14.絶望
▼首相官邸 (2月12日 15:00)
田辺首相は、エレベーターを使わずに、ゆっくりと階段を上がっていた。
二人のSPが、黙って後をついてくる。
官邸がある千代田区永田町も、全域が停電していた。
もっとも、官邸の場合、別系統の電源が引き込まれていたし、自家発電設備も備わっている。
だが、今の事態がいつ収束するのかが分からず、特に暖房設備を維持させる必要があったので、昨日の午後から節電を行っていた。
首相が飲むコーヒーも、停電後は冷たい缶コーヒーだったが、意外と缶コーヒーが旨いことに首相は気がついた。
今の事態の中で得られた唯一のことが、缶コーヒーが旨いということか……
歩きながら、首相は苦笑していた。
階段を上り終え、三階にあるエントランスホールに着くと、正面玄関の前に先に上がっていた気象庁の技官と官房長官が待っていた。
首相官邸は傾斜地に建てられているため、正面玄関は一階ではなく三階の位置にある。
エントランスホールからは一階から吹き抜けになった中庭が見えるが、開閉式の屋根が閉められているため、雪が積もることもない静かな日本庭園はいつもの姿を見せていた。
首相は、正面玄関で外を見ていた技官と官房長官の横に並んだ。
雪が「しんしんと降る」という言い方がある。音も立てずに、静かに積もりゆく状況を指すが、エントランス内は、ほぼ無音だった。
外は、ブリザードが吹き荒れているが、不気味なぐらい、その音は伝わってこない。
「すごいな」
誰に言ったわけではなく、首相はつぶやいた。
横の二人がそれに同意することはなかったが、首相も同意を求めてはいなかった。
正面玄関のガラスは、上部50センチほどのすきまを除いて、ほぼ全面が雪に覆われていた。
その上部に空いたわずかなすきまは雪がひっきりなしに打ちつけている。
エントランスホールの高さを考えると、恐ろしい雪の量だ。
まだ日没前の時間帯だが、外は吹雪のせいもあるのだろう、わずかに明るいだけだった。
正面玄関を覆う雪の壁は、見るものを圧倒する。
強固な防弾仕様のガラスだから雪の圧力を受け止められているのだろう。
普通のビルでは、これだけの雪が覆えば、ガラスは簡単に吹き飛んでしまうに違いない。
積雪による建物の被害は、鉄骨であっても起き得るのだ。
しばらくの間、三人は黙って雪の壁を見つめていた。
沈黙を破ったのは首相だった。
「分かっている状況を聞こうか」
技官が手にした資料をめくって、奥で控えているSPにエントランスホールの照明をつけるように求めた。
しばらくすると、三人が立つあたりの照明が点けられた。
照明の明かりが黒い雪の壁を真っ白な壁へと変化させる。
「まもなく降雪開始から48時間が経過しようとしていますが、天候に大きな変化は見られません。
積雪量は最新情報で、都内が8メートル40センチ、関東北部の山沿いで11メートルとなっています」
8メートルも積もったのか――
その量が、首相には現実とは思えなかった。
だが、目の前にそびえる雪の壁は、いやおうなくその現実を認識させた。
「風速も変わらず秒速30メートルです。台風の気圧は890hPa、ここ24時間、変化はなく勢力を維持しています」
昨日から何度も報告を受けたが、同じ状況が続いている。
「被害状況は、何か新たに分かったことはあるのかね?」
今度は、同じ派閥で首相よりも年配の官房長官が答える。
「警察、消防ともに救助活動が全く行えない状況に変わりはないから、新たに分かったことはない。
緊急通報は、今朝から110、119ともに、通報は激減したが、これは事態が悪化したことを示しているようだ」
「事態の悪化とは?」
「大勢の車中に閉じ込められた人が、緊急通報してきていたのだが、完全に雪に覆われることで、それができなくなった、ということと考えてよいだろう」
ということは、最悪の事態に陥っている、ということか。
車が雪に完全に覆われた場合、エンジンをかけたままだと一酸化炭素中毒に陥るし、エンジンを止めれば寒さとの戦いが待っている。
そもそも車全体を雪が覆った状態になれば、雪崩に巻き込まれたのと同じ状況だ。
窒息も心配しなければならない。
航空機も飛ばせないため、各地の状況が全く掴めていないが、関東のほぼ全域が8メートルの雪に覆われている、と考えた方が良いだろう。
まさしく一面の銀世界と言える。
だが、その銀世界は、決して華やかなものではなく、色褪せた世界だ。
唐突に死の匂いを感じた首相は、目眩がした。
高速道路、一般道路上にあった車両は、夕方の時間帯であることを考えると、相当な台数が路上にあったはずだ。
首都高速一日の通行台数は、約100万台。
夕方の時間帯、少なくとも全線が渋滞していたことを考えると、雪予報で車を避けた人を除いても、10万台近くが首都高速上で巻き込まれたと思われる。
「現在、生存が確認されているのは、大きなショッピングモール、学校、高層ビル内の住居や会社にいた人たちだ。
地下鉄にいた人も大丈夫だろう。地下鉄線路内に雪が降り積もることはないからな。
逆に地上の鉄道で車中に取り残された人は、今はまだ生存しているが、いつまで持つかは分からないだろう」
最近は、新幹線も数分おきのダイヤで運行している時代だ。
線路上で停車した車両は新幹線や電車を合わせて2,000本を越えていた。
品川と大崎間で立ち往生した山手線の乗客約100名ほどが、雪が降り始めてから5時間後、待ちきれずに車掌の制止を振り切って線路に降りたが、その後、品川駅、大崎駅にたどり着いたという連絡はなかった。
おそらく遭難したものと考えられ、以降、車両から外に出ることは固く禁じる通達を各鉄道会社が行っていた。
だが、雪が止まない限り救出に向かうことはできず、すでに線路上の車両は8メートルの雪の中に埋もれてしまったから、今、突然、雪が止んだとしても救出が間に合うかは微妙になっている。
そして、一軒家の場合、二階建てまではほとんどが雪に埋もれてしまった。
確認ができないが、家屋そのものが損壊を受けているケースは少なくないはずだ。
「現在の死者数は、100万人を越えている見込みだ。もし、今すぐに雪が止んだとしても、救出活動の範囲を考えると……おそらく、死者数を数えるより生存者数を数えた方がよい状況も考えられる。間違いなく政権は失うことになるだろう」
官房長官は、まだ政治家の視点を捨てられていなかったが、首相は為政者としての責任感から、政権のことはもう考えていなかった。
「政権はどうでもいい、速水君。それより、これから何ができる?」
だが、官房長官は何も答えなかった――
いや、何も答えられなかった、といった方が正しいだろう。
首相は、技官を見るが技官にも答えは見出せない。
「とにかく、低気圧が勢力を弱めるか、移動するかを待つしかありません」
昨日から、同じ質問に同じ答えしか返ってきていない。
無理もない。
何もできないことは首相自身が理解していた。
世界各国からも支援の申し出があったが、ブリザードが止まない限り、支援も救助も活動が行えず、今は役立たない。
現状を解決するためには、自然の猛威が去ることを祈るしかないのか……
首相は、沈黙して雪の壁を見上げた。
次話は、火曜日の投稿予定です。




