フィーニエンス 悪魔の森 1
○帝国暦 二七三〇年一〇月二八日
○フィーニエンス 悪魔の森
「三日目も雨か」
魔法馬を走らせながらヘンゼル・ボームは、木の枝をすり抜けて落ちる雨を見上げる。
雨の中を魔法馬で悪魔の森を休息らしい休息もせず、軍勢を先導し北に進む若きフィーニエンス魔法軍少尉は、まだ行程の半分も消化していないことに焦りを感じていた。
背後では道を造る一〇体のストーンゴーレムたちが木々をなぎ倒し踏み潰しているが、予定の八割程度の速度しか出ていない。
防御結界が弾いているとはいえ、冷たい雨は空気を冷やし吐き出す息を白く染める。この予想外の長雨がストーンゴーレムの足を鈍らせていた。
それでも魔獣の集合体を模して魔獣の森を渡る計画はいまのところ上手く行っていた。前回と同じ二〇万を超える将兵で化けているのだから既に奇跡の領域だ。
アナトリ王国の革命の隙を突き、七年前の雪辱を晴らせと国を挙げて今回の侵攻作戦が決行されたわけだが、全てに於いて準備不足な感が否めなかった。
現にこの作戦の切り札になるはずだった飛行戦艦はいまだ姿を見せず、辛うじてストーンゴーレムは間に合ったが、刻印はまだ完全と言えない状態だ。
いくらアナトリ王国で革命が起こり弱体化したとは言え、こちらは魔獣の森を越えて行くのだ。
口には出せないが、かなり厳しい戦いになるのは間違いない。ヘンゼルとしては仲間を置いて逃げ出すつもりは無いが、無意味に死ぬつもりもなかった。
十八そこそこで魔法軍のエースとしてもてはやされているが、七年前の基準に照らし合わせれば中の上だ。
身の程を知ってるが故に自惚れることは無いが、自分の限界を越えた任務に神経を擦り減らしていた。
『魔獣の動きはどうだ?』
観測班のアリ・クルム少尉に念話を送る。
『動きなし、偽装は十分に効いてる』
『後は雨だけか』
『雨は仕方あるまい、それにこの程度の遅れで済んでるんだ、十分だろう』
アリ・クルムは、ヘンゼルよりも二つほど年上だが魔法軍の幼年学校からの同期で親友だ。
平民の出のヘンゼルと違って男爵家の三男で貴族階級出身の貴公子然とした容姿を持っているが、それが友情の妨げになることはない。
もともとフィーニエンスの軍隊は実力主義なので、家柄云々をひけらかしたところで周囲から鼻で笑われて終わりだ。それに八歳から軍の学校にいれば価値観は自ずと軍人のそれに変わる。
『雨以外はどうだ?』
『二〇〇台ほど馬車が壊れて停まってるぐらいか。これも想定内だ』
『壊れるのが早くないか?』
『なに、修理も迅速にやってるから問題ない、作業班は泥だらけだけどな』
『魔獣に喰われるよりマシか』
『そういうことだ』
『魔石はどうだ?』
『いまのところは全数安定している』
『そうか、ひとまず安心か』
『一箇所崩れたら連鎖するらしいからな、上の連中も気を配っているさ』
魔法軍の約一〇〇〇人が魔石の管理任務に当たっている。残りが防御と探査を担当していた。ヘンゼルやアリは後者だ。
今後、深刻な問題が出るとすれば魔獣の魔石だ。今回の侵攻軍全体で一〇〇個の魔石を起動させている。
魔獣の集合体を偽装なんて馬鹿げたことを考え付いた魔法軍の研究所の連中は、実験中に魔獣の森で消息を断っている。おかげでストーンゴーレム以上に未完成の状態での運用になっていた。準備不足のシワ寄せの最たるものだ。
起動させた魔石を人間が背負うなど正気の沙汰じゃない。しかも開発した連中が使えずに全滅したものを騙し騙し使っている。
研究所の生き残り連中が付きっきりで刻印の修正を行っているが、何処まで問題を抑え込めるのか。
ヘンゼルはけっして悲観的な人間では無いのだが、明るい展開は思い浮かべられなかった。
『……ぉ……ぉぉ』
『……!?』
かなり遠くで声がした。こんな場所で人の声?
斥候なら一〇キロは先にいるはずだし、認識阻害の結界でガチガチに固めてるのに声など漏らすわけがない。
だったら、何だ?
アリたち観測班は気付いてないのか?
嫌な予感しかしない。
『アリ! 西だ! 西を視てくれ!』
ヘンゼルは直ぐに念話を飛ばした。
『おう!』
アリが探査魔法を打つ。
『ヘンゼル、死霊だ!』
答えは直ぐに出た。
『死霊!?』
予想された障害の中でもよりによって魔獣の次に厄介なのが出てきた。
続けで観測班が探査魔法を連続して打つ。
『全軍に通達! 死霊多数、西側から接近!』
『『『魔法兵! 迎撃用意!』』』
『『『防御結界強化せよ!』』』
『『『射程に入り次第、射撃開始!』』』
『『『防御結界に取り付かせるな!』』』
魔導具で拡張された命令の念話が飛びまくる。
『了解』
ヘンゼルは担当領域の防御結界を多重化して強化する。エースと呼ばれてるだけあって他者の倍の領域をカバーしていた。
「ヤバいな」
血の気が引くのがわかる。
死霊は物理的な攻撃で完全に沈黙させるのは難しい。ある意味、魔獣よりも厄介な相手だ。しかもこちらは大所帯と来ている。少数の死霊でも防御結界を破られたらかなりの被害を覚悟しなくてはならない。
『前方に回り込まれた! 来るぞ!』
『迎撃する!』
アリからの念話と同時にヘンゼルも三体の死霊を確認した。
『使いすぎるなよ!』
『わかってる』
物理攻撃は効きづらいが魔法は効果を発揮する。
森の中では使いづらい炎系の魔法も雨の中ならば遠慮なしだ。
アリのアシストを受けて木々の向こう側にいる死霊に狙いを付けた。
「燃えろ!」
『『『ギャアアアアアアッ!』』』
火の玉と化した死霊が弾けてもうもうと水蒸気を上げた。浄化ではないから時間を置けば復活するが、数ヶ月は動きを封じられる。
『いいぞ、前方の反応が消えた』
『前方だけだろう?』
『そうだ』
『囲まれてないか?』
『残念ながら正解だ』
『夜が明けているのに関係無しか』
『この暗さでは死霊の足かせにはならなかったらしい』
『次から雨の日に悪魔の森に出掛けるのはヤメにするべきだな』
『まったくだ』
念話で軽口を叩きつつヘンゼルは、次に備えて疲労で熱っぽい身体をウオッシュする。
騎乗は一日六時間程度と決められていたが、激しく揺さぶられる馬車に乗っての休息はまるで休んだ気がしないので、これまでのほとんどを魔法馬の上で過ごしていた。
全身と疲労を洗浄して頭がすっきりする。
『悪魔の森にこんな隠し玉があったとはな』
アリが念話で呟く。
『雨の日の暗さは想定してしかるべきだったんじゃないか?』
『想定はしていたさ、聖別された弾丸を支給されていたろう?』
『三発だけな、数は想定してなかったわけか』
『死霊の発生にはマナではなく魔力が必要だったはず、魔獣の森にそうそうあるとは思えないが』
『魔力か、ゴーレムと魔石じゃないのか? 特に魔石はダダ漏れもいいところだぞ』
魔石の魔力は下手に近くに留めると人体に強い影響を与える。それに魔獣の集合体を偽装する為にはどうしても魔力を外に撒き散らす必要があった。
『魔石か、演習では死霊が出る場所には潜らなかったからな』
『実際に悪魔の森で実験が出来なかったのが悔やまれる』
『仕方あるまい、悪魔の森で下手に動くと王国軍にバレる』
演習を行った魔獣の森は、首都近くの飛び地で、現在侵攻中のアナトリ王国とフィーニエンスの間にある魔獣の森、通称「悪魔の森」とは違って死霊が湧く素地のない場所だ。それですら研究所の魔導師連中は実験中のアクシデントで生きて帰れなかった。
『おい、ヤバいぞヘンゼル、まだ増えてやがる!』
『増えているって? 隊列を囲んでるだけでもかなりの数だぞ、それでも順調に撃ち落としてるのに』
『それ以上に集まって来てる』
『マジか』
死霊の数は早くも作戦前の予想値の二〇倍に達していた。しかも終息していない。むしろ始まったばかりのような雰囲気だ。
『こいつは魔石の魔力じゃないんじゃないか?』
『ああ、この数はいくらなんでも多すぎる』
視界に入る前にヘンゼルを始めとする魔法軍の魔法兵の放つ炎に焼かれてまだ被害らしい被害は出していないが、防御結界に取り付かれ穴が空くと一気に均衡が崩れるのは間違いなく、いやがおうにも緊張が高まる。
せめて斥候が死霊の気配でも掴んでくれれば良かったのだが、彼らは魔獣に発見されないように認識阻害の結界を使う。
死霊もまた認識阻害の結界で避けることが出来る。それが完全に裏目に出て死霊を見落としたのだろう。
死霊は斥候に反応せず、地中や藪の中で眠ったままとなり、その存在を探知するのは観測班の能力を越えた探査魔法を打たない限りほぼ不可能だ。
『この数からすると前回の犠牲者か?』
『ああ、間違いないな』
ヘンゼルの父親も七年前の侵攻作戦に参加して帰らなかった。いまも死霊となって悪魔の森をさまよっているのか。
六歳のときに魔法の才を認められて軍の魔法兵養成学校に入って以来、結局会うことが叶わなかった。
三年前に任官し十八となった今はその顔すら曖昧になりつつあるが、今でも父を思えば胸の奥がうずき、両親と別れた六歳の頃の心持ちになる。
『ヘンゼルは父上、俺は兄上だ、だがわかってるだろうな?』
『姿に惑わされるな、だろう?』
訓練で叩き込まれる。
『そうだ』
『わかってる、姿が見える前に撃ち落とす』
『頼んだぞ、ただし、魔力切れだけは注意してくれ』
『新兵でもあるまいし心配するな』
ストーンゴーレムの先導をしているヘンゼルが落馬すれば踏み潰されて死霊の仲間入りだ。
『そうでなくても魔法使いの死霊はヤバいからな、気を付けてくれよ』
『気を付けはするが、そこは相手次第だな』
アリの言葉通り元魔法使いの死霊は生前の能力がわずかに残っており、本能のまま魔法を使う。それが簡単な魔法だとしても普通種に比べれば格段に危険度が増す。
厄介なことに七年前の侵攻作戦では上位の宮廷魔導師が数多く命を落としている。どれほどの割合で死霊に堕ちたかは不明だが現状を鑑みるに少なくはあるまい。
『ヘンゼル、前方だ! まとまって来る! かなり数が多いぞ!』
『確認した』
ヘンゼルも探査魔法を打つまでもなく死霊の群れを察知する。確認出来た数だけでも正面に十二体の死霊がいた。
アリからの情報を使い遠距離からの攻撃で死霊を燃え上がらせる。
『『『ギャアアアアアアッ!』』』
死霊の叫び声が響き渡る。
『いいぞ』
他の観測班の魔法兵からも情報が入って来る。
軍の長い隊列に向かって死霊の反応がいまだに途切れることなく集まっていた。しかも数を増している。
ヘンゼルは自分の射程に入った死霊をすべて落とす。
『かなり落としたのにいまだ隊列全体が死霊に囲まれたままか』
『普通はこれだけ仲間を焼かれたら逃げ出すのに、今回はその素振りも見せずか』
『こいつら組織だって動いてないのか?』
『死霊が? まさか、いくら生前が軍人だったとは言え有り得ないだろ?』
『アリ、先入観は捨てろ、死霊の数からして常識には合わないんだ、組織だった動きをしても何の不思議もないぞ』
『確かに』
数キロ先の距離の離れた場所にも正確な数は不明だがかなりの反応がある。死霊は均等に割り振られた状態で動いていた。
『ヘンゼル! 後方からの伝達だ! 防御結界に食い込まれそうなほど死霊が肉薄してる、手助け可能か?』
『やってみる、照準頼む』
『任せろ』
ヘンゼルはアリのナビで隊列の後方で防御結界に取り付きそうな死霊を撃ち落とす。
『いいぞ! しかし切りが無い、程々でいいぞ』
後半は念話なのに声が小さくなった。
魔法兵のうち死霊を直に撃ち落とせる者はわずかしかいない。攻撃魔法の他に聖魔法の浄化が確実に仕留める方法だが、治癒魔法以外に割ける魔力は無かった。
聖別された弾丸もそれなりの効果を期待できるが、魔法馬と馬車を走らせてる状態では、銃身に触れるぐらい的が近付かないと当たらない。そんな状況では暴発事故の損害の方が大きくなるのは想像に難くなかった。
『死霊を迎撃する間だけでも、隊列を止められないのか?』
『そいつは無理な相談だな、上がお許しにならない』
『『『速度そのまま、魔法軍は魔石の防御を優先せよ!』』』
アリの呟きに呼応する様に将軍の命令が悪魔の森に響き渡る。
『ほらな』
『魔石の防御を優先、当然そうなるか』
『ああ、魔石を奪われれば魔獣の偽装が崩壊して瞬く間に本物に襲われる』
『そんなに直ぐ来るか?』
『間違いない、離れていても魔獣たちはこっちに興味津々だ』
観測班だけあってアリの探査魔法はかなり精度が高い。
『マジか、死霊に加えて魔獣の群れとやり合うなんて想像しただけで絶望的な気分になる』
『心配するな、絶望を感じる間もなく死霊の仲間入りだ』
『それならいいか』
『ヘンゼル、防御結界に取り付かれる前に出来るだけ死霊の数を減らしてくれ!』
連隊長から直々にご指名の念話が飛んだ。
『了解です』
観測班の魔法兵が連携して死霊に立ち向かう。
目の役割をする者と攻撃をする者がペアを組むが、ヘンゼルはアリが率いる五人の観測班を始め、複数の班を目にして全方位で死霊を炎で包んだ。
『飛ばし過ぎだぞ、ヘンゼル!』
アリの念話が飛んだ。
『ここで飛ばさないでどうする! 防御結界に取り付かれたら終わりだぞ!』
『多少取り付かせても構わない、なるべく温存させろ、死霊の数が尋常じゃない!』
『そんなにいるのか?』
『ああ、直ぐに数を割り出せないぐらいいやがる』
『マジかよ』
『こいつは最悪、隊列が崩壊するぞ、前回に引き続き全滅するかもしれん』
『そこまで死霊が湧くものなのか?』
『前回の侵攻作戦では二〇万を超える将兵が命を落としてる。どこまで死霊化したのかはわからんが、種は揃っている』
『二〇万は知ってるが、死霊化させる魔力をいったい何処から調達してるんだ?』
『ストーンゴーレムや魔石からじゃないのは、はっきりしたな』
『ああ、その数は絶対に違う』
死霊は隊列から離れた場所から現れたのだ。
『前回使った太古の道には抜けられないか? 太古の道なら魔獣すら近寄らない、死霊も弾かれるはずだ』
『抜けられないことは無いが、それなら引き返した方が近いぞ』
『いや、それはダメだ、死霊を悪魔の森の外に連れ出すことになる』
『そうか、死霊は魔獣の森から出られるんだったな』
『ああ、だから逃げるとしたら太古の道だ』
『ここから三日は掛かる距離だ、かなり難しいぞ』
『だろうな、でも、万が一の時の選択肢はそれしかない』
『いいだろう、何事も最悪には備えるものだ、ルートを確認しておく』
『念の為な』
対処を間違えば前回の失敗以上の惨事を引き起こすことになる。軍の上層部はそれがわかってるのだろうか?
一〇〇体近い数の死霊を撃ち落としたのに後から後から湧いて来る。後方を中心に燃え上がる死霊が遂に隊列の防御結界を掠め始めた。
『悪い、手が回らなくなって来た』
『無理はするな、ヘンゼル以外の魔法兵に仕事を回してやれ、防御結界に引っ掛かったヤツなら倒せるだろう』
『多分な』
それでもヘンゼルは出来る限りの魔法を使う。
燃え上がった死霊たちの悲鳴が森に響き、燃え上がる炎で雨に濡れた木々からもうもうと水蒸気が上がる。
『まるで精霊の霧だ、炎系はもう駄目か』
マナを吸った水蒸気が視界と探査魔法を阻害する。
『こっちは構わんぞ』
『いや、この状況で観測班の目を奪うのはマズいだろ?』
『だからって他に何を使う? いまは雷系は使えんぞ』
『それはわかってるが』
雨に濡れた場所での雷系魔法は地面を電撃が走るため使えない。早急に代替えの手段を探す必要があるが、雷系を除けばいずれも炎ほどの効果は無い。
『仕方がない、一瞬だけ霧に幾つか穴を開ける、その隙にまとめて探査を頼む』
『任せろ、それである程度の見通しを立てる』
ヘンゼルは風を起こして死霊ごと出来たての霧を吹き飛ばして穴を穿つ。そして、次の炎の魔法が放たれる前に観測班が一斉に探査魔法を打った、
『『『……!?』』』
観測班の混乱する思考が念話に混ざり込んだ。




