1.終わらざる幼年期
二日酔いだ、と気づいたときには、夢うつつの心地がすっかり現実の頭痛に置き換えられていた。布団をはねのけると、ぼくは鉛の入ったような重い頭を抱えて、いつも通り大学に通う生活に戻ろうとした。母はすでに起きていて、台所で父親への弁当を作っている。ぼくの朝食はその余りだ。小さいエビフライとか、焼いたベーコンとか、ゴボウの素揚げとかを、炊きたての白いご飯といっしょに掻き込んでから、ぼくはそそくさと一限に間に合うよう家を出た。
徒歩十分の距離を歩き、やや混雑ぎみの電車に乗って、大学に向かう。その途中で、ぼくはほぼ毎日、誰にも言われずともやっていることがある。読書だ。レポートやテストがあるからとかではなく(時期的にそろそろであったのは確かだが)、また卒論を書く準備をしようとか、そんな殊勝なものでもなかった。ただ単純に、肺呼吸のように当たり前に読んでいる。それだけだった。
〈妖精の国〉という言葉を明快に思い出すことはなかったけれども、そうとしか言いようがない世界は、いまも確かに持っていた。それは本であり、小説であり、物語だった。だがフィクションに限った話ではない。ノンフィクションであっても、評論であっても、随想であっても、あるいは専門書であっても、そこには物語や世界があるとぼくは確信していた。逆にそれらを感じないものを信じられなかったとも言える。もしかしたらぼくが感じられないだけであったのかもしれないが、それはもうぼくにはわからない。改めてそうだと知ることはできるけれども、信じることに至るには、もうぼくは完成されたもののような気がしてならないのだ。
しかし、だったらあれほど信じていた〈妖精の国〉とやらは、いったいどこに行ってしまったのだろうか? ぼくが忘れ去ってしまったその国は、少なからずぼくの世界の根幹を成す大切なものだったはずだ。だから失くしてしまったわけがない。けれどもぼくは忘れてしまった。思い出せなかったのだ。ぼくは本を書いた誰かの世界を覗き見ることは大好きだったくせに、自分の世界はちっともわかっていなかったのだ。そう思い至ると愕然とせざるを得ない。
〈妖精の国〉……これは重要なキーワードだ。文字通り、ぼくの世界を知るための鍵の役割を果たすだろう。
アナウンスの声が、頭にガンガン響いた。大学の最寄り駅の名前を告げている。ぼくはそこで現実に戻り、日常に戻った。有益だけれども退屈な講義を受けて、瞑想にふけりながら、時間が経つのをただ座って待つだけの日常に。
* * *
「そういえばおまえ、前に貸したやつどうなったよ?」
そう尋ねたのは友人のNだった。彼はぼくの同期生で、ひとつ年上だったが、読書において比較的趣味が合う男だった。二限の講義を終えたあと、ぼくらは大学の食堂で待ち合わせてご飯を食べている。なんてことはない。大学生の日常だった。
Nが尋ねているのは、ぼくが去年末あたりに借りた本のことである。それはNイチオシのファンタジー小説で、今年の四月からアニメ化までするらしい。ネットの評判がよかったので、ぼくは興味を持ったのだ。
「ああ、行きの電車で読み終わった。返すよ」
「どうだった?」
「うーん、難しいことを言うなぁ」ぼくはこういう感想を述べるのが得意ではない。「まあ面白かったよ。設定も凝ってたし、文章も読みやすくてワクワクした。けど、なんていうんだろう。なんかちがう、て気がした」
「ちがう? なにがちがうんだよ」
Nの口調は鋭い。怒っているのだ。
「何かだよ。そうとしか言いようがない」
「素直じゃねえな。あんまり好きじゃなかったってだけだろ……」
「そうかもしれないな。ちょっと言い方が拙かった。ごめん」
「いや、仕方ないさ。そういうこともある」
Nは表情を改めて矛を収めた。そのまま受け取った文庫本をかばんに仕舞い、残りの坦々麺のスープをすすった。辛くないのかとぼくはいつも思うのだけれど、以前尋ねたさい、この辛さがいいのさと返されて以来、ぼくは見て見ぬ振りを決め込んでいる。
「しかしおまえ、本当にわからんやつだな。本読みのくせにジャンルにこだわりがないかと思えば、思いもよらないところで食わず嫌いや苦手とくる。おまえが好きな作品の話をするのはとても楽しいけれども、おれはおまえの好き嫌いがどういう基準で出てきているのか、まったくわからん。その基準作りでさえも、自覚がなさすぎて困る」
「うん。ぼくにもわからない」
「ほらそれだ。自分で自分がわからないと来やがる。おまえには夢や希望ってものはないのか?」
「あったら苦労はしないよ」
「笑ってごまかすなって。まじめくさってばかりじゃ、人生退屈だぞ?」
「まだ二十一のくせに、わかりもしない人生をのたまうんじゃないよ。大学の講義だってろくにわかりはしないんだからさ」
それからぼくたちは、やがて来るレポートや期末試験の愚痴をぼやき、時間が経つに任せて三限に別れた。Nが必修科目の再履修で、今期取らないと来年度の履修が面倒臭いらしい。ぼくはというと、一二限を頑張った自分へのご褒美として、空きコマにしてある。
かつて大学生は自由でいいぞ、と中学高校のときの先輩が、OBOGとして戻って来たときによく言っていたものだった。しかしその実態は千差万別で、サボタージュし放題ということと、単位がきちんと取れるということが必ずしも同義ではない。もちろん面白そうと思えた講義を選び、やる気のない単位を捨てる自由はあったけれども、それは大学で授業を受けなければならないというような、タスクからの解放という意味での自由とは少々ちがったのだ。そういう意味では、ぼくらは自由の意味を履き違えていたし、そのまちがいは確かに認める。しかし大学生になって得られる「自由」というものを、ぼくらはもう少し理想的であってほしいとねがったのも確かだった。
その限られた「自由」の中で、ぼくはなるべく思うがままに過ごしている。つもりであった。しかしそれは他人から見れば、ずいぶん悠長で、味気ない日々に見えたことだろう。なぜならぼくの自由とは読書をする自由だったからだ。電車のときもそうだったが、ぼくは空いている時間があればいつも本を開いて何かを読むことにしている。読む場所はそのときに応じてさまざまだが、好んでいるのは大学図書館で、その静かさと設備の整い具合が居心地良いからだ。
ところが、図書館はレポートや期末試験の勉強をする学生たちで埋め尽くされていた。ふだんは本にも大学にも微塵も興味がない彼らは、なぜかこの時期になると雨後の筍のようにわんさかと出現する。これは大学にはよくあることらしく、彼らはふだんはサボタージュとアルバイトで日々を過ごして、期末のときだけ単位を得るために登校するらしい。これ自体はべつに悪いことではないが、文科省はあまり良いことだとは思ってないようだ。ここ数年出席必須の講義が増えてきているのも、その如実な現れだった。
ふだんはきちんと勉強している人間にとっては、何を当たり前なことを、と思う。しかし勉強を日頃しない、あるいは、そうすることを苦に思っている人間は多い。趣味が読書な人間は一定数存在するものの、それ以外をもっぱら楽しみとするひとびとの方が集合の論理で考えると絶対数で負けているだろう。それがみな一様に「勉強しなければならない」。そうなると図書館でひとり楽しく読書や勉強をしていた人間が、それ以外の大多数によって居場所を追い出される構図が出来上がる。孤独と孤高のみがもたらす静謐の娯楽は、マジョリティの喧騒にたやすく踏みにじられるのだ。義務や単位の必然性という仮面をかぶって。
そういうことで今日の楽しみはお預けにされてしまった。昼寝をするスペースすらない有り様だったので、ぼくは途方に暮れ、あらためてぶらぶらと構内を散歩していた。さいわい一月にしてはよく晴れており、からりと乾いた風がときにコート越しに身を刺す以外は、居心地の良い午後だった。
枯れ枝から差し込む木洩れ日が、鋭くぼくの視界に白い光を投げかける。限りなく透明に近いブルーな空が、誰も見向きもしないだろうとふんぞりかえるように広々と都会の真ん中に広がっていた。都心のオフィス街に比べると、せいぜい六階以下に留められた周囲の建物は、その企図通り空の広がりを巧みに演出してみせた。
それは都会の中にも空があるという、当たり前だけれども些細な欺瞞でもある。こんな空を作ってみせたところで、孤独と退屈にかまけたもの以外の誰の注目を集められるというのだろう。たしかに無意識にこの大学構内を広々としたものに見せる、建築的な意図はあったと思うのだけれど、その恩恵をそうだと受け止めず、不平不満を口々に乗せる不逞の輩は思った以上にそこここをうろついている。やれ別の校舎の方がおしゃれで綺麗だの、どこそこ大学の方が都会であるだの。要するにここではないどこか、青く見える隣の芝生の話をしてばかりいる。
ここでぼくが、そうしたひとびとを軽蔑しているように見えたとするなら、謝ろう。むしろぼくは同情していたのだ。誰しも「ここではないどこか」を夢見るものだし、何かしらのタスクで縛られたくはないと思うことだろう。大学にいるあいだなら、そうした夢想や願望が叶えられる。大学とはそういうところだ。少なくともゆとりの最終世代に当たるぼくらにとっては、大学というのは社会人にならないための手段だ。残された最後の青春時代を、まるで缶の底に残ったジュースのように貪欲に飲み干そうとするのだ。それほど惨めったらしい日々の過ごし方はないと客観的には思うかもしれないが、それでもぼくたちは受験勉強や束縛が多い中学・高校生活よりは、あるいは、帰りが遅く激務が多い社会人よりはマシだと信じて、日々の快楽に身を委ねている。
じっさいはその逆で、つかもうとしては離れ、追いかけてはまたすがる蜃気楼のような日々を過ごす点において、大学生もまた、システムに組み込まれた一介の人間であるという常識を逃れられなかった。ただ義務というものが見えなくなり、言葉にされることも少なく、そして低気圧のようにどんよりと堕落の眠気を誘う存在にすり替わったに過ぎない。ぼくはまだ社会人というものはわからないしよく知らないのだけれど、両親の働き方を見ると、きっとそれは大して変わらないのかもしれない。ぼくらはそうやって見えないもの、見えなくなったものに縛られる。さながら罠に掛かった、愚かな野獣と同様に。
そう、ぼくらはある意味閉じ込められていた。じつは自ら進んで入った檻なのかもしれないし、それはきっと正しい。ただぼくらは「自分が何かに囚われている」というヒリヒリした実感を持て余していた。だからアルバイトで稼いだ有り金を吐き出して遊びまくるし、旅にも出るし、貪るように本を読む。いましかない、いましかできないと思い込み、この一回限りの、最後の青春時代の一滴を舐めとろうとやっきになっている。それはある種の自暴自棄に過ぎない。身の腐敗を自覚しながら陸に打ち上げられた魚のようなものだ。自分が何かのせいで呼吸不全になっているのはわかるけれども、それがどうやったら解消されるのかがわからない。そのうちほんとうに精神が腐敗して、遅かれ早かれ枯渇したオアシスのような達観を決め込む。もう死ぬしか残されていない、とでも言うような、明るい絶望にも似た達観だ。
ふわりと風が頬をなでる。ぼくはひとりで歩き、そしてひとりで空を見上げた。白い日差しがまぶしかったが、暗い気持ちが浄化されるような気分になる。たまにはこうした日の下で読書も悪くない、と思えるぐらいには、気分が前向きになった。そこでぼくはベンチに腰掛けて、かばんから何か本を取り出した。有名とはとても言い難いが、個人的に気に入っている作家の作品。本読み友達にはこの名前を出してもてんでわかってもらえないので、それはいつのまにか、ぼくだけの世界の一部になっていた。Nに借りたものとは別に、今日なんとなく読みたい気分になっていたのだ。
まるで水を得た魚のように、すいすいと文章が頭に入ってくる。二日酔いの頭はほとんど治りかけていたが、それすら気にならなくなるような心地だった。意識がふわりと本の描く世界に溶け込み、からだが宙を浮いているような、そんな感触。ページの手触りや活字の細かいフォント、あるいはそこに描かれている言葉遣いが、読んでいて「なつかしい」という気持ちを引き出してゆく。
……「なつかしい」?
確かにぼくはなんどもこの本を読んではいたけれども、この「帰ってきた」というような安心感はなんなのだろう。それは安心感であり、水の中でたゆたう浮遊感であり、そして自由の実感だった。無心に文章を追って得たこの感触を、もう一度味わいたくて言葉をたどりなおしてみたが、「なつかしさ」は決して帰ってこなかった。仕方なく数秒前の記憶を反芻して、じっくり噛みしめる。するとだんだん息苦しくなって、無性に悲しくなってきた。喪われた、という実感が湧いたのだ。二度と帰ってこないのではないか、という悲観が込み上げて、内心で否定した。否定しないと、認めてしまったら、きっと自分が壊れてしまう気がするぐらい、大切なものだった。
そういうものをぼくは昔、確かに持っていた。ガラス細工の宝石箱のように、胸の奥にひっそりと仕舞い込み、他者の指紋ひとつつけさせまいとひた隠しにし続けた、そういう何かを。そしてぼくはそこに名付けるべき名前を知っていた。正確には思い出していた。
──〈妖精の国〉だ。