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漂泊の民と野営料理  作者: 飴丸


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12/12

番外:巡礼の神官と蜂蜜酒

 封折山脈の谷間を塞ぐ街は、沢山の旅人が訪れる為、関所で厳重な管理をされている。国や神殿が発行した通行証を持つか、多めに金を納めるかをしなければ、街を通り抜けるだけでも時間を取られた。下手を打つと一巡り、二巡りは立ち往生することになる。

 しかし辺境のように迂闊な暴力によって我を通そうとすれば、常駐する兵士に取り押さえられ強制労働、最悪死罪だ。故に殆どの旅人は、門の前に大行列を作り、不満を堪えて大人しく順番を待つしかない。

 人々がごった返す中、すんなりと通れるのは、正式な通行証を持つ商隊や、歌や踊りを見せて金に換える旅芸人の一座、そして――

「金陽神アユルスの神官様ですか。失礼ですが、神紋章は?」

「ええ、こちらに」

 旅装束であるが故に大分草臥れてはいるが、白いローブを頭から被った妙齢と思われる女性は、頭巾の下からにこりとした口元だけ見せて、神官の証である聖銀製のメダリオンを取り出す。

 刻まれている神紋は、天に輝く金陽を模した、真円に十字が刻まれたもの。見張りの兵士が確認用の白水晶を軽く当てると、鈴の音のように澄んだ音が響いた。間違いなく本物の神紋章、八柱神に仕える神官の証だ。

「確認いたしました。――そちらの方は?」

 神官は神に祈ることで人々に奇跡を施す存在であり、余程の辺境で無ければ敬意を示す者が殆どだ。兵士も丁寧に頭を下げてから、メダリオンを仕舞う白づくめの神官、彼女の後ろに立つ大柄な黒髪の男へ視線を向けた。

 かなり背が高く、神官よりも頭一つ高いその男は、筋骨隆々な体をかなり値が張るだろう、黒光りする鎧に身を包み、腰には両刃の剣を下げている。見た目はどう見ても傭兵か冒険者で、背に背負っている小さな竪琴が如何にも似合わない男だった。

 短く刈った髪は闇夜のように黒く、ぎろりとこちらを睨み下ろす琥珀や蜂蜜のような色の冷たい視線に、兵士が臆したことに気付いたのか、神官の女性の方が緩く手を挙げ、やんわりと答えた。

「わたくしの護衛です。女の一人旅は、中々に物騒ですので」

「は、左様でございますか」

「あとは、杖とか、目とか、色々なものの代わりをしている詩人です」

「はあ……?」

 その姿に似合わぬ職業を最後に出され、訝し気に顔を上げた兵士に、女性はまた口元を緩ませ――僅かに自分の頭巾をずらして目元までを見せた。その下に見えた彼女の顔に、兵士がはっと息を飲む。

「これこの通り、わたくし一人では、歩くのも難儀をしますので」

「た、大変失礼いたしました! どうぞ、お通り下さい」

 さまざまな様相の旅人達を見てきた者でも、一瞬悲鳴を飲み込んでしまう程のものを見てしまった兵士は、慌てて平身低頭して不敬を詫びる。女性は気にした風もなく、すっと頭巾を直してからやはり口元を緩めたまま、すいと虚空に手を差し出す。一歩前に出た黒髪の男が、その手を支えるように取った。

「では、この街の神殿で祈りを捧げた後、北へと参ります。どうぞよしなに」

「は、はい」

 そうして、二人の男女は去っていく。恋人や夫婦のような甘さは無く、まるで主人と従者のようにゆっくりと。それを見送りながら兵士達は、ひそひそとさざめき合う。

「俺、聞いたことあるぜ。辺境を中心に巡礼をしている、金陽神の祝福を受けた神官様の話を」

「じゃあ、彼女の目はやっぱり――」

「貴様等、さっさと次の仕事に戻れ! 列をこれ以上伸ばすな!」

 すぐに隊長格の男に叱られて話は終わったけれど、何処か尊敬と同時に怯えを込めた眼差しで、兵士達はかの二人を見送った。



 ×××



 沢山の人が行き交う市街地へ入ってから、黒髪の男がぼそりと呟いた。

「物騒だと、確かにな。お前自身が一番だ」

「人聞きの悪いこと。わたくしはお前と違い、他者を徒に傷つけるような真似はいたしません」

 男に手を引かれながら歩く神官の女は、やはり笑みを頭巾の下から浮かべたままさらりと言い放つ。男は眉間の皺を寄せたまま、他人が聞けば不可解に思うことを、気にした風もなく続けた。

「俺の身体を八つに切り裂き、そのうち七つを焼き尽くしたのが、物騒で無くて何と言う」

「そうでもしなければ、お前は止まらなかったでしょう。百足は御器噛(ごきかぶり)の次にしぶといのだから」

 チッ、と音を立てて男が舌を打ち、女は微笑んだまま。体格差は歴然としており、彼の手首で彼女の首をあっさり折ってしまえる程の力の差がある筈なのに、男は不本意さを隠さないまま女に従っている。

 この奇妙なふたりはそのままゆっくりと街中を歩いていき、八柱神が奉じられている神殿へと辿り着いたところで、漸く男から手を解いた。

「さっさと行ってこい」

「まだ改宗する気になりませんか。説教し甲斐の無い」

「調伏される方がまだマシだ」

 吐き捨てる男にふふふ、と笑い、それでも彼が肩を押して誘導した方向へ真っ直ぐ進む。神殿の扉は沢山の参拝客が訪れる為大きく開かれており、神官の装束を纏っていれば制止されることは無い。

 そして、中に入れば神の気配が濃い場所は解る。祭壇であろう場所の前で膝を折り、彼女は半分顔を覆っていた頭巾を解いた。

「うっ――」

 他の巡礼者や、この神殿に勤める神官ですら、その姿に呻く。今まで一度も己の目で見たことは無いけれど、自分の姿は他者が悲鳴を上げるほど悍ましい代物であると、彼女は経験から良く知っていた。しかし同時に気にした風もなく、笑みを浮かべたまま手指を組み、己が信奉する神へ向かって祈りを捧げる。

「始原神が長子、天の央を統べる輝き、金陽神アユルス様へ、僕カッサンドラが奉じます。遍く世界を照らし、光と温もりを与える慈悲深き御方。わたくしに試練を乗り越える御力をお与え下さったことに感謝を捧げ、どうか行く末を誤らぬよう導を戴くことを願います――」

 母親の腹から生まれた時点で、彼女の全身の肌はまるで熱した油を被ったかのように焼け爛れ、両の瞳も視力を失っていたという。本人は当然全く覚えていないけれど、彼女の両親はそれを病かはたまた神の怒りかと驚き畏れ、彼女を神殿へと捨てていった、らしい。

 幸いなことに、その神殿を治めていた神官は敬虔な神僕であり、カッサンドラに与えられたこの傷は神の祝福であり試練である、と彼女に説いた。成程と、彼女自身も納得した。己の焼け爛れた肌は、神に祈りを捧げ治癒の奇跡を使っても全く治すことは叶わなかったが、痛みを感じたことは一度も無く、生きることに支障は無かった。神に祈って得られる奇跡の力も、他の神官よりもかなり強いものだということが解ってからは一層励み、精進した。何かを得れば何かを失うのは、この世の真理であると神の教えにも刻まれているのだから。

 目を潰されたことも、悍ましくなった己の姿を見ずに済むよう、という慈悲なのかもしれないと思った。何せ顔を晒すと、大抵の子供には泣かれて大人には気味悪がられ、下手をすれば石を投げられた。

 流石にそれには反撃するぐらいには、ふてぶてしく育った自覚はあるけれど、育ての親を亡くしてからはすぐにその神殿を出て、巡礼の神官として各地を回る道を選んだ。神の教えを世界に広げ、魔の障りを祓える力が己にあると解っていたし、他者と深く関わることが煩わしかったことも理由の一つだった。

「――おい、まだか」

「おや、わざわざ神殿に入ってきたのです? 鳥肌が立っているでしょうに」

 いつの間にか、隣に蟠る黒い気配。これとの付き合いも、気づけば随分と長くなった。今は人の形と似たような姿を取っているらしいが、本当の姿も見たことが無いのでカッサンドラは気にしていない。

 十数年前、数多の街や村を襲い、病毒を振り撒き、家畜も人も食い荒らす巨大な百足の魔が出ると聞き、ならば退けましょうと彼女は請け負った。それだけの力を神から与えられているという自信と自負があったので。

 事実、山に巻き付ける程の巨大な百足の大顎の前に、堂々とその姿を晒したカッサンドラは、祈りによって金陽の光を顕現させ、大きくのたうつその体を糸より細くした光で八つに切り分け、一つずつ念入りに熱光で焼き切った。最後の一つを焼く時に、命乞いをされたのだ。――約定を提して縛れば、お前の望みを聞いてやると。

 少し悩んだが、魔がそう簡単には死なないことは知っていたし、それで被害が収まるのなら良いだろうと了承した。そして彼に命じたのだ――

「貴様が命じたのだろう。貴様の杖と、目になれと」

「ふふ、一つ抜かしていますよ。わたくしにこの世界を教えるための詩人になりなさいと」

 言い返しつつも祈りは終えたので、ゆっくりと立ち上がりながら手を伸ばす。触れる手はひんやりとしていて、人や獣の熱を感じない。一度も見たことは無いが、きっと黒い体毛と金色の目をしているだろう。それが、四地神が混沌に立てた波より生まれた魔の証だから。

「では参りましょう、アーグ」

「名を縮めるな。不愉快だ」

 暴食に執着する百足の真魔、今は人に身を窶しているアーガマヌゼーバを縮めて呼んで、微笑んだままカッサンドラは再び歩き出した。


 

 ×××



 アーガマヌゼーバはこの只人の女を嫌悪している。そも、人など自分の餌の一つとしか思っていなかったのに、明確に嫌う存在となってしまったところから腹立たしい。

 己の身体を熱線で切り刻まれ、全て焼き尽くされそうとした時に、それを齎そうとする神官が、火傷に塗れた口元に微笑みを浮かべたままだった時。間違いなく己の内に湧いた感情は恐怖だった。真魔の魂が怯え慄くのは死に近づくに等しい。咄嗟に、生き残るために、約定を提示した。

 魔は約定を必ず守る。正確には、自分が結んだ約定を反故にした時、己への矛盾で魂が傷ついてしまう。だからこそ、これが魔を従える手段であると提示することで、神の僕達の足元を掬う。不完全な約定を結び、逆に魔に絡め取られるのが、人の常である筈だった。アーガマヌゼーバもそのつもりで、命乞いをしてやったというのに、この女は。

『……どうしましょう。そんなに大きな体では、巡礼の邪魔だわ』

『ならば、身を小さくしよう。人の振りをしても良い』

『そうですね、では――まずお前は、語彙を増やしなさい』

『は、』

『わたくしの目として、そして杖として勤めなさい。お前が見たものを遍くすべて、このわたくしにお伝えなさい。ああそうだわ、詩人になるのは如何かしら』

『何を言って――』

『約定を結びましょう、百足の真魔。わたくしはカッサンドラ、金陽神アユルス様にお仕えする僕です。――お前の名前は?』

 掌にアユルスの光をとどめたまま、虚空を眺めながら笑顔で告げる、火傷塗れの姿を見て、漸くこの女が盲目であることに気付いた。あれだけ正確に、己の身体を切り刻んでおきながら。

 腹立たしいし、恐ろしいし、己では勝てない相手であることが解ったからこそ、この女の約定を飲むしか無かった。結果、窮屈な姿に変わって、この女と共に只管世界を歩き回る羽目になっている。

 勿論、永遠とも言える時を生きる真魔に対し、人の一生など百年を超えることは極稀。人の約定に縛られるのも瞬きの間だ。約定の期限は彼女の命が尽きるまで、ときちんと釘は刺している。

 いつか必ず自由が手に入るのならば、後十年、或いは二十年としても、ただ一時の気紛れ。ならば、顎で使われることにも我慢できなくもない。

「――あら、いい匂いがしますね」

 街を抜けて、古びた街道を歩いていく内、不意にカッサンドラが口を開いてするりと手が離れた。何かと思ったが、彼女は足を止めたまま、僅かに鼻先を蠢かせている。目が見えない分鼻と耳が利く彼女は、確信を持って呟いた。

「蜂蜜の匂いがします。近くに大きな蜂の巣があるのかしら。アーグ、探して頂戴」

「……いいだろう」

 この女の命令を聞くのは非常に、非常に不本意だが、大きく育った蜜蜂の巣は美味い。中に入っている幼虫も、詰まった蜜も。自然と舌舐めずりをして、女の手を再び取ると街道を外れ、森へと入る。やがて真魔の鼻と耳にも、蜜の匂いと何やら人の話し声が届いた。

「誰かが、もう見つけてしまったのかしら?」

「殺して奪うか」

「およしなさい、短絡的な。それは最後の手段です」

 下生えを掻き分け森を進むと、声は数人のものがはっきりと聞こえてきた。アーガヌマゼーバが本性を出さずとも、簡単に制圧できるだろうが――

「気を付けろ、眠りの浅い蜂が残っているやもしれん」

「おとさん、おかさん、これおっきいねぇ!」

「すげー、こりゃ全部持ってくのは流石に無理だぞ」

 暢気に言葉を交わしながら、木の幹の中に詰まった蜂の巣を穿り出そうとしているのは、随分と珍しい取り合わせだった。只人がひとり、竜人がひとり、巨人がひとり。どんな集まりだ、と流石の真魔も驚いた。種が違えば相争うのが普通である筈なのに、と。

「では、蜂の命を無駄にしないためにも、おすそ分けをいただけないかしら?」

「へ?」

「――何奴」

 そして自分よりも先に、図々しい女が声をかけてしまった。只人が驚いたように顔を上げ、巨人の子供はその後ろに隠れ、恐らく一瞬前に気付いたらしい龍人が杖の先を向けてくる。

 今この場に居るものを全て平らげるのは簡単だが、己の魂を握った女がにっこり笑って彼らに近づいていくので、非常に不本意ながら、戦う意思は無いとアーガヌマゼーバも片手を上げて見せた。

 


 ×××



「意地汚い口で、申し訳ございません。甘いものなんて久しぶりなもので、ついつい匂いに誘われてしまいました」

 突如現れた女は、そう言ってにこりと微笑みを見せた。顔は神官の頭巾に覆われて口元以外はほとんど見えないが、ちゃらりと鎖の音を立てて掲げて見せる神紋章は本物に見えたので、スヴェンは手を伸ばして赤紫鱗の杖を下げさせた。

 先程街道を歩いている時に、道端に咲く花へ蜜蜂が集っているのを見つけたので、その内一匹へ目印の毛糸を巻きつけ、後を追った。

 思った通り、木の洞の中にかなり大きな巣があり、赤紫鱗の術で蜂を眠らせ、如何にか穿り出した時に、奇妙な二人組に声をかけられたのだ。

 大仰な鎧を纏った黒髪の男と、巡礼のローブを纏った女神官。珍しいが、旅の神官は漂泊の民にとって有難いものだ。彼らはその巡礼の際、出会う者に貴賤なく奇跡を施すことを功徳としている。少人数で巡礼をしているのならば尚更、傷を癒し、病毒や魔を退ける奇跡の実力が高い神官であるだろう。つまり、逆らうのも危険な相手ということになる。緊張を堪え、あくまで敬意を見せてスヴェンは続けた。

「構わねぇよ、神官様。こんなに食いきれないしな。ほら、旦那も落ち着けって」

「……神の尖兵であるか。戦う意思が無いのならば、了承した」

 従って杖を下げつつも、赤紫鱗が鼻面に皺を寄せて不機嫌なのは、只人の神官には自分達の祈り――つまり竜に対しての信仰を否定する者がいると知っているからだろう。今までの経験から、警戒せざるを得ないらしい。ただ、護衛の男が強そうなのも含め、神官に逆らうのはどう考えても悪手だ。少し我慢をしてもらうしかない。

 そんな自分達を見て如何思ったのか、頭巾を目深にかぶった女神官は、柔らかな声であくまで朗らかに告げた。

「感謝いたします。アーグ、三人いらっしゃると思うのだけど、どのような方々かしら?」

「只人がひとり、竜人がひとり、巨人がひとり。竜人は術師だ」

「――我等を見透かすか、不躾な」

 そして、不愛想な男の方が朴訥に呟いた言葉にスヴェンも驚く。見目だけなら人とほぼ変わらないモルニィヤを、一目で巨人だと見抜いている。赤紫鱗も彼らが只者ではないと改めて感じたのだろう、杖を構え直してしまう。

 緊張感が走る森の中、ふう、と神官の女が呆れたように息を吐き、男の手の甲をぎゅっと抓り上げた。痛そうでは無かったが、至極不満げに男が自分よりも頭一つ背の低い女を見下ろす。女は視線をこちらに合わせず宙に向けるように仰のいたまま、少し非難を込めて連れへと向けた。

「なんて情緒の無い伝え方でしょう。もう少し、他人様の表現に気をお使いなさい。それでも詩人の端くれなのかしら?」

「――チッ」

 男が不貞腐れたように舌を打ち、そっぽを向く。確かにその背には小さな竪琴が背負われており、本職は詩人なのだろうか。俄かには信じがたいと思っている内、神官が一歩前に出てから深々と頭を下げた。そして、頭巾をするりと脱ぎ、晒した顔に今度はスヴェン達が息を飲む。

 彼女の顔は、火に思う様焙られたような、或いは熱した油を頭から被されたような、酷い火傷に塗れていた。顔だけでなく頭皮すら斑に焼かれ、本来美しかったであろう金の髪は疎らにしか生えていない。特に酷いのは瞳の周りで、傷口のようになった瞼の隙間から覗く瞳は白く濁っており、その視線は定まらない。間違いなく、彼女の瞳に光は届いていないのだろう。

「お見苦しい様をお見せして、申し訳ございません。この通り、わたくしの光は全て金陽神アユルス様に捧げられ、あなた方のお姿を拝見することが叶いません。その為、この言葉足らずに伺うしかないのです。失礼を重ねたこと、改めてお詫び申し上げます」

 斑の頭皮と髪を晒し、再び頭を下げる女の姿に、全く悲壮感はない。ただ、やむを得ない事情がある故、連れの言葉の不躾さを詫びると言いたげに。赤紫鱗もその意志を感じ取ったのだろう、僅かに顎を引き、杖を引いて立てた。

「――貴様の謝罪を受け取ろう。我らが竜への祈りを否とせぬのなら、我も貴様の神への祈りを否とせぬ」

「御心広いお言葉、感謝いたします」

 どうやら緊迫した空気が緩んだようで、スヴェンもそっと息を吐く。すると、ずっとスヴェンの肩に捕まって背に隠れていたモルニィヤが、おずおずと声を上げた。

「……おねぇちゃん、かお、いたくないの?」

 泣きそうな声で、恐る恐る問う。子供にとって、彼女の姿は恐怖と痛みを覚える代物だったのだろう。スヴェンが宥める前に、神官は笑顔のままゆっくりと首を横に振った。

「御心配をありがとうございます、お嬢さん。生まれつきですし、一度も痛いと感じたことはございませんから、ご安心を。色々と失礼をいたしましたし、元はあなた方の見つけた蜂蜜ですから、対価を払わねばなりませんね……そうだ、神殿謹製の牛酪(バター)はいかがでしょうか?」

「……悪くはねぇな。神官様に集ったら、バチが当たりそうだけどよ」

 油紙に包まれ、きちんと神殿の印を押された牛酪は漂泊の民の身では滅多に手に入らない高級品だ。それを差し出されれば、これ以上争う理由は何一つなくなった。見つけた蜂の巣は本当に大物で、三人で食べきれない分を放っておくのは、やはり勿体なく思えてしまうので。


 

 ×××



 木の皮と蜂の唾で編み上げられた六角形の巣を、赤紫鱗の爪でめぎりと割る。巣の中で眠っている蜂が起きればあっという間に刺されて大惨事の為、出来る限り集め、袋に詰めて池に浸す。その内、大きな蜂だけは赤紫鱗がより分け、藪へと放していく。女王が生き残れば、また巣を作るからだ。

 スヴェンは手持ちの瓶を出来る限り開けて池で洗い、巣から垂れ落ちる蜜を遠慮なく詰めた。これで暫くは甘味に困らないし、疲れた時や喉を傷めた時の薬にもなる。蜂の子も非常食になるので、遠慮なく串で穿る先から鍋へと落とした。

「おい、巣蜜を寄越せ」

 そこで、黒髪の男が不意に巣へと手を伸ばし、止める間もなく金色に輝く巣の部分をめしゃり、と毟り取った。六角形の中全てに蜜が満たされ、入り口が乾いて固まっている、そのまま齧って食べることが出来る部分だ。男は全く遠慮なく大口を開けて、手の中の巣蜜を全部頬張った。警戒心を無くしたモルニィヤと手遊びで遊んでいた女神官が、暴挙の気配に気づいたらしく顔を上げた。

「こら、アーグ。抜け駆けをするのではありません」

「対価はもう払っただろう」

「わたくしにも寄越しなさいと言っているのです」

 やはり巡礼するだけの実力がある神官だ、割と彼女も良い性格をしているらしい。確かにこんなに大きな巣蜜が手に入るなど滅多にない贅沢だ、スヴェンも全部食われるわけには行くまいと、ナイフで旨そうな部分を削り取り、モルニィヤの口元へと持っていく。

「ほら、お前も。これ食えるぞ」

「あー……んんん! ほいひぃいい!!」

 躊躇わず口を開けた娘がじゃく、と巣蜜を齧り、その美味しさに歓声を上げる。スヴェンも笑って、次は蜂の始末を続けている赤紫鱗へ差し出した。

「旦那も食うかい」

「ふむ、貰おう。――美味也」

 こちらも手より先にがぱりと口を開けたので、大きな舌の上に残りの半分を放り込んでやる。もう大分機嫌は直ったようで、先刻の緊張は見せていない。安堵を覚えつつ、最後の一欠けを自分の口に放り込むと、じん、と喉が痺れるぐらいの甘さに唾が溢れた。次はいつ食べられるかも解らない天然のご馳走だ、しっかり舌の上で転がしてゆっくり味わった。

 持ち場に戻ると、アーグと呼ばれた男が根負けしたのか、小さな巣蜜の欠片を手ずから神官の女に与えていた。

「うぅん……これは美味しいですね。鳥獣女神スプナ様へ感謝を」

 うっとりと頬を抑えて微笑む傷だらけの女と、忌々しそうにしつつも逆らわない男。一体どういう関係なのか、好奇の虫が騒ぎ出すのを堪え、竈に火を灯した。次に歩き出す為に、必要な仕事は幾らでもあるのだ。

 蜂の子は虫の中ではかなり美味い部類に入る。巣から穿り出した虫を沸かした水で茹でてから、襤褸布の上に広げてちゃんと水気を取る。先刻貰った牛酪を空にした鍋にたっぷりと落とし、蜂蜜と一緒に溶かした中へ蜂の子を戻してじっくりと炒める。牛酪はただの油よりもこくがあり、様々な料理に合うが、日持ちはあまりしない。少々勿体ないが、ここ数日で使い切ってしまった方が美味しく頂けるだろう。

「おかさん、いいにおい!」

「んぉ、」

 どふん、と暇になったモルニィヤがまあまあの勢いで背中にくっついて来た。本人も手加減はしているらしいが、前より力が強くなってきた気がする。ちわちわと熱で泡立つ牛酪を興味深そうに見つめる少女が、口元からたらりと涎を漏らしたので、苦笑して串の先に一匹蜂の子を刺す。いつも通り、毒見代わりに自分が一番先だ。ぷちりと口の中で潰れて、牛酪に負けないぐらい濃厚な中身が噴き出る。蜂蜜の甘味と牛酪の塩味が合わさり、非常に美味だ。我慢できないとばかりに足先をばたばたさせているモルニィヤに次の一匹を差し出す。

「ほら、熱いぞ」

「んん、たべる! はふ、んん……! ほいひぃ!」

 一応の注意もどこ吹く風で、ぱくんと一口で食べた幼虫を噛み締め、嬉しそうに青い目を輝かせている。満足したらしく彼女は背から離れ、女神官の元へと戻っていく。彼女があれだけ懐いているのならば、あまり心配はあるまいとつい思っていると、次は隣にずいと濃い色の鱗で包まれた鼻先がやってきた。

「出来たか」

「大体はな。ほいよ」

「忝い。――美味也」

 言いながらひょい、ともう一匹の蜂の子を相棒の口の中に入れてやると、満足げに頷いて喉を鳴らし、踵を返した。まだ自分の作業が終わっていないのに、わざわざ抓み食いに来たらしい。むず痒い口元を堪え、水分が無くなるまでと鍋の中を掻き回していると、モルニィヤに手を引かれて女神官までやってきた。

「おかさん、おねぇちゃんにもちょーだい!」

「本当に、美味しそうな匂いですね。おひとつ頂いてもよろしいかしら?」

「ああ、勿論。あんたの牛酪のおかげで作れたしな」

 どうやら今日の食事の美味しさをモルニィヤから伝えたらしく、頭巾の下から覗く口元はにこにこと微笑んでいる。流石に神官相手に串先から渡すのはちょっと気が引けるので、荷物から出した皿の上に数匹、火の通った蜂の子を取って少し冷ましてから、差し出――そうとすると、横から男の手で取られた。

 いつの間にか近くに来ていた黒髪の男は、非常に不機嫌そうな顔のまま、彼女の手を取りその上に皿を渡す。彼女も当然のようにもう片方の手の指先で皿の縁を撫で、まだ湯気の立っている蜂の子をひとつ指で抓み、躊躇い無く口に入れた。虫を忌避する女はそこそこいるらしいが、旅をしていればよく手に入る食材でもあるし、そも彼女は盲目なのだから見た目の気色悪さに拘りなど無いのだろう。静かに噛み締めると、露にしている口元がゆっくりと持ちあがる。

「うん! これは美味しいですね。ほらアーグ、お前も施しをお受けなさい」

 そう言って、女はもう一匹の蜂の子を手ずから抓み、気配のある方向は解るのだろう、男へと差し出す。勿論口元からはずれてしまっているのだが、男の方は躊躇い無くその手首を掴み、女の指先に齧り付いた。蜂の子どころか、指まで食い千切らん勢いで。

「いかがです?」

「量が足りん」

「さもしいですよ」

 勿論本当に食い千切ったわけではないが、蜂蜜と牛酪に汚れた女の指が、ずるりと赤黒い舌で舐めしゃぶられる。女は動揺の欠片も見せなかったが、如何にもこちらの尻の据わりが悪くなる光景だ。思わず幼い娘の方を見てしまったが、どうも彼女は黒い男のことは少し怖いらしく、駆け足で赤紫鱗の方に逃げてしまったし、その相棒も気にした風もなく蜂に弔いを捧げている。気まずくなっているのは自分だけのようで、安心したような悔しいような複雑な気分だ。目の前の女神官も全く気にした風もなく、ぺこりとスヴェンに向けてまた頭を下げてきた。

「本当に美味しかったです、感謝を捧げます。代わりと言っては何ですが、こちらもまた一つ返礼を。こちらの壺に、蜂蜜を半分と、いっぱいの水を戴けませんか?」

「……ちょっと待ってな」

 不思議に思ったが、絞り切れない蜂蜜はまだまだあるので問題は無い。言われるままに差し出された素焼きの壺に蜂蜜を半分、水をなみなみと入れてやった。地面に置いたそれの前に座り込んだ神官は、それを長い匙でぐるぐるとかき混ぜながら、美しい声で祝詞を捧げだした。

「始原神が長子、天の央を統べる光、金陽神アユルス様へ、僕カッサンドラが奉じます。病毒を退け、活気を施し、幸福なる門を開く、溢るる黄金色の一滴、我等が舌へと降らす慈雨をお与え下さい――」

 彼女の持っている匙がぼわりと光を灯し、壺の中身へ光の帯を流し込んでいく。それはとろりとした、黒髪の男の瞳よりも濃い黄金色を湛える液体となり、甘さとは別の芳醇な香りを醸し出した。

「……こんなものでしょう。うん、美味しいです」

 一匙掬った液体を口に含み、満足げに女は微笑む。そしてもう一匙掬ったものを、良ければどうぞ、とスヴェンへ差し出してきた。後ろで黒髪の男が物凄い目で睨んでいる気がするが、下手に突いても面倒さは変わらなさそうなので、気づかないふりをしながら匙を指で抓み、先端を口に含む、と。

「……!? これ、酒か!?」

 驚いた。ただ甘いだけの水かと思いきや、僅かな酸味と喉を焼く苦みが液体に備わっている。その三つが混然一体となり、同時に蜂蜜の香りが鼻を擽っていく。勿論甘味が一番強いのだが、後味はすっきりとした辛口の酒に近い。初めて味わう美酒に、思わずスヴェンも壺を覗き込んでしまった。

「ええ、アユルス様の奇跡により顕現した蜂蜜酒です――と、言いたいところですが」

 えへんと胸を張ってから、まるで内緒ごとのように神官は身を縮め、ひそひそと囁いた。

「実は水と蜂蜜を混ぜた壺を、歩いて揺らすだけで出来るのですよこれは。暖かければ二巡り程、寒ければ四巡り程かかるところを、奇跡によってそれを速めただけです」

「マジかよ!」

 そんな簡単に酒が出来るのか、と食いつかざるを得ない。酒と言えば穀物や果実を潰し、長い間樽などに込めて作るもので、大抵の作り方は秘されている。一つ所に留まれない漂泊の民が手に入れるのは非常に難しいものだ。長い道行の楽しみが一つ増えたことに、スヴェンは快哉を上げざるを得なかった。

 

 

 ×××



 大物の巣を全て解体した頃には、日が沈み切っていた。必然的に焚火を囲み、森で夜を明かすことになる。

 神官の女は更に祝詞を唱え、ほのかに光る天蓋で森の中の広場を覆った。悪いものが近づけば解る結界と説明をされた。赤紫鱗が野営の時に刻む、鳴子の術のようなものらしい。彼の方も、己の術が節約出来るならば良しとしたのだろう、何も言わなかった。

 神官の作った蜂蜜酒は全員に振る舞われたが、やはりモルニィヤには早すぎたようで、別に作って貰った蜂蜜水をちびちび飲んで満足していた。蜂の子の牛酪炒めの鍋も空にして、女神官に色々な物語を聞かせてもらい、すっかり懐いてしまった。今は幸せそうに寝入っている。

 ……大抵の神官は傷を癒す奇跡を得ている、ということを、スヴェンはモルニィヤに教えなかった。もしそれを知っていれば、彼女は女神官にスヴェンの焼き印を癒してくれと訴えただろうし、そうしたら盲目の神官に自分が罪人だという事もばれてしまっただろう。

 流石に秩序神の神官で無ければこの場で裁かれるまで行かないだろうけれど、咎められるのは確実だ。連れの男は興味が無いようだし、赤紫鱗も知っているだろうに、この印を癒すのは己の使命であると心に決めているからだろう、何も言わなかった。スヴェンは一人胸を撫で下ろしている。

 その女神官も、モルニィヤが夢の世界へ旅立ったことを笑顔で確認してから、自分の杯を干し、夜は休む時間ですよと一人、少し離れた木の下で毛布に包まり眠り始めた。男の方が寝ずの番をするらしく、その傍に腰を下ろしている。

 スヴェンも教えて貰った手法で酒を作ろうと、瓶の一つを開けて蜂蜜水を作っていたのだが、向かいに座った赤紫鱗が手元に杖を置いたまま、何処か気を張っているように見えたので、手を止めて瓶の蓋を閉めた。

「旦那、何か気になることでもあんのかい?」

「……もしや貴様、気づいておらなんだか」

 驚きと呆れが半々の瞳でじろりと睨まれ、流石にこちらも眉間に皺を寄せる。蜥蜴人の五感の鋭さは知っているし、自分が彼に鈍いと思われていることも解ってはいるが、割と人の機微を読むのは得意な方なので納得はいかない。

「んだよ、何があるってんだ」

「――黒毛金目は魔の証。只人はそれを知らぬとでも?」

 きっぱりと言い切られた言葉に、思わず視線を動かす。焚火から離れた所に座っている黒髪の男は、まるで闇に半分溶けているかのように気配が薄く、その瞳は――ずっと横になった女に向けられているので、色は今判別できない、けれど。確かに蜂蜜酒のような、金色の瞳だった筈。

「……いや、いやいや。そんなん只の御伽噺だろ?」

 実際、黒髪も金目も、そんなに珍しい特徴ではない。そのどちらも併せ持った人とて、普通に居るだろう。そう思って一笑に伏そうとするのに、赤紫鱗は緩く鼻先を振った。

「黒毛だけならば良い。金目だけならば良い。だが、併せ持つはならぬ。邪神とその眷属が携えし黒毛金目は、全ての魔が追随し欲すものであるが故に」

 はっきりと言い切り、油断の無い視線を闇の中に向けながら、赤紫鱗は尚も続けた。

「モルニィヤも気づいていたが、あの神官の方が力が上だとも解ったが故、そちらに懐いていた。しかし魔はこちらの心の隙間を突き、奪い侵し蔑むもの。警戒を解くこと罷りならん」

 そこで言葉を切り、自分の盃をぐいと呷る。どうやら蜂蜜酒はお気に召したらしいが、その程度で悪酔いすることもなく、彼が本気であの男を魔だと思っているということは、理解できた。

 しかし、スヴェンにとって魔とは、蜥蜴人や巨人と同じく、御伽噺に出てくる空想上の生き物としか思えない。……いや、実際漂泊となって後者の者達には出会ってしまったのだから、逆にあり得るのか? と思考が変な方向に飛んだので、自分も杯を全て飲み干して晩酌は終わりとする。

「じゃあ旦那、今日の見張りは先に任せていいかい?」

「む――致し方無し。承ろう」

「はは、頼むぜ」

 とても信じることは出来ないけれど、信頼を込める代わりに火の番を押し付けることに成功して笑う。横になる時、ふともう一度神官達の方に目を向ければ、金色の光が夜闇に紛れてこちらを見たような気がして――背筋が震えるのを気のせいとして、スヴェンは自分の毛布に潜り込んだ。


 

 ×××



 何事も無かったように、あっさりと朝は来た。互いの荷物を片付けて、二組の道は分かたれる。

「このまま森を西に抜けて、集落へ向かおうと思います。あなた方は?」

「俺達は街道に戻るさ。目当ての物は手に入れたしな」

 女神官はやはり穏やかに微笑んだまま、スヴェン達の道行とは別の道を選ぶ。巡礼なのだから、出来る限り人里を回るつもりなのだろう。当然、漂泊の民は余程の理由がなければ集落へ足を向けない。

「では、ここでお別れですね。大変お世話になりました。少しでもお役に立てたのならば、幸いでございます」

「構わねぇよ、いいこと教えて貰えたしな」

 実際、牛酪と蜂蜜酒の作り方だけで、充分過ぎるぐらい貰っている。赤紫鱗の警戒は未だ消えていないようだったし、ここらで離れるのが良いだろう。モルニィヤは寂しそうだったが、歩く先が違うと理解しているのだろう、ふたりに向けて手を振った。

「ばいばい、おねえちゃん」

「ええ、お導きがあればまた何処かで。アーグ、お前もちゃんと礼をなさい」

「知るか。行くぞ」

 男は叱られてもどこ吹く風で、女の手を取り踵を返した。……やはり自分の目から見ると、随分と女に執着している、ただの不愛想な男にしか見えないのだが、本当に魔なのだろうか。

 考えながら森の中を歩き、漸く街道まで戻ってきた時に、ぽつりとモルニィヤが呟いた。

「……また、あえるかな」

「どうだろうな。まぁ運が良けりゃ会えるだろうさ」

 根拠のない慰めだと解っているけれど、そう言うしか無かった。漂泊の民にとって、出会いと別れはどちらもただ一時のもの。その後歩く方向が同じになることは、滅多にない。……その滅多に無いことが続いた故に、今自分達は共に歩いているのだという事実に蓋をしながら。

 誤魔化し切れないスヴェンの言葉に、モルニィヤは少し悲しそうに、俯いて尚も言った。

「おねえちゃんね、かみさまにあいされてるから。もしかしたらすぐ、つれてかれちゃうかもしれない」

「……どういう事だ?」

「かみさまも、りゅうも、きにいったひとに、しるしをつけるから。いいこと、だけど、すぐ、いなくなっちゃう……」

 ぎゅっとスヴェンの服の裾を握り、悲し気に俯くモルニィヤがいつになく饒舌に喋るので、その意味を理解しようと頭を回す。そういえば、かなりうろ覚えではあるけれど、神の祝福というものがあると、別の旅の神官から聞いたことがある。

 天地を照らす金陽神アユルスの祝福は、信徒にその素晴らしき輝きを与えるが、同時に身を焼き焦がし、瞳を潰す、と。そして、祝福を与えられた者は、神に魂を捧げる為に、若くして召される者も多いのだと。祝福と言いながら随分と酷い話だ、とまだ幼い頃に寝物語で聞いたのだけれど。

「――奉じる者に仕え、命を捧ぐは誇り。それは我等も、只人も変わるまい」

 どう宥めようかと思う内に、厳しい声音で赤紫鱗は断じた。モルニィヤも解っていると言いたげに、ぎゅっと口を噤む。それが避けられぬものであると、言葉でなく魂で理解しているかのように。

「……故に、全ては竜の思し召し。それがいつ如何なる時となるか、我等が知る由も無し」

 しかし続く言葉は、どうやら彼なりにモルニィヤを慰めようとしたものらしく、スヴェンの方が先に吹き出してしまった。

「だよなぁ。死女神の招きは気紛れだって、誰でも知ってら。……お前が考えて悩むもんでもねぇよ」

「……ぅん」

 自分よりも高い位置にある青い頭をくしゃくしゃ撫でて、こく、と頷いたのを確認してから離した。返す刀で相棒の肩もぽんと叩いてやる。

「ほら、さっさと行こうぜ。お互い生きてたって、会うも会わないもただの運だけだ」

「然り。――貴様は目鼻が碌に利かぬが、真理は理解している者だ」

「一言余計だなオイ」

 もう一回、全く効かないだろうけど鱗の肌をぺしりと叩くと、ぐるぐると赤紫鱗が喉を鳴らして笑った。どうやらからかわれたらしい。戸惑っていたモルニィヤが漸く笑い、鼻歌混じりに先を歩き出したので、安堵の息を堪えてスヴェンも足を進めた。



 ×××



「昨日は大変有意義に過ごせましたね。親切な方達で何よりでした」

 カッサンドラは上機嫌に森の中を歩いていく。行き先は全てアーガヌマゼーバに任せ、その手を握り歩くことに躊躇いは無い。

 魔にとって約定は絶対。己の杖と目となれと結んだのだから、自分の行きたい場所に連れて行って貰わなければ困る。勿論相手が騙したら、その時は最後の身体も焼き尽くすだけだ。

「……貴様の面を恐れなかったのは、確かに珍しいな」

「漂泊の民は皆、脛に傷持つ方が多いですから。わたくしも似たようなものです」

 巡礼の旅は、いずれ旅立った神殿へ帰ることを良しとされているが、カッサンドラは戻るつもりは全く無い。育ての親の神官はもう寿命を迎えてしまったし、あの町にはやはり彼女の姿を奇異に捉え、恐れたり嫌ったりする者ばかりだった。行きて帰る旅ではなく、生きる為に前へのみ進む者達を漂泊と言うのなら、自分も同じだ。

 こうして祈りを捧げながら、他者の役に立ち、そして去る今の生活が、カッサンドラの性に合っている。誰と出会っても名乗りすらしない、それぐらいの重なりで良い。

 そう、誰も自分の名前など、憶えていなくて良いのだ。そう遠くない内に、この身は金陽神に捧げられ、体も魂も燃え尽きるのだから。

 親しいものが居なくなれば、どうしようもなく悲しいことを、カッサンドラも知っている。他人を悲しませるのは不本意だし、有難がられるのもちょっと重たい。

「アーグ、約定にひとつ追加をしたいのですけれど」

「名を縮めて呼ぶな。……これ以上何を望むつもりだ」

 不機嫌この上ない声を聴き、耐え切れずカッサンドラはくすくす笑って返す。

「大したことではありません。わたくしの墓標に、わたくしの名を刻まないで欲しいのです」

「……、」

 一瞬、戸惑ったような空気を皮膚に感じ、そんなに変わったことを言ったかしら、と首を傾げる。永遠を生きる魔にとって、人の一生などすぐに尽きるもの。自分が彼を殺さぬ限り、自分が先に死ぬだろう。

「別にお前に埋葬をしろ、とまでは言っていませんよ? もし誰かに墓を立てられたら、其処に刻まれた名前をちょっと削って貰えれば良いのです。大した追加要項ではないでしょう?」

「――何故だ。名とは魂に刻まれし己の証。何故其処まで蔑ろに出来る」

 成程、魔にとって名というものは随分大事なものらしい。長々しい名前だからつい縮めてアーグと呼んでしまうのだが、大抵嫌がられるし。しかしそれならば、尚更。

「自分が死んだ後も、名前だけ大仰に残るなんて、ちょっと嫌ではありません? 大したことをしておりませんのに」

「理解が出来ん」

 乗せていた掌にぐっと力を込められた。どうやら完全にこの魔は臍を曲げてしまったらしい。まあそこまで期待もしていないし、自分が死んだ後の話など知ったことでは無いのも事実。別に本気で叶わなくても構わない。

 既に祝福を得たこの体が、あと何年生きられるかは解らないけれど、カッサンドラは日々後悔無く、気楽に生きている。他人に自分の命を背負わせるのは嫌だけれど、今傍にいるのは薄情な魔がひとつきり。それはとても、自分にとって丁度いい荷物だと、彼女は思った。

「わたくしの魂がアユルス様に捧げられるまで、話し相手でも付き合ってくださいな」

「更に約定を増やすな」

「いいえ、これは約定の追加ではありません。ただのお願いですよ」

 永遠の暗闇の中、それでも解る魔の気配、更に濃い闇に向けて、カッサンドラは微笑んだ。火傷で引き攣れた笑顔は酷い有様だろうけど、この魔に対してなら充分だろう。

「アーガヌマゼーバ」

「……何だ」

「今後とも、よろしくお願いしますね」

 本心からの言葉なので、ちゃんと相手の名前を呼んでから告げる。返事は嫌そうな舌打ち一つだったけれど、それでもカッサンドラは満足した。

 




 人というものが、自分が思ったよりも脆く、弱く、簡単に命を零すことをその瞬間まで理解していなかったアーガヌマゼーバが、己を虐げ従えていた筈の女が全く喋らず、全く動かなくなった時。

 驚愕し、憤怒し、絶望して、その魂を砕け落としながら、彼女の火傷だらけの細い体を骨の一片、血の一滴まで貪り飲み込んだことを、当然カッサンドラは知る由もない。

(石碑で読む歴史/西大陸編 より抜粋)

 

 ××××年、人の手が長年入ることの無かった東端の岬に、金陽神の神紋が刻まれた石碑が建てられているのが発見された。

 他に文様は一つもなく、誰かの墓なのか、はたまた信仰の証なのか、後世の学者達の間で未だ結論は出ていない。

 神紋を取り囲むように、百足の意匠が刻まれているのも、そのような信仰が当時のマズラーヤ地域にあったという記録は他になく、謎に包まれている。

 

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― 新着の感想 ―
最初は、更新通知に舞い上がって、悪食と漂白を間違えたのかと思いました。 しかし、読み終わってみれば、このシリーズならではの、優しい物語でした。 いつもより、ちょっと悲しかったですが…。 面白かったです…
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