11.暗闇
▼首都高速都心環状線 (2月10日 21:00)
車窓から見えるのは暗闇だけだ。
気象庁長官である佐々木は、じっとその暗闇を見つめていた。
首都高速都心環状線上。晴れていれば、右手に赤坂御用地の木々が見えるあたりだ。
横浜地方気象台で行われた会議に出席した帰りで、霞が関の出口までもう数分のところまで来ていたが、車列が動かなくなって、かなりの時間が経っていた。
「だから!何度も言ってるでしょう!救助はいつ来るんですか!!!」
前の座席から、運転手兼秘書官、鎌野の声が聞こえる。
2時間ほど前から、幾度となく繰り返された会話だ。
埒が明かない状況に、そして危機感が高まり続けている中、秘書官のストレスもピークに達しているのだろう。
目を凝らすと、うっすらと窓に踊り狂うような小さな粒が当たっているのが見える。
プライバシーガラス窓の下の方まで、雪が積もっているようだ。
もう車体は、完全に雪に埋まっている状態だ。動かすことはできない。
幸い、長官車は、環境問題から数年前にEVに車種変更されていたため、排ガスによる一酸化炭素中毒の恐れはない。
立ち往生してから、すでに4時間が経過した。ガソリン車なら、すでに最悪の状況を迎えていたはずだ。
JAFのユーザーテストでは、ボンネットまで雪に埋もれた状態でエンジンをかけたままにしておくと、約30分で車内の一酸化炭素濃度は1,000ppmまで達する。
この濃度では、数時間も立たずに致死に至ることになる。そのまま濃度が上がり10,000ppmまで至れば、数分も持たない。もっとも、その前に意識を失うことになるのだが……
とはいえ、CO中毒の恐れはなくとも、エンジンの熱を利用できないEVのため、このままでは深夜を迎える前にバッテリーはなくなることになる。
メーターパネルが示す気温は、氷点下2度。
コートは持っているが、遭難を想定した服装にはほど遠い。バッテリー切れになれば、救助がこない限り、凍死は免れないだろう。
15時過ぎに、横浜を出発した際には、こんな状況に陥ることになるとは想像もしていなかった。
今朝、佐々木は、今日の降雪予報について、予報課から上がってきた情報を、気象防災監から報告を受けていたが、日中はまだ、交通に大きな影響は出ないはずだった。
実際、谷町JC、汐留JCでの事故情報があったため、少し遠回りになるが、渋滞を避けて西新宿JC経由にしたのだが、赤坂トンネル前の渋滞に行き当たるまでは、風は多少吹いていたものの、雪は舞う程度だった。
それが、渋滞でいったん停止して数分後には、視界が遮られるような猛吹雪になったのだ。
時刻は、ちょうど16時頃。
その後、今のような状況になると分かっていれば、無理して路肩を走ってでも、わずか100メートルほど先にある赤坂トンネルを目指していただろう。
当初は、徒歩での避難も考えたが、そうこうしている内に、みるみる雪は積もっていき、すぐに脱出が可能とは思えない状況になっていた。
今は、雪で埋もれた状況の中、ドアを開くこともできなくなってしまった。
フロントガラスから、前の車の、赤いテールランプが視認できていたのも、わずかな時間だった。
「長官、すいません……救助は難しいそうです」
電話を切った秘書官が、青い顔で告げた。
「そうか」
佐々木は、起伏のない声で答えた。
首都高の一日の平均利用台数は100万台を超える。
16時頃は、ちょうど夕方で、交通量が多く、また渋滞していたことを考えると、数万台が首都高上に滞留していたと思われる。
首都高から避難できた台数は多くはなく、また一般道に降りたとしても、その後、ほとんどの車両が、一般道上で立ち往生することになった。
ブリザードにより視界ゼロでは、一般道でも車を移動させることはできない。
今の状況を推測して、降り始めの段階ですぐに車両から降りて、近くの建物への避難を試みれた人は、ほとんどいないだろう。
ブリザードが本格化してからでは、もう遅い。
車両から降りただけで、命の危険にさらされることになる。
秒速20メートルを超える強風の中、立っていることさえ、やっとの状況だ。
そこに吹雪が加わり、視界も遮られる。移動などできるはずもない。
さらに、山岳装備で都会の車両に乗っている人は、まずいない。
普通の服装のまま、吹雪の中で立ち止まってしまえば、強風が容赦なく体温を奪うから、生存できる時間は限りなく短くなる。
車は動かすことができず、外にも出れず、さらに雪は信じられない勢いで積もりつつある。
佐々木は、学生時代、山岳部に所属していた。雪山の経験も何度もあった。
だから分かる。
この勢いのブリザードは、戸外で人が活動することを許さない。
目も開けていられないし、ホワイトアウトした中、一歩、戸外に踏み出せば、待っているのは「遭難」だ。
民家も商店も道路の両脇に所狭しと立ち並ぶ東京の街の中で、道路に止まった車内から外に出ただけで遭難するなどということは、誰もが信じられないだろう。
数歩、踏み出せばすぐに建物に触れるはず、と思うはずだ。
だが――南極の外国の基地では、ブリザードの中、数メートル離れたトイレに行こうとした隊員が、遭難死したことがある。
一般人ではない。南極の基地に派遣された隊員が、だ。
ブリザードには等級がある。
平均風速が秒速25メートル以上、視界が100メートル、そして継続時間が6時間以上になる場合、そのブリザードは「A級」だ。
継続時間はまだ達していないが、車窓にぶつかる吹雪の勢いと、視界がほぼゼロであることを考えると、今、遭遇しているこのブリザードはA級以上であることは間違いない。
ブリザードも碌に経験したことがない一般人が、軽装のままでA級ブリザードに遭遇すれば、間違いなく一歩も動けない。
佐々木は、ついさっき気象庁の技官から電話で、南岸低気圧が台風に発達して、さらにその勢いを増しつつあるとの報告を受けた。
温帯低気圧である南岸低気圧が、熱帯低気圧である台風に変化する理由がまったくもって分からない。意味不明だ。
だが、実際にそうした現象が起きたことは事実であり、今、まさに自分はそのさなかに巻き込まれている。
この台風は、歪んだ偏西風のスポットのようなところに挟まったせいで停滞を続け、気圧も900hPaを切り、さらに発達を続けているらしい。
「室戸台風」以上の台風が、真冬に発生?
何の冗談かと思う。
技官の見込みでは、停滞がいつまで続くのか、全く予測がつかないとのことだった。
もっと正確に言うと、いつ動き出すのかが見込みが立たない、つまり、このブリザードがいつ止むのか、予報が出せないらしい。
少なくとも、明日の夕方までの積雪量は2メートル以上になるだろう、とのことだった。
佐々木は、小さくため息をついた。
最初は市会議員から始まった政治家の仕事も、もう半世紀を過ぎた。2年後の選挙は、息子に地盤を任せるつもりだった。
閣僚経験も数多く、今回の気象庁長官のポストも、勇退前の名誉職のようなものだった。
だが……突然、終わりを迎えることになるとは……
このブリザードが収まらない限り、今現在、高速道路上で立ち往生している数万台の車中にいる人が助かる術はない。
2メートルを越える積雪は、車体を完全に埋没させ、待っているのは窒息死か凍死だ。
かといって、車外のブリザードの中に出ても、待っているのは確実な死だ。方向も分からないまま身動きできずに、数分で意識を失うことになるだろう。
もちろん、これは一般道も同じことだ。
警察も消防も、出動はできない。出動しても二次災害となるだけだ。
陸上自衛隊の冬季戦技教育隊(通称、冬季レンジャー)なら、事前に分かって万全の準備を整えていれば、ある程度の活動は可能だったかもしれないが、それでもA級ブリザードの中では、限界がある。
今すぐ手配できても、北海道札幌市にある真駒内駐屯地は遠い。
事実上、ブリザードの中で避難を待つ人を救出する手段は何もないのだ。
残念だが、このままブリザードが続けば、降り始めから24時間後の1日での死者数は史上最大、それも戦争や感染症などでも経験したことがないレベルでの人数となるだろう。
「鎌野君、電話が使えるうちに、一度、家族に連絡した方が良い。私も田辺君に電話しておこう」
「はい」
低く答えた秘書官の声は、小さく震えていた。
佐々木は、車内電話を持ちながら、自分が妙に落ち着いているのは、現実離れした今の状況にあるのか、それとも老いたからなのかをぼんやりと思っていた。
いずれにしても、取り乱した姿を見せることなく終えられることに安堵していた。
次話は金曜日の投稿予定です。