッサを娶らせて爵位を譲ればよろしいでしょう」
バーニック伯爵は少し唸ってから肯いた。
「まあ、爵位の方はそうだな……。姉を差し置いて妹では少々人目がと思っていたが、もうモニカも18だものな。ここまで分からず屋では儂も庇いきれん」
バーニック伯爵夫人は「そうでしょう、そうでしょう」とほくそ笑んだ。
「幸いメリッサはフランク様を好いているようですし」
「ほう」
バーニック伯爵は目を細めた。
「ならフランクの気持ち次第だな。『モニカの婚約者な』と言い含めていたのにさっぱり話が進まんから、あいつには悪いと思っていたのだ。せめてもう一つの『バーニックの爵位を遣る』くらいは守らんとな」
バーニック伯爵夫人は嬉しそうに微笑んだ。
しかしバーニック伯爵は急に父親顔になった。
「とはいえ、モニカの方だって『一生独身で暮らす』なぞ許さんぞ」
バーニック伯爵夫人は機嫌がよくなっていたので、
「そうですわね。でもアルベルト様が叶わぬとなっては……」
と呟いてから、少し意地悪な顔になって、
「まあもう少々強引でも、気軽には帰ってこれないような遠いところに、さっさと嫁ってしまったらいかがですか?」
と言った。
「ふむ。遠いところか……」
バーニック伯爵はまた思案顔になった。
「儂の懇意にしているグリーソン男爵なら少々融通がつくかもしれん。確かご子息がいるはずだ」
「ああ。マイルズ・グリーソン様ですわね!」
バーニック伯爵夫人はぱっと顔を明るくした。
バーニック伯爵領から遠い、王都からも遠い、グリーソン男爵領。
あまり社交界に出ない家だから子息の顔は思い出せないけれど、何を選り好みしているのか、はたまた女性に相手にされなかったのか、マイルズ・グリーソン男爵令息には女性の噂はあまりなかった。
……何より、メリッサとフランクと結婚させるには、モニカをさっさと追い出さねばならない!
「旦那様、そのお話とっても良いと思いますわ」
バーニック伯爵夫人はにっこりと笑った。
「すぐさまその手筈を整えましょう」
3.
1,2か月が経った頃、バーニック伯爵はモニカに、マイルズ・グリーソン男爵令息の身上書を手渡しながら婚約の件を伝えた。
「は?」
モニカは素っ頓狂な声を上げた。
「いや、普通に嫌ですけど」
「バカもんっ!」
バーニック伯爵は怒鳴った。
「嫌とか言える歳か!?」
「ひどいわ! 娘の幸せとか考えずに結婚させちゃうわけ?」
モニカが言い返す。
「うるさい、うるさい、うるさいっ! お前はさっさと結婚しろ!」
バーニック伯爵はまた声を張り上げた。
「結婚して赤ん坊でもできたら、そのうち『ああ~幸せだな』とか思うものなんだから」
「なによ、そんなの嘘! 結婚は人生の墓場って顔してる人、いっぱいいるわよ! 変な価値観押し付けないでよね!」
モニカは手に持っていた身上書を床に叩きつけた。
「あっ! こらっ!」
バーニック伯爵が慌てて拾い上げる。
「とにかく、私は誰とも絶対に結婚しませんから!」
とモニカは言い捨てて、すごい勢いで部屋を飛び出して行った。
「許さんっ! 何があろうとマイルズ殿との縁談は進めるからな!」
バーニック伯爵は顔を真っ赤にして、モニカの背に向かって大声を出した。
何よ、何よ、何よ!
モニカは泣きそうな顔をして拳をぎゅっと握った。
絶対嫌よ。
誰よ、マイルズって。
アルベルト以外の男の人とは絶対に結婚なんかしないんだから。
アルベルト……。
モニカは自室に戻ると、ベッドに突っ伏した。
アルベルトとの思い出が否が応でも浮かぶ。
モニカはある日のアルベルトとの馬の遠乗りの日を思い出した。
あの日モニカは、お気に入りの山の岩場に行こうと、アルベルトを誘ったのだ。
初めはなだらかな丘陵地帯を行くが、途中からは木の多いところを抜けていく。
細い尾根道を辿っていくと、急に木がごっそり姿を消し視界が開ける。そこは岩場の露出した崖になっていた。
崖に端に大きな岩が埋まっていて、頭の部分を土からはみ出して空に突き出していたのだ。
その岩からは眼下の緑の谷を一望でき、またとなりの山の全貌を眺めることができるので、モニカのお気に入りだったのだ。
二人は御供も連れず、気ままに出かけた。
しかし、途中まではとても天気がよかったのに、急にぶ厚い雲が太陽を隠したかと思うと、ゴロゴロと雷が鳴りだした。雨もぽつぽつ降り始めた。
二人は嫌な予感がしていたが、木々を抜けて開けた岩場に出た瞬間、案の定、ピカっと空を切り裂く稲妻が走った。
臆病なモニカの愛馬は、怯えて足を止めた。
雷となると、岩場も、木々の少ない丘陵地帯も怖い。
まだ木々の中にいた方がましかもしれない。とはいえ、木にも雷は落ちる。
雨もだいぶ激しく降り出した。
「モニカ。横道に反れよう」
アルベルトは冷静に言った。
「雷が近い。沢沿いへ下りる。沢筋に横土が抉られている場所があるから、そこで雨も凌げるだろう」
モニカは少し躊躇った。
「沢筋は雨で水が増えたとき危なくないかしら」
「水の湧き出し口から比較的近い場所だ。雨が激しくなるようなら考えるが」
その時、またゴロゴロと空気を震わす音が聞こえた。
馬がさらに怯えて首を垂れた。
その様子を見てモニカは頷いた。
「そうね。わかったわ。とりあえず行きましょう、馬が動くうちに。落雷に巻き込まれてもつまらないしね」
モニカとアルベルトは馬を降り、道を外れると、比較的歩きやすそうな場所を探してそろそろと慎重に沢の方へ下りて行った。
木々のおかげで斜面はしっかりしていたが、馬がいるとめんどうだ。
「モニカ大丈夫か」
とアルベルトは心配そうに声をかけたした。
「大丈夫よ。誘ったの私だもの。悪かったわね」
「雷は仕方ない。ははは。いつまで馬がおとなしくしてくれるかな。こんなところで馬に機嫌を損なわれると厄介だね」
しかし、アルベルトの予想は当たってしまった。
モニカの馬の性格は他の馬より臆病だったので、歩きなれない悪道で、耳を落ち着きなく動かしたり、首を振ったり、歩みを止めたりした。
そのうち雨は本降りになってしまった。
アルベルトは遠慮するモニカと半ば強引に馬を交換すると、モニカの馬を引きずって、なんとか横穴まで辿り着いた。
少し沢から離れた足場の良いところに馬をつなぐと、二人は一先ずほっとした。
そして、横穴に潜り込むとできるだけ雨を避けて奥まで入り、二人はぴったりと寄り沿って座った。
モニカの耳には、しとしと降り落ちる雨の音や沢を流れる水の音と、アルベルトの呼吸音が聞こえてくる。
と、途端に、またゴロゴロ、ゴロゴロゴロ……と太く長く雷が響いた。
「雷をやり過ごすまでの辛抱だから」
アルベルトは安心させるように柔らかく言って、そっとモニカの肩を抱いてやった。
モニカはドキっとして心臓が急に早く高鳴りだした。
ああ。アルベルトの体温が伝わってくる。
ふと見上げたアルベルトの横顔。耳が少し赤かった。
ずっと好きでよく遊んでもらったけど、こんなに近くに座るのは初めてかもしれない。
ふとアルベルトがモニカの方を見た。
二人の目が合った。
「何見てんの」
アルベルトは照れて口を尖らせた。
モニカがドキドキして何も答えられずにいると、
「めずらし。モニカが弱って見える」
と、アルベルトはそっと目を細めて笑った。
「もう」
モニカはそう言うと、仕返しにぐいっとアルベルトの腕を引っぱった。
「あ、あぶなっ」
アルベルトは思わず倒れかかりそうになって、腕を土壁についた。腕で踏ん張って体を支える。
「モニカ、ちょっといたずらが過ぎるだろ」
アルベルトが驚いて目を上げたとき、モニカはいきなり、無防備なアルベルトの唇にキスをした。
アルベルトは驚いて目を見開いた。
慌てて唇をずらしてモニカの目を見る。
モニカは急に恥ずかしくなり、真っ赤にした顔を背けた。
(ぎゃあああ、やっっっちゃっっった! なにしてんの、私!)
耳まで真っ赤になる。そして、どうしたものかと唇をぎゅうっと結んだ。
アルベルトは「そうか」と思った。そしてモニカの心がいじらしくなった。
思わずアルベルトの口元が緩む。
「モニカ、ごめん。顔を上げて。」
アルベルトはそっとモニカの頬に手を伸ばした。
モニカは自分からキスしたくせに、びくっとして肩を竦ませた。
(いや、恥ずかしすぎて無理だろっっ!)
「モニカ」
アルベルトは真面目な顔でモニカを覗き込んだ。
「大丈夫。」
モニカの背を冷や汗が流れた。目をぎゅっと瞑る。
(何が大丈夫なのよおっっっ。恥ずかしすぎて死ぬっ)
アルベルトは、モニカがきっと心の中でオロオロしまくってしているのだろうと思って、可笑しくなった。
「モニカ。大丈夫だって。同じ気持ちだから」
「え?」
はっとしてモニカが顔を上げると、アルベルトの少し照れた微笑みにぶつかった。
「いいってことだよね」
アルベルトはそう言ってモニカの腕を掴んで体を引き寄せた。
「えっ、ええええっ」
モニカが(自分で蒔いた種なのに)仰け反った。
(嘘っっ、これアリだったの!?)
「雷もよい仕事をするもんだね」
そう言ってアルベルトはモニカの腰に手を回し、口づけた。
(あ……)
モニカはアルベルトにキスをされて心臓らへんがぎゅっとした。
好きだって気持ち、伝わってくれた。アルベルトもこんなに優しくしてくれる。
そして、そのままアルベルトの肩に手を回し、身を任せた。
二人はしばらくお互いに気持ちを確かめるように唇を重ねていた。
そのとき、何というタイミングだろうか、急に、パキッ、カサッと沢沿いを歩く気配がした。
(誰っ!?)
二人は思わず体を離した。
アルベルトも咄嗟のことで驚きながら、モニカを守ろうと身をすっと前に身を乗り出した。
ガサッカサカサッ パキッ
足音はこちらへ近づいてくる。
(こんなところに誰が……)
モニカは乱れはないか、ささっと髪を撫でつけ、胸元を正した。
と。
横穴の二人の前に現れたのは、イノシシの親子だった。
母イノシシが2匹のウリ坊を連れている。
「イ、イノシシ!?」
モニカは思わず声を上げた。
母イノシシは子供らを雨宿りさせようとこの横穴に連れてきたに違いない。
先客を妬ましそうな目つきで見た。
「あははっ」
とアルベルトは笑った。
「イノシシと考えていることが全く同じだったとは」
アルベルトはイノシシに向かって
「すまなかったね」
と優しく声をかけた。
せっかくお互いの気持ちを確かめあっていたのにイノシシに邪魔された、とモニカはむすっとした。
(くそうっ。イノシシめっ。鍋にしてくれるっ)
アルベルトはそんなモニカのほっぺたをつんつんと突いた。
「そんな顔しなくても。イノシシに言ってもしょうがないだろ」
それでもモニカがしゅんとしていたので、アルベルトは「はははっ拗ねないの」と笑ってモニカの肩を抱いてやった。
イノシシの親子はしばらく二人の前をうろうろしていたが、やがて諦めたのか姿を消した。
「雨宿りさせてやろうだなんて、母イノシシの愛情も深いものだな」
アルベルトのモニカを抱く手に力がこもった。
(あ……、アルベルトの手……。まあイノシシに邪魔されたけど、アルベルトが抱っこしてくれてるからいいか)
モニカは気を取り直した。
二人は黙ったまま、満ち足りた気持ちで雨を眺めていた。
やがて雨が止んで、輝くような木漏れ日が二人のいる沢まで差し込んできた。
「晴れたね」
アルベルトが呟いた。
ふと沢の方に目をやったとき、紫の花が岸辺に群生で咲いているのが見えた。
クロッカスに似た紫の花は光を浴びてピッカピカだ。
きれいだな、とモニカは夢見心地で思った。
私、この日のこと、絶対に一生忘れない。
4.
さて、モニカが散々婚約を拒否したのにバーニック伯爵は、マイルズ・グリーソン男爵令息を屋敷に招待した。
豪華な客間でニコニコ顔で出迎えるバーニック伯爵。
その横で、無理やり並ばされたモニカとモニカの従弟のフランクは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
(結婚は絶対しないって言ったのに!)
(モニカは自分と結婚するはずなのに!)
マイルズは精悍な若者で、背が高く逞しい体つきだった。アルベルトやフランクよりずっと背が高い。そして真面目で誠実そうな顔つきをしていた。
モニカの横で異母妹のメリッサが首を傾げる。
これほどの男性なら王都でも話題になっておかしくないはず。
どうしてこれまでほとんど社交界で噂を聞かないのかしら。
誰か他に心を決めた女性でもいるか、よっぽど中身に問題があるか、どっちかね。
マイルズはそんなバーニック家の者の心中など全く知らず、バーニック伯爵の前に立つと、微笑みを浮かべて恭しく礼をした。
「お久しぶりです、バーニック伯爵。お招き感謝いたします。この度はお嬢様をわたくしめにくださるそうで」
(誰があんたなんかと!)
(誰がお前なんかに!)
モニカとフランクは心の中で同時に突っ込んだ。
しかしバーニック伯爵は満面の笑みをたたえ腕を大きく広げて歓迎した。
「いや~本当に、よく来てくださった、マイルズ殿! こんな嫁き遅れで申し訳ないが、末永くよろしく頼む!!」
「いえ」
マイルズもにこにこしている。
「ありがたいお話ですよ。自分もこれまで女性には縁がなく、いたずらに歳を重ねてしまいました。今回こんな格式高いバーニック伯爵家からお話をいただきまして! もう身に余る光栄だとしか」
「さあさあ、マイルズ殿! こちらがそのモニカです。さ、モニカ、挨拶せんか!」
バーニック伯爵はモニカの背を勢いよくバンっと叩いた。
「う……」
モニカは口を開けなかった。
歓迎の言葉を言えば婚約が成立してしまう。
かといってこのような畏まった場ではマイルズを厳しく突き放すようなことも言いにくい。
モニカが出方を窺い困っていると、マイルズは優しく微笑んだ。
「戸惑っていらっしゃいますよね。でもよいのです。時間をかけて受け入れてくだされば」
(受け入れないわよ!)
モニカは顔をぷいっと背けた。
「これっモニカ!」
バーニック伯爵がきつい声で叱った。
しかしマイルズはモニカの心中など微塵も気づいていないように、まっすぐモニカの目を覗き込んだ。
「モニカ様。私は堅物で女性に気の利いた一言も言えません。でも、あなたを大切にいたしますよ。……今回もあなたがお好きなものと聞いたので、これを」
マイルズはさっと従者に合図した。
従者がなにやら大きな籠を持ってくる。
バーニック伯爵夫人とメリッサが思わず身を乗り出してその籠の中身を見ようとした。
「何これ!? やだかわいい~ウリ坊? あれ、でも死んでる?」
「はい。モニカ様はジビエが好きと聞きまして!!!」
マイルズはえへんと胸を張りながら得意気に笑った。
「え? イノシシ?」
モニカは思わず眉を顰めた。
しかしバーニック伯爵は笑顔を作ると、
「おおっ! これはマイルズ殿! うちの娘の好物を知っているとは!」
と大袈裟にマイルズの手を取った。
「そうなんですよ、モニカは秋になるとジビエばっかり! 毎日でも食べさせてやってくだされ! なに、お金は心配なさるな、うちからたんまりお送りしますから! ジビエの蔵を立てましょうぞ!」
フランクはバーニック伯爵の態度にムカムカした。
(さりげなくお金のちらつかせて、どんだけモニカを押し付ける気なんだ)
モニカも腹の中でキーっと怒っていた。
(好物って、すご~く子供の時だけよ! あの日以来、ジビエでもイノシシ肉は食べないことにしたんだから! ってゆーか、なんでこいつが私の好物を知ってるのよ!)
マイルズはモニカの睨みつけるような目線を勘違いして、
「あ、モニカ様。もしかして、なんで私がジビエのことを知ってるのかと驚いておられますか? ふふふふ。なんと今回、サスマン侯爵家のアルベルト様に聞いてまいりましたからね!」
と鼻を天狗にして宣った。
その名を聞いて、モニカは凍り付いた。
アルベルトがこいつに好物とか教えたの!?
いや、ちょっと待って、私がイノシシ肉食べるのやめたこと、アルベルトは忘れちゃったの?
くそ、アルベルトめ!
「もう結構ですわ」
モニカは体裁など全て忘れて、低い声で言った。
そしてモニカはドレスをひらりと翻すと、呆気にとられるマイルズを置き去りにして、さっさと客間を出て行った。
「モニカ!」
慌ててフランクが後を追う。
「こら~モニカっ! 客人の前で!」
バーニック伯爵は顔を真っ赤にしてカンカンに怒った。
バーニック伯爵夫人は急いでマイルズに駆け寄って宥めようとした。
「申し訳ありませんわ! あの子だいぶ頭がおかしいんですの! でも普段はここまでじゃありませんのよ。どうぞ、どうぞ、あの子を見捨てず、さっさとマイルズ殿のグリーソン男爵領に連れてってくださいまし!」
マイルズはこの展開についていけず完全に狼狽えてしまった。
なぜモニカはこうも気分を損ねたのか。何が気に障ったのか。
それからマイルズはようやく何か言わなければならないと気づいたが、何を言っていいのかわからない。
「え……と」
(なるほどねえ)
とモニカの異母妹のメリッサはマイルズを見て思った。
(このどことなくズレてる感じね?)
これなら女に縁がないのも納得だわ。
あんまりモテないから、今回こうしてバーニック伯爵自ら名指しで娘を貰ってくれと言われて、有頂天になっちゃったんでしょうね。
メリッサは「お異母姉様もお気の毒ね」とふふと笑った。
私ならこんな男性と結婚したらイライラすると思うわ。
そのとき、バーニック伯爵夫人が
「マイルズ様?」
と小声で話しかけた。
「あ、すみません、はい」
マイルズはおずおずと答える。
「あの、もしよろしかたら、こちらを……」
バーニック伯爵夫人はマイルズの手に何やら握らせた。
そして耳元に顔を寄せるとさらに小声で言った。「惚れ薬ですわ。結婚は決まっているのですもの。いがみ合った夫婦生活など嫌でしょう? 多少、薬に頼ってもよろしいんですのよ?」
マイルズはがばっと弾けるように飛び上がると、バーニック伯爵夫人から離れた。そして誇りを傷つけられたように睨みつけた。
「とんでもない! こんな物には頼らない。私はモニカ様に誠実に向き合って、きちんと正面から受け入れていただく!」
「あら」
バーニック伯爵夫人はがっかりした顔をした。
馬鹿正直め。
しかしすぐに気を取り直すと、バーニック伯爵夫人はさも善人のように微笑んだ。
「そうですわね。でもこれは恋のお守りとしても使えますのよ。どうぞお持ちになって」
お守りと言うのは嘘だけど、手元にあれば使う気になるかもしれない。
バーニック伯爵夫人は心の中でいやらしく笑った。
5.
さて、その頃自室に戻ったモニカは肩を震わせていた。
「アルベルトめ! 何なの! 私が本当にあんな男のものになればいいと思ってるの!」
「あんまりカッカしないで」
フランクは心配そうな顔でそっとモニカの肩を抱いた。
「フランク! あんた、なんでしれっと私の部屋にいるのよ!」
「ええ! ダメなのかよ。慰めに来たのに」
「さっさと客間に戻ってあの男を追い出してちょうだい!」
「そりゃ喜んで追い出すけども」
フランクは苦笑した。
「しかし一体なんで急にあんな男が来たんだろうね?」
「お継母さまよ。私を追い出したくてしょうがないの。アルベルトに期待していたのにそのアルベルトが結婚してしまったから、別の候補を探してきたんだわ」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと! 俺は何さ。モニカの婚約者の体でここに引き取られてるのに」
モニカは無表情でフランクを見やった。
「なんであんたが私の婚約者なのよ! 冗談も休み休み言いなさい」
「ええっ? 冗談なの、これ!? はあ……」
フランクはため息をついた。
「とにかく、フランクはあの男を追い出してちょうだい。イノシシの死骸なんか持ってきて、バカにしてますと言っておいて」
「追い出すのは異論はないけどね」
フランクはため息をついた。
「そろそろ俺のことも本気で考えてくれよ」
モニカは手元にあったクッションをフランクめがけて投げつけた。
「誰が考えるか! フランクの癖に!」
「投げんな! 分かったよ。まあ、行ってくるさ」
フランクはもう一度ため息をついて立ち上がった。
ちっとも俺のことは眼中にないんだな、とフランクは思った。
どれだけ待てばいいんだ?
でも、こうしてアルベルトがマイルズを推したということで、モニカも大分アルベルトには失望しただろう。
アルベルトはとっくに結婚しているのだし……。
それにしても。
『追い出したいお継母さま』
そういうことか!
たぶんバーニック伯爵夫人は、モニカを追い出して、俺とメリッサを結婚させて爵位を継がせるつもりだな。
それであの気の毒なマイルズ・グリーソン男爵令息がやってきた、と。
俺はずっとモニカが好きだった。『婚約者だから』といって引き合わされた可愛らしい天真爛漫な少女。
しかし、すぐさま出現したアルベルトにモニカの関心は奪われ、モニカはアルベルトの名前しか呼ばなくなった。
それでも、この思いは消えなかった。
今更メリッサと結婚なんてできるか。
とにかく、マイルズ殿には帰っていただこう。
マイルズ殿にモニカを嫁るわけにはいかないから。恋敵には消えていただく。
フランクは、侍女から『先ほどの客間はもうお開きになっていて、マイルズ殿は晩餐までの時間、別室へ案内されている』と聞いたので、そちらへ足を運ぶことにした。
マイルズ殿に何と弁解しようかなどと頭を巡らせながら。
フランクがその客室に辿り着くと、急に扉があいて、屋敷の使用人が飛び出てきた。
使用人の慌てぶりを見るとこの部屋の準備に少々抜かりがあったようだ。
「おっと。マイルズ殿が気分を害されていなければよいが」
とフランクが思った時だった。
扉の隙間から、フランクの目に、異様な物が飛び込んできた。
マイルズは客室の長椅子に腰かけながら、何か胡散臭そうな目で小瓶を眺めていたのだ。
あの小瓶は!
フランクは知っていた。
バーニック伯爵夫人が、何かここぞというときに、手にしているのを見かけていたからだ。
バーニック伯爵夫人の持ちモノ……。
フランクは嫌な予感がした。
「マイルズ様!」
フランクは思わず声を上げた。
閉まりそうになる扉を礼儀もなく咄嗟に開けてしまう。
「おや? これは、え~っと、フランク様?」
マイルズは目を丸くしながら、突然の訪問客の方を見た。
「大変失礼いたします。しかし、マイルズ様。お手持ちのモノは何でしょうか!」
フランクは声を荒げた。
「ん? あっ!」
マイルズは途端にバツの悪そうな顔になった。
「いや、これは違うのだ。私のモノではない。バーニック伯爵夫人に渡されてね」
「中身はなんです」
フランクは刺すように聞いた。
「ん? あ、ああ、惚れ薬だったかな?」
マイルズはフランクの勢いに押される形で思わず素直に答えてしまった。
周りの使用人たちが思わず手を止めた。
「なんですと!」
フランクの目が吊り上がった。
「マイルズ様、あなたという人は!」
「え!? あ、いや、誤解ですよ! 私はこんなものを使おうなどとは露にも思っておりません!」
マイルズはようやく事の次第に気づいた。
そして自分の間の悪さに悔しくなった。
「どうでしょうか。先ほどのモニカの態度ですからね。力ずくで既成事実でも作ってしまおうとお考えになったのでは!?」
フランクが突く。
「違う! 私は本当にそんなことは考えていない! ただ渡されたことを思い出して、ふと手に取り眺めていただけだ!」
マイルズは弁解した。
それはその通りだったのだと思う。
この実直そうな男がそんなセコイ手を使うとは思いにくい。
しかし、フランクはこれはいい口実になると思ったし―――、『惚れ薬』なんて代物をこの男が持っていることが気に入らなかった。
「バーニック家はそのような薬を使ってまで婦女を手籠めにする者を認めるわけには参りません。事は公には致しませんから、どうぞ適当にお帰りくださいませ!」
フランクは断じた。
マイルズは顔色を変えた。なんという恥だろうと思った。
この薬はバーニック伯爵夫人から手渡されたものである。濡れ衣だ。なぜ自分がこのような汚点を作らねばならない。
「フランク様。これで私が帰れば、そのような汚らわしい小細工を私が弄していたことになる。決して認められません」
「ほう」
フランクは睨み返した。
「ではマイルズ様は我がバーニック家がそのような汚らわしい小細工を弄したと仰りたいのかな」
マイルズはぐっと言葉に詰まった。
その通りなのだが、フランクの手前、バーニック伯爵夫人の名を穢すようなことは軽々しく言えない。
バーニック伯爵家とグリーソン男爵家。
マイルズには身分の壁もあった。
「私は口が堅い。黙っていますよ」
フランクは言った。
(そもそもバーニック伯爵夫人がやったことなのだから誰にも言えぬ。)
そのとき、ようやくマイルズは、フランクの目の奥の意図に気付いた。なるほどおそらくフランクは、全部を分かっていて何か茶番をやっているのだ。
それからマイルズは、モニカのさきほどの頑なな態度を思い出した。
モニカは私を容易には受け入れまい。
ここはフランクに貸しを作って手を引いた方が得策のようだ。
「分かりました。そういうことに致しましょう」
マイルズは腹を決めると、すぐさま使用人たちに「郷に帰るぞ」と告げた。
ハラハラしながら話を盗み聞いていた使用人たちは、マイルズの言葉に一斉に頷き、帰り支度を始めた。
マイルズがモニカとの縁談を辞退するという話は、すぐさまバーニック伯爵夫妻に伝えられた。
バーニック伯爵は暗い顔をした。しかしさきほどのモニカの態度を見て多少の覚悟はしていたので、あまり何も言わなかった。
対して、バーニック伯爵夫人の方は金切り声をあげた。
「まあ、どういうことですの!? マイルズ様がお帰りになる!? ああ、昼間のモニカの態度ね!?」
(いやいや、あなたのせいですよ。)
とフランクも、あの場に居合わせていた使用人も思ったが、惚れ薬の件についてはフランクが戒厳令を敷いたため、誰も何も言わない。
「まったくモニカときたら!」
バーニック伯爵夫人は忌々しそうに唇を噛んだ。
追い出せないじゃないの。
しかし、バーニック伯爵夫妻には特に何かできるわけではなかった。
そうして、結局気まずいしこりを残して、マイルズ・グリーソン男爵令息は帰っていった。
6.
「旦那様。マイルズ・グリーソン男爵令息からのお手紙ですわ」
サスマン侯爵家のアルベルトは、妻からマイルズの書状を受け取った。
急にアルベルトの脈拍が速くなった。
あの日、知人のマイルズが頬を紅潮させウキウキしながらモニカとの縁談のコツを聞きに来た時から、アルベルトはずっと重い気持ちで毎日を過ごしてきた。
万が一モニカが結婚を受け入れてしまったら、モニカは本当に手の届かない人になってしまう。
(この手紙は自分の愚かさを確認するためのものだ。読まねばならない。)
アルベルトは頭を振って雑念を追い払うと覚悟を決めた。そして息と吸い込むと、かさっと手紙を開いた。
そして、飛び込んできた文字に、心の中でガッツポーズした。
『婚約には至りませんでした』『助言いただいたのに申し訳ない』
よし。首の皮一枚つながった。
アルベルトが手紙を食い入るように眺めているので、アルベルトの妻が「あなた?」と訝しんだ。
アルベルトは視点の定まらぬ目をしていたが、やがて何かを吹っ切ったようにふっと妻の顔を見た。
心配そうにアルベルトの顔を覗き込んでいた妻が、何かを察した顔をした。
「旦那様、今がその時ではございませんか?」
妻が柔らかい口調で言った。
「それは……」
アルベルトは躊躇っている。
「何を躊躇ってらっしゃいます。期を逃せばもっと後悔なさいますよ。いろいろ嘘ばっかりだと怒っていらしったのはあなたでございます」
妻は諭すように言った。
アルベルトは言いにくそうに続けた。
「しかしそれはあなたに迷惑をかけることになる。やっとあなたはこうして平穏な日々を……」
「これは契約結婚だと申しましたでしょう!」
妻が大きな声を出した。
「私たちは同志です。もう。シャキッとなさいませ!」
アルベルトはビクッとした。
妻の目を見ると、妻は晴れやかな顔をしている。
「私の方も実は準備は整っておりますのよ」
アルベルトは驚いた。
「そうだったのか!」
「ええ。ですから気兼ねなく暴れていらっしゃいませ」
妻は力強くアルベルトの背中を押した。
7.
さて、マイルズを追い返した次の日、今日も相変わらずサフラン畑で雑草抜きに精を出していたモニカは、屋敷の家令が息を切らして飛んできたのを見て、怪訝そうな顔をした。
家令はモニカの前で一礼すると、息を整える前に、
「アルベルト様がいらっしゃいました!」
と告げた。
「は!? ア、アルベルト!?」
モニカは一瞬ポカンとした。
しかしその顔つきはどんどん険しくなり、最後には睨むように家令を見ると、
「もう奥方がおられるアルベルトがわざわざ私に何の用です?」
と言い放った。
「それは伺っておりません。しかし、もうじきにこちらに来られます」
家令は答えた。
するとすぐさまあたりが少し騒がしくなって、アルベルトが従者を従えてこちらにやって来るのが見えた。
「本当にすぐじゃないの」
モニカはアルベルトの姿を認めると、家令に文句を言った。
「申し訳ありません。止めたのですが、アルベルト様は『無礼は承知』と」
家令は冷や汗をかきながら言い訳をした。
しかしモニカは家令の言葉は聞いていなかった。
瞬きもせずただじっとアルベルトを眺めていた。
「モニカ!」
アルベルトはモニカに駆け寄り思わず声を上げた。
「ずっと会いたかった」
……会いたかった?
モニカは不審に思った。去っていったのはそっちでしょ?
「アルベルト様。今日は何の御用? マイルズ様のこと? その件はとっくに御破談。何の弁解もいりませんわよ」
「アルベルト『様』だなんて他人行儀な言い方しないでくれ」
アルベルトはムッとした顔で言った。
「あら。だって3年も会ってませんのよ、もう赤の他人だわ」
モニカはわざとつっけんどんな言い方をした。
「赤の他人ね。そうかもしれないな。この3年であなたはたいそう美しくなった。別人のようだ」
「まあ! そんなことを言うの! あなた、本当に残酷ね!」
モニカはいっぺんに丁寧な物の言い方が消し飛び、辛辣な言葉遣いになった。
「私を捨てて行ってしまったくせに!」
「捨てて行ったとはまるで私が悪いような言い方じゃないか」
アルベルトは憤慨した。
「迷惑しているから出て行けと言ったのはそっちでしょう」
「はあ!?」
モニカは頭を殴られたかのようなショックを受けた。
「何それ!? 誰からそんなことを!?」
アルベルトは急に眼を鋭くした。
「あなたのお母上に。従弟と結婚させ爵位を継がせるのは決まっているのに、私がいてはモニカの決心がつかず、モニカが毎日思い悩んでいると」
モニカは首を大きく横に振った。
「その話、ぜっっったいに、あり得ないわ! あの人は私を追い出したがっているもの。メリッサに爵位を継がせたがっているわ。マイルズ様の件もあの人が首謀者よ。あなたなんて大歓迎のはずよ!」
アルベルトはハッとして、モニカの瞳をじっと見た。
モニカもアルベルトをキッと見返す。
それからアルベルトは頷いた。
「確かに変な話だったのだ。私が身を引けば従弟との結婚が纏まると聞いていたのに、3年もその話が出ないうえ、急にマイルズ殿の話が浮かび上がったものだから」
それからアルベルトはふっと地面の紫色の花に目を落とした。
「……これは、サフランだね? バーニック家のサフランは王都でもよく噂に聞く」
「そうよ」
モニカはふんっと鼻を鳴らした。
「昔大好きだった男の子がくれた花なの。思い出とともに大事に育ててきたわ。だけど、その相手が結婚したという話を聞きまして。焼き払ってしまおうかと思っているところよ」
ぺかっと光る紫の花がモニカの足元で風に揺れた。
サフランの花からは赤いめしべが顔をのぞかせている。
モニカはそのとき、はっと気づいた。
「分かった。あいつだわ」
アルベルトも頷いた。
「ええ。バーニック伯爵夫人からと言付けたのはあいつです」
8.
そのとき、二人の背後で飄々とした声がした。
「やあ。これは良いサフランでしょう? この品質ならクレオパトラも喜んで入浴しますよ。おたくの奥方にもどうです?」
それはフランクだった。
フランクはアルベルトとモニカに近寄り、間に割って入った。
アルベルトをちらりと見て、君には妻がいるだろ、と牽制している。
モニカは肩を震わせた。
「あなたがアルベルトを追い出したの」
フランクはそっと目を逸らした。
「さあ。何のこと。」
モニカはまた声を荒げた。
「何のこと、じゃないでしょ!」
フランクはモニカの方を向いた。
「さっぱりなんだけど」
しかしモニカは疑惑の目をしたままだ。フランクはため息をついた。
「モニカ。もうアルベルトは結婚してる。今更言ってもどうにもならないだろ」
そのときアルベルトが口を挟んだ。
「いや、どうにもならなくない。そういうことなら私が離婚すればよいだけの話だ。妻とは『形だけの夫婦』だから」
「は? 離婚?」
フランクは思わず口をポカンと開けた。
「ええ」
アルベルトは険しい顔をした。
「あのときは私も若かったから、モニカが幸せになるためなら身を引こうとも思ったがね。どうやら、モニカが私に身を引いてもらいたがっていたのは嘘だったようだ。それなら身を引く理由はないよ」
「いや、だからって離婚なんて。いくら『形だけ』でもそんなあっさり急には」
フランクは少し焦った。
「いや、モニカが私の求婚を承諾したと今の妻に伝えれば、ものの一時間で離婚が成立するだろう。モニカとのことは誰よりも応援してくれているからね。私たちは、難しい恋に身を窶した自分たちを慰めあう同志だから」
アルベルトは呆気にとられた顔のフランクを面白そうに眺めた。
「今の妻の方もね……。ははは、近々政変が起こるかもしれないよ。これ以上は言えないけど」
それからアルベルトはモニカの方を向いた。
「悪かったね、モニカ。マイルズ殿の縁談話を聞いたとき、よっぽど自分が立候補しようかと迷った。しかし横入りもあまりに無粋で。代わりにイノシシを届けたけどどうだったかな?」
「まあ! イノシシはあなたの嫌がらせだったの!?」
モニカは目を見張った。
「そうだよ。モニカはきっと気分を害すると思ったからね」
アルベルトはうまくいったとばかりに、にっこり笑った。
フランクは顔を顰めた。
「今日はアルベルト様は何しに来たんです。まさか本当にモニカに求婚するつもりで?」
「うん」
アルベルトは大きく肯いた。
フランクの目つきが険しくなったが、冷静に言い返した。
「モニカは俺と結婚してバーニック家を継ぐ。あなたの出る幕はありません」
「うん」
またアルベルトは肯いた。
「そうだったんだけど……でも、今は私もバーニック伯爵には手土産があるから」
「手土産?」
フランクは息を呑んだ。
アルベルトはまたにっこり笑った。
「私の今の妻の実家はバーニック伯爵領の隣。自殺未遂までした娘を嫁にもらってやる代わりに、我がサスマン家が持参金でいただいたのは、ここバーニック伯爵領を潤すラテリア川の水源地帯。バーニック伯爵がずっと欲しがっていた制水権をなんと土地ごとだ。今の妻との偽装結婚も意味があったんだよね」
「偽装結婚……」
フランクは虚ろな声で繰り返した。が、ハッと気づいた。
「いや、逆にそんな持参金もらってちゃ、離婚できないだろーが!」
「まあ、それはできるんだ。妻の方も私との偽装結婚で……いや、まだ言えないな。でも、とりあえずたぶん、あんまりあの人は敵にしない方がいい、ははは」
アルベルトはあっけらかんと笑った。
フランクは話が自分に不利な方に進むのでだんだん青ざめた。
アルベルトは微笑んだ。
「ところで、フランクとも久しぶりだね。元気にしてた? モニカと一緒にサフランを育ててくれたんだね」
フランクは何も答えず、凍り付いた目でアルベルトを睨んだ。
そのときふとモニカが声を上げた。
「でも、あなたが去ったあの日、なんであなたはサフランを私に手渡したの。あの沢に咲いていたのはイヌサフランだったでしょう」
「ああ、気付いてたんだね」
アルベルトは面白そうに笑った。
「イヌサフランは毒草だ。食べりゃ人が死ぬからね。庭に植えるわけにいかないだろ」
「『庭に植える』って。私が植えると思ったの?」
モニカは胡散臭そうにアルベルトを見た。
「思ったよ。確信があった。サフランは私からバーニック家への、せめてもの嫌がらせだよ」
アルベルトは笑った。
「紫の花が咲いてるうちはモニカは結婚する気にならないんじゃないかってね。価値がある花ならみんなも世話するだろうし。そうしたら、その通りになった!」
フランクはぎゅっと唇を噛んだ。
こいつの思い通り?
モニカは少し悔しそうな顔をしたが、観念したようにふふふっと笑った。
「策士ねえ」
それからモニカはフランクを振り返った。
「ってことで、私アルベルトと結婚するわ! あんたはバーニック伯爵家を継ぐ大事な人だから、私はこれ以上何も言わないことにするわね。メリッサをよろしく!」
フランクはじっと黙っていたが、やがて盛大なため息をついた。
「はああああ。こんなことになるなら、泣き叫ぶおまえでも何でも、さっさと抱いときゃよかった! 既成事実さえ作っちまえば、こっちのもんだったのにな!」
アルベルトは目を剥いた。
フランクはそんなアルベルトを恨めしそうに見た。
「そんなに怒るなよ。うまいことあんたを追い出したのに、あんまり毎日モニカがあんたの名前を呼ぶから、手を出せなかったんだ。俺の気持ちも分かれよ。ササっと横から搔っ攫いやがって!」
アルベルトは正直に目を落とした。
「まあ、その気持ちは分かる。私も婚約が約束されていた君や……今回のマイルズ殿には……全く同じ気持ちにさせられたから」
「共感しちゃだめじゃん!」
モニカが突っ込んだ。
アルベルトは首を振った。
「いいんだよ、モニカ。でもフランク、祝福してくれよ。3年待った俺たちの気持ちを汲んでやってくれないか。絶対に幸せにするから」
「嫌だと言ったら?」
フランクが聞くと、
「イヌサフランを盛る」
とアルベルトは即答した。
「こらっ!」
モニカが突っ込んだ。
「いや、嘘だよ」
アルベルトはにっこりした。
フランクはふうっと息を吐いた。
「お袋が親父と離縁してそれぞれが別の人と再婚したから、俺にはもう帰る場所がない。バーニック伯爵家にいられるだけマシなんだ。できればそれがモニカの横だったらと夢見ていただけさ」
「フランク……。ごめんなさい。あなた本当の本当に、本気だったのね」
モニカは申し訳なさそうに言った。
「これだもんなあ」
フランクは苦笑した。
「いいよ。分かったよ。アルベルトとくっついてしまえ。俺はおまえにも、バーニック伯爵夫妻にも世話になってるからな。これ以上駄々は捏ねない」
「ありがとう、フランク!」
アルベルトは嬉しそうにフランクの肩を叩いた。
「それで、私の今の妻が近々起こすだろう政変なんだけど、バーニック伯爵家の乗り切り方を教えるから……」
「おいっ! 待てっ! さっきから気になってたんだ! おまえの妻が起こす政変って何だよ!」
フランクはもう我慢できないと、アルベルトの言葉を遮った。
「あ、いや、それはまだ言えないんだけど……」
アルベルトは笑顔のままだ。
「あと、『妻』じゃなくて『今の妻』ね」
「くそっ! もう、ややこしいな! 言えないのに乗り切り方は教えてくれるのかよ」
フランクはイライラした。
「それから、俺はこのサフラン畑はどうしたらいいんだ?」
「私の思い出にしてよ」
さらっとモニカが言った。
「死ね」
とフランクは返した。
「こんな手のかかる草、正気じゃねーわ」
「そうか。じゃあ、遠慮なく、球根は全部掘り起こさせてもらうから」
アルベルトはにこっとして言った。
それから小声で、
(残ってたらメリッサ殿のご不興を買うでしょうからね。)
といたずらっぽく言った。
「死ね」
ともう一度フランクは苦々しそうに言った。
「傷心中に別の女の名前を言うんじゃねーよ」
9.
こうして、アルベルトは今の妻と円満離婚をし、モニカは無事アルベルトと結婚することになった。
そしてフランクはおとなしくモニカの異母妹のメリッサと結婚することになった。
バーニック伯爵夫妻とメリッサの喜びようといったら半端なかった。
しかし時を同じくして国王陛下の隠し子スキャンダルをきっかけとして、大規模な政変が起こった。国王に隠し子が見つかり、王妃一派の圧力により禊という形で国王が退位させられそうになったのだ。しかし、実はその隠し子が過去に王妃一派によって暗殺されそうになっていた証拠が次々と出てきて、王宮貴族の世論が割れ勢力図が大きく変化、結局王妃とその一族が更迭されるという事態になった。アルベルトの元妻が言っていたのはこのことである。まあ、これはまた別の話なのだが――。
とにかく、サスマン侯爵家とバーニック伯爵家は、みごとこの政変を切り抜け、賢く領地を荒廃から守ったということだ。
この両家の領地には、こっそりサフランが植えられている―――。
最後までお読みくださりありがとうございます!
とても嬉しいです。
柴野いずみ様主催の【スパイス祭り】参加作品です。
サフランというスパイスは紀元前から使われている香辛料で、今でもパエリアとかカレーとかに入っています。
色や香りの他にも美容やら何やらに効果があると信じられていて、昔はクレオパトラがここぞという日にサフランの湯で入浴したという伝説があるそうです。
お話にも出てくるイヌサフランは、サフランと咲く時期も花の色・形も似ていますが、サフランとは違う花です。
サフランは自生していないのに対して、イヌサフランは自生しているし湿地でも育つということで、このお話ではイヌサフランが出てきます。
イヌサフランはコルヒチンという毒物を含んでいる毒草なのだそうです(日本でも稀に中毒で亡くなる方がいるそうです)。
口に入ると危ないので、アルベルトはモニカに託す花として、イヌサフランではなくサフランを選びました。似ている花で代替したのです。安全を最優先したのですね。
以上説明(ネット情報)が長くなりまして、申し訳ありません。
こちらのお話、もし少しでも面白いと思ってくださり、ご感想やご評価をいただけましたらとても励みになります。
最後までお読みくださりありがとうございました!