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ユウマがパパン村から去って3年の月日が経った。
ユウマは王都にいた。名を変え「エドガー=エスヴァイン」と名乗っていた。その名前で今は王都の古びた私塾で魔法講師をしていた。前世で英雄だったころはそんな職があることすら知らなかった。貴族は、魔法学校という全寮制の正式な学校があり、そこで魔法を習得するのだが、平民にはそんなものはない。あるのは私塾のみだ。そこで月謝を払い、魔法の教えを講師に乞うのだ。ユウマが教えているのは元の世界なら中学3年のクラスで……、なにせクソガキが多い。
「エドガー先生! ナディア先生とどう?」
――クソガキが!
ユウマ……、いやエドガーは黒板にチョークを叩きつけた。
「ほら、魔法の道は簡単じゃないぞ。余計な事に気を取られるな! え~と、この魔法はだな……」
「あーーーーやっぱり否定しない! あの噂はマジだったんだ!」
ナディア先生というのは、同じ私塾で同僚の講師だ。ナディアはもっと下の子を担当している。面倒見がよく、生徒から慕われている。実はそのナディアと付き合って1年ほどになる。今度、引っ越すだの一緒に暮らすだの……、そんな話をしていた。クソガキのジャクエルがナディアの話をした。
「エドガー如きに落とせるならイケメンの俺なら一発じゃねーか」
ナディアの歳は21でエドガーより1歳年上だった。こいつらは14歳~15歳くらいなので6~7歳上なら守備範囲なのだろう。そんな舐めた発言が多かった。エドガーは一回咳払いをしてから口を開いた。
「え~、ナディア先生の名誉の為にもいいますが、あんまり舐めた発言が多いと先生の秘術と呼ばれている魔法、その子には教えません」
教室は生徒の罵声に包まれた。
「えええ? じゃあ金返せよ!」
「ふざけんなエドガー! 器小さいぞ!」
「お前、授業を私物化するなよ! 学長にいいつけるぞ!」
ブーイングに包まれながら授業を再開する。授業が再開すると生徒が真剣な目つきになった。こんな調子で授業は続く。はじめは慣れなかったが、3年も経てば流石に慣れてきた。異世界の子供も元の世界の子供もたいして違いは無いんだなと思った。
時々、卒業生が遊びに来ることもあった。エドガーが授業を終え職員用の机で待機していた時だった。不意に男の声がした。
「エドガー先生!」
振り向くと、そこには赤い髪をしたこの学校の卒業生バイエルがいた。
「バイエルじゃないか。どうした?」
「実はジーク王の王都警備隊に配属されることになったんだ。僕の魔法が優秀だからって! 平民出ではなかなか無いことだよ。そのことを早く皆と先生に伝えたくってね」
バイエルは優秀な生徒だった。飲みこみが早く、教えた魔法を片っ端からものにしていった。
「全部エドガー先生のおかげさ。これで母さんに楽な暮らしをさせてあげられる」
バイエルが家庭の事情で月謝を払えなくなった時、私塾側はバイエルを追いだそうと考えた時があった。2年近く前の話だ。その際、エドガーが頑強に反対し「出世払いでいい」と言ってバイエルを守ったのだ。足りない分はエドガーが自腹で補填した。元の世界には奨学金制度というものがあった。この世界にはそんなものはない。エドガーはそこを理不尽に感じたのだ。木を売って稼いだ金ならある。なら、ちょっとぐらいそんなことをしていいと思った。
エドガーは……、いやユウマは、この生活に満足していた。これこそが味わいたかった生活だった。平穏無事で自分の仕事に集中でき……、人を助けたいという内側から出る欲求を自然と満たすことができた。この仕事をしながらユウマは思ったことがある。自分は人と関わるのが好きなのだな、と。元の世界にいた時にはそんな自分に気がつかなかった。思えばついつい人助けしてしまうのも、人と関わることが好きなせいなのかもしれない。善意は気持ちが良い。人は鏡のように善意には善意で応えようとする。自分は周りの人々に幸せでいてほしかったし、幸せを分かち合いたかった。それこそが理想的な関係だと思った。周りの人が不幸なら、自然と自分も不幸になる。そう学んだ。バイエルは金を返し終わった後も自分を慕い続けた。嬉しかった。こういう幸福もあるのだなと思った。自分は恐らくユウマと名乗る事はないだろう。エドガーとして生きてゆく。偽名を名乗る後ろめたさはあった。しかし、それをあまりある幸福が満たした。
ベッドで、二人で寝ていたナディアがエドガーのほっぺを舐めた。思わずエドガーはナディアに聞いた。
「おいおい、どうした?」
「え? だって今、ニヤニヤしてたよ?」
「……昼間、バイエルが来たんだ。王都警備隊に配属されたんだってさ」
「うん。聞いた。嬉しそうだったね、バイエル君」
「うん。良かったな本当に」
「ふふふ」
「ん?」
ナディアは、こちらの顔を覗き込むと、今度はエドガーのこめかみのあたりにキスをした。そのあとナディアはエドガーの胸に手をおき、言った。
「あなたのそういう所が好き」
――俺こそ……君が好きだ。
前世では特定の恋人を持たなかった。如月ユウマは英雄だったからだ。英雄色を好むと言われる理由が英雄になって分かった。国中の美女がユウマに言い寄った。ユウマは異世界の女をファーストフードでも食べるように食い散らかした。英雄とは求められる者なのだ。そして、自分を何倍にも感じる。英雄になっている間、ユウマは傲慢で不遜な男だった。その快楽は本来の自分の幸せを見失わせた。自分が何者であったか分からなくなったのだ。幸せとは自分と語り合い見つめる行為だ。自分が見えなければ当然幸せの形など見えない。そして、今はハッキリと感じていた。英雄と呼ばれていた時よりも何十倍の幸せを感じると。これこそが自分の心の形なのだと気づいたのだ。
ユウマは……、ナディアの黒髪を愛しくてかきあげた。エドガーのまま一生いようと思った。
朝出かける前、ナディアは少し口ごもりながら言ってきた。
「その……、お母さんが……。会いたいってエドガーに……」
「え? そ、それは……」
正直、嫌だった。ナディアは少し唇を尖らせた。
「なんか私の話を聞いて不安になってきたんだって。エドガーのお父さんは何をしてる人なのか……、お母さんは何をしている人なのか……。私、何も知らないから……。エドガーの事も……。ほら、エドガーってあまり昔の事喋らないじゃない? そんな事を言ってたら……、お母さんがひょっとしたら本気じゃないのかもしれないって……」
「は? 全然違うよ! 俺は本気で君と――結婚したいと思ってるよ」
「本当!?」
「そりゃそうさ」
「じゃあ、ちゃんと誤解解くの手伝ってよね」
こうして週末、ナディアのお母さんと会う事になった。