2.形状軸
▼東京のテレビ局 (2月8日 11:40)
「光さん!」
廊下を駆けてくる足音に振りかえると、アシスタントディレクターの東野が、紙の束を振っていた。
「原稿、原稿忘れてますよ!」
……しまった。
控室に、原稿を忘れたようだ。
篠田光は、小さく舌を出して、息を切らしながら駆けよる東野に「ごめんね」と謝る。
昼の報道番組で、お天気コーナーを担当して一年になる気象予報士の彼女は、ショートヘア、童顔だが、少し天然キャラも入っていて、視聴者からの受けは良い。
「堪忍してくださいよ。昨日も忘れたでしょ、光さん」
光はペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい」
「ま、まあいいんですけど……」
その姿は愛らしく、東野は、視線を斜め下にずらして原稿を手渡した。
そう、これから本番までに原稿の内容を暗記しておく必要がある。
座って喋る場合には、プロンプターが使えるので原稿を覚えなくても良いが、一般的に「お天気キャスター」は、屋外で立って喋る構図が多い。
フリップなどで、カンペを用意してもらうこともできるが、光はできるだけ暗記しておくことを心がけていた。
スタッフの負担が減ることもあるが、原稿を読み上げるより、暗記した言葉の方が視聴者に伝わりやすいからだ。
プロデューサからも、できるだけ暗記して喋るように言われている。
もっとも、プロデューサーはミスした時に天然キャラが際立つから、そう命じているのだが……
「あら?」
受け取った原稿の一番上が、控室で見なかった新しい原稿であることに光は気づき、小さく声を上げた。
「ああ、それはさっき、Dから渡されたんですよ。なんか南極で大きな地震があったって」
Dとはディレクターのことだ。
Pがプロデューサ。
東野はアシスタントディレクターなのでADだ。
「南極大陸で地震って、ホントに?」
光は、原稿にざっと目を通しながら首を傾げた。
気象学分野で大学院を出ている光は、単なる気象予報士のタレントではなく、今も研究室に席を置いている科学者だ。
「ええ、本当みたいですよ」
「でも、マグニチュード9.2ってあり得ないんだけど」
地球物理学も地震学も学んでいる光は、マグニチュード9を越える超巨大地震は、確認される範囲において、低角逆断層のプレート境界型でしか起きていないことを知っていた。
マグニチュードはいくつかの種類がある。
日本では気象庁マグニチュード(Mj)が使われることが多いが、世界的にはモーメントマグニチュード(Mw)が標準で使われる。
今回の地震は南極で起きた地震だし、モーメントマグニチュードで表したものだろう。
「あり得ないって言われても……なんか、南極点にあるアメリカの基地は連絡が全く取れなくなっているっていう話ですけど」
原稿をもう一度よく読んでみると、震源は、南極大陸のほぼ中央付近のようだ。
南極点は、中央から少しずれているが、マグニチュード9.2が本当なら、アメリカの基地は壊滅的な被害を受けた可能性が高い。
阪神淡路大震災は、マグニチュード(Mw)6.9だった。
マグニチュードの数値が一つ上がると、エネルギーは32倍になる。
二つ上がった場合には約1,000倍だ。
マグニチュードの値で、2.3違っているということは、阪神淡路大震災の約2,000倍以上のエネルギーによる直下型地震が起きたことになる。
光は、専門家だけに事態の深刻さが容易に想像できた。
背筋が寒くなる。
「昭和基地とは、連絡ついているの?」
昭和基地は、震源地から1,500kmほどの距離にあるから、致命的なダメージは回避できていると思うが、氷床に覆われた南極大陸で、直下型地震のエネルギーは想像できない影響を与えた可能性もある。
「今は確認中、とだけしか聞いてません」
光は、腕時計を見た。
番組が始まるのはあと15分くらいだが、自分の出番は番組の後半だ。
まだ一時間近く時間がある。
「東野くん、マネージャーにお願いして、私のタブレット持ってきてくれない?」
「分かりました」
「まだ情報が足りないから、いろいろ調べたいの。よろしくね」
うなづいて駆けだす東野の後ろ姿を見ながら、光はふと、今回の常識外れの地震は、何かの前兆につながる予感がした。
マグニチュード9クラスの地震は、地球の地軸や自転速度にも影響を与える。
実際、マグニチュード9.0~9.1だった東日本大震災では、形状軸が17cm動いて、一日の時間も1.8マイクロ秒短くなったことが分かっている。
形状軸とは、地球の自転軸から、10メートルずれた位置にある仮想線の軸のことで、自転軸が形状軸のまわりを回転している。
マグニチュード9.1のスマトラ沖地震では、同じく形状軸が7センチ移動、一日の時間も6.8マイクロ秒短縮された。
今回の南極での地震は、地軸に近い位置で発生している。
地球は、高速でスピンする球体だ。
地球の自転速度は、赤道上で時速1,700km。
公転速度は、時速100,000kmに達する。
音速が、約時速1,225km。
ライフル弾が、初速で時速約2,000km、対空ミサイルは、時速約3,000kmだ。
地球のスピードは自転、公転ともに桁違いということが分かる。
もちろん地球上では慣性の法則により、そのスピードを体感することはないが、宇宙において座標を定めた場合、その座標間を、地球は猛スピードで移動しているということだ。
マグニチュード9クラスの地震は、この地球の自転速度、つまり「回転速度」をわずかとはいえ、短縮させてしまう。
地軸近くで起きた大地震は、地球にどんな影響を与えるのだろう?
お天気キャスター、ではなく気象学者として、光は思案していた。