5日後の星空
老人がこの『迷宮』に来たときは風の魔術で防壁を作り、身に纏ってここに流れ着いた。
その際に水の流れの激しさや風の魔術防壁を維持する難しさなどを経験した。どれ程ほどの時間を流されていたのか判らないがかなりの集中力と体力を使った。
『迷宮』を出るに当たって流れ着いたときと同じように風の魔術防壁を身に纏い、浮遊魔術と併用で川を上ることも考えた。
しかし、『塔』に上るには途中に大きな滝があり常に上から水が落ちてくる。その水圧に耐えながら魔術を維持するのは至難の業だ。よって川を上ることはできない。そうなると川を下るのがもう一つの方法でもあった。
川を下る場合は激しい水の流れに長時間風の魔術防壁を維持する必要があるがそれは難しい。滝などがあった場合は浮遊魔術も使用しなければならない。咄嗟に反応できなければそのまま滝壺へ落ちてしまう。
そう言った厳しい条件があるため、川を下る選択肢は今までなかった。
しかし、男が作成した眷属粘性動物を使えばその問題を解決できる。
眷属粘性動物は術者の力量にもよるが複数操作することができる。また、収集する情報に制限をかければその分術者の負担が減り、疲労を抑えられる。
それらの特性と粘液生物の粘液で船を造れば川を下ることが可能になる。
川を下る際に船を粘液生物の粘液で作成する。通常の船の形ではなく球状の物を作りその中に人が入るのだ。この形状なら仮に船が沈んでも浮力で浮き上がることができる。
船なら風の魔術による防壁を使用する必要がなくなるので魔力を無駄に消費しなくてすむ。ただし、浮力のことを考えると一人乗りが一番好ましい。二人乗りにしてしまうとその分船が大きくなり、障害物に接触しやすくなってしまう。
周囲の警戒については眷属粘性動物を設置する。川の中に魔物がいる可能性もあるので、周囲の警戒用の眷属粘性動物を設置する。
先行偵察用の眷属粘性動物も使用する。川の先の状況を判るようにして滝や大きな障害物があった場合、対処ができるようにするためだ。
今まで『迷宮』を探索し続け、出口が見つからないことも考えると、この方法が一番『迷宮』を出るのに適していると言える。
最大の問題は地上までの距離がどれくらいあるかだ。仮に海まで繋がっていた場合、この都市から一番近い海まで徒歩で十日かかる。そうなるとかなりの時間川を下ることになる。精神的負担や肉体的負担を強いることが予想できる。
もう七十歳を過ぎた老人にそこまでの距離を移動することはできない。
男が眷属粘性動物を作成し、性能を知ったときにこのプランを思いついた。むやみに『迷宮』を探索するよりは高確率で『迷宮』を出ることができる。
しかし、自分は歳を取りすぎた。魔力量や集中力はまだまだ自信はあるがそれは短期的なものだ。長期的な魔力の操作はもうできない。仮に挑戦したとしても十中八九失敗するだろう。
それに今は昔ほどこの迷宮を出たいとは思わなくなっていた。
二十年前に男に会い、いろいろ世話をしてきた。最初は人恋しさから面倒を見ていた。だが、男の復讐を知り、それに向かう姿勢を見ていて、次第にこの男を育て、導きたい気持ちになっていった。復讐だけが全てではない。人生はもっと有意義に過ごしてもいいと教えたかった。
男に魔術や勉学を教えるのはとても楽しかった。『迷宮』の出口を探索する日々も充実していた。魔物との戦闘は何が起きるか判らない緊張感はあった。しかし、男とパーティーを組んでからは安心感があった。ずっと一人で戦ってきた老人にとって男は最初で最後の仲間だった。
弟子であり仲間である男との生活は、子供の頃に家族と過ごした日々と同じくらい暖かく優しい日々だった。
その日々を失うことを老人はひどく恐れてしまった。川を下って『迷宮』を出るのは老人には無理だ。この方法を男に教えれば男は一人で『迷宮』から出て行ってしまうかもしれない。男が『迷宮』を出ていったら老人はこの『迷宮』に一人残されてしまう。
また、あの孤独に戻ってしまう。
その恐怖から脱出方法を告げることはできなかった。死ぬことを前提で一緒に同行してもよかったかもしれない。だが、自分が足手まといになり男も巻き込まれたときは死んでも死にきれない。
その思いから死ぬ直前まで伝えることができなかった。最初に約束したことを破ってしまった。男の思いを無視して自分の思いを優先してしまった。
老人は川を下る方法とそれを黙っていた理由を男に話し謝罪した。
「すまない。許してくれ。
いや、許さなくてもいい。だが、謝らせてくれ。今まで黙っていたことを。儂の最後の我が儘じゃ」
老人は男からの侮蔑も悪態も罵詈雑言も全て受け入れるつもりだ。自分は男の友人と同じ様に裏切ったのだから。
「――俺はあなたを心から敬愛している。今更そのようなことを言われても困る」
暫くの沈黙の後の男からの言葉は老人が思っていたものとは違っていた。少し困ったような声色で男は続けた。
「元々は二人でここから出られる方法を探していた。俺も数日とはいえこの『迷宮』を一人で彷徨った。あの孤独感と絶望をもう一度味わいたくないし、あなたに味わわせることもしない。
それにおこがましいと思われるかもしれないが俺にとってあなたは友人であり、仲間であり、師として接してきたが、父親のようにも慕っていた」
男の言葉を聞き老人は驚きを隠せなかった。男は嘘をついているようには見えない。本心から老人を慕っていた。
男の言葉は更に続いた。
「俺には父親の記憶はない。前に話した通り、幼い頃に死んでしまった。幼い頃は友達の父親が羨ましくて仕方がなかった。この『迷宮』であなたに会い様々なことを教えて貰った。教えて乞ううちに俺はあなたを父親と思うようになってしまった。
今まで言えなかったが本当は父と呼びたかった」
「――儂がお主の父親か。そうか、そうか。
こんなに嬉しいことは生きていて始めてじゃ。神がこの世にいるのなら最後にこんな嬉しい贈り物を授けてくれたことに感謝せねばならん」
老人の目から止めどなく涙が流れた。嬉しくて仕方がなかった。この想いは自分だけでなく、男も共有していたからだ。この『迷宮』に来たことは老人にとって不幸な出来事ではなかった。
老人には家族はいない。故郷に兄と妹がいるがずっと独り身だった。人生の最後に息子を得ることができた。十分満たされた人生だった。悔いはない。あるのは息子が幸せな人生を歩んで欲しいと願う想いだけだ。
男はこれから復讐に身を焦がし、それだけに人生をつぎ込む『悲しい生き方』をするだろう。復讐を止めろとは言えないがせめて復讐が終わった後は心安らぐ日々を送ってほしい。願わくは幸ある人生を送ってほしいと心から願っていた。
「儂はもう満足じゃ。生涯得ることはないと思った息子ができた。儂の人生に悔いはない。方法は先ほど教えた通りだ。このまま行ってくれ」
老人は男に『迷宮』から出て行くように奨めた。だが男は首を横に振った。
「――父親を一人残してはいけないよ。何があっても最後まで一緒にここにいる」
照れくさそうに男は老人を父と呼んだ。血は繋がっていないが男にとって老人は紛れもなく父親だ。もう二度と言えないと思い老人を父と呼んだ。
「そうか、物好きな息子だ。なら最後にお前に全てを譲ろう。父からの最後の餞別じゃ」
老人は自分の持ち物の鞄を男に差し出した。自分が所持している全ての物を男に譲るために最後の呪文を唱えた。
『魔導鞄契約者譲渡』
老人が呪文を唱えると持っていた鞄が光り始めた。光は鞄から離れると徐々に収束して親指ほどになった。親指ほどの光は男の元へ行き体の中に入っていった。
魔導鞄。魔導小物入れ。これらは冒険者に取って必須アイテムだ。このアイテムらは『迷宮』のとある魔物が所持しており、討伐した際にドロップ品として出現することがある。
魔導鞄と魔導小物入れのどちらが出るかは完全にランダムだが、比率的に魔導小物入れの方が多く出現する。
この魔導鞄と魔導小物入れは不思議なことに体積よりも多くのものが入る。
魔導小物入れはベットくらいの体積分は余裕で入り、魔導鞄は一部屋分の体積分を入れることができる。
冒険者は予備の武器や防具を常に携帯しておく必要がある。主要装備が破損した場合、抗戦するにしろ撤退するにしろ、武器や防具がなくては始まらない。そのため予備の武器は必需品だ。
予備の武器を保管するためと、『塔』で採取した鉱石や植物、魔物の素材などを保管し持ち帰るのにこのアイテムは必需品だ。
冒険者はまずこのどちらかを所持して初めて一人前とみなされる。所持している魔物は初心者ではまず行くことができない階層に生息し、容易に倒せる魔物でもない。
貴重品のため市場にはまず流通しないし、引退した冒険者の物はギルドで買い取り商人たちへ売る。商人にとっても喉から手が出るほど所持したい品だ。海千山千の商人相手に初心者冒険者が割り込んで買えることはできない。
老人の魔導鞄の中には様々な物が入っている。日用品や金銭は勿論、『塔』で仕留めた魔物の素材やこの『迷宮』で見つけた鉱石や薬草が入っている。そして何よりの財産は賢者と呼ばれた老人が作成した魔術の術式が書かれている書物だ。
これには老人が今まで積み重ねてきた数々の術式や魔術に関する理論が記載されている。魔術師ならどんなことをしてでも手に入れたい品であった。
また、老人の魔導鞄は貴重な品で、他の魔導鞄とは違う。保管できる容量が豪邸を入れることができるほどの容量があるレアアイテムだ。
それらのことを考えると、一体どれほどの量が入っているかは判らない。また、それらを換金したときの値段は果たして一体幾らになるのか想像もできない。その遺産を全て男に譲渡したのだ。
「こんな貴重な物を貰っていいのか?」
「構わない。お前には目的があるだろう。それに使うがいい。だが、復讐だけに囚われるな。お前さんが身につけた力は人を幸せにもできる力でもある」
「――判った。ここを出たら復讐以外にも目を向けるよ」
「ああ、それがいい。無理に自分の感情を抑え込む必要もないが、囚われ過ぎるなよ」
もうこれで男に教えることは何一つなくなった。
唯一心残りは兄妹の存在だ。兄も妹もいい歳だ。自分より先に逝ったのだろうか。それともまだ元気で暮らしているのか。
兄と妹に最後にあったのは『迷宮』に来る三ヶ月前になる。そのときは二人とも結婚をして子供も授かっていた。運が良ければまだ生きている。兄の子供は家業を継いでいるはずだ。
急に連絡が付かなくなったから兄と妹には心配をかけただろう。もし、あの世で会えるのなら最初に謝ろう。そして、この『迷宮』での出来事を話そう。きっと今までで一番良い土産話になる。『迷宮』で出会った息子の話を思う存分しよう。
「どうかしたか? どこか痛いところでもあるのか?」
急に黙ってしまった老人に男は心配そうに声をかけた。
「大丈夫じゃよ。少し昔のことを思い出していた。今まで過ごしてきた儂の人生を……」
「ならいいが……」
「心配性じゃな。出会ったときとは立場が逆になってしまったのう」
老人は微笑みながら、楽しそうに、出会ったときの昔話を始めた。男も出会ったときのことを思い出しながら話に花を咲かせた。
二人は長い時間、思い出を話し合った。この『迷宮』での生活や『迷宮』の外でのこと。楽しかったこと。嬉しかったこと。腹が立ったこと。など今までのことを話し合った。
そして最後のときは訪れた。
「随分と話し込んでしまったな」
「俺はまだ話し足りないけれど……少し休むか?」
「ああ、眠くなってきたし、少し休ませて貰う」
「――お休み。父さん」
「ああ、お休み。息子よ」
老人は最後にそう言い瞼を閉じた、暫くは老人の安らかな寝息が続いた。
男は老人の寝顔を眺めていた。また、目を開けて話をしたいと願ったがその願いは叶わなかった。老人の安らかな寝息が途絶えたのだ。
老人が息を引き取った五日後、男は海辺にいた。
満天の星空を見上げ涙を流していた。
プロローグは終了です。
次章より「人としての時間」を投稿します。
2020年9月21日に誤字脱字と文章の校正を修正しました。