-7-
ユウマは聞き返す。
「何故逃げる? 君はこの村を救った英雄だ」
「英雄はあなたよ。私は貴方みたいな人を待ってたの。私を連れて逃げて……。昨日の夜……、お父様からそこを動くなという伝言が人づてに来たわ。私を城に連れ戻すつもりなの。私は嫌なの、鳥籠に囚われたような人生は……」
一瞬、時が止まった。
――城に連れ戻す……?
頭に浮かびあがった巨大な疑問をユウマなそのまま口にした。
「アイリス……、君は……一体?」
一瞬アイリスはためらうような素振りを見せる、が、口を開いた。
「私の名前はアイリス。アイリス=アルスター……。この土地、アルスター領を治めるジョゼ=アルスターの一人娘です」
――アイリス=アルスター? アルスター? ジョゼの娘だと!?
この時のユウマの感情は一言では現わしづらい。激しい驚き、少しの怒り、恐れ、脱力感、そして、なによりも、見つかってしまった、という焦燥感が胸を駆け抜けた。前世では、この娘の父親に反王政の旗頭として祭り上げられたのだ。その娘を助けたという事は、ジョゼ=アルスター公爵に自分の存在を認識されてしまったという事と同じ意味を持った。だが……、なぜ? ジョゼ=アルスターの一人娘がこんなところに? いや……、その前に、アルスター公爵に娘がいた記憶がない。少なくともユウマは会ったことがない。……待てよ。確か言っていたな。
ユウマは、前世でのジョゼ=アルスターの言葉を思い出す。
『魔物が憎いよ。憎くて憎くて……。今にして思えば魔王はこのアルスターが邪魔だったのかもしれん。これ以上魔王討伐の軍を支援するなら《こうなるぞ》という脅しだったのかもな……。魔物が我が領地を狙った事がありましてな。その時、ワシは目に入れても痛くない一人娘を失った。奴等に殺されたのだ』
ユウマは鼻から大きく息を吸った。
――俺は、死ぬはずだったアルスター公爵の娘を助けた……のか? じゃあ、この子は貴族なのか?
ユウマはかしこまってしまった。
「その……、レディ・アイリス」
「止めでください。レディだなんて……。私は、その呪縛から逃れたいの……」
そのアイリスの表情をユウマは初めて見た。まるで親から受ける罰を怖がる子供みたいな表情をしていた。いつもの対等で強気な姿勢はどこかに消えてしまっていた。そして、すがるような目でユウマを見つめ、更にユウマににじり寄った。
「お願いユウマ、私と――」
その時、僅かにログハウスの外で草を踏む音がした。
ユウマは、立ちあがり剣を抜く。アイリスは、突然立ち上がったユウマの真意がつかめず驚いた顔で何度も瞬きをした。ユウマは、ログハウスのドアの外に向かって叫んだ。
「ドアの後ろにいるのは誰だ! いるのは分かっている。出てこい!」
数秒後、溜息が聞えた。そして、静かにドアが開けられた。そこから姿を現したのは《黒剣騎士団筆頭騎士ガイウス》だった。ユウマはこの男を知っていた。50代後半にも関わらず、衰えを知らぬ肉体を持ち。レベルからは想像ができないほどの剣さばきで戦いを征する男。軍隊の指揮も達者で、内乱以降は度重なる戦果をあげた人物でもあった。ユウマは、前世で彼と肩を並べて戦ったことが何度かあった。アイリスが叫ぶ。
「爺!」
ガイウスは、膝を折り、喋り始めた。
「姫様。この度の姫様を狙った魔物の所業にジョゼ様はたいそう胸を痛まれておいでです。このガイウスもでございます。姫様、なにとぞ今回ばかりは城にお戻りください」
「爺! 何故私がこんな衛兵の真似ごとまでして平民の暮らしをしているのか分かるでしょう?」
「そこをまげて! なにとぞ」
そう言ったあと、ガイウスはユウマを睨んだ。さきほどアイリスが連れて逃げてと言っていたからだ。こんな犬のような男に渡してたまるか。ガイウスの目はそう語っていた。このガイウスの態度にアイリスは激高した。
「爺! ユウマになんて目をするの! この方は私を救った命の恩人です!」
ガイウスは、はっとした目つきをしたあと、申し訳ありませんでしたユウマ様、と謝ってきた。黒剣騎士団の筆頭騎士が平民に頭を下げるなど通常は絶対にありえないだろう。ユウマは、頭を下げながらも黒いオーラを発するガイウスに気付いていた。なので、とりあえず意思表示しなければと思った。
「私は、アイリス殿を連れてどこかに行く気など毛頭ございません。では、私は狩りがあるのでこれで失礼します」
そう言い終えると、ユウマはログハウスから飛び出した。一刻の猶予もなかった。ここから逃げなければ。
「ユウマ!」
アイリスの叫ぶ声が背中から聞こえた。心のどこかが痛んだ。だが、構ってなどいられなかった。ガイウスのあの目……。全てを見抜きそうなあの目に捕まりたくなかった。
――さよならアイリス。……パパン村。
そのまま、霧の立ち上る山の中にユウマは消えた。
数時間後にパパン村からアイリスを乗せた馬車が出た。馬車はゆっくりとアルスター家の居城である《ムーデンバルト城》へ向かっていた。馬車に乗り込む直前の村人の様子をアイリスは思い返していた。あれだけ親しかったパパン村の人々はまるで腫れものにでも扱う様にアイリスに接してきた。皆、手下の様に頭を下げ、目も合わさなかった。彼らがそうなることをアイリスは知っていた。彼等はアルスターの名を恐れていたのだ。自分達に災いが降りかかる事を恐れたのだ。寂しさが募った。この寂さがアイリスのこれまでの生涯につきまとっていた。
アイリスは馬車の窓におでこを当てた。ユウマを思った。逃げるように去って行ったユウマを。自分の生涯でここまで胸をドキドキさせる《男》に出会ったのは初めての経験だった。魔物に喰われそうになった時に抱きかかえられた時を思いだした。ユウマの熱い腕が脇の下と胸にあたり、息を吐くユウマの顔がすぐ傍にあった。父であるジョゼ以外にあそこまでアイリスに顔を近づける男はいなかった。
アイリスは命を救われるというのはここまで野性的で官能的な出来事なのかと思った。自分の唇を触った。赤みが増した気がした。魔物に襲われた恐怖も、その後、青い血を吐きながら苦しむ魔物を殺した罪悪感に似た気持ちも、全て何処かに消えた気がした。ユウマの存在がそれを上回ったのだ。
ユウマはいつかこの土地に帰ってくる気がした。
アイリスは、それが希望的観測であることを知っていた。しかし、予感がしたのだ。また会えるという予感が。鳥籠の中に戻るアイリスにとって、それはまさしく希望だった。