09:み吉野病院・戊
【2-9】
自転車を病院に停める。
あたりはしん、と静かだった。
誰もいないみたいに。
この病院とあの老医師は何十年も数え切れないほど人を救い、たくさんの人から愛されてきたらしい。
そんなパートナーが明日壊されるのだ。
み吉野さんは悲しみのあまり帰ってしまったのだろうか……
「……まさか!!!!!!」
自殺するつもりなんじゃ……!!
もしかしたらもう……
病院の中に駆け込む。
小さな男が一人立っている。
「……」
「……よかった み吉野さん、無事だったんですね!!」
「……」
「み吉野さん?」
「……」
さっきからうつむいたままで、み吉野医師は何も話さない。
10時近くで真っ暗なのに、彼の表情はくっきり分かった。
彼の顔が照らされているのだ。
俺のスマホで……
「あ! すみません、それ僕の忘れ物です!」
「…………あ、ああ そこに落ちていたよ 君のかい?」
「はい、僕のです!」
「…………そうか」
「み吉野さん?」
「……さっき君の携帯に電話がかかってきたんだ…… 夜渡橋霜鵲からだったよ」
「……?」
そうだ。俺はそれでスマホがないことに気づいたのだ。
み吉野さんは俺に向かって勢いよく走ってきた。
「え、え? え!?」
彼に何があった? 全く分からない。
頭が凍り、その場で動けなくなる。
彼は俺の胸ぐらを掴む。
「おりゃあ!!!!!!!!」
一本背負いだ。
俺の身体は宙を舞う。
ただでさえ体の小さい老医師がより小さく見える。それだけ高くに投げ出された。
そしてハエがハエ取り網で叩きのめされるみたいに、地面にたたきつけられる。
俺の身体は病院の外に放り出された。
「げほぉ!!」
地面を転がって何度も接触したからか、頬がヒリヒリを超えてジンジンする。痛い。
ガラスも破ったらしく、数か所しか切っていないが傷は深い。
だらだらと皮膚を伝ってぽたぽたと草を赤く濡らす。
俺は分身能力のせいで体力・回復力ともに一般人よりはある方だ。
でもこの状況では他の人と何ら変わらない。
俺の回復力というのは、“疲労”で弱った身体を回復するものであって、
“外傷”には何の効果も示さない。
草を彩る赤の進行は加速する。
闇の中で見えないが老医師は俺のそばにいるのは分かる。
近くで、彼のおぞましい“感じ”がするのだ!!
「み吉野さん……何でこんなことをするんですか……」
音が上から聞こえる。俺のスマホの音だ。
「プルルルルルルル……
プルルルルルr
夜渡橋です!
白露!?何かあったので……」
プツンと電話が切られ、携帯が俺の上に投げ捨てられた。
そして男は口を開く。
「秋野白露、君は情報庁の人間だね」
「違う、違います!! 僕は情報庁からある事をお願いされただけで、所属はしていません」
「黙れ、もういい。夜渡橋からの直接のコンタクトがあったんだ、お前は情報庁の人間だ」
違う。
この男は勘違いしている。
俺が夜渡橋さんの連絡先を持っているのは、彼が情報庁の人間だからではない。
夜渡橋さんは俺を死んだ両親に変わって育ててくれた。
彼は俺の父親同然の人なのだ。
父親だから連絡先を持っているのだ。
だがそんなことを知らないみ吉野大和の口は止まらない。
「これまで二人三脚で人々を救ってきた私の病院。
病院はいつだって私の大事なパートナーだった……
しかし、情報庁はそれを壊す、と決定した
私はそれを聞いて、悲しみで胸が張り裂けそうになった。
以前私の友達の病院が潰されたとき、
いずれ私の病院もそうなると思っていた。
私は情報庁に抵抗した。
結果を残せば、この病院の必要性を示せば、奴らも考え直してくれると思っていた。
私は病院を守るために沢山の犠牲を払った。
何千万もあった貯金はとうとう枯れた。家さえも金にかえた。
それでも金が足りなかった。
私は絶対にやってはいけない事をやった。
医者としても、人としてもそれはタブーだが病院のためならそれができてしまった。
いつかまた医療の力が必要になるときが必ずくる、と自分に言い聞かせながらやってきた。
でもダメだった。
結果は残せなかった。
私は悲しかった。
自分の無力さが、医療の力が要らなくなってしまい病院が追いやられて消えていく現実が。
そして、
私は憎んだ。
そんな現実を作った一人の人間が。
そんな現実を加速させる情報庁の人間が。
そんな現実に流されていく国が。
そもそも私は自分の臓器を金に換えようとした時点で人々に医療を与える資格を失っていたんだ。
身体も金も医療資格……。
本当に何もかもを失った私が何をするかなんて考えなくても分かるだろ?」
み吉野大和はゆっくりとしゃがみ込み、俺に馬乗りになって耳元でぼそりと言う。
「死ぬ前に君を殺したい。
残りの病院と医者のために、君を消しておかなければいけない」
男の二つの手のひらが頭と胴をつなぐ太い管をべったりと触る。
とうとう俺は、俺の沈黙を破った。
「……確かに
み吉野さん、あなたは沢山失ったかもしれない。
でも!!
医者は人を救う、助けるんでしょ!?
あなたが僕を助けてくれた時、僕は嬉しかった!!
そしてあなたはそれ以上に喜んでくれた!!
あなたはそうやって数えきれないほどの命を助けたんでしょ!?
人を殺せば、あなたは過去を殺すことになるんだ!!
僕はあなたにそうしてほしくない」
俺のこの言葉が彼の殺意を鎮めるのか、増強するのかは分からない。
俺は死にたくなかったのだ。
「…………ふぅぅぅぅ…………」
老医師はたんまり空気を吸って長い時間をかけてそれを吐いた。
「…………君、名前を聞いていなかったね 何て言うんだい?」
「秋野 白露です」
首を鷲掴みしていた老医師の手はずるりと離れる。
「……ありがとう」
隠れていた月の光は、俺の黒くなった血で汚れた病院の壁を不気味に照らした。
続く