10.警告
▼神奈川県横浜市のカフェバー (2月10日 17:00)
テレビでは一般の番組が中止され、ニュースを引き続き放映していた。
店に新しい客が来ることはなく、また3人も吹雪の中、家に帰る気にはなれなかった。
もっとも、さっき大輔が「がんばって帰るか」と支度を始めたとき、美紀が「遭難するから今、外に出ちゃだめよ」と止めたのだが。
「今日は、もう店じまいするから、これから後は私の好意よ」とマスターが作ってくれたスパゲッティ・アッラ・プッタネスカを食べながら、4人はニュースを見ていた。
「このスパゲッティ、かなり辛いな」
大輔が、顔をしかめて水を飲みながら、それでも美味しそうに食べていた。
「これはね、プッタネスカっていうスパゲッティよ」
「プッタネスカ?」
「そう、娼婦風のパスタ、っていう意味」
滋が尋ねると、マスターは、ウフフと笑いながら説明してくれた。
「寒い日は暖まっていいでしょ」
「でも、店の中、寒くないし」
大輔が、額に汗をにじませて横から突っ込みを入れた。
確かに辛いのだが、粉チーズがまろやかな辛さに変えてくれて後味が良い。
「マスター、美味しいね、これ」
「ありがとう。お代わりもいいわよ」
美味しそうに食べる3人を見ながら、マスターは嬉しそうだった。
そのとき、ニュースを見ていた美紀が、突然声を上げた。
「あ、光さん」
テレビを見ると、滋たちも知っている顔が映っていた。
光は、美紀の研究室でゼミの講師もしていて、この店にも時々顔を見せる。
だが、いつもの華やかさは影を潜め、顔も少し青ざめているように滋には思えた。
「なんか、光さんの様子、おかしくないか?」
大輔も異変を感じたようだ。
『視聴者の皆さんに大切なお話があります』
そして、光が呼びかける形で番組が始まった。
4人は、テレビを注目した。
光の顔は真剣だった。
『現在、関東地方を猛烈な吹雪が襲っています。
あまり時間がないかもしれないので詳しい説明は端折りますが、数日前から日本に向かっていた南岸低気圧が八丈島南方沖で停滞し、海水からの潜熱を受けて熱帯低気圧に変化、さらに勢力を強めて、現在台風になっています』
「え……?、温帯低気圧が台風に変化したの!」
美紀が驚いた声を上げる。
「美紀さん、それって変なことなの?」
大輔が不思議そうな顔をする。
光が現在の状況を解説している中で、美紀は、簡単に温帯低気圧と熱帯低気圧の違いについて説明した。
「温帯低気圧は前線があるから、寒気と暖気のバランスが崩れれば閉塞して勢力は衰えるし、それが暖気だけでできていて前線をもたない熱帯低気圧に変わるなんて、正直、信じられない」
『それで、今後の状況ですが、私が研究してきたモデルに当てはめると、尋常でない数値が出たので、万一のときのために、皆さんお知らせしたいと思います』
光は、少しの間を置いた。
顔がいっそう青ざめている。
4人は画面に見入っていた。
『台風へと発達した熱帯低気圧が、今の位置で、勢力をたもったまま停滞した場合、明日の夕方、24時間経過した段階での積雪量は――4メートルを越える恐れがあります』
4メートルの積雪!
滋は驚いた。
大輔が「マジ?」と声を上げる。
隣で美紀が口に手を当て身を硬くしている。
『風速も毎秒30メートルに達する見込みです。これは立っていられない猛風です。
それが吹雪となって襲ってきますので、外には絶対に出ないでください。
視界はゼロですから、隣の家にいくだけで遭難します』
都内で吹雪のために遭難?
そんなことがあり得るのか?
北極とか南極じゃあるまいし。
だが光の真剣に語る顔を見ると、滋は、決して大げさに言っているのではないことが分かった。
『猛吹雪が収まるのがいつなのか全く分からないため、番組をご覧いただいている視聴者の皆様は、これから言う備えを行うようにしてください。
まず、明日中には、関東全域が停電する恐れがあります』
そしてテレビには、いくつかの箇条書きが示される。
停電に備えて、懐中電灯やロウソクなどを身近に置いておくこと、暖が取れる毛布などを準備すること、凍結で水道も出なくなることが考えられるので、お風呂にお湯をためておくこと、など災害時に指示されるような項目が並んでいた。
『降雪が続く時間が長く、相当な積雪量になった場合、天候が落ち着いても救助や必要な支援は、すぐに望めません』
確かに数メートルの積雪があれば除雪しないと、物資を送ることも人的な支援も行えない。
狭い範囲ならまだしも、関東全域がそういった状況になれば、雪が融けるのを待つ必要があるかもしれない。
豪雪地帯であれば、降り積もった雪を捨てる場所も決められているし、除雪の道具も一般家庭に備わっている。
しかし、東京ではそのいずれも備わっていない。もちろん、数メートルの雪が自然と融解するのには、週単位の時間が必要になるだろう。
長期戦を覚悟しなければならない、ということだろうと滋は思った。
「こんな不安を煽るようなことを公共の電波で言っていいの?パニックになるんじゃ……」
大輔の言葉に、美紀が首を横に振った。
「たぶん違うわ。パニックは群集によって引き起こされるけど、吹雪で群集を作ることができないわ」
なるほど、と滋は思った。
確かに仮にパニックが起きたとしても、あらかじめ人々が集まっていた場所、ショッピングモールなどに限られるだろう。
しかし、そういった場所は、物資も多いからパニックに陥る危険性は低いように思う。
今居る場所から移動することができないのだから、連鎖的にパニックが広がることはないはずだ。
それよりも、これから起きるかもしれない危険な状況を、人々に認識させることの方が重要だとテレビ局では考えたのではないだろうか?
『繰り返しますが、現時点において、警察や消防が緊急活動を行える状況にありません。
まず個々人で、寒さから身を守る準備を行ってください。
そして、救助や支援を待つ時間、生き延びられるように心構えをしてください』
滋は再び驚いた。
「生き延びられるように」という言葉を、真剣な表情であの光が言っていることが、信じられない。
それぐらい、事態が深刻なのだろう。
『広範囲で停電が起きると、私たちが情報をお伝えすることができなくなります。
すでに関東北部の一部地域では停電が発生しています。今、この瞬間に停電が起きるかもしれません。
関東平野部に数メートルの雪を前提に考えたライフラインは備わっていません。
時間がありません。なるべく早く停電に備える準備を始めてください。お願いします』
そういうと、光は立ち上がり、カメラに向かって深く頭を下げた。
「光ちゃん……」
つぶやくマスターの目にはうっすらと光るものが浮かんでいた。
光の言葉は確かに視聴者に届いていた。
それも切実に。
そして、映像はスタジオに戻った。
キャスターが、光の警告を繰り返し説明し始める。
突然大輔が立ち上がり、自分の両頬をパンパン、と叩いた。
「よし、準備しなきゃ。マスター、ロウソクある?」
そうだ、光が言うとおり、すぐに準備を始めることが大切だ。
4人は、生き延びるために動き始めた。
次話は来週火曜日の投稿予定です。




