1話目
1
生まれ育った街を出て、汽車に乗ってから懐中時計の針は三度と少し回った。思えば遠くへ来たものだ。
私は足元に転がしてあった鞄を開けて、紅く熟れた苹果を取り出し一口齧った。汽車が目的の場処に辿り着くまで、予定ではあと半刻ほどかかる。到着する前に腹ごしらえを済ませておきたかった。
昔読んだ童話に出てきた男の子たちも、汽車に乗りながら二人仲良く苹果を齧っていなかったっけ。生憎私が見ている景色は、一面に咲いた光り輝くりんどうでもなければ、白鳥の停留所でもない。目の前に広がるのは何処までも続く田園風景と、ずっと遥か遠く申し訳程度に見える淡青い海だけだった。
ごとごとと硬い椅子を揺らしながら、快適とは言えない旅路は続く。繰り返し本を読むことにも飽いてしまい、私は革靴の爪先で再び古い鞄をこつこつと蹴った。
向かい合う座席には誰もいない。私は退屈と孤独を持て余していた。時折車両を移動する車掌が通りがかりざまに、
「坊ちゃん、家出かい?」
なんて気まぐれに声をかけてくることもあった。いちいち反応するのもなんだか面倒で、私は隣の車両へと通じる扉が開く音が聴こえるたびに居眠りを決め込んだ。
やがて私のように見るからに一人ぽっちで、訳ありげな、小賢しそうな(ひねくれた、と同義語である)子供にわざわざ話しかけてくる大人はいなくなった。
車内放送が目的地の名を告げた。時計は到着予定時刻の十五分前を指している。私は食べかけの苹果や本を片付けた。
家出といわれても間違いでは無いのかもしれない。私は一人で此処へ来たから。これから一人で生きるために。
「この街は初めてかい、坊ちゃん」
ごとごとと走る汽車の次は、ごとごとと走る荷馬車に揺られて長閑な牧草地を進んだ。母さんは馬車を用意すると言ってくれたけど、お金も手間もかけさせたくなくて断った。
本当は「恩を売られたくなかった」が一番だけれど。
「そうだよ」
荷馬車に乗せてくれたおじさんのちょっとした勘違いを否定するのが面倒で、私はのこのこ歩いては草を食む羊を眺めながら応えた。
「この街に人が越してくるなんて珍しい事もあったもんだ。丘の上の空家に住むんだろう?困ったことがあったら何でも言いな」
「御親切にありがとう。おじさんはこの街の人?」
「そうだよ。牧草を運んで農家へ行き、ミルクだのチーズだの野菜だのを乗せて街へ行く。言ってみれば運び屋の類だな」
恰幅が良く口髭をたくわえたおじさんは、葦毛の馬の手綱を繰りながら笑った。
「おじさん、私この街で仕事を探しているんだ。誰か人手を欲しがっている人を知らないかい?掃除でも皿洗いでも、どんな雑用でもいいんだけど。」
ある程度の貯金は持って出てきたが、それだけでは心許ない。なるべく早く食べていけるだけの仕事を手にしたかった。
「花屋のかみさんが男手が欲しいってぼやいていたが、お前さんのようなちびじゃあなあ・・・。そうだ、天文台が雑用係の募集をしていたように思うぞ」
「天文台?この街には天文台があるのか」
こんなに小さな街にそのような施設があるとは驚きだ。
「あぁ、あるとも。この街は小さいが、『星空に一番近い街』と呼ばれているからな」
「星空に?」
「この街は国で一番星がよく見える場処ってんで有名なのさ。星座盤屋があったり、天球儀屋や月齢屋なんてのがいたりする。街のはずれにある天文台では代々『星詠み』がその役目を務めている」
「星詠み?」
聴き慣れない響きに私が首を傾げると、おじさんは頷いた。
「天文台の管理人というか、番人のようなもんだな。星の聲を俺たちに伝えてくれる。今は眼を病んだと言うから助手を探しているんだろう」
「天文学者なら、前に住んでいた街にもいたよ」
「この街に学者はいない。いるとしても星を見上げるような酔狂な奴はこの街にはいないだろうな」
『星空に一番近い街』の住人が星を見ないとは、とても奇妙な話に思えた。
「そんなに有名なら、夜天はさぞ星が綺麗だろうに」
高い建物も四輪車も工場もない、この広い天は陽が沈んだ後もさぞ美しいだろう。
薄く青い絵の具を刷いたように澄んだ天を見上げていると、できないんだよ、と低く困ったような聲が聞こえた。
「この街の住人は星を見上げたりしない。病に罹るからな」




