筋トレ
「む、むう…。」
8月31日、今の俺には関係ないが、世間一般では夏休み最終日であるこの日、俺は自宅のリビングで上は黒のタンクトップ、下はハーフパンツに身を包みながら、腕を組み、顔をしかめていた。
胸筋は胸があるので正直よくわからないというのが本音だが、腕回りや腹筋、背筋の変化の無さに俺は、ただただ呆然とすることしかできなかった。
男の時は正直、筋肉は付きやすい体質だった。
筋トレを始めて1週間経てば、目に見えて胸筋は付き、『あれ?これ女性の胸みたいに見えね?』と風呂場でセクシーポーズを取ってみて、1人で大笑いしていたものだ。
ーーその時は女になるなんて、一切考えてなかったな。
あの頃を思い出し、ポーズをとってみれば違和感は薄くなっている。薄くなっているというのは、セクシーポーズをとるようなグラビアアイドル達は背は高く、スタイルが良いために、今の俺のイメージとは合わないからだ。
今の俺の姿は背が低く、客観視した場合、グラビアアイドルのようなセクシーさよりは、子役の女の子の可愛らしさの方がまだ雰囲気あるというレベルでセクシーさ、大人の女性らしさなんてものはない。
話が逸れたが、ともかく俺は男の頃、筋肉がつきやすい体質だった。
筋トレ始めて2週間が経ち、男の頃とは下地が違うとはいえ、そろそろ成果が出てきただろうと、素っ裸で見るのは自分の身体といえども刺激が強く避けたかったので、上はブラトップ、下はハーフパンツという薄着で鏡の前に来てみた。
しかし、結果はどうであろうか。
二の腕をつまんでみると、ふにふにと柔らかく、いつまでも揉んでいたい気持ちにすらなる。
背筋は特についた形跡もなく、肩幅は広がらず、とっても小さいままである。
ーーー結論を言おう。全然筋肉がついていないのだ。
ーーーなぜ、なぜなんだ。
思わず頭を抱え、床に跪く。
この筋肉のつか無ささは、性別によるものなのだろうか?
え、でも、柔道の大会で上位に来る女性は、筋肉が付いていたし、テレビで見る霊長類最強の女性もとんでもなく筋肉はついていた。
なのに、なんで俺は筋肉つかないんだろう?
あの人たちだけが例外で、基本的に女性は筋肉はつきにくいのだろうか?
色々と記憶を辿り、思い起こしてみるも、正直、女性、特に俺と同年代の若い女性は、体重や見た目やなんかを気にして、あまり筋肉はついていなかった。
ーーーまあ、運動や筋トレが嫌いだっただけかもしれないが。
結局、女性は筋肉がつきにくいかどうかは、よくわからないという結論に至りつつも、俺の今の身体はとても筋肉がつきにくいということが分かった。
「お兄ちゃん、そろそろ諦めて筋トレやめたら?」
亜希が隣でソファに寝転び、伸びをしながら言ってくる。
ーーーちなみに、ここで『お兄ちゃん』と呼んでいるのは、亜希が家では『お兄ちゃん』、外では『お姉ちゃん』と呼ぶと決めたからなので、特に問題はない。
変な思考が混じったが、切り替えて亜希に言い返す。
「いや、まだ成果があんまり出てないだけだし、まだ続けるよ。これだけ貧弱な身体なんだから、少しぐらいは鍛えたいよ。」
「え〜、せっかく可愛いのにもったいないじゃん。
筋肉ついたら肩幅広がって、可愛いさ三割減だよ。」
「は?」
思わず一切何も考えず、反射的に返してしまう。
「何で俺と可愛いのが関係あるんだよ?
俺は男だぞ?今は女の姿かもしれないけど、その女の姿を可愛く維持する理由なんてどこにあるんだ?」
『俺』と使いながら、怒気の含んだ声を上げる。
亜希はそんな俺の態度やセリフに、一切動揺することなく返してきた。
「いや、今だけかもしれないけど、せっかく可愛いんだから可愛いままでいてもいいじゃん。
1つ聞きたかったんだけど、お兄ちゃんはどれくらいの間、女の子のままだと、男に戻れないと考えてるの?」
え、と思わず声が詰まる。
俺だっていつまでこのままか、考えなかったわけではない。
協力してくれている国、特に厚生労働省曰く、元に戻るための捜査は着々と進んでいるらしい。
しかし、やはりすぐに戻れるかどうかというのは難しいらしい。
手塚清秀は、考えていたことこそ完全な性転換という俺からしたら何でそんなにこだわるのか分からないことだったが、曲がりなりにも天才、しかも数十年に一度レベルの天才なのだ。
そんな手塚の研究のトップシークレットを解き明かすのはやはり難しいようで、そこから推測するにしばらくの間、少なくとも1年か2年は戻れず、最悪の場合はずっと、戻ることはできないらしい。
「とりあえずどれだけ長くなるか分からないけど、少なくとも1、2年はかかると思うけど…。」
「うん。やっぱりお兄ちゃんも、どれだけ上手くいってもそれぐらいはかかるって思ってるんだね?
だったら、筋トレの時間だけでも、見た目にも気を遣ってみようよ?」
「だから、何でそんなことに繋がるんだよ?」
「お兄ちゃんはさ、女の子になったって本当に理解してる?」
「え。まあ、多少は。」
「このままいったら、女の子として学校に通うんだよ?
どんな女の子でも、ある程度は身だしなみだったり、身体のケアだったりに気を遣うよ?
そんな中、お兄ちゃんみたいに可愛い女の子が、何にも気を遣わなかったら、正直、友達できると思えないよ?
お兄ちゃんは思ってなくても、相手に『私は元から可愛いから、そんなの必要ないから。』と考えてるって受け取られちゃうかもしれないし。」
ーーーうぐっ!!
確かにそうなるかもしれないと思ってしまう。
「と、友達なら誠也がいるから大丈夫だよ!」
そう、意地を張るも亜希は冷静に指摘してくる。
「誠也くんだって、身だしなみに気を遣わない女の子といたら、目をつけられちゃうかもしれないよ?
まだ、部活に熱心になってる子とかなら別かもしれないけど、お兄ちゃんはそんなことできないでしょ?」
「え?」
ずっとそれっぽいことを言ってきた亜希の口から、予想外の内容が飛び出してきた。
「俺、柔道部入る気満々だったんだけど…。」
そう言うと、亜希はハァッ!?とキレながら、立ち上がった。
「お兄ちゃん、自分の正体がバレる危険性について考えたの!?
学校に通い出したら、警戒するのは性別転換者保護団体だけじゃなくて、学校にいる人全員になるんだよ!?
学校の人にバレて、お兄ちゃんの正体が噂として広まっちゃうかもしれないんだよ!?
学校の人みんなから虐められるかもしれないし、たとえ虐められなくても、性別転換者保護団体に知られちゃう危険性がすごい上がるんだよ!?
それを考えた上で柔道部なんていう、知り合いの多い、正体のバレやすい環境に自分から入って行く気なの!?」
亜希のセリフに、俺は黙り込むしか出来なかった。
亜希の言ったことは、何も間違っていないだろう。
柔道部の仲間たちとは、仲は良い。
でも、いくら仲が良いからといっても、男だったやつが女になったのを受け入れてくれるかと考えると、絶対に受け入れてくれるなんてことは言えない。
亜希が俺のことを、俺なんかよりも深く、真剣に考えていたことを嬉しく感じつつも、俺は何でそんなことも考えていなかったと、自分自身に嫌気がさす。
そのまま、黙ったまま立ち尽くしてしまう俺を、亜希は抱きしめてくれた。
ーーー俺が、柔道部の友達に裏切られたところを想像して、恐怖で固まってしまったと思ったのだろう。
的外れながらも、抱きしめてくれる亜希を嬉しく思った。
ーーーただ、嬉しく思うよりも思考の割合を占めている事柄が、俺の中に存在していた。
抱きしめられると実感するのだ。
ーーー俺の身長、ちっちゃいな、と。
亜希は俺よりも頭半分くらい大きい。
その事実が、抱きしめられると、抱きしめられた時の体勢から痛いほど伝わってきて、嫌な思い出を思い出させる。
ーーー普段普通に生活していて、妹の亜希に俺は見下ろされているのだ。
俺は男の時、中学から一気に伸びてほとんどの人を見下ろす身長になっていた。
だからといって、別に俺より身長の高い人に見下ろされるのが屈辱だと思ったことはなかったのだが、それが身内の、しかも妹の亜希となると話は変わってくる。
ーーー亜希は俺の妹だ。
1つ年が離れていたし、亜希の身長は常に俺より小さく、俺が亜希を見下ろすのが当たり前だったのだ。
なのに、今は亜希に見下ろされている。
それが俺を、違和感や何か嫌だなという気分にさせる。
そんな俺の心情を察したのかと言いたいタイミングで、亜希はとある内容を話し出した。
「それに、筋トレし過ぎると身長伸びないよ?」
「え?」
驚きの声が出てしまった後、亜希に返答する。
「いや、伸びるなんて有り得ないだろ。」
俺だって一切調べていないわけじゃない。
女性の身長が伸びるのが止まるのを調べたところ、高校生の女子のほとんどはもう身長は止まってしまってるらしい。
そう思う俺に対して、亜希は抱きしめるのを止めて一歩引いた後、口を開いた。
「いや、お兄ちゃんの今の姿が高校生としての姿ならそうだと思うんだけど、本当にそうなのかなって思ってさ。」
「え、どういうこと?」
「お兄ちゃんの今の身長は、高校生といえば高校生に見えなくもないけど、それよりは中学生って言った方がしっくりくると思うんだ。
お兄ちゃんくらいの身長の高校生もいるから言い切れないけど、お兄ちゃん、性別というか姿が変わる時に身体の年齢も弄られてんじゃないの?
お兄ちゃんの姿には、銀髪とか見た目とか曾曾曾祖母さんだっけ?のロシアの血が色濃く出てるよね?
ロシアの方の人って、高校生くらいになると肩幅が大きかったり、身体がしっかりしてるイメージなんだよ。
そのイメージと、お兄ちゃんの今の姿は合わないな、と思ってさ。
お兄ちゃんの今の姿が中学生だったらしっくりくるなって思って。
それだったら、ロシアの血もあるし、まだまだ身長伸びるんじゃない?」
「あ、ああ。」
ーー亜希の言葉を信じきるというわけではないけど、筋トレ、今の状態を維持するぐらいの量まで減らそう。
俺はそう結論を出した。
ロシアの女性は、可愛い系というよりはカッコいい美人系の人が多いイメージ(子どもは除く)




