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「お前のお陰でどれだけ冥界(うち)が危ない立場にあったか、分かってるのか?」

 軍事局長官の執務室で、ガンナが怒っている。珍しく正当な怒りだった。落ち着かない様子で部屋の中をうろうろとしている。特注の白い軍服はデスクの椅子に掛けられて、いつものようにラフな格好をしているが、ガンナはいつも以上に機嫌を損ねていた。

 床に正座させられた医術局次官のボリスは、痛々しいまでに腫れた左顔面を庇いながら、へえ、と返事をした。口の中も切れて腫れ上がり、口が上手く動かないのだ。エリアスがボリスを連れ帰ってすぐ、ガンナが一発、力任せに殴り付けたからだ。あれからしばらく時間が経つが、そこはぞっとするほど腫れ上がって、赤紫に変色している。美しい顔が台無しだった。せめて冷やしてやろうと思ったエリアスだが、余計なことはするなとでも言うようにガンナに睨み付けられてしまい、手持無沙汰に控えている。

「情報局の調べによると、ズルターンの言葉通りフヴェルゲルミルの泉はミーミルに通じていることが分かった。お前んとこの静養院には今後、内密に監視用の蝙蝠を付けることになった。ズルターンにも、もちろんお前自身にもな」

 これが世間に知れて悪用されたら大変なことになる、とガンナは渋い顔をした。

「泉のことを一言でも言ってみな。お前に掛けた呪いが、後悔する前に殺してやるから」

 腕を組み、その場に足を止めたガンナは、鋭くボリスを見下ろした。ボリスはもう一度、へい、と頷いた。

 ガンナに沈黙の呪いを掛けられたボリスは、今後一切、泉に関係する話ができなくなる。もしうっかり話そうとしたならば、見えない針と糸で縫いつけられたように唇がくっ付いて、水の中に顔を押し付けられたように窒息することだろう。ガンナの呪いはしつこく、決して消えないのだ。

「それにしても、ホンット軽率に動いてくれたな、お前は」

 ボリスの変形した顔を睨みながら、ガンナは疲れたように深く息を吐いた。

 エリアスとボリスが冥界に帰るまでに、ヘルマンがエリアスの命じた通り、動いていた。ズルターンのまじないを利用して、迅速に、そして内密に調査が進められたのだ。

 冥界にある泉と巨人国(ヨトゥンヘイム)にある泉とが繋がっていることは、両国どちらにとっても大きな問題だった。間違っても、他国に知られては困る話でもある。今でこそ巨人国とは良好な関係を保っているが、いつ裏切られるかも分からない。神界だけならまだしも、巨人国と争うとなると、冥界は分が悪い。

「幸い、ミーミルの親父だけ黙らせておけば済む話だったが……」

 冥界全体の結界に加えて、フヴェルゲルミルの泉付近の結界を強め、早急に監視体制も整えた。そして、巨人国の泉を守る巨人ミーミルとは、魔王が話をつけた。互いに泉を利用して侵攻することを禁じたのだ。ただし、その代償も大きかった。

「あの野郎、抵当に王の眼球(めだま)を要求しやがった」

 ガンナの顔が怒りではなく、悔しさで陰った。

 神界の王オーディンが、知恵と知識に満ちたミーミルの泉の水を飲む代価に片目を差し出した話は、とても有名な話である。それと同じように、ミーミルは魔王の片目を要求したのだ。

「それは――僕は、なんて馬鹿なことを……」

 ボリスが申し訳なさそうに項垂れたのを見て、ガンナは舌打ちを漏らし、背を向けた。幾分か、怒りは落ち着いたようだった。

「とりあえず、正式な処罰が決定するまで自宅謹慎。これ以上、面倒事を増やすなよ」

 低く唸るように告げて、ガンナは自身のデスクへ戻った。その足取りは重かった。


 エリアスがボリスの屋敷へ彼を送り届けて戻ると、ガンナは執務室にある長椅子に横になり、ソファーに足を投げ出していた。

 ガンナの執務室には所狭しと様々な植物が生い茂っているが、ガンナが寛ぐ長椅子の辺りには、小さく黄色い花が満開になり、花の重みで枝が緩やかな弧を描いて垂れていた。爽やかで優しい香りが漂っている。ガンナは眩しい光を避けるように目元に腕を置いて、眠ってしまっているようだった。エリアスが近寄ると、その気配に少しだけ腕をずらして、ぼんやりと瞼を持ち上げた。

 疲労が色濃く映るガンナの瞳に、エリアスは少し気の毒な思いで、長椅子の傍に腰を下ろした。長椅子に腕を置いて、ガンナを見詰める。

「もしかして……陛下と一緒にミーミルの泉に行ったのか?」

 冥界から巨人国へは、飛べば半日、空間移動ならば一瞬で行ける。急を要する場合、空間移動術を使ったことだろう。それならば魔力の消費も体への負担も大きい。

「急なことだったからな。陛下と、俺と二名で」

 魔王には魔王付きの護衛官がいるが、軍事局長官が付き人となれば、いくら選りすぐりの悪魔(エリート)といえど比べ物にならない。ガンナの魔力は、身近で見ているエリアスにも測り知れないのだ。

 ガンナはエリアスへ向けていた顔を反対側へ背けた。見られることを厭うような仕草だった。

「……俺の目じゃあ、足りないんだと」

 ぽつりと呟いて、ガンナが笑った。溜息交じりのそれは自嘲的で、空虚に響いた。

 エリアスは、甘やかな花の香りに不釣り合いな悲しみを感じた。静かに呼吸するガンナは、どんな顔をしているだろうと、思う。

「アンタもしかして……」

 自分の目を失うことよりも、辛く悔しいことだったのか――。エリアスは心に浮かんだ疑問を、口にすることはできなかった。



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