処女園
まだ会社やお仕事のことなどよく知らないときに考えたストーリーで、稚拙な部分はあると思いますが。。
世の中には、生理的に受け付けない女というものが存在する。それはもう、理屈なんかではない。自分に危害を加えたからとか、意地悪をしたからとか、そういう明確な理由からでもない。漠然とした嫌悪で、その女の容貌、声のトーン、喋り方、雰囲気、全てがというか、存在そのものが癇に障るのだ。
その女、姫野桃香が、あたしにとってのそういう女だった。
彼女が、あたしの短大卒業後から約五年働いている、○△商事に派遣社員としてやって来たのは、二週間前のことだ。
ひと目彼女を見たとき、会社の人間の誰もがそうだったと思うのだけど、あたしも少なからず衝撃を受けた。なんというか、彼女には、ピンク色のオーラがまとわりついてて、周りに無数のお花が飛んでいたのだ。
大体、服装からして、淡いピンク色のツインニットに膝下までのクリーム色のシフォン素材のスカート、薄いベージュのストッキングに、ストラップ付きのやっぱりピンク色のサンダル(それは野暮ったい印象ではあったけれど、一応清潔な感じに着こなしてはいた)、姫系ファッションを売りにしている雑誌なんかではありそうだが、我が社では、黒とかグレー基調のコンサバ系やカジュアルな感じが多く、あまり見たことのないジャンルのファッションだった。
それに、陶器みたいな白い肌に、黒目がちでキラキラ潤んだ少女マンガみたいな瞳、ちょっと栗色がかったくせのあるふわふわの髪、少しぽってりとしたピンク色の唇。正直言っちゃあ悪いけど、決して、完璧な美人ではなかった。ファニィフェイスなんだけど、でもまあ微妙な(絶妙な?)バランスを保って愛らしく成り立っている顔。付け加えると、今時じゃない、なんか古くさくて、野暮ったい、顔。昭和アイドル的なにおいのする顔。だけど、やっぱりかわいいっちゃかわいいような気がする顔。
スタイルだって、足も長いとは言えないし、ふくらはぎの形もそんなに良くなくて、八頭身とはかけ離れてるし、抜群とは言えないのに、小柄で細い上に、出るとこは出てて、明らかな巨乳。全体として、まるでお人形みたいなんだった。
そして、そのお人形は少し舌っ足らずに自己紹介をし、周りにいる男どもの瞳をハートマークにさせた。
そんなに大きくない、ほどほどの中堅の会社で、アットホームが売りで、毎朝社長直々のさしてありがたくもないお言葉が長々と頂ける朝礼が終わり、女の子たちがみんな自分の机に向かっても、男どもはそのまま彼女の周りに群がり、こちらから姿が見えなくなるほどぐるりと取り囲んでしまった。
おいおいって感じ。
みんなもう十代でも学生でもないのに。理性で本能を押えきれずに、暴走しちゃうほどなのかい、って突っ込みたくもなったよ。まあ、そんな露骨な行動も、さすがによほどじゃないとありえないんだろうけど。
「何、あの子、なんかさー、すごいね。あんなに男に囲まれて、アイドルみたいじゃない?」
周りの女の子たちが少し白けたように言った。
明らかにみんな、紹介の際には上から下まで舐め回すように見て、彼女のことを値踏みしていた。姫野桃香は、典型的な、女の子に嫌われるタイプの女の子だった。まあつまり、男にモテるタイプの、男受けする女の子ってことなんだろう。でも、だからってそれだけで反感を抱いたわけでもない。
今の時代ある意味「モテ系」って言葉が定着したようなとこもあるから、モテ~を意識したコって、社内でも決して珍しくはなかったし、別にそれまであたしはそういうコたちに対して、変にライバル心燃やしたり、妬んだり僻んだりすることもなく、自分とは違う人種なのだとそれはそれで認めてってのも変な言い方だけど、特別何とも思わず、過ごしてきていた。彼女たちは意外と芯はしっかりしてて、確信犯的で、いい意味でしたたかで、ちゃっかりもしてて、女の子の友達も多かったりして、同性として尊敬する部分も多かったし。
でも、なんだか、姫野桃香に対しては、そんなんじゃなく、すごーく第六感というのか、身体の機能の一部にある感覚のどこかがざわざわして、本当に不快な気分になったのだ。なんだろう。その感じって、なんていえばいいの?鳥肌すら立っちゃってさ。動物が本能的に天敵を察知するときの感覚みたいなものなんだろうか?
気にくわなかったのは、周囲には内緒で付き合っている大石ハジメまでが、彼女に群がる男たちの群れの中に混じって、でれでれしていたってのも原因の一つとしてあるかもしれない。
それでなくとも女の子好きで、以前から油断も隙もないというか、常に見張ってなきゃホイホイ女の子のお尻追っかけちゃうようなヤツだけど。いや、まあそういう節操のなさや軽さがある種の女には嗅ぎ分けられるようで、これがまた、女も女で年がら年中盛りのついたようなのがいるんだな。そんな女のほうから言い寄られるというのが結構事実でもあったりしてさ。
でも、特別彼女、姫野桃香がヤツのタイプだったから警戒信号が鳴ったってわけでもないんだ。ヤツはホント、マジメに節操なく雑食で、選り好みせず、自分に関心持ってくれて、まあそこそこ並のルックスを保っている女なら、大抵はOKなのだ。何人かヤツの浮気相手を知っているが、みんな外見も性格もバラバラだったし、中にはそんなレベル低くていいの?みたいな、こっちのがびっくりするよって相手もあった。って、あたしも自分の彼氏の浮気相手、何冷静に評価してるんだか謎だけど、とにかく、それくらい、ヤツの浮気癖はしようもないのだった。
だけど、いつも結局許してしまうことなるから不思議だ。
入社後すぐの飲み会で意気投合して付き合い始めて、ズルズルと三年の関係はやはり簡単に手放せないほど居心地良くなってしまっているからなんだろうか。確かに、楽は楽だ。同棲はせずに週末だけ一緒の生活では、空気みたいな存在というにはまだちょっと距離がある気もするけど、一つの空間で、それぞれがゲームをしたり、本を読んだり、相手が別々のことをしてても気にならない。
お互い多少潔癖なとこがあって、トイレとか生理現象には結構気を使うとこも似てる気がするし(おおよそのカップルはそうなのかもしれないけど)どんなに長く一緒にいたとしても、相手のおならとかゲップとか平気なのとかってやっぱり理解できない。親しき仲にも礼儀ありっていうかさ。なんか、いやじゃん。あくまで恋人同士、なんだから。
あたしは、ここだけの話、経験人数が多いほうではないけれど、ハジメとは身体の相性だって合うと思う。あれって、あたし、ヤツと付き合う前まで、恋人としての義務っていうか、ある種の奉仕っていうか、ともかくそんな感覚でいたのだけど、ハジメに会ってからは違うんだな。お恥ずかしながら告白すると、自分から求めちゃう日が来るなんて、思いもしなかったよ。
しかも、ご飯だって、ヤツが作ってくれるしね。料理のできる男ってやっぱりいい!んだなあ。家事全般に関して、ヤツは学生時代から一人暮らしをしていただけあって、かなりのものなのだ。アイロンがけも得意だし。アイロンがけができる男ってのも貴重だ。たまにあたしのシャツまで洗って、ぴしっとアイロンをかけてくれる。それは、買ったばかりのときのような仕上がりで、よれたところがない。感動して思わず広げたシャツに猫のようにスリスリと顔をこすりつけてしまう。
あたしは普段アイロンを使わない人間なので、会社の女の子たちから、アイロンくらいかけましょうよー、お洋服がかわいそうですよーってダメだしされることもあるのだけど、やっぱりいざとなると、面倒くさくって、多少しわくちゃでも着れればいいじゃんって結論に至ってしまうのであった。
そもそも洗濯だって苦痛で仕方ないような人間なのだ。とりあえず洗濯機に洗濯もの放り込んで、洗剤入れてボタン押すだけなのは良いとしても、それをいちいち広げて干すのって、面倒くさいじゃん。だから、きちんと広げきらないまま適当に物干しハンガーにかけたりして、その上アイロンをかけないから、あたしが洗濯したものは、乾いても縮んでる上に、結構シワシワなのだ。
ゴミ出しも面倒だし。おかげで、あたしの家の中は若干ゴミ屋敷と化している。ヤツは、生ゴミが出たらその日のうちに必ずアパートのゴミ捨て場に捨てに行く。すぐ出さないと匂いも気になって嫌らしくて、部屋を決めるときも、当然のように二十四時間ゴミ出し可能なところをチェックして捜したらしい。あたしなんか、この間、実家から持って帰ったぶどうを食べるのを忘れて放置していたら、知らぬ間に虫が湧いていたなんて、あったなあ。さすがに慌てて、鳥肌が立つのを押えながら片付けた。
こんな女と、一緒に歩きたい、付き合いたい、同じベッドで寝たいと思う男が世の中にどれくらいいるだろうか?きっと、かなり少数派で、探し出すのは難しいと思われる。ので、まあいい男が現れたら現れたでラッキーなんだけど、あえて自ら時間と労力をかけて他の男を捜すのは最初から諦めているのだった。
いやまあ要は、基本的に面倒くさがりな上、元々恋愛にかけるエネルギー値が低いんだと思う。うん、きっとそうだ。間違いない。あんまり常に誰か側にいないと淋しいってタイプでもないしさ。一人で家でゴロゴロしてるの嫌いじゃないし。いや、むしろ好き。幸せ。お菓子をつまみながら、寝そべってマンガを読んだりする時間は、至福のひとときだ。就職と同時に実家を出て、やめなさい、そんな格好で本読んで、お行儀悪い、目が悪くなるでしょ、なんてうるさく言う親もいないしさ。
誰かを好きになって、でも、その相手が自分をいいと思ってくれるとはかぎんなくて、せっせと自分を磨いて、気に入られるようアピールして、努力して努力して、相手の言動の一つに過剰に期待したり、些細なことで落ち込んだりして、そういうの一から始めるのがきっとしんどいのだ。なんか、疲れちゃう。内心ちょっといいなと思うひとがいても、すぐにもういいや、って感じ。
だけど、浮気した相手をまた受け入れるのだって、それはそれで単純に楽ってわけではない。許す、っていうことだって、実はとてもエネルギーの要る、すごい行為なのだと思う。あたしにだって、当然毎回それなりの胸の痛みや葛藤はあるんだ。悔しいし、切ないし、苦しいし、ドロドロ、なんでこんな思いを味合わせるのって恨みがましくなっちゃうし、憎しみすら沸いたりして、あたしのこと傷つけたヤツのことなんか、絶対に許すもんか、って。でも、ある程度の時間と、優しい言葉と、平謝りやいっぱいのラブメールという誠意のある態度と、美味しいご飯と、そして、ぎゅって抱き締められたら、魔法にかかったみたいに、その冷たい胸のしこりというか、わだかまりは溶けていってしまうのだ。
あたしは、とんでもなくおめでたい人間かもしれない。
「彼女、かわいいですよね・・・。ああいうタイプって、なかなかいそうでいない気がします・・・。モテますよ、あれは絶対・・・」
不意に、隣の席の宮内信子がぼそりと呟いた。
いつも黒縁メガネにひっつめ髪にした、根暗な女。同時期に入社して三年も一緒に働いてるのに、彼女が笑ったの、ほとんど記憶にない。結構ヴィジュアルレベルの高い我が社において、あまり洒落っ気がないのもどうかと思って、入社当時、ついお節介にも心配になってしまったくらいだ。どうやらコネ入社か、資格をいっぱい持ってて、データ入力などのスキルもすごいのらしい、という噂がある。だけど、いくらメガネをやめて、髪型を変えて化粧を施しても、やっぱり彼女はあんまり変わらないというか、悪いけど、意味がないような気もした。
稀にメガネからコンタクトに変えたら、CMであるみたいに喋り方や性格まで明るくなったという人間もいるかもしれないけどさ。彼女は、生来のまとっているオーラそのものが暗いというか、微妙に澱んでるというか、失礼だけど、何だろ。貯金と宗教の布教活動が趣味って感じだし。それにまあ、本人が綺麗になって男にモテるようになったからといって、幸せとは限らない。
彼女は、一年半前、ハジメと二人で買い物に出かけ、まだラブラブな時期だったものだから、腕を組んでいちゃいちゃしているところに偶然出くわし、社内で唯一、ハジメとあたしが付き合っているのを知っている人間でもあった。あれは、ホントにひえって思わず口に出しちゃうくらいびっくりしたな。世の中って狭い。
翌日口止めする前に、何も見てませんから、と言われ、まあ広まっていないところを見ると、口は堅そうだが、何を考えているのか掴めない、謎多き人物である。
それにしても、聞き捨てならなかった。
「むう・・・・・・。確かに、微妙にいそうでいないかも・・・」
また、姫野桃香のほうに目をやると、やっぱり胸がムカムカした。周りの女の子たちも、相変わらず男にちやほやされている彼女を苦々しい目つきで眺めていた。ああ、もう見るのやめよう。そう思った次の瞬間、大石ハジメが、彼女の髪を触った。当然セリフは聞こえなかったけど、動作からすると、髪の毛ふわふわだね、とかそんな感じで。
あたしは、思わずがっと席を立ち上がると、男の群れに囲まれてる彼女の元へつかつかと歩いていった。自分で言うのもなんだけど、あたしの腰のラインはなかなかのものだと思う。子供の頃から、たまたま映画で見たマリリン・モンローに憧れて、モンローウオーク真似してたからね。ただ、あたしの身長は百六十五十センチで、まあまあ高いほうなので、その歩き方はちょっと迫力あって怖いとも言われるのだけど。
男どもの間に割って入ると、
「はいはいはい、お仕事始まってるからね~。話したければ休み時間にやってね~。邪魔、邪魔。しっしっ」
もう、超嫌な女を演じてしまった。女の子たちは、多分心の中で拍手喝采。男どもは、チッ何だよ、って、明らかにあたしのこと鬱陶しそうに睨みながら散っていった。ヤツ、ハジメの野郎も、恨めしそうにこちらを見ながら、自分の机に向かっていった。ふん。ムカつく!ばーか、ばーか。
あたしの会社での指定席には、ちょうど背中越しに西日が差す。夕方になると、あたしは誰よりも鮮やかな茜色の光に包まれるのだ。それは、神様が今日も一日お疲れ様って言ってくれてるようで、なかなかその席を気に入っていたりする。
その日、時計は夕方五時を回って、そろそろみんなが帰り支度を始め、デートの約束でもあるのか、準備の早い女の子はすでにさっさか会社を出てしまった頃、まさかまさか、信じられないことに、彼女―――姫野桃香が、とことことあたしのほうに向かってやって来て、ちょっと恥ずかしそうにしながら、ぶりぶりの甘ったるい声で、言った。
「あの・・・、すみません。朝はありがとうございました。小野寺かさねさん・・・っていうんですよね。憧れます。これからぜひよろしくお願いします」
あたし、呆然。しばらくの間、思考が停止した。そして、彼女は、はにかんで笑った。
「えへ」
えへって・・・、えへって・・・。あ、正気に戻ってきた・・・。しな作るな!しな!あたしに向かって媚びてどうするんだ。
あたしは、思いきっり無愛想に、冷たい態度を取ってやった。
「なんでお礼なんか言われるのか謎。目障りだったから追い払っただけだし」
彼女は、一瞬がんって表情を見せたけれど(それは本当に一瞬だったのだけど、あたしはそれを見逃さなかった)、すぐにまた、普通のおなごには難易度高そうな、一点の曇りもない天真爛漫な笑顔を作った。そのまま、あたしに頭を下げると、彼女は自分の机のほうに戻っていった。
「・・・なんかー、昔『ポケベルが鳴らなくて』って、ドラマあったじゃないですかあ」
ちょうど、出入り口に向かおうとして、あたしの後ろを通りかかった、一つ歳下の女の子、佐野さん、通称さのっちが言った。彼女は、常に大人っぽい顔立ちに合った、お姉さま系のきれいめファッションを押えている、社のファッション・リーダーという位置づけの女の子だった。スタイルも抜群で、モデル並みとまではいかないまでも、学生時代から続けているバレエで鍛えているらしく、適度な筋肉のついた、無駄な肉のない引き締まった身体をしていて、せっかく痩せても何ヶ月後かにはリバウンドしている子が多い中で、かなりハイレベルなビジュアルをキープしているのは尊敬に値する。雑誌の読者モデルくらいには余裕でなれそうな感じだ。その彼女は、こう分析した。
「あれに出てた祐木奈江って、役のせいでもあるんでしょうけど、同性から異常に嫌われたじゃないですか。ホント、なぜそこまでってくらい、世の女の憎しみを一身に買ってましたよね。彼女って、まあ役所も悪かったんでしょうけど、何かこう女の子の癇に障るというか、神経をイラッとさせる何かがあるんでしょうね。姫野さんって、そういうタイプだと思いません?」
彼女に嫌悪感を催したのは、あたしだけじゃないようだった。
そう、それが二週間前。時間が経つのは早い。あっという間に二週間だ。
あたしは、顔を持ち上げて、鼻をくんくんさせた。芳ばしいバターの香りと、小さく刻んだ玉ねぎとベーコンが焼けてパチパチ弾ける音がしてきた。カリカリになったベーコンからじゅわっと染みだした油が、フライパンの上に広がる・・・場面が頭の中に浮かんだ。
一LDKのマンションの一室。上半身裸でパンツ一枚の姿に浮かれた花柄のエプロンをつけた怪しいヤツ、あたしの彼氏、大石ハジメが、キッチンで鼻歌を歌いながら料理をしている。あたしは、料理が運ばれてくるのを内心ウキウキしながらも大人しくリビングのソファーに座って待ちながら、ぼんやりと彼女が我が社にやって来た日のことを思い出していた。
気づくと、なんとなく見ていたはずのテレビのクイズ番組は、すでに終わっていた。そして、最近人気のまだ十二、三歳のアイドルたちのお菓子のCMが流れていた。単体でも爆発的に売れそうな飛び抜けた子はいないけれど、かわいい子が集まると、かなり強力だ。ミニスカートをひらひらさせて、思い切り元気に飛び跳ねたりしている。微妙に若さを失いつつあるせいか、こういう本当に若い、まだ未来に夢や希望を持って、前向きに輝いている子たちを見るのってなにげに嫌いではない。
「・・・・・・姫野桃香ってさー、いくつか知ってる?」
キッチンのほうに聞こえるように、大きな声を出して言ってみた。
「何だよ。急にー」
ハジメが身体を反らせて、こちらを覗いた。
「あたしより、三個も年上なんだって。だから、もう二十八なわけ」
「だからー?」
彼は、フライ返しを片手に、首を傾げた。
「いや・・・・・・、なんか・・・・・」
「なんか、何だよー?」
「なんかさあ・・・」
「何だよ」
「・・・ぶりっこすぎない?」
いったん躊躇したけれど、やっぱり言ってみた。
「はあ?いいじゃん。別に」
ハジメはあっさりと答える。
「いいけど」
あたしは、うそぶいた。いや、いくない。いいわけない。全然良くない。あのぶりっこって何かざわざわするんだってば。ざわざわざわざわ。神経に障るんだってば。大体、あたしより三個も年上で、何が、あたしに憧れる、だよね。おかしいでしょ。どう考えても。あたしは、シワの寄った眉間に手を当て、ぺしぺし叩きながらうーんと唸った。
「姫野さんと何かあったの」
軽快そうに、できあがった料理の乗ったお皿を両手に持って運んできたハジメが訊く。
「うっ、ううん。別に。何もない。ないんだけどさあ・・・」
いや、それは全くの嘘だ。何も、というわけではない。この二週間、彼女には何かと手を焼かされてきたのだ。それまでよく派遣社員としてやってこれたなと思うほど、彼女の機械音痴ぶりは酷かった。「どうも昔から器械とは相性が悪いんです、てへっ」と言っていたが、まさに、唖然とするくらい彼女はことごとくパソコンや印刷機やエアコンやらの調子を狂わせるのだ。
その都度、上司や男どもは、怒るよりも、またか、しようがないなあと呆れたような口調をしながらも、嬉しそうに見てあげてたけど、なぜか小野寺さん、彼女のフォローお願いね、と、あたしに回ってくる仕事が多くなって、かなりいい迷惑だったのである。
おかげで、二週間、それまでの倍仕事して、多少の残業もして、それでなくとも酷い肩こり持ちなのに、さらに肩が凝った。なのに、誰もあたしのことは褒めても、慰めてもくれない。ちょっと彼女に強い口調で注意を促しただけでも、小野寺さん、そんなにイライラカリカリしてないで、と逆に責められる。まるで、こっちが悪者扱いなのだ。
まあ確かに、強く言われて半泣きになりそうな彼女の顔は小さな子供みたいで、ほんのちょっとだけ、こっちのほうが意地悪してるような気にもなったりしてさ。それがまたさらにイライラを増長させるんだけど。あくまで、彼女に悪気はないんだろうからね。あくまで。あー、天然、って、いいよね。天然って。本物の天然、か知らないけどさ。
「・・・まあ、あの歳であれって、ちょっとやばくないかな、と思っただけ」
「そうかあ?」
「そうでしょ」
「歳ってそんな重要かあ?」
「重要だよ。同じことしても自分より下だったら、年下なんだからしようがないかって許せることだってあるし・・・。逆も言えるもん」
「姫野さん、許せないこと多いの?確かに、初日から頭に糸くずつけてたし、ドジそうだけど」
ハジメは、思い出し笑いなのか、ぷくくく、と笑った。
「それであんた髪触ってたわけね。(何触ってんのかとイラっとしたけど)許せないこと多いよー。あんな仕事ぶりでよく会社来れたよねって感じ。ていうか今までよく生きてこれたよねって感じ。ありえないし。でもそれが、男たちには許されてるから、また許せない」
「まあ、しようがないだろ。かわいいんだし」
「うーん・・・。でも、そこまでとびきりかわいいってわけでもないでしょ」
「そりゃあまあ、美人でいったら、他の部署にももっと上はいるかもしれないけどさ」
「そうだよ~。秘書課の小川さんや、経理の渡辺さんには敵わないよ」
「でも、巨乳だし。俺は許す」
「何よ、それはー」
「男なら誰でも目がいくだろ。あの、シャツの膨らみ」
「いっぺん死ね!」
あたしは、側にあったクッションをヤツのいる方向に投げた。ヤツは冗談だってばーと言いながら、身体をくねらせて、見事に避けた。あたしは思わずくっと声を漏らす。
ムカつく。
気を紛らわせようと、再び、テレビの画面に目を向ける。何やらマンガが原作らしい、最近雑誌でもよく取り上げられて話題になってるドラマがやっていた。昔、学生時代に女友達とキャーキャー騒いでた俳優が出演していたけど、随分前髪をごっそり後ろから持ってきてるのがバレバレで老けたなあと悲しくなる。
「どうでもいいけど、オムライス冷めるよ」
我に返ると、目の前には、真っ黄色の卵の上に赤いケチャップがうねうねと乗り、緑のパセリがぱらぱらとふられた、料理本の見本の写真に出てくるみたいなオムライスが置かれてあった。
「きゃーん。おいしそう」
あたしは、綺麗な半月型をしたオムライスに、先ほどとうってかわって幸せな気持ちになった。早速一口すくって食べると、
「んまいっ!」
満面の笑みになる。あたし好みの半熟のふわとろオムライス。
ハジメは本当に料理がうまいのだ。学生の頃、洋食屋や中華や和食の店を転々として働いていただけのことはある。実はサラリーマンより料理人のほうが向いてるんじゃない、って思うくらいだ。新鮮で安い食材が売っているスーパーもよく知っているし、常に料理番組はチェックしていて、料理に関してあくなき探求心がある。おいしいものを食べるのが趣味なあたしには、ありがたい彼氏だ。・・・あたしって、実は餌付けされてるだけだったりして。
「かさねちゃんの食べてるときの幸せそうな顔見てるの、俺も幸せだよ」
ハジメは、あたしのほうを見て、満足げに頷く。あたしのスプーンはどんどん進む。オレンジ色のチキンライスに真っ黄色の卵が乗っかって、夢色の魔法のスプーンだ。あたしのお皿の上のオムライスは、あっという間に半分欠けてしまった。ハジメのほうは、一向に減らない。
あたしは、お行儀悪いと思いつつ、スプーンでハジメを指しながら、
「あんたも、もうちょっとちゃんと食べなさいよ。ガリガリヒョロヒョロの風が吹けば飛びそうな身体、みっともないって。骸骨の標本じゃないんだから」
あたしは、本来の好みとしては、もっとマッチョでがたいのいいのが好きなのだ。ハジメは作っている間にお腹いっぱいになるらしく、いつもあまり食べない。元々男にしては食が細いし、体質的にも食べても太りにくいタイプだ。
「最近、また痩せたんだよな・・・。うちの部署、結構仕事ハードだから」
「あー、確かに、一番過酷と言われてる営業だもんね」
「残業多いし。ストレス溜まるよ、全く」
「今度うまい具合に二人とも同じ時期に休みが取れたら、どっかそう遠くない場所に旅行でも行って、ゆっくりする?」
「いやー。実は俺、この間大型テレビ買っちゃって、金ない。まだ品物届いてないんだけどさ」
「えー、部屋狭くなるし、欲しいけど買わないって言ってなかった?」
「いや、だって、お店で見たらやっぱり欲しくなっちゃってさ・・・」
ああ、そうだ。昔からこの男は、一目惚れしちゃうともうダメで、衝動買いが多いのだった。おかげで貯金は一銭もないみたいだ。まあとりあえず、当分結婚する気なんかないんだろう。・・・別に、いいんだけどさ。別にね。あたしだって、一人の時間と空間は必要だし。
「でも、まあいいじゃないか。旅行なんか行かなくたって、こうやって、休日会って、二人でゆっくりできれば。俺はかさねちゃんと一緒にいられればそれだけで幸せなんだから」
そう言いながら、オムライスを放棄したヤツが、すり寄ってきて、背中から腕を回してきた。
「もう、何よ。調子いいなあ」
呆れたように言いながらも、心は弾む。あたしも、案外かわゆらしいとこがある。(普通、自分で言わないか)あたしは、ぎゅっとハジメの腕を掴んで、その筋張ったところは、細くてもやっぱり男なんだよなあと、しみじみ感慨に耽った。自分が女だということを改めて確認してしまう。
「・・・しかし、姫野さんかわいいよなあ。喋り方とか、雰囲気とか、すごい女の子っぽいっていうか。今時、あんまりいないタイプ。男ども、誰が彼女落とすかみんなでかけてるって話」
おーいおいおいおい。いきなり、テンション下げてくれるよ、全く。
「ちょっと!あんたは参加する必要はないんだからね」
あたしは、きっと目をつり上げて、後ろを振り返りながらそう言った。
「んなこと分かってるよ~。俺はかさねちゃん一筋だって。愛してるよ、かさねちゃあん」
あたしのほっぺたに自分のほっぺたをくっつけてスリスリしてきたヤツに、やれやれという風にため息をつき、アホかと思いつつ・・・されるがままに任せた。なんか・・・かわいいのだ。ヤツはあたしのきゅんとなるツボをよく知っている。だから、悔しい。やっぱりちょっと悔しい。
そして、あたしたちはつんくの歌じゃないけど、狭いシングルベッドの上で愛し合った。ことが済んで、ヤツに腕枕をしてもらいながら、しばらく天井を眺め、ぼーっとし、起き上がって、タバコを一服すると、ふと、ざわざわと心臓が鳴った。
「ちょっと、これでも一応信用してるんだからね・・・?裏切らないでよ・・・?」
あたしは、寝返りを打って、向こう側を向いてしまったヤツの背中に向かって言った。なんだか身体から不純物を出してすっきりしたって感じで、憎らしいくらいすうすう健やかな寝息を立ててたけど、寝たフリをしてるみたいに見えた。
姫野桃香が我が社にやって来てからずっと、会社の中は妙に色めき立っていた。学生時代の延長ノリで寝癖のまま来ることも多かった同期入社の男がちゃんと髪をセットしてきたり、どこの国籍の人間だか怪しげだった上司が、のばし放題だった髭を綺麗に整えてきたり、なんだか落ち着かない空気が社内に蔓延している日々が続いていた。
女性陣も意識しないわけにもいかず、みんな微妙に化粧が濃くなったし、美容院に行ったり、新しい通勤服を新調したんだなってのが目に付くようになった。どうでもいいけど、男も女もみんな整髪料やらの香水臭くて気分悪いんだよ、とあたしは一人でいきり立っていた。
と言いつつも、自分だって実はなにげに戦闘モードに入り、化粧が念入りになり、ちょっとした化粧崩れも気にかかって、頻繁にお手洗いに立ってはファンデーションがよれてないかチェックしたりしてしまっているのだけれど。やれやれ情けない。
その日、あたしがお手洗いの洗面台の鏡の前でコンパクトを見ながら化粧を整えていると、不意にトイレの中から姫野桃香が出てきた。げ。表情に出たかどうか分からないが、目が合うと、彼女は恥ずかしそうにぺこりと頭を下げた。そして、洗面台の前で丁寧に石鹸で手を洗い始めた。
大きな鏡の前に、二十代の女―――うら若くもない乙女が二人。むう。神様は、なんと不公平なんだろう。あたしはわりと自分に対しても客観的に判断を下せる人間だ。同じ人間とは思えんほど、顔の大きさが全然違う・・・。勿論あたしがでかい。立ち位置、同じだよね?遠近法、狂ってないよね?あたしはショートだから、髪の毛のボリュームのせいかしらんなんて言い訳もできない。しかも、あたしもわりと色白なほうだと思っていたのに、彼女と並ぶと、ファンデーションのOC1とOC3くらい、トーンと透明感も違う。おかしい。あたしのが若いのに。などと、ぶつぶつ心の中で考えてしまった。
少し前屈みになった彼女には、胸の谷間がくっきりとできている。あたしは思わず、ぺちゃんこではなく、かろうじてまあ男には間違われないだろうというくらいにはある自分の膨らみをさりげな~く片手で押えてみた。ああ、認めたくないが、女としての劣等感。いや、自分、腰のラインは最高なんだけどね。腰のラインは。
突然、彼女が、口を開いた。
「あの・・・。ごめんなさい・・・。ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
「はい?」
胸を押えた片手が恥ずかしく、微妙にずらす。
「わたし・・・。わたしって・・・・・・、どう見えますか?」
「は?」
「いえ、ごめんなさい。何でもないんです。すみません。気にしないで下さい」
彼女は真っ赤になって、胸の前で手を振った。
いやいやいや、気になるって~。どう見えるってなんだ?
疑問符が回っているあたしの横で、彼女はため息をついた。
―――何か、やなことでもあったんだろうか。
そういえば、いつもセクハラ発言をしてみんなに煙たがられてる加藤って上司がいるんだけど、朝、彼女そいつに、
「桃香ちゃんは純情そうに見えて、意外と遊んできたんだろう。男好きそうな顔と身体してるもんねえ」とか、「外はピンクでも意外と中身は真っ黒なんじゃないの。乳首もね」
なんて言われてたのを思い出した。まあその上司に限っては、今に始まったことではなく、あたしも他の女の子も散々や~な思いをしてきたわけで、まあそのうち慣れて、今ではみんなはいはいなんて笑って流してられるんだけど。最初のうちはきついかもしれない。しかし、見てる限り、姫野桃香は、そいつに何を言われても、終始ふふふと笑っているだけだった。
ふと、鏡に映る彼女の瞳が微妙に赤いのに気づいた。でもまさか、あんなことを言われたくらいで泣くわきゃないよね。
そんなことを一人悶々と考えて渋い顔をしていると、突然彼女が背伸びをして、あたしの耳元で囁いた。
「あの、あの・・・、小野寺さんだけに教えますね」
なんだなんだ?・・・・・・・・・・・・なんだ?
「秘密、ってほどご大層なことでもないと思うんですけど・・・」
何、何、何?
「わたし・・・わたしですね」
なんだ?
「実は、わたし・・・・・・、処女なんです」
はあ?
唖然としてコンパクトを床に落としそうになりながら、彼女を見やったあたしに、彼女は天使のような笑顔で、にっこり笑いかけた。横に絵文字の汗汗マークがついてる感じで、恥ずかしそうにしながら。
―――――全く、ヘンな女だ。
その一件以来、あたしの頭の中では、それまでの人生で意識したり考えたより遙かに多い、ある単語が頭の中をぐるぐる駆けめぐっていた。
処女。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・かあ。
うーん。あたしがそれを失ったのはいつだったっけ。部屋で寝っ転がって、テレビをつけたまま、ぼんやり考えてみる。全く、そんな言葉自体普段思い出しもしないのに、あの女のせいで変なこと考えちゃうじゃないか。全く、全く。
バーバパパのクッションをぼこぼこ殴る。
処女・・・・・・・・・・ねえ・・・・・・・・・・。
そうだ。何月何日なんてそんな正確な日付なんかは覚えてないけど、部屋に染みついたタバコと絨毯を焦がしたような匂いを覚えている。今にしては、遅いほうなのかな。短大時代の合コンと呼べるレベルでもない飲み会の席で知り合った男の子とだった。二次会のカラオケ解散後、普通に帰るフリをして、違う場所で待ち合わせて、お酒の勢いに任せて一人暮らしをしているという彼のマンションについていってしまった。首の辺りが綺麗な男の子だった。緊張してた飲み会でも、あたし、彼の首の辺りばかり眺めてた気がする。だから、顔はよく覚えていない。昔から、例えば担任の男の先生の喉仏が喋る度に上下するのが気持ち悪いとか思ってたのだけど、彼の首筋は芸術的なまでに神聖な感じがして素敵だった。
あまり感動はなかったな。なんだ、こんなものか、その程度だった。その男の子の名前すら、もうはっきりとフルネームでは思い出せない。多分、好きとかそういう純粋な気持ちでなく、好奇心からだったからなんだ。向こうが耳元で囁いたセリフ、会ったその日に好きになったなんてのも、まるで嘘くさいと思ったし、まるで信じてなかったけれど、けど、それでも、多分、あたしは良かったんだ。
後日、やっぱり彼からの連絡はなかった。飲み会に来たメンバーの半分以上は彼女持ちだったらしい。共学の高校出身だと、やっぱりみんな高校時代から付き合ってる子とか、いるんだよなあと痛感した。女子校だったあたしには全く異性に縁がなく、女同士で騒ぎながら高校時代の三年間を色気なく終えてしまったというのに。
高校生のときから付き合ってると、ちょうどその頃からの彼女に少し飽きたところで、他の女の子とのひとときのお楽しみや刺激を求めて合コンに来てたんだろう。きっと。彼女のほうは、まさか、恋人が知らないところでそんなことをしているとは思いも寄らなかっただろうし、安定した関係に安心しきってたに違いない。男って、やっぱり狩猟民族なんだよなあ。新しい獲物を捜して、狩りに出かけずにはいられないんだ。
処女かあ。(あまりに連呼して申し訳ない)
姫野桃香がもしそうだとしたら。よほど理想が高くて、レベルの低い、お眼鏡にかなわない男なんかには、そうそう簡単には身体を許せないとでも思っているのだろうか。白馬に乗った王子様を待ってるんです、とか言いそう、言いそう。
でも、なんでだろう。誰にも抱かれたことがないって、それはそれで不幸なことに思えてしまう。ハジメと付き合ってようやく分かってきたのだけど、やはり、あの快楽は他の感覚では言い表せないし、いや、単純に気持ちいいとかそういうことだけじゃなくて、なんて言えばいいんだろう。やっぱり、心が満たされるというか、魂が癒されるというか、充足感があって、孤独じゃなくなるというか、欠けた半身が完全になるようなというか、大げさかもしれないけど、せっかくこの世界に生まれてきて、あの感覚を「知らない」なんて、ちょっと損をしてるように思えてしまうよ。勿論相手は好きな人に限るけど。
週末、ハジメと愛し合った後、あたしは、またいつものようにハジメに腕枕をしてもらいながら、天井を眺めつつ、なんとなく、口に出して言ってしまった。
「―――ねえねえ・・・。ホントかどうかわかんないんだけどさ、姫野さんってさあ・・・、処女らしいよ・・・?」
あたしは、がばっと起き上がって、
「嘘だよね?あの歳で、ありえないよね?あたし、からかわれてるだけだよね?」
そう、自分に言い聞かせるように言ったが、ヤツは、すでに眠りモードになっていたらしく、うん?と唸っただけで、ちゃんとした返事は返ってこなかった。よほど疲れていたのか、その日はヤツのいびきがすごく、あたしは二時間ほど眠れないまま過ごした。
全く、あの身体が男を知らないなんて・・・。姫野桃香は見れば見るほど、細いのに適度にプ二プ二なお肉がついてて、男に好かれそうな身体なのだ。いやもう、本当にふくらはぎから足首にかけてのラインがかなりまっすぐで品よく、そそる感じなのだ。マジメに、たまにVネックの半袖ニットからベージュのブラの肩紐がはみ出してる(なんとなくおばさん臭くて、今時ではない感じだが)のを見たりすると、ちょっと気持ち悪~などと思いつつ、その衣服をはがしたくなる気持ちも分からんでもないなどと、意味不明な思索を繰り返したりしてしまうのだ。って、これじゃ、彼女が腰をかがめたときに、反射的にそれに合わせて顔を動かすおじさん連中と一緒じゃあないか。全く、あたしは変態か。困るってば。
姫野桃香の方向に視線をやらないように心がけようとしても、つい浮気調査の探偵のように、貼り付いて見てしまう。
不意に彼女と目が合う。彼女は、はにかみながら、にっこりと天使の笑顔を作る。
胡・散・臭・い。
・・・・・・やっぱり、からかわれたのに違いない。彼女流の冗談なんだ、あれは。なのに。バカじゃないの、あたし。あたしは、なんだかすっかり自分の調子が狂っていることを恨めしく思う。
いや、でも、正直彼女を観察しているうちに、あたしはほんのちょっとだけ、彼女があたしに告げたことは、もしかして事実かもしれないと思い始めていた。なぜだか分からない。うまく言えないけど、どことなく・・・だ。どことなく。ぶりっこの演出方法も、計算され尽くしたぶりっこと言うよりは、案外リアルに男を知らない青臭い生娘(って言い方も古いか)のもののような。
彼女は、男性ともよく喋る。普通に接する。なのに、なのに、なんだか、どこか変な気がするのだ。いや、本当に愛想良く、思わせぶりとも取られかねない態度で接しているのに、その実内面にある壁はものすごく固くて、厚くて、頑丈で、扉のカギは南京錠で完全に閉ざされてしまっているような。・・・・・・なんであたし、ここまで彼女を分析してるんだか。
「小野寺さん、最近姫野さんのこと、よく見てますよね」
お昼の休憩時間、不意に社員食堂で、一緒にランチを食べていた我が社のファッション・リーダーの佐野さん、通称さのっちにそう言われた。あたしは、新メニューの黒酢のハンバーグ定食に無我夢中だったのだけど、どきりとして、箸を止めた。
「ええ。そんなことないよー。気のせいじゃない、気のせい」
「そうですかねえ・・・」
否定はしたものの、確かにあたしは、彼女を見ていた。前日食べたものすらろくに思い出せないこともあるのに、三日くらい前までなら彼女がその日何を着ていたかとっさに言えるほど、見ていた。あるアイドルが嫌いとか受け付けないとか散々言いながら、本物のファンを自称する人間よりある意味ずっと熱心に、そのアイドルの出演する番組をくまなくチェックし片っ端から見まくって、その日の髪型からメイクから発言まで全て批評できるほど念入りに観察している、捻くれたアンチファンの人間ように。
――――おかしい。全く、おかしい。彼女なんか視界に入るだけで、吐き気がしそうなくらいに思っていたのに。そして、実際、視界に入ると、確実にムカムカしているとはいうのに。
最近体重が増えたのは、彼女のせいに違いない、と思った。彼女のせいでストレスが溜まり、食べることに走っちゃうんだ。うんうん、間違いない。ハジメにしてみれば、ま、一緒に居酒屋行っても、ビールをジョッキで三杯飲みつつ、ポテトフライに、カルボナーラに、鶏の唐揚げ食べてりゃあ、そら太りますわ。ということらしいんだけど。
だって、なんだかお腹がすくんだもん。本能的に、戦闘(なんおだ?)に備えてエネルギーを蓄えようとでもしてるのかしら。
あたしは、黒酢ハンバーグ定食完食後、クリームのたっぷり乗った、夏みかんの果汁入りシフォンケーキを追加注文し、綺麗にたいらげてしまった。それでなくとも夏に向けてのダイエットで、低脂肪低カロリーに気をつけている周りの女の子たちは、ひええと恐れおののいていた。みんなと一緒に仕事場に戻ると、真っ先に姫野桃香が視界に飛び込んできたが、さすがに周りに気づかれるくらい見ているとはやばい、と自覚し、なるべく見ないようにした。
姫野桃香は、最初のうち、お昼は自分の席で持参したお弁当を一人で食べていたが、そのうちに、それまで、同じようにいつもお弁当持参で、自分の席で一人で食べていた宮内信子とお昼をともにするようになっていた。あぶれ者同士でくっついたという感じだ。
姫野桃香のお弁当は、一度後ろを通りかかったすきにちらと覗いてみると、彩りが綺麗で、ちゃんとバランスよく野菜やお肉が入っていて、かなりハイレベルだった。宮内信子のお弁当は、ご飯にふりかけ、それに卵焼きと煮物が少々くらいの、なんてことない渋いお弁当なのもチェック済みだ。
しかし、見た目からしてアンバランス過ぎる二人だが、何を話すことがあるのだろう。何にも接点などないように思えるが、意外に楽しそうにきゃっきゃっとはしゃいでいたりする。案外、彼女たち、いろんな女の子の陰口とか文句言って密かに喜んでたり、して。
男からすれば、誰にも相手にされなかった宮内信子と仲良くしていることで、ますます彼女が天使のように見えるのだろう。
「姫野さんって、分け隔てなくみんなに優しいよね」
そんなことを言っている男がいたので、うげと思った。学生時代だったら、変なグループに所属してると、それだけで、かわいい女の子もイケてないカースト制最下位みたいなレッテルを貼られてたものなのになあ。宮内信子と仲良いの、彼女なりのいい子アピール、演出じゃないんだろうな、などと勘ぐってしまった。
からりとして、暑い日だった。
「遅くなりましたが、姫野桃香ちゃんを歓迎いたしまして、かんぱーいっ」
次々とビールのジョッキグラスがぶつかり合う音が、薄暗い灯りの、ちょっとコじゃれた和風のインテリアの居酒屋内にこだました。会社から徒歩五分圏内にある、よく我が社が利用する居酒屋だ。凝った内装だと割高なところが多い中で、お酒の種類が多い上に、つまみもそこそこの味で、値段が安い。
まあ、いつものように、新人が入ってくるとこうだ。今回はなかなか皆の都合が合わず、普通はもっと早くに行われる歓迎会がすっかり遅くなってしまった。しかし、なんだか今日は配置がおかしかった。確かに会の主役には違いなかったが、姫野桃香の周りに、男どもが密集している。その中にヤツ、大石ハジメもいた。
「うーん・・・」
あたしは、腕組みをして、眉間にシワを寄せた。
「小野寺かさねさん、顔と仕草が怖いです」
社のファッション・リーダー、佐野さん、通称さのっちに冗談交じりに指摘され、あたしは、慌てて腕組みをやめ、笑顔を作る。
「あ、そう?そうだった?」
「うんうん」
「確かに」
「険しかったよね・・・」
周りの女の子たちが口々に頷く。
「気分悪いのも分かりますけど・・・」
「確かにあれはないよねえ」
「男って、馬鹿みたい」
「結局、見かけふわふわした、ああいうのに騙されるのよね」
「もう、男どもは放っておいて、女子だけで盛り上がろうよ」
半ば、自暴自棄とも思える発言だったけれど、あたしたちは女だけで改めて乾杯をすると、すっかり開き直って、男性陣への当てつけともいわんばかりに盛んに喋り始めた。勢いづいて、次々とグラスが空いてゆく。着物風の制服を着た店員が、にわかに慌ただしく動き出す。みんな、かなりグイグイ、いい飲みっぷりだ。
女同士の飲みの場での会話は、それはそれでやはり楽しい。美容やダイエット、美味しいパスタやスイーツのお店に新しいデートスポットの話、彼氏とのあれのこととか、いろいろ、いろいろ。お酒が入らないと出てこない、上司や会社に対する本音トークや際どい話も飛び交う。姿勢も乱れてきて、いつもはお育ち良さそうなお行儀の良い女の子たちが、そのうちに片膝を立てたり、あぐらをかいたりするようにまでなってしまった。
一番盛り上がったのは女性芸能人へのダメ出しだ。悪趣味と言われようが、みんなが分かる人物で、しかも身近じゃないから、話題にして言いたい放題言っても嫌なムードにはならないし、ストレス解消にもなる。(でも、言ったあと、みんなほんの少しだけ後ろめたいような、苦い気分を味わってるような表情をする)例えば、こんな風に。
「最近朝の情報番組でもコメンテーターやってるあの女って、いい大学出てるかなんだか知らないですけど、知的才女アピールすごくないですか」
「N大でしょ。今やその程度の大学出身で容姿も整ってる子なんて珍しくないのにね~」
「そうそう、それでウリが取られて需要無くなる!って焦って整形なのかな~。最近顔が不自然過ぎてマイケル並みの崩壊。テレビ画面直視できないときない?元の顔は田舎くさいけど、いじらないほうがかわいかったのに。もったいない」
「でも、アイドルグループのあのコは、やって正解だよね。以前の顔じゃ絶対売れないもん。でも、あのぶりっこが鼻に付く~」
「そうですかあ。私は、あの徹底した明らかなぶりっこは許せるんですけど、だってあそこまでいくと、もはや、お笑い芸人レベルでしょう。それよりナチュラルぶってて、そこはかとなくぶりっこってほうがヤダ。例えば、あの朝のお天気アナウンサーですよ。あれ、密かにすごい自分に自信あって、男はみんな自分に気があるとか思ってそう」
「なんとなく、言わんとすることは分かるー。お天気お姉さんって基本自意識過剰そうだよねえ。あの画面越しに全力で伝わってくる、わたし、かわいいでしょってオーラが朝から見てると疲れる」
「自分は、あの月9出てる自称体育会系女って苦手かも~。サバサバしてますっていうと、同性受けするとでも思ってるのかな。意外と陰でネチネチ陰湿なことやったり、粘着だったりしそうなんだけど」
「分かる分かる。男に媚びてませんとか言って、同性からも支持されるあたしってのを演出しようとしてるよね。あざといんだよねー」
「みんな、言うよねー」
どっと笑いが起こった。
・・・まあ、みんないろいろ思ってるんだなあ・・・。(著書を愛読してた故ナンシー関ばりに)
首を器具で固定したように動かさず、なるべく見ないようにしてたのだが、ふと、ちらり姫野桃香のほうに目をやると、姫野桃香はわたしお酒飲めないんです~、一杯飲んだだけでもすぐ赤くなっちゃって~などと言うようなタイプかと思いきや、ジョッキを空にして、すでに日本酒の熱燗を一人でぐびぐび、上品ではあるが、その飲みっぷりは、まるで場末の飲み屋で一升瓶を抱えている親父並みだった。
あたしは、ビールに飽きたあと、ボトルの赤ワインを注文し、ひたすら流し込んでいたのだけれど、そのうちにゆらゆらと目の前が揺れるようになってきた。前にいる人間の口元の動きがスローモーションのようになり、時々完全に音が消える。波間を漂うような、空を飛んでるようないい気持ち。はあ~。
そして、ついには、天井と床が回転し始めた。天変地異だーなどと思いながら、そこでやめればいいのに、飲み出すとどうしても自分では止められないというか、もういきつくところまでいくしかないというか、情けないことに、自制がきかないのだ。機械的にグラスに手が伸び、次々とお酒が進む。
そのとき、聞き慣れた声で、許し難い言葉が耳に飛び込んできた。
「ねえねえ、姫野さん、俺なんかぶっちゃけどう?」
いつもサワーやカクテル一杯でヘロヘロに酔ってしまうヤツが、最初の乾杯ジョッキビールですでに酔っぱらったらしく、姫野桃香の隣に行き、そんなことを言い始めたのだ。しかしまあ、あたしも酔っぱらってるし、最初は、ま~たアイツ、しようもないなあと苦々しくも笑っていられたのだが、ヤツが彼女の肩に触れたりするのを見ているうちに、だんだん胃のあたりが熱くなって、許せなくなってきた。
「俺、家事も料理もあっちも強いし、結構お買い得だよ~」
アホか、あいつ。
「いやいや、大石なんて、ダメダメ」
「俺のほうがいい男だと思わない?」
他の男たちもにやけたカワウソみたいな顔して身を乗り出す。
周りから口々に言われても、彼女は、ずっとふふふと口元を押えて笑っている。なんだろ。この嫌悪感。あたしだったら、あんなに顔近づけられて、お酒臭い息吐かれて自分をアピールされてもな・・・。中には、遠目にもツバ飛んでるのも見えるし。殴ってるぞ。
あたしが最初、飲み会でハジメと意気投合できたのも、ヤツはその頃まだ体質的に一滴も飲めませんと公言してて、今は多少鍛えられたみたいだが、お酒が入っていない普通の状態だと、他のに比べて遥かに紳士で(に見えて)、話して楽しかったからだ。なのに、酔っ払ったら他の男どもと変わりないじゃん。
軽い失望と、嫌悪と、苛立ちと、小さな胸の痛みで、お酒が自分の涙を呑んでるような味がする。
そのうちに、ヤツの暴挙はさらにさらにエスカレートする。
「ねえねえ、ぶっちゃけさ、姫野さんの趣味ってどういうのなの?どういう男が好きなの?ってか、処女ってホントなの?」
ひー、あの、バカ!
「えーっ、姫野さん、って処女なの?」
周りの男どもがどよめく。それを聞きつけた女の子たちも、途端に興味津々に参戦する。
「えっ、えっ、姫野さんってそうなの?」
「じゃ、今まで、一人も付き合ったこととかないの?」
「学生時代とかもモテたでしょうに~」
「冗談だよね。今時ありえないし」
「絶対、ウソウソ。信じられないもんー」
彼女は、首を斜めにし、ほんのりピンクの頬に手を当て少し困ったような顔をして、またふふふと笑っただけで、答えようとしない。それがまた何とも、斜めにした顔の角度に加え、瞳が潤んで色っぽい気がしてしまった。
しかし、どうにも気になるのは、彼女の隣に座ったハジメ以外のもう一人のカワウソ男が膝を触っているのに、少し身体をよじらせて逃げ腰になってはいるが、積極的にその手を払いのけてどかそうとはしない。
―――なんで、なんで平気なの?
普通の女の子なら怒ってるとこなのに。場の雰囲気を壊したくないといっても、少なくとも、多少は嫌がる素振りくらいするだろう。苦々しい感情が込み上げて口が渇く。ムカムカムカイライライラ。
が、頂点に達した。
「こ~のエロじじいがっ!やめんかいっ」
あたしは、はっとして周りを見渡した。皆マトリックスみたいに凍り付いている。一瞬で酔いもぶっ飛ぶ叫び声。いやいやいや、でも今声を発したのはあたしではない。なんだなんだ。
逆隣を見ると、なんと、エロセクハラ上司加藤が酔っぱらって誰でもよくなっているのか、お手洗いに立って戻った後、座る場所を間違えて腰かけたのか、普段は百パーセント見向きもしない宮内信子の隣に座り、肩を抱いたり、腰に手を回したり、明らかすぎるほど手を出している。もう目の焦点は合っていず、尋常じゃない酔い方なのは一目瞭然だ。
しかし、宮内信子の態度と言ったら、相手が上司といえども容赦がない。キッと黒縁メガネを光らせて、はげ上がった上司のおでこをぱしっぱしっと叩いている。す、すごい・・・・・・。憎しみすら籠もっているような目つきで殺気を放っている。身体から青い炎が立ち上っているような、な、なんというか、剥き出しの嫌悪感。
あたしは、ふと思った。いや、そう、そうだ。そうなんだ。きっと、根本から男性に対して免疫なく、男に嫌悪し警戒心を抱いているような本物の処女は、こういう反応なんだ。姫野桃香、彼女は、処女なんかであるはずがない。それどころか男をよ~く知っているからこそ、純粋で純情で貞淑そうな、男が夢見る幻想の乙女が演じられるんだ。あたしは、自分の中で大いに納得し、一人で大きく頷いた。
「加藤さん、最近家に居場所なくて、ストレス溜まってるらしいですよ」
情報通女子がささやく。
「女性陣誘っても誰もついてきてくれないから、結構以前は誘われなかったような男子までもが飲みに誘われてるみたいだけど、酔っ払うと、奥さんも娘も自分が帰ると汚いものが家の中に入ってきたみたいな目つきで見るって毎回ぼやくらしいです。誰も付き合ってくれないときは、たまに一人で映画見たりして時間つぶして帰宅することもあるみたいですよ」
いつもは不快の素でしかないが、なんだか不憫な感じもしてくる。
みんなの顔にもさすがに憐みの情が広がった。自分に危害は及んでいないし、今はそっとしておこうと、気を取り直して飲みなおし始める。
世界は再び揺れていた。意志や感情なんかははっきりしているのに、まるで夢の中にいるような気分だった。ゆらゆら、ふわふわ。揺れる、揺れる。なんだか、この世界の終末のようだった。
ゆらゆら、ふわふわ。ゆらゆら、ふわふわ・・・。
走馬灯のように、姫野桃香がやってきてからの日々が頭の中を駆け巡る。ピンク。お花。ふわふわ。黒めがちな潤んだ瞳。隠れ巨乳。
耳元でのささやき。ハジメの細い腕。調子の狂ったパソコン。なぜか黄色いオムレツ。
「この女ー!カマトトぶりやがって。姫野桃香、お前が処女なわきゃねーだろ」
気がついたら、あたしは、大声でそんなことを言っていた。
シーン。また、世界は動きを止めた。
あれ、今のって・・・何?
夢?夢だよね?お願い。夢だと言って。お願い、神様。寝言で叫んだのでありますように。
我に返ると、周りは、唖然としてあたしに注目している。中には飲んでいたお酒を吹き出しかけて、ゴホゴホゲホゲホむせているのもいる。あたしの手は握り拳。え、えっ。これは、どうすればいいの?口に出すつもりはなかった。心の中で思っただけ。思っただけのはずなのに・・・。周りは、どん引きだ。
「な・・・」
ヤツ、大石ハジメは真っ青になっていた。が、酔っぱらっているため、いきなり立ち上がって、いつにない食い付き方を見せた。
「何言ってんだ。お前ー。小野寺かさね。カマトトって・・・・・・、カマトトって・・・・・・。今時古いぞ、古すぎるぞ、お前~。しかも。しょ、しょ、」
いや、なんか、違うだろ、って突っ込みは置いておいて、あたしは、もう腹をくくって、開き直った。こういうとき、改めて思う。お酒の力はすごい。自分でも信じられないくらいの度胸を出させてしまう。いやいや、ほんと、いくらあたしが普通よりかは度胸のあるほうだとしても、お酒入ってなかったらもう辞表も書かずに行方くらますわ。
あたしは、立ち上がって、戦闘態勢を整えた。攻撃開始だ。
「大体ね、男ってす~ぐ外見に騙されて、本質が見抜けないのよね。いい?あんな処女はいません。姫野桃香、あんたももういい加減演技やめたら」
あたしは、思いっきり姫野桃香を指さしながら言った。大石ハジメは、青いのを通り越して、紫っぽく、今にも泡を吹いて棺桶に入りそうになっている。
「そりゃいくなんでも失礼すぎるんじゃないか?ひ・・・姫野さんに限っては、真実かもしれないだろ」
「はあ?男って、ホント馬鹿!ああもう馬鹿。ホント、信じらんないくらいバカバカバカっ」
「おいおいおい。バカバカ言い過ぎだぞ。世の男に対して失礼だぞ。男を敵に回す気か?俺なんか、それでなくとも普段上司に散々バカバカ言われてるのに、本格的にバカに思えて来るじゃないか」
「だって、そうじゃない。馬鹿なんだから!」
「馬鹿ってどう書くか知ってるか?馬に鹿だぞ。馬に鹿」
「それが何よ。意味分かんない。あんたなんか大体、種馬みたいなもんじゃない」
「お前の言ってることも十分意味分からんぞ」
あたしたちは、いつの間にか、周りがタンバリンを持ったおもちゃのお猿のように拍手したり、お箸で机を叩いたりしてのやんややんやの盛り上がりの中で、しばらくの間、罵りあった。もう、周りがあたしたちのことをどう思うかなんて、考えていられなかった。
そのとき、わーっきゃーっと悲鳴が上がった。いったん休戦して、悲鳴のしたほうを見ると、姫野桃香がまな板に載せられた死んだ魚のようにぱたりと倒れていた。
「えっ?えっ。何何?何事?」
状況を把握できずに呆然とつっ立ったままキョロキョロしていると、慌てて駆け寄った人間たちの反応からして、姫野桃香はどうやら気絶しているようだった。みんな慌てて冷たいおしぼりを当てたり、頬をぱちっと叩いてみるが、何の反応もない。息はしているようだが、完全に、電池が切れている。
「これ、やばいんじゃ・・・」
誰も彼も焦ってパニくっていたけれど、その中でもかろうじて正気な人間が携帯を取り出して救急車に電話する。騒ぎを聞きつけた店員が、心配そうに様子を訊ねてきた。比較的正気な女の子が対応して、状況を説明する。十分くらいして、救急車が到着すると、姫野桃香はタンカに乗せられ、姫野桃香の採用に決定を下したらしい上司に付き添われ、そのまま病院に運ばれてしまった。何か持病があれば別だけれど、おそらく、急性アルコール中毒に違いなかった。
周りがバタバタとしているうちに、ヤツ、大石ハジメは、机にうつぶせて寝てしまっていた。こいつの場合は、すうすうぐうぐういびきをかいて、いい気なもんだ。いったん落ち着くと、急に胸がムカムカして、あたしは、トイレに駆け込むと、涙目になりながら、だばだばと口から赤い液体を吐き出した。
リバースしたせいか、翌日は、意外にすっきりして目が覚めた。カーテンから差し込む朝日が眩しかった。一瞬虫かと思ったが、足に脱ぎ捨てた服の山が当たっていた。良かった。自分の部屋だ、と思った。どうやって帰ったかあまり記憶はなかったが、まあいつも記憶になくとも、帰巣本能というもののお陰で無事帰り着いているようだから問題はない。
あたしは、起き上がると思いっきり背伸びをし、お洒落カフェでかかってるようなボサノバをかけて、シャワーを浴び、苦痛で仕方ない洗濯をして、ソファーの上に寝転がって、読みかけだった本を読み始めた。シリーズものの時代小説で、ハラハラするシーンになると、落ち着かずに、足をバタバタさせ続けて軽くつってしまった。読み終わると、ベランダに出て、一服した。水色の敷物の上にロールパンみたいな雲がいくつも浮かんでいて、良いお天気だった。こんな風に一人で過ごす午後も悪くないと思った。たまには、お洒落なカフェに一人で行って、通りがかる人々を眺めながら、冷たいカフェオレを飲みながらBLTサンドなんて食べようかな、と思った。
だけど、一時間もすると、そんな気も失せ、一番近くのコンビニまでイシシと悪だくみをして愉快そうに笑ったシャムネコのプリントされたTシャツとジーンズという服装でサンダルを履いて出かけ、目玉焼き付きハンバーグ弁当とペットボトルのお茶を買ってきて、テレビを見ながらお昼をすませてしまった。
二日目も、だらだらとそんな感じだった。
夜になって、明日からまた仕事だと思うと、というか、あんな醜態を晒した会社の人々に会わなくてはならないかと思うととてつもなく憂鬱になり、ほとんど発狂しそうになったので、とりあえず落ち着こうと、実家の母親に電話した。しかし、薄情な母親は、会社や仕事の愚痴を聞いてても楽しくないわーと言って、話半分で、自分の話題に切り替えた。最近、社交ダンスにはまっていて、ダンス教室の若い先生が細身ですらりとしていて素敵なんだそうだ。ダンス教室には定年退職したようなおじさま方もゴロゴロいるみたいだけど、
「何が楽しくて、わざわざ高い月謝払って、お父さんみたいなオジサンと踊らなくちゃならないのよ。ねえ」
だそうだ。まあ夢中になれるものがあるのは良いことだけど、それより普通、娘の話ってもっとちゃんと聞いてあげるもんじゃないの?だからきっと、実家とそんな離れた場所に住んでる訳でもないのに、なかなか帰りたいとも思わないんだ。
母親を見ていると、客観的に、よくこの人結婚できたなと思う。見た目も悪くはないけど、別に良いとも言えない。そこらじゅうにいる平凡で平均的なおばさんだ。そりゃ何十年か前は若さという武器があったにしても、家事だってとりたてて得意なほうじゃなく、手作りのお菓子なんて食べたことなかったし、お弁当はいつもレトルトばかりで見た目も綺麗じゃなかったし、性格だって結構自己中心的でいいとは言えない気がする。なのに、結婚して子どもがいる。そういうことを乗り越えてきたって、自分にはすんごいことのように思えて仕方ないんだ。ま、母親は母親だし嫌いじゃないけど。
月曜、姫野桃香は意外と元気そうに出社した。
「皆さん、先日はご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。せっかくの楽しい会を台無しにしてしまって・・・」
「姫野さん、もう大丈夫なの?」
「そんなに酔ってたなんて分かんなかったなあ」
とりあえず、口々にみんなが声をかける。
「すみません。わたし、昔から顔に出ないたちで」
姫野桃香は、少し照れたように笑った。
「でも・・・、わたし、昔からこう見えて意外とって自分で言うのもなんですが、健康優良児で病院に行くようなことなくて・・・、病院に行きたくて行きたくて、ほんとに憧れだったんですよ。だから、覚えてないですけど、救急車にも乗れたし、一日入院できてすご~く幸せだったです」
彼女は、心から夢がかなって幸せ、というように笑った。
「姫野さんって、意外に面白いよね」
社内でも前代未聞の、急性アル中で病院に救急車で運ばれるという失態をしでかしたため、みんなの警戒も解けたのか、ランチ時、女姫野桃香について子たちがそんな風に話しているのを聞いて、あたしは正直なんだかちょっと面白くなかった。
ちなみに、その後あたしとヤツ大石ハジメのケンカの一件に関しては、付き合ってると勘繰られるのではなく、何かの拍子に間違って(?)一回くらい関係を持っちゃったんじゃないかというような憶測が飛び交うことになるのだった。これは我が社のファッション・リーダーさのっちからのありがたい情報提供により明らかになるのだが、まあホッとしたような、納得いかないようなだったけど、とりあえず助かった。
その日、退社して、会社の外の入り口近くにある喫煙コーナーでタバコを吸っていると、近づいてくる人の気配がした。
「あの・・・」
見ると、彼女だった。相変わらずピンクでお花畑な姫野桃香。
何だよ、ったく。あたしは、顔を元の位置に戻して、タバコをまた口に加える。
「あの・・・」
再び目をやると、姫野桃香は手をグーにして自分にファイトみたいな仕草で、モジモジしている。神経がイラッとなる。
「何?この間のことなら、別に謝らないよ。姫野さんが倒れたのは、あたしのせいじゃあないしっ」
そう言って、また視線を戻し、ふーっと煙でわっかを作ってみた。
「それは、分かってます。そうじゃなくて、あの」
「・・・何?」
「あの・・・ありがとうございます。あの・・・、正直かなり記憶は飛んでるんですけど、なんだか助けていただいたというか、自分についてはっきり言われるとわたし嬉しいんですよね」
はあ?
思い切り眉間にシワを寄せ、彼女の方向をぎゅいんと見たあたしの眼前で、彼女は、頬を桜色に染めて恥ずかしそうに俯いていた。
どこをどう解釈したら、あれが彼女を助けたことになるんだ?
訝っていると、彼女がまた口を開いた。
「わたしも、わたしも、飲み会で女子の皆さんの会話に参加したかったです」
何を言い出すのかと思ったら、彼女がまた続ける。
「お酒が入ると、わたし結構喋れるんです。ちなみに、わたしの苦手なのは、芸能人の誰々とかじゃないんですけど、子供を産んで、もう「お母さん」なのに、いつまでも「女」をひきずっている人です。夫にいつまでも女として見られたいという気持ちは女性としてかわいらしいと思いますけど、生物学上の母親になってまで、いろんな雄に媚びを売るのってどうかと思います。芸能界の美魔女ブームとかも申し訳ないですが、大っ嫌いです」
彼女は、一生懸命にそうまくし立てると、ぺこりと頭を下げて走って去ってしまった。
―――――全く、ヘンな女だ。
しばらくの間、あたしとヤツ、大石ハジメは会社でも無視しあっていたのだけれど、事件後の次の次の週末、「先日はごめん。でも、飲み会での発言は、姫野さんが女の群れからひとり外されててかわいそうだったから、ちょっと気を使って話しかけてあげただけだよ」「かさねが来てくれるの俺ずっと待ってるから」なんて謝りと言い訳とお誘い?のメールが来ると、あたしは、だからって、あんな声のかけ方はないだろ~と思いつつ、わざわざ新しい洋服まで新調して、いそいそと彼の元へ向かってしまった。
あーあ。なんであたしってこんなに単純なんだろう。ったく、自分が嫌になるぜ。だけど、例えばこれが女同士のケンカだったら、仲直りするのにもっと多くの時間や言葉が必要だろうに、男と女って不思議だ。会ってから、そこまでの会話もないままに、あたしたちは抱きあってキスをして倒れ込むようにベッドに入って、そういうことを軽々と乗り越えて元通りの関係になってしまった。あたしと彼の皮膚はぴったり吸い付くように重なり、いつもにもまして心地よかった。月が満ちてゆくように、器に注いだ水が表面まできて溢れ出すように、身体も心も何か温かいものがいっぱいになった。
どうして、こんなに愛し合えるんだろう。なぜこんなに満たされたような気持ちになれるんだろう。あたしは、以前と同じように、ヤツの、刺青みたいに血管の浮き出た細い腕で腕枕をしてもらいながら、かつてないほど不思議で仕方なかった。
それなりに、順調な日々だった。というかまあ、それまでのような単純で平和で、特別変わったことのない日々。しかし、不幸や嫌なことはいつ訪れるか分からない。
その日、社内で他部署での要件を済ませ、自分の机に向かって歩いていると、例のとんでもないセクハラ上司加藤がいやらしい目つきで、あたしの腰の辺りを見ながら言った。
「小野寺ちゃん、最近、色気が増したんじゃない?化粧ノリも良くなったねえ」
どうもー、と一言だけ軽く頭を下げて返事をし、それから無視して通り過ぎようとしていると、セクハラ大魔王の信じられない一言が耳に飛び込んできた。
「ちゃんとセックスしてるんだろうねー。女性はやらないとホルモンバランスが崩れて良くないからねえ?がっはっはっは」
はあ?
若い頃はもしかしたらそれなりにモテて遊んでいたのかもしれないと思わせる、ギラギラ黒光りした肌の持ち主、セクハラエロ大魔神加藤の、にやついた脂ぎっしゅで濃い顔を思い切り睨んでやった。
ざわざわ。あー、もう、ここが会社じゃなく、ただの酔っぱらい親父なら殴ってるよ、全く。でも、酔ってるならともかく、お酒も入ってないのに、なんで、そんなこと言えちゃうんだか。どこまでゲスな根性。やはりこの人には同情する必要ないのかも。
「立ちついでにお茶でも入れましょうか、課長。お喉乾いてませんか?コーヒーですか?」
あたしは顔の筋肉引きつりながらもあくまで笑顔で、でも強烈な殺気を放ちながら言ってやった。思わず、たじろくエロ大王加藤。
「あー、じゃあ、コーヒーお願いしようかな。みんなの分もお願いできるかな。ありがとうね、小野寺ちゃん・・・」
「いいえ。どういたしまして!」
それでなくても、あたしはその日、生理前で気が立っていたのだった。
給湯室に入ると、一度押せばいい給湯器のボタンに八つ当たりして、ガシガシ乱暴に押しながらコーヒーを入れてたら、姫野桃香が入ってきた。
「あの~、良かったら、わたしも手伝います」
「・・・・・・。あー、どうも」
たいした人数でもないし一人でも大丈夫だけど、と言おうとしたけど、やめた。まあ、手伝ってくれるってんなら、手伝ってもらおうか。しかし、何だ?あたしにごますってどうするってんだ?他の人間の目を意識してのことなのか?やっぱり、彼女なりのいい子アピールなのか?エロ加(すでに略)の発言のせいで苛立ってるだけに、思考も乱暴になる。
コーヒーを入れながら、隣で紙のコーヒーカップをプラスチックの容器にセットしている彼女にちらりと目をやる。
彼女の睫毛は異常に長くて、くるりと上向きだ。けど、睫毛パーマを当ててるとか、付け睫毛ってわけでもなさそうだ。眉は手入れされてなくてボサボサだし、唇も透明のリップすらつけていない。かろうじて、ファンデーションは塗っているようだけど、げ!こいつナチュラル過ぎるよ、と思った。
彼女のように素でそれなりのレベルだと、日々相当な努力をして美を磨いている女の子たちがかわいそうに思えてしまう。我が社のビジュアル系、佐野さん、通称さのっちだって、先日の飲み会での大暴露によると、メイクは毎朝一時間近くかけてるらしいからなあ。彼氏に素顔は猿人だって言われたんですよ~なんて自虐で笑い取ってたし。二重まぶたのプチ整形、暴露したのもいたなあ。
たかだかコーヒーを入れるだけなのに、やたらと真剣な表情の彼女。しかしまあ、なんだか・・・。いい子なんだか、悪い子なんだか。つかみ所がないというか。
不意に、彼女の胸が腕に触った。なんだ、この柔らかい感触は。って、なんで、女のあたしがドキドキせにゃあならんのだ。居心地悪ーい。
「あの・・・そういえば・・・」
彼女が口を開いた。
「あの、大石さんと・・・」
どっきん。
「お二人は付き合ってるんですか?」
顔がかあっと熱くなる。あたしに顔を向けた彼女は、黒目がちな瞳で様子を窺うようにじっと見つめている。さらに、心拍数が上がる。あーっ、これじゃあバレバレじゃあないか。バカバカバカ、あたし、どうしたらいいんだ?大ピーンチ。
「まっ、まさか。べ、別にそういうんじゃ・・・。この間のは、別に、ただちょっとムカついただけで、ホントにそういうんじゃ・・・」
額にじっとり汗までかいてきたあたしを、姫野桃香は、相変わらずじっと見つめている。あたしは、思わずムキになる。
「ち、違うんだからね!ホント、あの男とはケンカ友達というか。全くそういうんじゃ・・・」
自分で言ってて白々しいと思った。彼女も、お見通しですよ、と言わんばかりににっこり笑った。なんかあたし、子供がうまくあやされてるみたいだ。
「―――はあ・・・。内密に頼むわ・・・」
あたしは、観念して、肩を落としてため息交じりに言った。
「そうなんですか・・・。大石さん、すごく優しいですよね。わたし、ここにきて間もない頃、スカートがエレベーターの扉に挟まっちゃって、無理矢理引っ張ったらホックが飛んじゃって困ってたんですけど、たまたま通りかかった彼が、事務に走って行って安全ピン借りて来てくれました」
何あいつ、いい人ぶっちゃって、と思うのと同時に、そうそう、そういういいとこ、あるヤツなんだ。と、あたしは思わず、自分の飼ってるペットが褒められうい得意げになってしまう飼い主のように頷いた。
「まあ・・・ね、悪いヤツじゃあないのは確かだよ。どうしようもないアホだけどね」
彼女は、あたしのほうを見てふふっと笑うと、コーヒーメーカーに視線を戻した。でも、なぜかまだ楽しそうに笑っていた。
「また、二人の秘密が増えましたね」
秘密。秘密かあ・・・。
自分の席に戻り、自分の分のコーヒーを飲み終え、パソコンの画面を眺めながら、あたしは考えた。
彼女が、もし本当に秘密として話していたのなら、あたしはすでにハジメに話しているから、それはもはや二人の秘密ではないのにな。というか、みんなの前でも言っちゃったし。なんて。彼女も、バカ?
大体、大事な秘密なら、なぜ、あたしに話すんだ?なんで、あたしなんだ?ある意味、彼女を倦厭してる誰よりも、彼女に対して表面的にうまくやるような素振りも、愛想良くもしていない。確かに、仕事は結果的に助けてあげてはいるが。
突然、あたしの頭の中のモヤモヤを戒めるかのように、隣の席の宮内信子がコホン、と咳をした。
そうだ。比較的仲のいい宮内信子にも、何も告げていないのか?そんな疑問もいろいろと起こったのだけど、まあどうせ深く考えても答えの出ないことに頭を使ってもしようがない。
ただ、一つどうしても気になるのは、何日か前から、ケンカでもしたのか、姫野桃香と宮内信子は、一緒にお弁当を食べるのをやめたようだった。それとなく宮内信子に理由を尋ねると、
「決定的な宗教の違いが明らかになったみたいなものです」
宮内信子は、無表情で素っ気なくそう答えた。
「ふうん」
あたしも、それだけ。それ以上は追及しなかった。
八月に入り、暑さもまっさかりになった。まるでどうでもいいことには違いないのだけど、その日、あたしは会社に向かう途中の道ばたで、黒猫に出会った。黒猫はじっとこっちを伺うように見て、意地悪するかのように、あたしの前をすばやく横切っていった。瞳の円形の綺麗な、美形の猫だったけど、なんとなくあたしに幸運をもたらしてくれるとは思えなかった。
その日は、空模様も快晴から一転、雲行きが怪しくなりかけていた。携帯で天気予報を見ると、少しシーズンには早いのに、台風が来ているらしかった。
仕事時間中に褒められたことではないけど、少し眠くなって、うつらうつらしていると、隣からずいっと宮内信子が顔を覗かせた。
「あの・・・、わたし・・・、見たんですよ・・・」
「なっ、何。急に。宮内さんってば驚かさないでよ」
宮内信子の粗い鼻息まで耳元で感じて、いっぺんに眠気が覚めてしまった。
「見ちゃったんですよねえ・・・」
彼女は、ふーっやれやれというようにため息をつきながら、黒縁メガネの縁を、人差し指と親指で挟んで持ち上げてきっちりかけ直した。
「―――だから、何を?」
イライラして、思わず強い口調になる。
「すみません。でも、言うべきか、言わないべきか、迷ったんですけど・・・」
「だから、何の話よ?」
「昨日の夜なんですけど・・・、見ちゃったんです。大石さんが、髪の長いスタイルのいい女の人と歓楽街を歩いてるの・・・。女性の顔は見えなかったですけど・・・」
何いっ。
その日、前日からヤツは有休休暇を取って、会社を休んでいた。身体の調子も悪いから病院にも行きたいしってことで。やはり、例の居酒屋での言い合い事件もあったあとだけに、さすがにあたしが一緒に休むってわけにもいかない。本格的に感づく人間も出てくるだろう。
休み中病院以外では何か予定あんの、と聞いたら、ヤツは、うちでのんびりゲームでもして過ごすか、たまたま高校時代の男友達と休みが合ったから、体調良ければ一緒にボーリングでもして、メシでも食うかななどと言っていたのだが・・・。
あれはもしや適当なカモフラージュだったのか?携帯にメールをしてみる。返事は返ってこない。あたしの中で、不安が渦を巻く。息が詰まりそうになる。喉がひくっと鳴った。
過去の浮気騒動がまざまざと蘇ってくる。自分ではそれなりに決着をつけたと思っていたけれど、やっぱり、苦しい。胸がボンレスハムみたいに糸で巻かれて締め上げられるみたいだ。あたし、あたし・・・、そんなに強くない!
そして、今日は・・・、今日は、姫野桃香も休みなのだ。ちょうどここ二日、休んでいる。まさか。・・・・・・まさかだよね?偶然だよね?ありえないよね?あたしは必死に自分に言い聞かす。
窓の外で、雷が光った。きゃあっと、女子社員の悲鳴があちこちで飛び交う。まさに今、台風がすぐ側までやって来ていた。
あたしは、立ち上がって、またモンローウオーク、課長のところまでゆくと、すみません、気分が悪いので早退します、と言い残し、向こうが口を開く前に、会社を飛び出して、雨が徐々に強くなる中、ヤツのうちに向かった。社会人としてあるまじき行為なのは十分自覚していたけど、もう発生した台風が誰の力を持ってしても、止められないのと似たようなものだった。頭の中には、いろいろな妄想がぐるぐると回っていた。
そうだ。過去にもああいうタイプの女に妙になつかれて、あたしも案外悪いコじゃないのかなって仲良くしてたら、実はとんでもなくしたたかな腹黒女で、結局裏切られて、あたしが気に入ってた男持ってかれて、イタイ思いしたことあったじゃない。あたしのバカっ。あやうくまた二の舞になるとこだったじゃない。
ヤツのマンションの玄関前まで来て、あたしは、ベルを押さずに、そっとドアを押してみた。やはり、空いている。なんて、不用心なヤツ。キッチンの収納状況一つを見ても妙なこだわりがあり、自分の領域の秩序や整理整頓にはうるさいくせに、こういうところに関して、ヤツは昔から大ざっぱなのだ。
あたしは、さすがに女だからってのも当然あるけど、鍵をかけずには眠れない。どんなに酔っぱらって帰ってきても、不思議と、無意識のうちにきちんと鍵はかけている。それくらいの防衛本能は働かないと、都会の一人暮らしは危険だ。全く、どんな不審な輩がいるかも分からんのに。って、今のヤツにとって、踏み込まれて一番恐ろしいのはおそらくあたしに違いない。でも、チェーンをかけてたりするほうが怪しい気もするのだけど。なんでもありませんように。願いながらどこか落胆するのを確信していたりもする。
そうっとドアを押して、中に入ると、すぐに靴を確認した。会社用の通勤靴や汚いスニーカーやらが散らばった中に、かわいらしい女物のサンダルが脱ぎ捨てられていた。ピンク色の、サイドの部分にお花がついたものだ。あたしが、死んでも履かないような靴。
あ、あいつ~。
一瞬にして、全身の血が沸騰したような感じだった。目の前に、ハジメと姫野桃香二人が映画のワンシーンであったように、真っ白いシーツの中で無邪気に戯れている図が浮かんで、それがもう楽しそうで楽しそうで悔しくて、心臓がどっどっどっどっと鳴っていた。
あたしは、忍び足で中に入ると、キッチンを抜けて、ハジメの寝室の部屋の扉を開け、青いドッド模様の布団の下の膨らみを目の当たりにし、面食らいながらも、勢いよく布団を剥いだ。
「ハジメ!あんた、最低だよ、姫野桃香も!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれ?
ベッドの上の二匹の獣の、間抜けで中途半端な下着姿を目撃して、あたしは、唖然とした。
姫野桃香・・・じゃ、ない・・・・・・。
ヤツは、慌てて跳ねるようにして飛び起き、正座をして、あわあわと怯えたような目であたしを見上げている。
「か、かさねちゃん・・・」
あたしが睨むと、
「ま、まだ何もしてない。まだ」
「まだ?」
「いや、まだ、じゃない。まだじゃなくて」
ことは未然に防げたのか?って、でもこれから何するつもりだったのさ。結局ナニかするつもりだったの、間違いないじゃん~。
ハジメの隣で、姫野桃香とは似ても似つかない、頭の色がプリン状になった(つまり、金髪に染めてるが、地毛が生えてきててっぺんだけ黒く層になっている)、若いというか若作りっぽいギャル風の不不不不不っっっっっっっ細工な女が、びっくりしたような、怒ったような顔をしていた。目の周り、真っ黒すぎなんだよ。お前はクレオパトラかっての!
その女が口を開いた。
「ちょっとお~、何この女。彼女いないって言ってなかった?」
「すみません。あたし、思いっきり、この男の彼女なんですが」
あたしは、強気で開き直ってそう言った。彼女は上目遣いにこちらを睨んだが、
「あっ、そう」
そう言うと、ギャル風の女は、付き合ってられんわと言わんばかりに、そこらに散らかしてあった衣服を拾って手早く着始めた。どぎついピンクのワンピース。ギャルはギャルでも、姫ギャル系というんだろうか。無理があるんじゃないの。全くよ~。余計なお世話かもだけど鏡見たことあるのかよ~って、乱暴なダメ出し。でも、底意地悪い目線にもなるよ。あたしの冷ややかな目つきに、ハジメは、先ほどからただずっとオロオロたじたじしているだけである。
あーあーあー、なんなんだこの展開。
「あたし、めんどくさいの嫌いなんで、失礼しまーす。そこまでの男じゃないし」
彼女は、着替え終わると、そう言って、潔く部屋を出て行った。ばったーんと、マンションが揺れそうなほど勢いよく玄関のドアを閉めて。取り残された二人。何とも言えない微妙な空気が流れた。
「ご、ごめん。違うんだ。あの子はほら、友達とたまたま飲んでて隣の席だった・・・んだけど・・・」
何が違うんだ?浮気じゃないって?大体こういうとき、男って違うって言うんだろうけど、一目瞭然じゃん。
「信じてもらえないかもしれないけど、逆ナンっていうか、ホントに向こうから誘って来たんだよ~。しつこいくらいかっこいいじゃん、好みのタイプ~、なんて言われて」
「・・・そんなの、いくら言われても断ればいい話でしょ」
あたしは、氷の女王のように冷ややかな声で言い放つ。
「いや、勿論そうなんだけど。でもほら、そこまでして誘われたらさ、据え膳食わぬはじゃないけど、そこは男の本能というか・・・」
何が本能だ?この猿ヤロー!あたしは、ハジメがびびって縮みあがりそうなほど、思い切り睨んでやった。
「だけど、昨日は酔っぱらってお互いにそのまま寝ちゃったし、ホントに何もしてないんだよ。愛してるのは、かさねちゃんだけなんだよおっ」
と泣きそうな顔でハジメがすがりついてくるのを「あんたなんかもう、信じられんっ」と突き飛ばし、あたしはどすどす床を踏みならして、外に出た。先ほどのギャルと同じように、いやそれよりさらに激しくマンションが壊れそうなほど勢いよくドアを閉めて。
外はまさにあたしの心同様に暴風雨だった。傘を差そうとしたら、反対側に広がって折れ、そのままどこかへ飛ばされていってしまった。道路の反対側で、豚の絵の描かれた看板が飛ばされていた。あれは確か、以前ハジメと一緒に行った、豚ホルモン屋のものだ。
浮気相手が姫野桃香じゃなかったからって、やっぱり最低最悪だ。バカバカバカバカ。ホント、バカ。くそ。あいつめ。悔しい。ムカつく。許せない。もうとんでもなく悔しい。悔し過ぎるよ。
「・・・っく。えぐっ」
・・・・・・大量の涙が、雨に紛れて頬を伝っていた。これが、ドラマや映画なら、意味のある絵になるのに。あたしは一人で、どうしようもなく情けなくてバカみたいだ。そして、これで終わりなのかと思うと、バカみたいにいろいろなことが思い出される。楽しいこともいっぱいあったんだ。動物園行ったり、お祭り行ったり。
たくさん優しくもしてくれた。ゲーセンのUFOキャッチャーで、あたしが欲しいって言ったぬいぐるみとるのに頑張って散財したり、真冬なのに、あたしが見たいって言ったバンドのライブのチケット深夜から並んでとってくれたり、あたしが急に食べたくなったお菓子を何件もコンビニやスーパーはしごして探して買ってきてくれたり。
―――――ハジメのことが好きだった。大好きだった―――のに。
向かいから向かってくる車のライトが眩しくてでっかくて、思わず目を細める。容赦なくタイヤがはねた水がかかる。 手の甲で涙を拭ったけど、打ち付ける雨の前に、無駄だった。もう自分でどこを歩いているか分からなかった。
家に帰り着いたときには、すでに深夜0時を回っていた。かなりの時間外を彷徨っていた計算になる。あたしは、心労と肉体的な疲れで、濡れた服を床に脱ぎ捨て、そのまますぐさまベッドに横たわり布団を被ると、ほぼ裸のまま胎児のように丸まって、深い眠りについた。
翌日、台風は彼方へ過ぎ去り、前日の荒れ模様が嘘のように、窓の外は晴れ渡っていた。
しかし、あたしは、雨の中さまよったせいで、すっかり風邪を引いてしまったようで(まああれで何ともないほうが、おかしいか)、目が覚めると身体が熱く、身体全体が痺れていて、とりあえずなんとか起き上がって、金魚模様のパジャマを着てみたけれど、相当なだるさで辛かった。前日のことも気にかかり、頑張ろうと思ったけれど、ナマズでも背中を這ってるみたいにゾクゾクと寒気が走り、とても仕事ができる状態じゃなかった。携帯から会社に休みますと連絡を入れ、薬を飲み、再びすぐさま横になると、深い眠りに落ちた。
三時過ぎに目が覚め、冷凍ご飯で作ったおかゆをすすって、本当なら今頃会社で仕事してるはずなのだと思うと、昨日からの自分の行動が最悪過ぎて心苦しく、キリキリと胃まで痛む気がした。おまけにヤツのことでまだ胸が痛いのとで、本当に憂鬱気分最低最悪だった。
七時ごろピンポーンとやる気がなく間延びしたような玄関のチャイムが鳴り、いったん無視しようと思ったのだけれど、もしヤツなら、さらにひどい罵詈雑言、呪いの言葉を浴びせてやるっと思い、出ることにした。しかし、まさか家までお見舞いにくるような人間はいないとは思いつつ、会社の連中でないことを祈りながら。パジャマの上にカーディガンを羽織り、多少回復した身体を拳銃で撃たれた松田勇作のように引きずり、鍵穴から外を覗いたが、姿形は見えず、念のため激しく具合が悪そうにゴホゴホ咳をしながらドアを開けてみると、何か小さな紙にメモしているしゃがみこんだ女がいた。女が顔を上げる。
それは、なんと姫野桃香、彼女だった。
げ!な、なんで・・・?
あたしの困惑をよそに、会社のときとはまた打って変わって、緩い三つ編みに地味なねずみ色のカットソーにオーバーオールを着た彼女は、いつもの天使のような微笑みを浮かべ、立ち上がると、
「良かった。メモ用紙とともに置いていこうと思ってたんですけど。
あの、これ・・・」
彼女が差し出したビニール袋には、たくさんのリンゴが入っていた。
「わたし、二、三日田舎帰ってて、あの、実家、東北のほうなんですけど。地元で採れたものなんですけど・・・。ご近所の方にいっぱいいただいちゃって。ちょうど、小野寺さん具合悪いって聞いたから、ぜひと思って・・・。すみません。住所は会社の方に聞きました」
「えーっ、何何。そんな。わざわざ家まで・・・。かなり面倒くさかったでしょ~。ずっと横になって寝てるだけだし、気を使うことなかったのに~」
思い切り、てめー余計なお世話なんだよ、的な感じが出てしまった・・・気がする。姫野桃香は、申し訳なさそうに、お休みのとこ邪魔しちゃってごめんなさい、と頭を下げた。
「じゃ・・・、失礼します」
彼女は、またぺこりと頭を下げて、その場を去ろうとした。
「あっ」
自分でもなぜか思わず出た声に、彼女が不思議そうな表情をして振り向いた。前に出た手も引き留めようとしてるみたいだ。やばいやばい。引っ込みがつかなくなってしまったぞ、あたし。どうしよ。そうだ。何でもない、気をつけて帰ってね、でいいじゃない。気を付けて帰ってねー。
「あー、んと、上がっていけばー?中汚いけど・・・。そのかわり、風邪移しても知らないからね」
どこをどう間違ったらそうなるのか、あたしの口は思わず勝手に、そんな風に言っていた。
「はい、お茶っ」
無意識に勢いづいて、ドンと、マグカップをテーブルの上に置いてしまったために、こじんまりと座っていた彼女の肩がびくりとなった。
断るかと思ったが、どう考えてもあたしの思いっ切りの社交辞令に、彼女はぱっと瞳を輝かせて、本当にいいんですか?お言葉に甘えてほんの少しだけお邪魔させてもらってもいいですか、そう言って、おずおずしながらも茶色のローファーを丁寧に揃えていそいそと家に上がった。しかし、覚悟が足りなかったというか、我が家のすさんだ状態は彼女の想像を遥かに超えていたようだ。彼女は、驚いて一瞬言葉を失ったようだったけど、正気を取り戻すと、
「えっと、たくさんものがあって、豊かでいいですね」
と苦し紛れのコメントをくれた。
まあ、確かに、偉そうに聞こえるかもしれないけど、片付けはできない女だ。あちこちに服が散乱し、空のコンビニ弁当やペットボトルが転がり、化粧品の落として割れたチークの粉が飛び散ったままで、話題になって購入したものの、一回しか使っていない通販の運動器具に、コーヒーのシミがついたフランス語会話の本、酔っぱらって踏んづけて割れたCDケースなどなどが、秩序なく散らばっている。大っ嫌いなゴキブリがわんさかいそうな気配すらある。
実際まあ結構ちょいちょいよく出るのだ。その度に昔は、ハジメに電話して、平日の夜中でも退治に来てなどとわがままなことを言っていた。ハジメは、面倒くさそうにしながらも、片道四十分くらいの道のりを、自転車を必死でこいでいつもちゃんと来てくれた。ハジメが到着したときにはすでに、ゴキブリはどこに隠れたか分からず、一安心できずじまいだったけど、それでも、来てくれたことが嬉しかった。
ハジメはどうしてもカオス状態の我が家では落ち着けないのらしく、一晩をこの部屋で過ごすことはなかったけど、それでもなるべく長い時間の滞在を試みようと努力してくれてはいた。
彼氏ですらそんななのだ。彼女、姫野桃香も、この家に踏み込んだことを、後悔してるに違いない。
「あ、お茶、す、すみません・・・。いただきます」
緊張しているのか、うわずった声で、彼女が言った。
「いや、こちらこそびびらせてごめん」
あたしは、彼女の向かいに座った。なんだか、妙に緊張感が強いられる。彼女が長い睫の茂った瞳を伏せて、お茶を飲む。このゴミ溜めに彼女という絵面は、なんだかシュール過ぎる。
「・・・あー、と・・・、実家帰ってたって・・・、なんかあったの?家族の誰かに不幸があったとか・・・、親戚の法事とか??」
それ以外に、訊くべきことは思いつかなかった。普通に話しかけられてほっとしたのか、彼女の肩の力が抜けたのが分かった。
「ええ・・・、はい。鋭いですね。実は、母が亡くなったんです。幼い頃から母とふたり、母子家庭だったんですが・・・。田舎に帰って、一人でしばらく母のお骨抱えたまま、ぼーっとしてしまいました。わたしの実家、かなり山奥なんですよ。家の近所で、狐とか狸とか猪とか見かけるくらい」
静かにそう言って、彼女はふふふっとおかしそうに笑ったが、あたしが笑えるはずがなかった。
母親の死なんて、それもたった一人きりの肉親の死なんて。どれだけショックの大きいことなんだろう。想像つかない。彼女、よく普通に動いてられる・・・。そういえば少しやつれた気はするけど。平常心を保つことさえ難しそうなのに。気丈に振る舞ってるだけ?
彼女は、ただただ静かで穏やかな空気を纏っていた。あたしは、まだ下がりきらない熱のせいでうまく回らない頭を働かせた。そして、普通でいるしか、どうしようもないのかもしれない、と思った。失われたものはどんなに嘆いていても返ってくることはないのだし、それまでと同じようにただ生活していくしかないのかもしれない。
あたしだって、つい昨日人生においてそれなりに大ピンチ、かなりショッキングな事件に出くわしたけど、まだ生きている。今日高熱を出しても、おかゆだって食べて生きていこうとしている。人間ってすごいななどと感じ、思わず自分の手のシワを確認する。
―――それにしても一体、彼女の故郷ってどんな場所だ。
あたしは、東京生まれ東京育ちだから、田舎ってのがどんなもんか知らない。親同士がどちらも一人っ子で、夏休みやお正月に行くような遠い田舎の親戚の家もなかったし。
ただ、昔好きだったアニメの日本昔話に出てくるような裏寂れた場所を思い浮かべて、彼女が一人孤独に木造の一軒家の畳の上にぽつんと座って、位牌を、母親のお骨を抱いて途方に暮れているところを想像してみた。特別、彼女に同情する気なんてなかったのに、暗闇が辺りを取り囲むと、部屋の中は冷たそうで、それはとてもとても耐えがたい孤独のように思えて、胸が締め付けられた。
「母親・・・、死んで淋しい?・・・って、当たり前か。淋しくないわけ、ないよね」
あたしは、独り言のように呟いた。
「いえ・・・。分かりません。確かに、いたはずのひとが、もうこの世のどこにもいないということに対して、言いようのない喪失感みたいなものはあります。でも、酷い母親でしたから・・・」
「酷い母親?」
「はい。わたしが幼い頃から、何人も男の人を家に連れてきて。今思えばお客を・・・とっていたんですかね。信じられない話かもしれませんが。その男の人たちは、大抵お酒の匂いがしました。狭い家だったから、隣の部屋からあの・・・その・・・声、が聞こえるんです。なんだかオットセイの泣き声みたいな間抜けな感じの。わざとわたしに聞こえるように大きな声を出してるんじゃないかとすら思いました。無力な子どものわたしは、部屋の隅で耳をふさいでうずくまっていました。母が連れてきた彼らは、よくわたしのことも変な目で見ていました・・・」
「―――も、もしかして、あんた、その男たちになんかされたんじゃ。襲われかけたとか、それでとっトラウマになって、しょ、しょっ・・・!」
頭で考えるより先に、言葉が出ていた。あたしの顔は青ざめていたと思う。彼女はあたしのほうを見て、ゆっくり首を振った。
「・・・・・・確かに何度か危険な目には遭いましたけれど、そこは、母親もわたしを庇ってくれました。そういうことがあると、二度とその男の人は家に入れないんです。母はすごく、若さとか、外見とか、自分の美貌を気にする女性だったから、女としてのプライドが傷つけられたからかな、とずっと思っていましたが、今考えてみると、やっぱり、わたし、それなりに愛されていたんですかね・・・」
「そっか・・・」
あたしは、思わずほっとして、その後、なんだかしんみりしてしまった。
自分が生まれ育った家は色気のかけらもない、まあ健康的な家庭だった。母親は、いつも家の中でブラジャーなんかつけてなかったし、化粧だって普段はとんどしないような人で、子どもが巣立って熟年に入った今のほうが逆に色気づいてるような気もするくらいだ。父親も、昔はパンツ一枚で歩き回ってたし。あたしもしょっちゅう、お風呂上がりにバスタオル一枚を巻いただけで、無防備に家の中をウロウロしてた。それは、もしかしたらとても幸せなことだったのかもしれない。
「まあ・・・。何にもされなくて良かったじゃない」
気休めになるのかならないのか分からないことを言ってみる。
「そうですね」
「うん、そうそう。なんかさ、極端な話、今の世の中、自分が何にもしてなくてもレイプされて殺されたりすることもあるしさ。ストーカーとか、通り魔とか、怖い事件いっぱいあるじゃん。そういうのに巻き込まれなかっただけでもさ」
あたしは、思い切り頭を上下に振った。
「そうですね。でも、言ってしまえば、男の人・・・って、目だけで犯せるんですよね・・・。わたし、何度も鳥肌が立って、心底震えが来て、こんな恐怖を味わうくらいならって、自分の存在自体消し去りたくなったことあります。自意識過剰だと思われるかもしれませんが、自分がいけないんじゃないかと嫌悪感と罪悪感にも悩まされましたし」
どきりとした。彼女の容姿に、犯せるなんて、その言葉はそぐわない気がした。でも、姫野桃香はいたって真面目な顔だった。
「・・・だけど、わたしも、ただ一人、母の恋人―――というより、もしかしたらお客と言ったほうが正しいのかもしれません。いえ、やっぱりもしかしたらではないですね。母はスーパーのレジ打ちや、クリーニング屋の店番などのパート勤めもしていましたが、それだけでは我が家はもっと苦しい生活を送ってたでしょうから。飢えてお店から盗むようなこともなく、人並みに衣食住に足りた生活を送らせて頂きましたし、小学校に上がったり、中学生になったりしたときの節目節目には、お古でもなく、新しい靴を履かせてもらい、新しい制服や体操着を着させてもらえたことには感謝しています。でも、子ども頃はよく分かっていませんでしたが、記憶が繋がって、いろんなことが分かってくると、そのお金の出所が決して堂々と公言できるところからではないなんて、なんとも苦々しい・・・言いようのない・・・複雑な気分ですよ。でも、あんな田舎なのに、ある意味すごいですよね。本当に、田舎なんですよ。小野寺さん、都会の生まれでしょう。見たらびっくりするんじゃないでしょうか。それはそうと、家に来る男性の中に、わたし、いいなと思うひとがいたんです。その人はおい、お前、とかじゃなく、いつもちゃんづけでわたしの名前を呼び、一人の人間として扱ってくれてる感じで、わたしが嫌がるだろうと気軽に頭を撫でるでもなく、半径一メートル以内には近づこうとしませんでしたし、彼の通ったあとは、お酒やタバコやまともに嗅いだら倒れそうなくらいの汗の臭いじゃなくて、いつも品のいい花の香りがしていました。母も特別気に入っていたようで、そのひとが来ると、なんだかいつもと違うんです。お化粧は普段から手を抜かない人でしたし、接する態度もどこがどうというわけではないですが、わたしには、分かったんです。母のまとう空気がはしゃいでいるのが。まあ母に会いに来ている以上、聖人君子のようなお綺麗な人間でもなかったのかもしれませんが。あるとき、わたし、夢の中でその人と会っていました。手をつないでも、抱き締められても、そのひとなら鳥肌が立たない気がしました。もしかしたら、精神的にわたし母を裏切って、そのひとと寝ていたようなものかもしれません・・・」
「・・・・・・」
何と言っていいのか、分からなかった。あたしは、お茶に手を伸ばした。熱のせいで口が渇いていたのもあって、あっという間に飲み干してしまい、彼女の器も空いているようだったので、彼女が遠慮する前に、
「入れようか」
と彼女の元にあったカップに手をかけた。そのとき、ばさばさっと音を立てて、黒い物体が電球に向かって飛んでいった。
「ひいっ。」
「きゃあっ。」
二人とも、すんごい悲鳴を上げた。彼女はとっさにあたしの腕に捕まった。
「大丈夫?」
「す、すみません。わたし、田舎育ちのくせにゴ、ゴキブリってホント苦手で・・・。ゴキブリですよね?今の」
あたしもだっちゅうの。黒い物体とは、まさにそれだった。常にぬらぬら黒光りして、濡れているような、湿っているような、それでいて動きが素早くて、たまに飛んで、沈黙しながらいつも人間を観察してるようで、ホント不気味な生き物。ゴキブリ。あーどう考えても、ダメだあ~。
しかし、頑張ってあたしは側にあった雑誌で壁を這い回っているそいつを叩いた。しかし、それだけでは死なず、ゴキの野郎は、半分潰れたままそこら当たりを動き回る。ひい。なんてグロテスク。ああ、こういうときこそ、ハジメがいればただ命令するだけでいいのに。そんなことを思っていると、彼女が、それお借りします、とあたしの手にあった雑誌を奪い取り、えいっとゴキめがけて振り下ろし、とどめの一撃を刺した。我に返ると、その雑誌は、あたしの大好きな佐藤浩一氏が載っていて、永久保存版にしようと思っていたものだった。泣ける。
ご臨終したゴキさま(命を奪ったので、一応敬っておこう)を、感触が直に伝わらないようティッシュを何重にもしておそるおそる掴み挙げ、ゴミ箱に放った。二人とも、ふうっと息を吐く。なんだか、二人係で相当な怪物を退治したって感じの、達成感。
「やっぱり、こういうとき、女だけだときついね~」
「す、すみません。最初すっかりお任せしちゃって。ちょっと意識が遠のきかけて」
「いいよ、いいよ。あたしも苦手だけど、慣れてないわけじゃないし。本気でやる気になればできるもんだ」
「わたしも、実家にいるときはよく見てたので、慣れていないことはないのですけど・・・。わりと整理整頓好きのA型なので、一人暮らし始めてからは、自分の部屋で見かけたことはなくって」
「あんたそれ・・・イヤミ?」
新しいお茶を入れながら、あたしが睨むと、彼女は慌てて手を振った。
「あっ、い、いえ、そういうわけじゃ。す、すみません」
テーブルに新しいお茶を置くと、あたしと彼女は、顔を見合わせて笑った。
「でも、わたし、昔実家にいたとき、素足で踏んだことあるんですよね。かなりのトラウマです」
「ひゃ~。それはきついね。あたしも靴で踏んだことはあって、それでも、うげーと思ったけど」
「あの感触は一生忘れられませんよ~」
「なんで、あんな生き物が存在するんだろね。って、ヤツらも好きで生まれついたワケじゃないとは思うけど。でも、元を辿れば、人類の祖先とか言うじゃない」
「はあ。ロマンチックじゃないというか。悲しくなりますね・・・」
「まだ、魚のほうがいいよ」
「ふふ。人魚姫は憧れますね」
なぜだか。あたしと彼女を取り巻く空気は、とても穏やかなものに変わってしまった。たわいもない会話が続く。しかし、あんた、A型だったの?周りのA型からするとなんか違うような~。ええっ、そうですか~?O型女子からするとね~、小野寺さんてO型なんですか、さすが人間的バランスいいですもんね、人間的バランスって何よ、人間的バランスって~なんて。そんなたわいもない会話。
まさか、姫野桃香と普通に普通の女友達とするような会話をする日が来るとは思わなかった。しかも、それを自分が結構楽しんでいるなんて。全く、人生何が起こるか、何がどういう風に転ぶか分からない。
そのにわかに信じがたいようなごく普通の会話がふと途切れた瞬間、彼女はどこか夢を見ているような遠い瞳をして、ぼんやりと、宙を眺めながら言った。
「わたし――――、男の人がいない場所に行きたいなあと思ったこと、ありますよ。そこは、女だけの楽園で、一日中何かに怯えることもなく、穏やかに・・・、心安らかに暮らせるんです」
その瞬間、あたしの目の前に、どこか南のほうの、太陽の光が降り注ぐ温かい国の、大きく鮮やかな緑色の植物の生い茂った、美しい景色がぱああっと広がった。突然、空を借り切った大型のスクリーンで3Dの映画でも始まったように、本当に鮮明すぎるほどの世界が、眼前に映し出されたんだ。圧倒されて、あたしは息をのんだ。
気がついたらあたしは、その景色を中から見ていた。小さなこびとにでもなった気分で、大きな葉の裏側を、中心から先まで広がる力強い葉脈を、見上げていた。虹色に輝く明るい光が差し込み、濃い葉の影を落としていた。そして今度は空を飛ぶように上から眺めていた。あちこちの緑という緑に光がきらきら反射して美しかった。そして、その中を無数の美しい女たちが生まれたままの姿で、何にも恥じらうことも臆することもなく、ゆっくり歩き回ったり、心地よさそうに眠ったりしていた。それはあまりにも自然で、あたしも臆することなどなかった。
それは――――――――、彼女が、夢見ていた景色?だったのだろうか。
冷静になると本当に妙な、奇妙な光景―――あまりにも不思議な感覚だったのだけれど、それがひとときの間、あたしの中にありありと広がっていたのは確かだった。我に返ると、姫野桃香と瞳が合った。
彼女は、ふふ、と意味深に笑った。また、秘密が増えましたね、とでも言いたそうに。何か分からないけれど、あたしと彼女は、あるいっとき、お互いの感覚や痛みを共有するかのように、確かに同調していたような気がする。
近くを通るパトカーの音で、現実に引き戻された。途端に、気恥ずかしさが襲ってくる。何か喋らねば、と思った。
「あ――、あたしも・・・・・・、女子校だったから・・・、なんとなく分からなくもないかなー。なんかさ、いつも彼氏欲しい~なんて騒いでたけど、実際そんなに深刻に思ってもなくて。女同士でわいわい話してるのが楽しくて。男の目を気にしないと変に緊張とかしなくていいし、楽だし、いつまでもそういうのが続けばいいなって本気で思ってたかも。あたし、自慢じゃないけど、結構女の子から手紙もらっちゃうようなタイプだったんだよね。髪もずっと短くて、ジーンズとか履いてると、小学生くらいまでどうかすると男の子に間違われるようなこともあったし。でも、だからって、あたし自身は別に女の子に興味が合ったわけでもないけど。けど、男なんかがさつで不潔でイヤーって思ってたときもあったな」
まだ十代の頃のあたし。どんどん遠い過去になるのに、それでもまだ生々しく自分の中にあるあたし。
「中学生の頃さ、それまで全く平気だったんだけど、急に父親が穢らわしく思えてしまったこともあったし。んで、ある朝、父親が自分の食べてた箸で親切にも納豆を混ぜてくれたことがあったの。それ見て思わず、汚い・・・って呟いちゃって。すごく傷つけたと思う。父親、じゃあ、自分でやりなさい、って言ってそれからやらなくなったんだけど。そのことを思い出すと、今でも胸が痛むんだけど・・・。けど、いつの間にかフツーに男と恋愛するようになってて、彼氏なんかも当たり前のようにできちゃってるんだよね。不思議だけど・・・。それと同じくして、父親のことも平気になった。今じゃ、つけ箸でも全然大丈夫だもん。でも、父親のほうが、いまだに意識してるかもね・・・。かわいそ」
そうだ。いつの間にかキスも、それ以上のこともなんとなくやってのけている。いつの間にか、男に対して抵抗なんて感じなくなってしまっていたけど。なんだか、とても懐かしく切ない感覚があたしの胸を過ぎった。
「あれ・・・」
彼女の声に目をやると、彼女の瞳からは、涙が溢れてきていた。
「すみません。どうして涙が出るのでしょうか・・・。あれ、おかしいな・・・。あれ・・・?」
目の前の彼女は、そう言って、自分でもなぜ泣いているのか分からずに戸惑っている様子のまま、大粒の涙をぽろぽろと流し続けた。
次の瞬間、あたしは、自分でもなぜだか分からないけど、ゆっくりと手を伸ばし、彼女を抱き締めていた。ぎゅうっと、強く・・・。彼女が壊れて消えてしまうくらいに。
彼女は小さくて、あたしの腕の中で震えていた。彼女の白い小さな手が、あたしの金魚模様のパジャマの上のカーディガンをぎゅっと握りしめていた。
どれくらい、そうしていたか分からない。カップの中のお茶はきっと完全に冷えてしまっていた。熱があったからだろうか。自分でもありえないことだったし、全てが、夢の中の出来事にも思えていた。
彼女が、「お母さん・・・」と小さな声で呟いた気がした。
熱が引くと、意外にハジメのことに関しての気持ちのほうも落ち着いていた。思い出しては胸が痛むというより、やっぱりムカムカしてしまったけれど、内蔵を引きずり出されるような、どうしようもないくらいのしんどさはなくなっていた。
風邪もなかなか治りきらず、土日に入ったので、ゆっくりゴロゴロ静養していると、また玄関のチャイムが鳴った。まさか休みの日まではとは思いつつも、今度こそ会社の人間か上司か?などとびくついていると、ヤツ大石ハジメだった。
「かさねちゃん。もう、大丈夫?おかゆ作って持ってきたんだけど・・・」
ヤツは、左手に持った愛嬌たっぷりのパンダのゆるキャラがプリントされた手提げ袋をちらつかせた。
「・・・・・・」
あたしは、くるりと背を向けて、ドアを閉めようとした。そこにがっとヤツが足を挟む。
「ちょ、ちょっと、新聞の勧誘じゃないんだから!」
「頼む。ちょっとでいいから、話を聞いてくれ」
「聞く話なんかない!大体あの日のうちに追っかけてくるとか、もっと早く訪ねてくるとか、ないの」
「かさねちゃん、俺のこと思い切り突き飛ばしたろ。それで、俺背骨机の角にぶつけて打撲して、しかも台風の中追いかけたら飛んできた看板が直撃して、病院行ったりしてたんだよ。携帯はつながらないし」
「そんなの、自業自得でしょ」
「わ、分かってるよ。悪いことした罰だと思ってる。だから、恨みがましいこと言ってるわけじゃないんだ。ただ、お願いだから、話だけは聞いて欲しいんだ」
あたしは、ヤツの必死さに根負けして、じゃあ、十五秒だけ、ということになった。はあ。あたしって、どこまで甘いんだか。腕組みをして、ヤツの前に立つ。
「おっ、俺、もう絶対しないから。本当の本当に、今度こそ気づいたんだよ。俺、結局いつも許してもらえるって、甘えがあったと思う。けど、さすがに今度の今度は失うかもって考えたら、もう死にたい気分で」
「簡単に死にたいとかいう人間信用できない」
「ごめん。でも、本当にそれくらいの気分だったんだ。俺が愛してるのは、かさねちゃんだけだから。許してください、この通り!」
手を合わせて頼みのポーズをしていたヤツが、突然地面に土下座した。
「簡単に土下座するようなヤツも信用できない」
そう言いながらも、その姿を見た瞬間、あたしの心の中には、聖母マリアのような慈悲深さが少し顔を覗かせていた。
かなりの葛藤があった。どうする?ホントにここで許していいの?また同じことの繰り返しじゃないの?浮気するヤツは何度でもするっていうし、絶対に変わることなんてありえないんじゃないの?この件を例えばYahoo!の知恵袋にでも投稿したら、回答してくれた百人が百人、やめといたほうがいいって言うよ。
・・・・・だけど、正直な気持ち。悔しいけど、まだ好き・・・この目の前のどうしようもない男が好きなのだ。
悔しいけど、すごくすごくすごくすごく悔しいけど、ヤツの細く長い腕の真ん中にあるごつっとした関節とか、血管の浮き出た感じとか、髪の毛の色素の具合とか皮膚の色とか質感とか、顔の輪郭とか瞳の形とか、笑った顔のシワの入り方とか、ちょっとなよっとしてるけど、意外と男らしいとこもあったりするとことか、あたしのことかさねちゃん、って呼ぶその声のトーンとか全て、実は多分、どツボもどツボ、どストライクだったんだもん。
――――話してから、ますますビッと来たし。性格がいいとか悪いとか、一概には言えないけど、波長が合って、なんかもう、あたしの感性にぴったりはまってたんだもん・・・。
って、ダメダメ。だって、あんなとこ見て、この先ずっとやっていけるの?冷静に考えてみてよ。無理じゃない。きっとまた思い出しては胸が痛むし、不安になるし、疑いもする。それで追いつめて、ギスギスして、気まずくなる。分かってる。だけど。
自分でもどう決断を下すのか、分からなかった。立ち尽くしたあたしの頭の中を、幻想の楽園が、ほんの一瞬だけ、過ぎっていった。
「ホントに、ごめん。ごめんなさい!ごめん、ごめん、ごめん、ごめん」
ヤツは、膝をついたまま、頭を地面にすりつけて謝り続ける。あーあ、周りの住人にも絶対聞こえてるよ。何回も謝ればいいってもんでもないってのに。こういう行為も完全に気持ちが冷めてしまっていたら、迷惑で憎しみの対象にしかならないだろう。
ヤツがいきなり、立ち上がった。そして、最後の一手とでもいうように、
「衝動買いは分かってるけど、これ・・・。まだ実際に結婚するのは先だとしても、受け取って欲しい。俺の中で生涯を共にするのは、かさねちゃんだって心は決まってるから」
差し出されたのは、なんとも、シルバーの指輪だった。そこそこ値段のするものだと分かる。女にとって結婚をちらつかせるのってずるいよなあと思いつつ、やはり心はときめいてしまう。思わず弛んだ表情を悟られないように引き締める。しかし、お金ないくせに、衝動買いしちゃって、ホントアホでバカだなあ。せめてあたしの許しを得てからにすればいいのに。完全拒否されたらどうする気だったんだろ。結婚なんかしたら不安でしようがないわ。
って、すでに結婚生活想像してるとこが自分もバカみたい。とてつもなく呆れかえってるのに、なのに、ふわふわの半熟オムライスの真ん中を割ったら黄身が流れ出るみたいに、心がとろりと溶けていったのが分かる。
大きなため息をつき、ったく、しようがないなあと呟くと、次の瞬間、あたしは、もういいよ、と言っていた。
「言っとくけど、指輪に釣られたんじゃないからね。(だいぶ釣られたかもだけど)なんて言えばいいんだろ。あーもう・・・一度知ってしまったから、元には戻れないからとか・・・、独りになるのが寂しいからこわいからとか、新しい恋愛を一から始めるのがしんどいからとか、そういうことでもなくて・・・」
「何?何のこと言ってるの・・・?かさねちゃん?」
ヤツが困惑したような声を出したけど、あたしはそれを無視した。
「まだぜんっぜん許せないけど・・・。まるで心のキズは癒えてないけど・・・。また同じ目に遭ったらって怖いけど・・・。しょうがないよね・・・。それでも・・・。好き、なんだもん・・・」
「かさねちゃん・・・!」
ヤツが顔を上げて、ぱあっと明るい声を出した。
「調子に乗らないでよ!」
あたしの戒めに、ヤツが再びしゅんとする。
「・・・あたしだって、ホントにキズつくんだからね・・・。家事が苦手だからって、がさつだからって、あんまり女の子っぽくないからって、あたしの心臓は硬くて、強くて、毛が生えてて、どんなことにも耐えられる超高性能高機能の心臓だとでも思ってる?そんなこと、あるわけないよ。そんな人間、どこ探したっていないよ・・・?」
「ごめん・・・!」
ヤツは、立ち上がってあたしをぎゅっと抱き締めた。悲しくなるくらい薄い胸板だけど、彼の中のあたしは、やっぱり小さい。自分が小さいと感じることが嬉しい。その胸は温かくて、日だまりにいるような匂いがする。
「あたしだって一応女の子だし・・・。すごく脆いところもあって・・・、キズつくんだからね・・・」
あたしがヤツの前で素直に泣いたのは、初めてだったかもしれない。ヤツは明らかに動揺していたけど、でも、さらにぎゅうっと強く抱き締めてくれた。胸がきゅうとなった。こんな風に抱き締めてすっぽりと包んでもらえるなら、やっぱり女の子で良かった・・・とすら思った。
その晩、ハジメはおそらく初めてあたしのゴミ屋敷に泊まった。それまで頑なにあたしのアパートで一晩過ごすことを拒んでいたのだけども。
山盛りの服を布団の上からどけ、ふたりでそっと横たわると、背中の打撲が痛むらしく、女の子みたいな悲鳴を上げたハジメがおかしくて、笑いが止まらなくなった。ハジメは、恨めしそうにあたしを見ながら言った。
「かさねちゃん、鬼畜・・・」
「当然の報いでしょ」
そうは言いながらも、ヤツの背中に湿布を貼ってあげた。
そんなわけで大人しく寝ることにしたけれど、あたしは、彼の腕の中で眠りにつけることに、感謝していた。心の奥のほうにまで温かく香りの良い紅茶を注がれたようで、とても澄んだ満たされた気持ちになった。ヤツの皮膚からもそういう熱が伝わってきた。そう、やっぱり、こんな感覚は、きっと愛し合ってる者同士にしか味わうことができないんだろう。
「俺、幸せだよ。今こうしてるの。ホント、ありがとう。俺、二度と裏切らない。これからはかさねちゃんのためだけに生きる。かさねちゃんのためなら何でもするよ」
この言葉が、どれくらいの期間持つのか分からないと、不安に思う気持ちもなくはないけど、信じるしかない。あたしって、ホントおめでたい。普通、マジメに、いい加減次の相手を探すなり、なんなりするよなあ・・・。友達が同じような状況の相談してきたら、間違いなく、そんな男きっぱり縁切りなって言うんだけどな。恋人を尊重しない男なんてろくでもない、ってさ。けど、惚れてるんだから、やっぱり、仕方ない。当分、腹いせにこきつかっちゃいそうだけど。
「・・・そういや、ゴッキーの死骸が入ってるから明日の朝ゴミ捨てお願い」
週明け、あたしは、姫野桃香が会社を辞めて故郷に帰ってしまったことを知った。単純にあたしが風邪を移してしまい、あたしの復帰と入れ違いに休んでいるとばかり思っていたのに。なんとなく気恥ずかしさもあり、あたしは薄情にもお見舞いに行かなかった。社の多くの女の子たちは、目障りな存在がいなくなってせいせいしたという感じだった。ほんの少し残念がっている子もいたけれど。
「結構、最初感じてたイメージとも違ってたんですよね、彼女。意外と面白いコだったかも」
社のファッション・リーダー佐野さん、通称さのっちは言った。さのっちは最近と別れたらしく、イメチェンなのか後ろをかなり短く刈り上げて前髪を立ち上げるという新しい髪型に挑戦していたが、それはちょっと斬新過ぎる気もした。だけど、とりあえず女はたくましい。
あたしがなんとなくぽっかりと空いた姫野桃香の机を眺めていると、
「なんか、母親の位牌守るひとがいないからって・・・言ってましたね。姫野さん」
隣の席の宮内信子がぼそりと呟いた。
姫野桃香の机を眺める度に、あたしは切ない気持ちになった。考えすぎだろうけれど、それを察して慰めるかのように、隣の席の宮内信子が話しかけてきた。
「ちょっと、聞いてくださいよ」
「何?また何か見たの?」
まさかまた、と警戒してドキドキ緊張していると、
「実は、わたしの描いたものが商業誌に掲載されたんですよ~」
と、カバンの中から、彼女、こっそりマンガを取り出して来た。
「えーっ。すごいじゃん。見せて、見せて」
「みんなに見えないようにですよ」
「分かってるってば」
机の下でぺらぺら捲ると、そこにはやたら美形の男同士が絡み合っている絵が目に付いた。目がちかちかした。こ、これって、もしかして、いわゆるやおいとかBLとか言われる雑誌?
「こ、こういう趣味あったんだ。宮内さん・・・」
宮内信子は、メガネを光らせて頷いた。
「姫野さんもでしたけどね。まさかとは思いましたが。たまたまあるアニメの、かなりレアなドラマCDの初回限定付録のカードケース持ってるの見かけて、思わず話しかけたら、妙に意気投合してしまいました。ただ、微妙に対立したキャラクターが好きで、言い合いになったりもしましたが。まあ、分かりやすく説明すると、三国志で劉備派と曹操派に分かれるようなもんです。どちらがネコでどちらがタチかでもめたこともありました」
「はああ。そですか」
世の中、いろんな趣味の人間がいるもんだ。
しかし、宮内信子は、いつになく嬉しそうで、ちょっとかわいいじゃない、などと思ってしまった。
「いやー、あんまり嬉しかったから、つい自慢してしまいました。一応、規則的には副業禁止だから、周りには内緒ですよ」
「はいはい。分かってるよ。秘密はお互い様」
どうやらあたしは、宮内信子とも秘密を共有する仲になってしまったようだ。
仕事に集中しようとしていると、宮内信子がぼそりと言った。
「そういえば、姫野さんが描く女の人は、小野寺さんにどことなく似てたんですよね・・・」
姫野桃香がくれたリンゴはとても甘かった。中には蜜がたっぷり入っていた。その昔、聖書の中で、アダムとイブがその実を食べ、楽園を追放されることとなったという、禁断の甘い果実。全てのリンゴを食べ終える頃には、また日常に紛れ、あたしは、彼女のことをまるで考えなくなってしまった。
秋が訪れていた。その日、ハジメのマンションで、旅の情報番組を見ながら、やっぱり紅葉の綺麗な時期に旅行行きたいな~などと思いつつ、彼の作ったオムライスを食べていると(あたしはなにげにオムライスが大好物なのだ)、
「そういえばさー、姫野さんって、いたじゃん。って、もういなくなってすごい経つような気がするんだけど。なにげにすげーよな。あとで分かったことだけど、社の男片っ端から誘っては、寸前でごめんなさいって逃げてるんだぜ」
あたしは、思わず、噛むのを忘れて口に入れた分を丸呑みしてしまった。
「ゴホゴホ。ゲッホ」
「大丈夫?かさねちゃん!」
ハジメが慌ててあたしの背中をさすった。彼に背中をさすられながら、苦しいのは勿論なんだけど、あたしは笑っていた。
―――――やっぱ、ただもんじゃねーわ。あの女。
ピンク色の甘い蜜がたっぷり入った可憐なお花だと思ってたら、擬態した毒花だったか、みたいな。
「何笑ってるんだよー。かさねちゃんってば。でも・・・。俺、ちょっと彼女の件でいろいろと自信なくしたよ。言っておくけど、これは別に彼女が好きだったからとか、未練とか全くそういうんじゃないからね。でも、ホント俺・・・、なんか姫野さんによほど嫌われるようなことしたかなあ・・・。結構、親切にしたつもりだったんだけどなあ。なぜか社内で、あのエロい加藤さんと俺だけ誘われなかったんだよなあ・・・」
ヤツがいじけながらそう言うので、あたしはさらに笑ってしまった。
「いーじゃん、あたしがいれば」
あたしは、彼の後ろから手を回して、彼の頬に自分の頬をくっつけた。あたしの指にはキラキラのリングが光っている。しかし、その実、密かにあたしは、いつかこれをヤツに突き返して自分だけ幸せになる日を夢見ている。
「そうだけどさ・・・」
彼は、男としての自信をだいぶ喪失してるようだ。でも、それくらいのほうが、当分大人しくしてそうだから、いいかもしれない。
「それより、お水、あ、冷たいお茶がいいな。冷蔵庫にあるの持って来てっ。氷も二、三個入れてね」
「はいはい、かさね女王様」
彼が立ち上がって、台所のほうに向かった。あたしは、笑いが止まらなかった。
それは、彼女にとっての男への?過去への?復讐なのか、なんなのかは分からないが―――――、彼女はいまだ、傷ついた、いや傷つくのに臆病な女の子たちの楽園にいるのだろうか。そして、彼女がそこを出る日が近いのかどうかは神のみぞ知るのである。
ものすごく久々に読み返して、懐かしい気持ちになりました。少しでも共感してくれる人がいたらいいなあと思いました。