大都市アルカリス 教会の学舎
「この本には創造神様が世界を創造したときのことが書かれています。既にお母さんやお父さんから教わっていると人もいると思いますが、この本を読むのは文字の練習です。この本に書かれている文字や単語は一般生活で使用される語句が多いので文字の勉強にはうってつけなのです。だから、冬が終わる前には読めるようにしましょう」
東区画にある創造神を祀る教会で一人の女性教師が大勢の子供達に文字を教えていた。五歳から十歳までの男子女子の子供達は渡された本を見ながら必死に文字を学んでいた。ここで文字を覚えなければ今後の生活が大きく変わってくることを子供達は知っているからだ。
インフェリス国の識字率は八割とされており、この数値は他の国よりも高い。国全体で識字率の向上に取り組んでいることもあるが、それよりもこの国の歴史が若いことと建国の理由があった。
この国の成り立ちは傭兵団の団員が探検家として活動したことが切っ掛けだ。初代国王であるアルカリス・インフェリスの生まれは王族でも貴族でもない。商人の息子だ。平民に野菜を売る商人の息子で高貴な血縁とは無縁の存在だった。王妃であるリサリア・インフェリスも明確な出自は不明だが、農民の子供だと言われている。
アルカリスとともに国を作った重鎮達も平民が多く、高貴な血筋とはいえなかった。そんな彼らは建国の祖として国民から崇められているがそれだけだ。この国の王族や貴族は建国の理由を知っているため自らの血を高貴とは思っていない。歴史を遡れば只の農民や商人だ。そのため他の国とは違い血筋を重んじることよりも能力を重んじる傾向が強い。
建国した国王や重鎮達は平民でありながら他の誰よりも好奇心が強かっただけだ。未知の場所への好奇心と勇気が彼らの秀でた能力だった。それはアルカリス・インフェリスが自ら認めていた。
『私が国を作れたのは他の誰よりも好奇心があったからだ。高貴な血に連なる者でもなければ、唯一無二の能力があったわけではない。この未開の地を訪れたい好奇心、いや欲望に支配されたからこの場所に辿り着いた。この国ができたのはそんな好奇心という名の欲望が作り上げたものだ。だからこの国に住む者は欲望に忠実であって欲しい。人に害をなす欲望は淘汰されるが、未知への挑戦や探求などの欲望は淘汰されない』
アルカリス・インフェリスの建国時の演説はそのように始まり、この国での価値は血筋ではないと国王自らがそう宣言した。それにインフェリス王国の経済を支えているのは冒険者だ。冒険者が『塔』から採取する魔鉱石や魔物の素材がなくしてこの国は立ち行かない。ゆえに血筋よりも能力がこの国では重宝される。
親は子供達にそうのように教育するため、最低限の知識を身に付けさせる。文字の取得や数字、計算などを好きになり、勉学に励めば国の役職に就くこともできる。この国は血筋で差別されることのない大陸では極めて特殊な場所であった。
教会で文字を学ぶ子供達はそのことを親からきちんと教わっているため真剣に取り組んでいた。そんな子供達に囲まれながらベネットも真剣に文字を学んでいた。
ベネットはトリスの家で本の読み書きを習っているがそれだけでは不十分だった。特に綺麗な文字を書くにはペンの持ち方や文字の書き順、姿勢などが影響する。綺麗な字を書けるだけ代筆などの職種に就けるため職業選択の幅が広がる。今後の生活のことも考えているベネットはこの学舎では文字や計算を覚えるだけでなく、なるべくそれらを意識しながら勉学に励んでいた。
「はい、では黒板に書かれている文章を書いて見て下さい。書き終わったら隣の人と交換してみましょ」
女性教師が黒板に本の一節を書き写し、子供達に書き取りを指示した。子供達は女性教師に言われたとおり黒板の文字を木板に書き、ベネットも文字を書き終わると隣の席の子と木板を交換した。
「ベネットちゃんの文字綺麗。どうしたらこんなに綺麗に書けるの?」
隣の席の子がベネットの文字を見て素直に感心した。字を褒められたベネットは頬を赤くしながら素直に答えた。
「書くときに書き順を守りながら文字の大きさを意識するの。文字を均等に書くとそれだけで綺麗に見えるよ」
「そうなんだ。今度私も試してみる」
隣の席の子はそう言うとベネットから綺麗に文字が書けるコツを聞いてきた。人に教えることが不慣れなベネットだが、友達のお願いなので喜んで文字の書き方のコツを教えた。
友達。ベネットはこの学舎に通うようになって数人の友達ができた。農民の子供や商人の子供でベネットとは歳が同じだった。最初は友達にどのように接すればいいか判らなかったが、自分のことや家族の話をしていくとだんだん中が深まった。始めてできて友達。ベネットはこの学舎に通えることがとても嬉しかった。
「ベネットさん達は課題は終わったの?」
ベネットが友達に文字を教えていると子供達の状況を確認していた女性教師が話し掛けてきた。
「終わりましたよ。今はベネットちゃんから文字を綺麗に書く方法を教わっています」
「そうなんですか。ベネットさんの文字を見せて貰っていいかしら」
「は、はい」
ベネットは女性教師に自分が使っていた木板を渡した。女性教師は受け取った木板に書かれている文字をみて思わず感心した。英才教育を受けた子供でもない限り、ベネットの歳でこれだけ綺麗な文字を書ける子供は希少だ。女性教師はベネットに木板を返しながら彼女を褒めた。
「ベネットさんはとても綺麗な文字を書くことができて素晴らしいです。これからも文字を綺麗に書くよう心掛けて下さい」
「あ、ありがとうございます。エミール先生」
ベネットはエミールに褒められとても嬉しかった。ベネットにとってエミールに褒められるの他の先生に褒められることよりも数段に嬉しいことだった。
「エミール先生。また明日」
学舎での授業が終わり、迎えにきた親に連れられ子供達はエミールに別れの挨拶をしながら帰っていった。一人また一人と迎えが来て子供達は帰っていくがベネットの迎えは誰も来ず、ベネットは一人教室に残っていた。
ベネットの迎えはフレイヤかローザ、ダグラスの三人が担当している。その日の時間が空いている誰かが迎えに来ることになっているが、今日はまだ誰も迎えに来てくれていない。一人しかいない教室でベネットは本を読みながら迎えを待っていた。
「ベネットさん、ちょっとよろしいですか?」
一人で本を読んでいるベネットを不憫に思ったのかエミールがベネットに声をかけた。ベネットは最初は驚いたが声をかけたのがエミールだと判るとすぐに返事をした。
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、休憩室でお話ししませんか? 他の子には内緒にしてくれるなら紅茶とクッキーを用意するわ」
悪戯っ子のように微笑むエミールにベネットは戸惑ったが、クッキーという魅惑的な言葉には逆らえず承諾してしまった。休憩室には来客用のお茶が用意されており、保温されているので温かいお茶がすぐに飲める。エミールは自前のクッキーとお茶を用意して、エミールと隣り合って座った。普通なら対面で座るのだがエミールはベネットと親しくなりたかったので隣に座った。
「じゃあ、迎えの方が来るまでお話ししましょ」
「はい。でも先生と何を話せばいいのでしょう? 私面白いお話なんてしりません」
「そんな気をつかわないで。そうね。あなたのお家でのお話をしませんか? 大勢の人がいるのでしょ?」
「はい、トリスさんの家にはいろいろな人がいます。家事をしているのは主にフレイヤさんとローザさんで、私はその二人の手伝いをしています」
「フレイヤさんとローザさんは送り迎えにくる方よね?」
「はい。それとローザさんの旦那さんであるダグラスさんも迎えに来てくれます。皆さんとっても親切でいろいろと教えてくれます」
「じゃあ、トリスさんを含めて五人で住んでいるの?」
「違います。トリスの家にはザックさんとロバートもいます。ザックさんはトリスさんの依頼でいろいろなことを調べています。ロバートはそのお手伝いです。あとは冒険者の方でクレアお姉ちゃんにヴァンお兄ちゃん、フェリスお兄ちゃんがいます。それと秋になる前に朔夜お姉ちゃんとエルお姉ちゃん、ナルお姉ちゃんがきました」
「うふふ。十人以上の人と一緒に暮らしているのね。毎日が賑やかそう」
「とっても賑やかです。でも、フレイヤさんとローザさんは大人数がいるので家事が大変すぎると言っていました。特に料理を作るのが大変で、毎日大鍋でスープを作っているのに夕食が終わると空っぽになるんです」
「大鍋のスープが空っぽになるなんて大変ね。私も料理をするからよく判るわ」
「先生も料理をするのですか?」
「ええ、家族ができたら自分の手料理を食べて貰おうと頑張って腕を磨いたのよ。得意な料理はラザニアやビーフシチューよ」
「そうなんですか! 食べてみたいです」
ベネットはエミールの話を聞いてエミールの手料理を食べてみたくなった。ベネットは普段は自己主張をする子供ではない。だが、エミールに対してはどうしても甘えてしまいたい衝動に駆られてしまう。それはエミールも同じだった。
エミールはベネットを死産してしまった子供の面影を重ねていた。子供と同じ年連で同じ性別のベネット。髪の毛の色や瞳の色は自分と同じで、目元は父親に似ているベネットが愛おしかった。
その感情を表に出すことはしていないが、今日のようにベネットと深く接したい衝動に駆られてしまうことがとある。教師として一人の生徒に肩入れするのは問題があると知っているが抑えることができずにいた。
そんなエミールの心境も知らず、ベネットはさらにエミールに甘えてきた。
「エミール先生。今度料理を教えてください」
エミールが料理が得意だと聞いてベネットは教えて欲しいとお願いしてきた。ベネットは家の皆にお礼をしたいと常々思っていた。料理なら皆が一番喜ぶと思っているが、ベネットは複雑な料理は作れない。家の人に習えば何とかなるが、できれば秘密にして驚かせたいと思っていた。
「私から料理を習いたいの?」
「はい。秘密にして驚かせたいのです」
「教えてあげるのは問題ないけど……、お家の人の許可を取らないとやっぱり駄目です。料理は火や刃物を使うから危険なのよ」
「……そうですよね」
エミールに許可が下りなかったことでベネットは少し落ち込んでしまった。ベネットが落ち込んだことにエミールの心が少し痛むが救いの手は別のところからきた。
「私が許可します。ベネットに料理を教えて下さい」
休憩室の扉が開き、そこにはこの学舎の責任者であるシスターケイとトリスがいた。
「ノックもせずに扉を開けた非礼と立ち聞きしてしまった非礼をお詫びします」
「それは構いませんが、先ほどの言葉はトリスさんが仰ったのですか?」
「そうです。ベネットは自分から進んで何かを要求することが少ない子です。引き取った負い目を感じているのだと思いますが、私としてはもっと我が儘を言っても良いと思っていたところです。それに自分から何かを学びたいと思うことは悪いことではありません。エミール様が御迷惑でなければベネットに料理を教えて下さい」
トリスはそう言ってエミールにお辞儀をした。エミールにとってベネットと二人っきりで料理をするなんて夢のようなことだ。だが、教師が一人の生徒に肩入れするのは問題があるのではないかと思い、シスターケイを見た。
「私も良いことだと思います。子供が自主的に学びたいと思うことは悪いことではありません。もし、エミールさんがベネットさんに教えて問題が起こらなければ、同じように料理を学びたい子供に教えることができます。試験的事例の一環としてやってみては如何でしょうか?」
「…………シスターケイがそう言うのであれば、僭越ながら私がベネットさんに料理を教えます」
シスターケイの許しがでたことでベネットはエミールから料理を教わることになった。今日は時間が遅いので教わる内容や日時などは後日決めることになり、トリスとベネットは帰宅することにした。
「今日はトリスさんがお迎えだったんですね」
「ああ、商談の帰りに寄ることにしていたんだが、思った以上に商談に時間を取られた。遅れてすまなかった」
「大丈夫です。トリスさんが遅れたおかげでエミール先生とお話しする機会ができましたら」
「それは良かったな」
トリスは右手で優しくベネットの頭を撫でた。ベネットはトリスが褒めるときに頭を撫でてくれるがたまらなく好きだった。フレイヤやローザ、ダグラスも頭を撫でてくれるときがあるが、それよりもトリスがしてくれる方が嬉しい。
ベネットは家に帰宅するまでトリスに今日の出来事を話した。友達に字が綺麗だと褒められたこと。エミールに家族のことについて話したことなどをトリスに全て話した。ベネットは自身では気が付いていないが母親の面影をエミールに。父親の面影をトリスに求めていた。
その思いは今後どのような結果に結びつくのかは誰も予想することはできない。
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