16.終息
▼神奈川県横浜市のカフェバー (2月13日 06:00)
「みんな、起きて!」
美紀の言葉に、悪夢を放浪していた滋は、現実の世界へと引き戻された。
悪夢の内容は覚えていないが、今の重い気持ちから考えると、ろくでもないものだったに違いない。
入口の扉が開かなくなっていることに気がついたのは、一昨日の夕方だった。
元は、ビルの倉庫だった地下の部分を改造して作られた店は、出入り口が一箇所しかない。
吹き込んでくる雪が、階段全体に積もってドアをふさいだのだろう。
外に出る手段を失ったが、吹雪が止まない限り外には出られないし、籠城の準備は行った。
ビルの換気は、壁面から各階を貫く形で、さらに数箇所で行っているようなので、10階建てのビル全体が雪に覆われない限り、窒息することはないだろう。
だが、いよいよ追い込まれたことを知った滋は、重い気持ちを振り払うことができなかった。
たった何十時間前に過ごしていた当たり前の日常が、こんな短時間で失われることになるとは……
たぶん、今の気持ちが表れた夢を見たのだろう。
重い気持ちのまま、滋が目をこすりながら、声の方に顔を向けると、新しいキャンドルに火が灯され、カウンターに座った美紀の頬がスマホの光の中、紅潮しているように見えた。
他の二人も、もぞもぞと毛布から這い出てくる。
美紀に近寄り、キャンドルの光で朝を迎えたことを腕時計で確認した滋は「何かあった?」と尋ねた。
「低気圧が動き出したようよ!」
美紀の言葉は、滋の重い気持ちを一瞬で吹き飛ばしてくれた。
「!!本当に?」
「うそ?」
「いつから?」
口々に驚きの言葉を投げかける三人に、美紀がうなづいた。
その口元は、少し微笑んでいる。
「光さんからのメールで、南極で大きな余震があって、偏西風の動きが変わり始めたそうなの」
「この前、美紀さんが説明してくれた、大きな余震が地軸や自転に影響を与えて、偏西風の流れを変えるかも、っていうのが起きたってこと?」
滋の質問に、美紀は「うん」と答えた。
「ちょうど一時間前ぐらいから、台風の位置が東に移動し始めてるわ」
そういうと、美紀はウェブで情報を調べ始めた。
やがてうなづくと、3人に「やったわ」と言って笑った。
何日かぶりの美紀の笑みは、3人の気持ちを高めた。
「掲示板の情報だけど、吹雪が止んだ、っていう書き込みがあるわ」
「ということは……」
「そう、やっと終わったの!」
ブラボー!と叫ぶマスターの声は男を取り戻していたが、誰も気にしなかった。
▼首相官邸 (2月13日 17:00)
正面玄関の自動ドアの向こうには、幅1メートル、高さ1メートル50センチほどのトンネルがあった。
トンネルの先には、人工の光が見える。設置された作業灯だろう。
エントランスホールから見えるのは、ガラス一面を覆う雪だ。
普段なら、冬でも緑を保った前庭の芝生が一面に見えているはずだが……
何の冗談なのかと首相は思う。とても現実とは思えない光景だ。
午前7時に、ようやくブリザードは収まったが、その時点での積雪量は、都内で12メートルを越えていた。
まずは要人の救出が進められ、首相官邸にはヘリが回された。
しかし、当然だが着陸するスペースなどどこにもなく、また首相官邸全体が雪に埋もれているため、戸外に出ることすらできない。
官邸4階の大会議室の窓を破って、ヘリから吊り下げ救出も検討されたが、まだ風が強く、安全にホバリングできる状況ではない。
そこで急遽、自衛隊の第一空挺団が派遣された。
本来なら千葉県船橋市にある習志野駐屯地に配属されているため、被災しているはずだが、ちょうど第3普通科大隊が、東富士演習場での合同訓練に参加していて難を逃れていた。
午後1時。
あらかじめ、緊急時にヘリポートとして使用される前庭部分にある緑地に、塩化カルシウムの融雪剤をトン単位で撒いていたため、前庭部分だけ雪が大きく凹んだ状態になっていた。
それでも地面まではほど遠かったのだが……
そこに、2機のCH-47からファストロープ降下で雪の中に降り立った約100名の隊員が、ヘリが着地できる範囲、約30メートル四方分の除雪を終えたのが午後3時30分。
通常であれば屋上のヘリポートを使用するのだが、屋上での作業は人海戦術が取りづらく、短時間での救出が難しいため断念した。
代わりに、多人数が同時展開できる前庭部分を、人力だけで除雪を行ったのだ。
隊員たちの決死の人海戦術と大量の融雪剤により、なんとかわずかな時間で、ヘリが着陸できるスペースだけは確保できた。
そして、エントランスに向けてトンネルを掘り、救出準備が整ったのが先程だった。
小隊長の案内のもと、首相はトンネルに入った。
途中、玄関前に設置されたオブジェクトの石の茶色い突起部分が、踏みしめられた雪の上にわずかに見えていた。
短いトンネルを抜けると、ヘルメットをかぶった誘導員が、左右水平に伸ばした手の平を下に向けて、ゆっくりと上下させている。それに合わせて、海上自衛隊の救護ヘリ、UH-60JAが降下してくるところだった。
本当なら、陸上自衛隊で要人輸送に使用されるEC-225LPを使いたかったが、日本に3機しかないEC-225LPは、全て千葉県の木更津駐屯地に駐機されているため、雪の中に埋もれていてる。
そのため、今回は海上自衛隊、呉地方隊の小松島地区にある第24航空隊から救護ヘリが回されたのだ。
周囲は雪の壁だ。
空は夕闇が覆っていたが、数台設置されたLEDの作業灯が真昼のように辺りを照らしている。
その明るさのせいで余計に雪の壁が迫ってくるように思えた。
降雪が止んだ後の、復旧活動、救出活動の策案は、ブリザードが始まった3日前から、消防庁、自衛隊の災害救助を担当する技官を中心に進められ、2日前には、その作業は陸上自衛隊の中部方面隊、総監部のある伊丹駐屯地に引き継がれた。
昨日、防衛大臣は、自衛隊法83条第2項ただし書きに基づいて、自主派遣による災害派遣の出動命令を陸海空、全ての自衛隊に対して発令している。
だが、降雪が止んだ現時点で、救出活動の見通しはまだ立てられていない。当初、ここまでの積雪は想定されていなかったからだ。
陸上から救出は雪の壁が阻んでいるし、生存者が多くいるであろう堅固な建物は屋上にも大量の積雪があり、ヘリの着陸ができず、空からの救出もすぐには行えない。首相官邸での作業と同様に、吊り下げ救助も難しく、仮にできたとしても、救える数は僅かだ。
どうしても、救助活動のスピードを上げるには陸上からの導線を引くしかないが、12メートルの積雪を、どうにかする方法が見つからなかった。
しかし――手をこまねいているわけにはいかない。
雪に埋もれてしまった人も大勢いるが、生存者はそれ以上にいるはずだ。
なんとか、一刻も早く救出活動に取りかかる必要がある。
災害による被害を少しでも減らすためには、災害が終わってからが勝負になる。
これからが始まりだ。一分一秒も無駄にはできない。
人々を鼓舞するには、強いリーダーシップが不可欠になる。
首相は、強い決意を胸に秘め、着陸を終えたヘリに向かうと、雪壁から風に舞い上げられたのだろう、作業灯に照らされた雪片が落ちくるのを見て足を止めた。
はかない雪片だが、その集合が、まさしく史上最大と言える災害をもたらした。
だが、その災害も終わりを迎えたのだ。
これまでは、降り積もる雪をただ見ているしかなかったが、これからは自分の仕事の時間になる。
首相は、大きく息を吐くと、真っ直ぐに前を見据え、再び歩を進めた。
▼神奈川県横浜市のカフェバー (2月13日 22:00)
雪が止み始めて、人々の動きも活発になってきたのだろう、ウェブの情報は一気に多くなっていた。
午前7時には、関東全域で暴風雪は完全に収まっていた。
神奈川県の西部では、晴れ間が見える場所も出てきているようだ。
もっとも、雪が収まったからといって、美紀が言ったように「終わった」わけではない。
現在、大阪の自衛隊の駐屯地に設けられた対策本部で、首相が会見を行っている。
4人は集まって、モバイルバッテリーで充電したスマホで、ネット配信されている会見の模様を見ていた。
幸い、このビルには、携帯の基地局が屋上に設置されていて、地下にある店でも携帯の電波が拾えるようになっていた。また、中ゾーン基地局のため、停電時でも72時間は予備電源で稼働してくれている。
情報難民にならずに済んでいるのは、不幸中の幸いだったといえるだろう。
会見によれば、雪がやんだ時点での都内の積雪量は12メートル強らしい。北関東地方の山間部では、正式な計測はまだだが、周辺の鉄塔などと比較した目視では20メートルを越えているところもあるようだ。
都内で12メートルか……マスターが用意してくれたサンドイッチを食べながら、滋は考えていた。
その積雪量は、一軒家だけでなく、ちょっと低めの三階建てマンションならば完全に埋もれていることになる。
これから自衛隊が救助に来てくれるはずだが、平野部一面が、12メートル以上の積雪で覆われている場合、どのように救出活動ができるのかは不明だ。
世界各国から差し伸べられる支援と救助の手も、そう簡単には届かないだろう。
だが――少なくとも、救助活動が開始できるようになったことは、助かるかもしれない、という気持ちを思い出させてくれるのに十分だった。
今までは、絶望しか考えられなかったことを思えば、百倍マシだ。
『――政府は、考えうる限り、最速!、最大限に!、救出活動を進めてまいります!』
涙を浮かべながら拳を握る首相の言葉が、心に届く。
『今朝、雪は止みました。自衛隊も全部隊が昼過ぎから活動を始めています』
そう、雪は降りやんだのだ。もう、降り続く雪に怯えなくてよい。
『今、被災地で、この会見をご覧いただいて方がいれば、あと少し、あと少しの時間、頑張ってください!』
4人で協力すれば、扉を破壊し、崩れないように注意しながら雪を掘ることもできるだろう。
そうすれば、救助が来てくれる前に、外界の光を見ることも不可能ではないはずだ。
『必ず、皆さんに、救いの手を伸ばします!』
――気がつくと、滋は泣いていた。
他の3人も泣いていた。
ようやく、終わったのだ。
まだ先は長いが、終息に向けて、良い意味での「終わりが始まった」のは確かだろう。
大輔と強く握手しながら、面接の日程、改めてお願いしなきゃな、と滋は思っていた。
予定より、一日早く投稿できました。
次話は、火曜日の投稿予定です。




