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迷宮の底で復讐を誓う  作者: 村上 優司
越冬者としての時間
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大都市アルカリス 冬の市場

 アルカリスで初雪が観測されてから一ヶ月後、都市は白銀の世界となっていた。アルカリスは豪雪地域にあるが故に雪の量は多く、建物が雪に埋もれ幻想的な風景になっていた。始めてアルカリスを訪れた人はこの雪の量に大いに戸惑い、住人達は毎年のことながら除雪作業に追われていた。


 アルカリスは他の都市と違い利便性や気候状況を検討して作られた都市ではない。『塔』があるがゆえに作られた都市なのでこのような状況になる。この寒さと雪の量に命を落とす者も少なからずいた。貧しい者は暖をとることができず、冬の寒さに恐怖していた。


 ベネットもそうだった。今までベネットが住んでいた部屋はとても小さく作りも粗末だった。壁は薄く穴も空いていた。隙間風はとても冷たくベネットの体温を容赦なく奪っていた。ベネットは捨てられていた服や布をかき集めなんとか身を守っていた。しかし、トリスに引き取られてからは状況が一変した。


 ベネットに与えられた部屋は簡素だが作りはしっかりとしていた。与えられた寝具は綿や羽毛がふんだんに使われとても温かい。今年の冬はベネットにとって恐れるモノではなくなっていた。


「……っ」


 明け方ベネットは尿意を感じて目を覚ました。布団から顔を出すと部屋の冷気があたり布団の中に潜り混みたくなるが、このままここにいては漏らしてしまう。冬場に布団を汚してしまうのはフレイヤやローザに申し訳が立たず、それに恥ずかしい思いもあるので寒さに耐えながら部屋をでた。


 時刻は日の出を少し過ぎた時間のようで空はまだ薄暗い。屋敷の廊下も暗いが生活している場所なので問題なく手洗い場に行くことができた。手洗い場で用を済ませたベネットは部屋に戻りもう一度眠りにつこうとした。しかし、ベネットの耳に奇妙な音が聞こえた。


 ベネットは反射的に耳を澄ませるとその音は風を切るような鋭い音だった。庭の方から聞こえてくるその音にベネットの好奇心が刺激され無意識にベネットの足は庭に向かっていた。


「!?」


 庭の近くにある窓から庭を覗いてみるとそこには信じられない光景が見えた。庭にはトリスがいた。屋敷の中にいるベネットでも震えるほどの寒さなのに、トリスは薄手の稽古着を着て一人で剣を振るっていた。両手に持った剣を巧みに扱い、まるで舞踊のように稽古をしていた。


 稽古着は既にトリスの汗で濡れて身体に張り付いているが、トリスはそんなことを気にした様子もなく黙々と剣を振るっている。雪が降り積もり、土から霜柱ができるほどの寒さなのにトリスの動きは素人のベネットが見ても洗練されていた。


「そんな格好で立っていると風邪をひくぞ」


 ベネットがトリスの動きに見惚れているとトリスが声をかけてきた。雇主のトリスから声をかけられベネットは慌てて庭に出ようとしたが、それよりも早くトリスは庭に続く扉を開けた。


「早起きだな、ベネット。何か用事でもあったのか?」

「い、いえ。お手洗いに行きたくて目を覚ましただけです」

「そうか。なら、早く部屋に戻れ。まだ、日が昇ったばかりだ。フレイヤ達も暫くは起きてこないはずだ」


 冬場は日が短いため、フレイヤ達は夏場よりも遅い時間に起きることになっている。もう一眠りするぐらいの時間は十分にある。


「トリスさんはどうするんですか? 稽古に戻るのですか?」

「いや、稽古はもう十分だ。これから市場にいく」

「市場? 冬に市場が開いているのですか?」

「冬でも一部の市場は開いているぞ。冬は魚を凍らせて保存することができるから、サリーシャから多くの魚が搬入される。冬にしか食べられない魚も……」


 トリスが冬の市場について話をしているとベネットの食欲が刺激されてしまったようで、ベネットの小さなお腹が鳴った。自分のお腹の音がトリスに聞かれてしまいベネットの顔はみるみると真っ赤になった。


「あの、これは、その……」

「――魚に興味があるならベネットも一緒に市場にいくか?」


 トリスは敢えて当たり障りのない質問をベネットにした。ベネットはトリスの魅力的な提案に頷くしかなかった。




 稽古着から外出着に着替えたトリスと寝間着から外出着に着替えたベネットは揃って出かけた。フレイヤ達はまだ寝ていたので書き置きだけ残して二人は市場に向かった。まだ、薄暗い朝の都市はいつもの風景が嘘に思えるほど静かだった。


「都市がこんなに静かなんて始めて知りました」

「冬の朝だからな。それに人が起きると薪や洋燈を使用する。薪や洋燈の油も消耗品だ。節約できることに超したことはないから無理に早起きする必要はない」

「なら、トリスさんはどうして早起きして稽古をしていたんですか?」

「冬に戦うときのことを考えての稽古と久しぶりに静かな環境で稽古をしたかった。家で剣を振るうと誰かが声をかけてくるからな」

「ダグラスさん、朔夜さん、クレアお姉ちゃんにヴァンお兄ちゃんにエルお姉ちゃんが必ず声をかけますね。それとジョセフお兄ちゃんも稽古をつけて欲しいと家にきますね」

「一緒に稽古をするのは嫌じゃないが、一人で剣を振るいたいときもある。それと市場で売られているスープを食べる前の腹ごなしだ」

「スープ? 市場のスープは美味しいのですか? ローザさんのスープよりも美味しいのですか?」

「ローザやフレイヤの料理の方がずっと美味い。市場のスープは大味で素朴な味付けだ」

「なら、どうして早起きしてまで食べように行くのですか?」


 ベネットの質問にトリスはただ「好きなんだ」としか答えなかった。トリスの要領を得ない回答にベネットは疑問を持ったが、誰も知らないトリスの好みを知れたことが嬉しくてそれ以上トリスを問い詰めることはしなかった。


 その後はトリスのベネットは他愛ない話をしながら南区画の市場に向かった。南区画に近づくにつれて次第に人通りが多くなってきた。


「トリスさん、トリスさん。何かいい匂いがしてきました」

「市場にある食堂や露店の匂いだ。魚を卸しにきた業者や商人達用に販売されている。金を払えば一般人でも食べられるぞ」


 トリスの言葉と市場から流れてくる匂いベネットの食欲はますます刺激された。ベネットは必死に空腹を我慢するが、市場に辿り着くとその我慢が限界に近づいた。


「さあさあ、本日届いたばかりの魚と貝はどうだい。炭で焼いて塩で食べるのもよし、魚醤ぎょしょうをつけて食べてもいいぞ」

「魚と海藻のスープはどうですか。身体の内側から温めてくれるよ。今なら大銅貨一枚でお代わりをつけるよ」

「白身魚と貝のワイン蒸しはどうだい。貝と酒気の旨味が魚と合わさって冬にこれを食べないと損をするよ」


 市場はベネットが思っていた以上に賑わっていた。魚や貝を売る店もあれば、入荷したばかりの魚を調理して提供する店もある。他にも海藻や干物などを売る店や冬野菜を売る店もあった。ベネットは沢山ある店の中で最初に興味を示したのは、果物の加工品を売っていた店だった。


 ベネットが興味深そうに見つめているので、店の店主がベネットに声をかけてきた。


「お嬢ちゃんお使いか? 朝早く偉いね。うちの店に何かようかい?」

「ち、違います。お家の人と一緒にきています。市場の食堂にご飯を食べに来たんです」

「市場の食堂に子供連れでくるのは珍しいね。でも、この時間で外食するならここしかないね。食前にうちのジュースでも飲んでいくかい?」

「あ、大丈夫で……」

「貰おう。何かお薦めの飲物はあるか?」


 店主の好意をベネットが断ろうとしたが、それよりもはやくトリスが返事をした。


「今なら今年の秋に作った出来たての林檎と葡萄のジュースがあるぞ。コップ一杯で銅貨二枚だ。二杯買ってくれるなら銅貨三枚だ」

「なら、俺は林檎を貰おう。ベネットはどうする? 飲みたい物を注文していいぞ」

「は、はい。私は葡萄のジュースを下さい」

「毎度あり」


 店主は素焼きのコップに林檎と葡萄のジュースを注いでトリスとベネットに渡した。トリスは銅貨三枚を店主に渡して早速飲んでみた。林檎の甘味が丁度よく、稽古で疲労した身体に林檎のジュースはとても美味しかった。


「美味しいです」


 隣で葡萄のジュースを飲んだベネットも葡萄のジュースを気に入ったようで喜んで飲んでいる。ベネットが喜んでいるのをみた店主は商人らしく幾つかの商品をトリスに薦めてきた。この店はジュースの他にも果物や野菜の加工品を取り扱っておりそれらをトリスに薦めた。


 トリスは最初は断ろうとしたが、フレイヤ達の土産になると思い幾つかの商品を購入した。ベネットにも幾つか土産を選ばせ、土産を購入したトリスは当初の目的だった市場の食堂に向かいベネットもそれに続いた。


「お、こんな場所で会うなんて奇遇だな」

「おはようございます」


 市場の食堂に入るとトリスは鍛冶屋の親方とリズがテーブルで食事をしていた。二人も市場に買物に来たようで足下には食材が入った篭が置かれていた。


「おはよう。朝早くから食料の買い出しか?」

「ああ、食材を昨日で切らしてな。どうせなら食材の買い出しと朝飯を一緒に済ませようと思って市場に来たのさ。それよりもそこにいる女の子は誰だ? あんたの娘か?」

「違うぞ。俺が引き取った娘でベネットだ。ベネット、こちらは俺の剣やクレア達の剣を作っている鍛冶屋の親方とその弟子のリズだ。挨拶しろ」

「始めましてベネットです」

「おう、よろしくな」

「リズです。よろしくです」

「よければ相席していくか?」

「それは助かる。他に空いている席もないから相席させてくれ」


 トリスは親方の誘いにのり親方と同じテーブルに座った。トリスは食堂の壁に貼ってあるメニューからお目当てのスープと幾つかの料理を注文した。


「朝からよく食べるな」

「稽古を終えた後なので」

「こんな寒い日に朝から稽古とは感心するべきか、それとも呆れるべきなのか」

「お互い様だ。そっちも冬なのにこの後は仕事だろ?」

「どっかの誰かさんが武器を大量に依頼してくれたおかげで、こっちとら貧乏暇なしだ」

「それはよかったな」


 トリスと親方が他愛ない話をしている傍ら、ベネットとリズも歳が近いこともあって話が弾んでいた。二人とも孤児であったがトリスや親方に拾われた共通点があるのですぐに打ち解けた。


「ご注文お待ち!」


 トリスが注文した料理が出来上がりテーブルに所狭しと置かれた。親方の言う通り朝から食べるには多すぎる料理だが、トリスは一人だけで食べるつもりはなかった。


「親方とリズもよければ一緒に食べないか」

「いいのか?」

「精をつけて早くクレア達の武器を仕上げてくれ」

「そう言うことなら遠慮なく頂くぜ」


 親方とリズはトリスに感謝しながら料理に手をつけた。ベネットもトリスに感謝しながら料理を口に運んだ。ベネットが最初に口をつけたのがトリスが食べたがっていたスープだ。魚と根野菜が入った素朴なスープで、味付けと塩と僅かな調味料だけだった。


 スープを一口飲んでみると予想通り素朴で単純な味だった。不味まずくはないがフレイヤやローザが作る料理と比べると格段に味が劣る。でも、不思議と食べたくなる。このスープにはそんな魅力があった。素朴な味付けのスープがどうしてこんなにも気になるのかベネットには判らなかった。けど、料理は美味しさを求めるだけではないと始めてしった。


(料理って奥が深い。エミール先生ならこのスープの魅力を知っているのかな?)


 ベネットは今度エミールから料理を教わる。もしかしたらエミールならこのスープの秘密を知っているかもしれないと思い、次にエミールにあったときに尋ねることを決めた。


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