序章 還らぬ故郷に献げる言葉
この物語はフィクションです。もし現実に起きた出来事と似ていることがあったとしたら、それは〈妖精の国〉のもたらしたきわどい悪戯ですのでご注意ください。
母が話してくれたところによると、ぼくは小さいころ、しきりに〈妖精の国〉の話をしていたという。それは三歳になるかならないかの時期のことで、ちょうど、ひとりで歩けるようになり、かたことながら、おぼつかない「お話」ができるようになったときのことでもあった。
そのときのことっていったらねえ、と母は笑いながら言う。あのときは突然いなくなったものだから、とてもとても心配したわ。だって呼んでも返事がないんだもの。寝たのかと思ってあちこちの部屋を捜しても、庭を歩いても、近所のひとに声をかけても見つからなかったのよ? でも、もう交番に届け出るしかない、て思ったときにふらりと帰ってきて、にっこり笑って「ただいま」て言うんですもの。見つかったらどう叱ろうか、て考えてはいたんだけど、その笑顔を見たら急に泣けてきちゃって……(母はここで涙を拭いた。いつもこのくだりのとき、泣いてしまうのだ)、ぎゅって抱きしめたの。わたしはずっとあなたがさびしい思いをしてたんじゃないかな、て心配していたのだけど、ほんとうにさびしかったのはわたし自身ってわけ。なんだか情けない話ね。
でも、その日の夜に、ようやく気持ちが落ち着いてから、聞いたの。「ねえ、あなたどこに行ってたの?」と。するとあなたはこう答えたわ。「〈ようせいのくに〉にいってたんだよ」と。「それってなに?」て訊いてみたんだけど、「〈ようせいのくに〉は〈ようせいのくに〉だよ」と、まじめくさって返されたものだから、もうなにも言わないことにしたわ。でもわたしはこう思った。この子にはずっとさびしい思いをさせていたから、わたしにも教えたくないひみつの世界を持ち始めたんだわって。だったらわたしは親として、その世界を信じてあげなきゃいけないな、て思って、少し経ってから、その話を聞いてみることにしたのよ。
そしたらどう? あなたはとっても楽しそうに〈妖精の国〉の話をしてくれたのよ! あんまりにも笑顔で語ってくれるものだから、わたしもつられて笑顔になっちゃってね。「それで、それからどうしたの?」て細かいことを尋ねてみると、さらに楽しそうに「おっきなけむしさんがたすけてくれたの!」とか、「ありさんのおうちでおやつをもらってね……」とか、「ひろーいおすなばで、きらきらしたたからものをみつけてね」とか、いろんなことを言ってくれたのよ。いまだから言っちゃうけど、わたしはそのお話のほとんどがよくわからなかったわ。でも楽しそうだな、ということはわかった。きっとあなたはこんな風におしゃべりできるのも嬉しかったし、わたしが笑顔で聞いてくれることも嬉しかったのかもしれないわね。
それで、同時にわたしは、あなたがさびしかったのかな、とも思った。ほら、それまであなたはずっとひとりぼっちだったじゃない? お父さんは仕事がとても忙しかったころだったし、わたしはわたしで家事とかいろんなことをしなくちゃいけなかったから、あなたとずっといっしょ、てわけにはいかなかった。おじいちゃんやおばあちゃんが近くにいればよかったんだけどね。あのときわたしたち、念願のマイホームを買ったばかりで、いわば核家族だったわけで。そりゃ、どうしても大変なときは、来てもらってお願いしたりはしたけど、ふだん会わないから、あなたが慣れなくて、結果疎遠になっちゃった。近所に同い年の子がいたわけでもないし、いたとしてもまだきちんと話せるわけでもなかったから、きっとすごくさびしかったんだと、わたしは思っちゃったのよ。
しかしそんなことを言われても、いまのぼくが「そうだよ」ときちんと答えられるわけがない。だってもう軽く十七年前のことだ。とうの昔に忘れ去ってしまっている。いまさら思い出してみても、それはうすぼんやりとした影しか現れてこない。言われてみれば確かにそうだったかもしれないし、そうじゃない違和感もあるような気がした。だから、ぼくはとりあえず「そうだねえ、きっとそうだったかもしれないねえ」ということにした。
これが成人式の夜のことである。ぼく自身は半年前から二十歳で、すでにお酒の味も知っていたけれども、スーツ姿でぱりっと決めたその日の夜のお酒は、なんだか特別な味がしたものだった。
「もう帰ってきちゃったの?」と、帰宅したとき、母は言ってきたものだった。小学生以来のひさしぶりの相手と飲み明かしてくればいいのに、と言外に込められていたのは承知していたが、ぼくは「向こうは中学の同窓会があるから」と答えて、肩をすくめることしかできなかった。中学受験をしたために、彼らと同じ道を歩むことがなかったのだ。ならばということで、家族でささやかな成人お祝い会が催された。父親はまだ仕事だったので、母と子、ふたりだけのつつましい飲み会。そこで語られた物語は、自分の生きてきた二十年間を総覧するに興味深い資料を提示してくれたのだった。
その中のひとつに〈妖精の国〉という言葉があったのだ。
「小さい頃のおれって、そんなこと言ってたんだなぁ」
「あら、幼稚園から小学校入るころぐらいまでずっと言ってたわよ」
「え」
「それで付いた名前、知ってる? 〈妖精の子〉って。なんかピーターパンみたいじゃない? わたしはあんまり気にしてなくて、爆笑してたんだけど。ただあなたが傷付いたみたいね。帰ってきて、誰も〈妖精の国〉のことを信じてくれない、て泣いてたの、覚えてる」
「そんなに頑固だったのかよ、おれ」
「いいえ、たぶん頑固なんじゃなくて、それだけ大切にしていたってことだと思うわ。自分の大切な宝物を、がらくただ、て嗤われたら、そりゃあ悲しくなると思うわ」
「まあ、そうだけど」
「だからいちおう、話は聞いてたんだけど、保護者会のときにね、おたくの息子さん、〈妖精の国〉の話ばっかりするでしょう、あれほどほどにやめさせたほうがいいですよ。でないとずっといじめられることになります、て言われて。ようやく、少しずつ直そうかな、てことになったの」
「へえ。それまでそのままだったのか」
「だって、あなたの笑顔をこわしたくはなかったんだもの。それが母親としての務めな気がしたの。でも、先生は、それはちがいますよ。きちんと現実と空想の区別をつけさせないと、あとで大変なことになってしまいますから、いまのうちから少しずつでいい、ちゃんと教えなさいと言われたの。それでしょうがないから、少しずつ、幼稚園のこととか、小学校のこととか、なるべく現実の話をするようにお願いしたの」
「なるほどねぇ」
「でもしばらく〈妖精の国〉はなくならなかったみたい。流行りたてのファンタジーゲームとかやってたときも、あれ、ここ知ってるような気がするって唐突に言い出すのよね。そんなわけないだろ、て言われて泣いて帰ってきたこととかもあったわ」
「泣き虫だったんだなぁ、おれ」
それからもずっと、母親の思い出話は止まらなかった。それは決して時系列ではなかったけれども、不思議と整然とした流れを持っていて、飽きることがなかった。
かつてあれほど無邪気に語っていた〈妖精の国〉の物語が、小学校のできごとを記した物語に取って代わる。ぼくは次第に現実に適応するようになったのだ。そしてだんだんと溌剌と語る代わりに、黙って読むようになったという。最初は絵本、マンガ、短くて簡単な児童書から、長くて難しい物語、果てには注釈付きの近代文学まで読んでいたらしい。
難しい言い回しや、ものごとを知るようになると、今度は勉強に身を入れるようになった。国語ができるようになり、付随して社会科がわかるようになった。理科も好きだったらしいが、算数は不得意で、教師の悩みのタネだったようだ。けれどもそこは、両親の方針で塾に行くことになり、表向きは改善された。中学受験では進学校に合格するまでの実力には、少なくとも伸ばしてもらえた。
しかし母は、教師の喜びの反面で、さびしく思っていた。というのも、勉強が進むにつれて〈妖精の国〉の話題は減り、ついに中学受験を境目に、ぱったりとその言葉が途絶えてしまったからだ。ぼくは思春期に入り、淡々と勉強の日々を送った。学校の話は成績報告以外では、聞かれたらする程度に留まった。そのまま高校、大学へと進学していって、特に変わることはなかったという。こうして母とぼくのあいだには、もはや現実の、しかも勉強の話しか残らなかったのだ。
「でも、大人になるってそういうことかもしれない。親だって一番距離は近いけれども、結局他人だもの。いつまでも子どもの持ってる世界を知り尽くしているとは限らない」
母は改めて、成人おめでとう、と言ってくれた。けれどもこれは祝福の言葉というよりは、別れの言葉のように聞こえた。ぼくは急にさびしくなった。それからいままでの二十年、いや、さいきんの十年間をひどく悲しいものだと思った。けれどもいまさらそれをなかったことにはできないだろう。だからぼくはあえて母に、「ありがとう」とだけ伝えることにした。
照れ隠しに飲みきった缶ビールが、ひどく苦く舌にこびりついた。