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D

 硫黄のにおいも有毒なガスもない空間に、ふたりは安堵した。だが、きれい過ぎる空気と微かに感じられる魔力に、妙な居心地の悪さを覚える。それは、フヴェルゲルミルの泉で感じるものと似ている。そう思いながら、エリアスは部屋の中を見渡した。

 小屋は思いの外小さく、一部屋しかない。その一部屋さえも壁は一面、棚になっていて、小さな瓶が何十も並べられていた。電球の白々しい灯りを反射して、中の液体が艶めいている。

 部屋の中央に草臥れたソファーと大きなテーブルがあり、そのテーブルの上にも瓶やらアルコールランプやら長細い試験管やら鍋やらが、ごっちゃになって置かれている。ソファーの脇には巨大な水瓶があり、微かな水音が絶えず響いていた。

「ここに誰かが来るなんて、初めてだったかなあ。……その格好から見ると、ただのお客さんじゃないみたいだけどねえ」

 試験管の液体を齧り付くように見詰めていた男が、振り向く。分厚い眼鏡をかけ、野暮ったい髪に、薄汚れたシャツ――まるで研究者か学者のような風貌の男は目敏く、エリアスの紅い軍服を見た。

「しがない香水商人ですよ(ぼかぁ)。軍事局のお世話になるようなことはやってない」

 ズルターンと名乗った男は、それだけ言うと背を向けた。先程まで熱中していた作業に戻ったのだ。ヘルマンはその行為に眉を顰めたが、エリアスは気にせず棚に並ぶ瓶を順に眺めた。ガラス瓶に、自身の顔が映り込む。エリアスはその中のひとつを手にとって、蓋を開けた。

「これは、ただの香水じゃない……香料は使用していない、香りは全て(まじな)い、あやかしの類だな」

 香水を付けた手の甲に鼻を近付け、エリアスは呟く。鼻先を擽る甘い香りは、魔女がよく使う魅惑の香りに似ている。だがそれと比べ、魔力は感じられない。

「悪魔や魔女の皆さんにとっては子供騙しだけど、人間にとっちゃあ、この位が一番いい塩梅なんですよ」

 ズルターンは並べた試験管のひとつを取って、液体を混ぜるようにくるくると回す。試験管に半分ほど入っていた液体は、透き通った青色に変化していた。

「これは……もとは、泉の水だな…?」

 手の甲を擦りながら、エリアスは眉を寄せた。皮膚が、ほんの少しだけ赤くなっている。小屋に入り、清潔すぎる空気に不快な気がしたのは、この所為だと、エリアスは思う。

「その通り。泉の水は、人間にはとても心地良いみたいなんだ。これなんか、緊張をほぐして精神を楽にするものだよ。静養院でも使われている」

 試験管の液体から目を逸らさずにズルターンが投げて寄越した瓶には、眠気を誘う香りが収まっていた。薄ぼんやりと力が抜けて、神経が麻痺するような――。

 瓶に鼻を近付けたヘルマンは、口を歪めながら顔を背けた。悪魔にはとてもじゃないが、嫌なにおいらしい。

「泉の水はとても清らかで、こういったまじないによく馴染む。ボリス先生には、感謝しなくちゃいけないな。こうして泉の水を使わせてもらってるんだから」

「そのボリスだが――」

 厚いレンズの奥から、黒く小さな目が鋭く、エリアスを見た。


「――エリアス次官、本当に、あんな話を信じるのですか。フヴェルゲルミルの泉が、ミーミルの泉に繋がっているなんて! 狂気の沙汰だ」

 手の平にすっぽりと入るくらいの瓶には、透明の液体が入っている。ずしりとするその重みを感じながら、エリアスは黙り込んだ。

 濃い硫黄の煙の中を進みながら、ヘルマンは咳払いをする。足早に進むふたりは、硫黄の町から出て、ムスペルヘイムに聳える火山から吹き付ける熱風を浴びた。

 ズルターンから預かった瓶には、まじないをかけた泉の水が入っている。まじないは空間移動魔法にも似ているが、それとは違う、不思議と霊気を帯びたものだ。ズルターンによれば、まじないは泉の魔力に呼応して、人間でも通れる――結界道を作り出す。それはフヴェルゲルミルから遠く離れた巨人国(ヨトゥンヘイム)の泉へ、通ずるのだという。ヘルマンの言うように、狂気の沙汰、まるでお伽噺だ。泉が繋がっているとなれば、冥界と巨人国との均衡も崩れかねない。

「ミーミルの泉から中津国(ミズガルズ)まで、飛べば一日、馬の足なら三日、人間の足ならば一週間ってところか……」

 ボリスが失踪してから、ちょうど一週間経つ。エリアスは薬草園にある大きな噴水を思い返した。あれは、泉の水を引いていたはずだ。まじないの水を、試してみる価値はある。

「もし、奴がロマナの生家に向かったとしたら、そろそろ、辺りに姿を現すはずだろう。第十四地区だったか?」

「まさか――。そんなことはあり得ない。ミーミルの泉まで、結界道を通って行ったなんて」

 ヘルマンはうんざりするように、首を振る。だがふと、何かを見付けたように一点を見詰めて、目を凝らす。軍事局で使っている通信用の紅蝙蝠が、ふたりに向って飛んできたのだ。それがエリアスの肩に張り付き、素早くチイチイと鳴いた。ボリスが失踪してから、第十四地区付近を巡回させていた部下からの通信だ。

 紅蝙蝠の報告を聞き、エリアスは微かに笑みを浮かべた。

「ヘルマン、そのまさかだ。ボリスが見付かった」

 驚きに満ちたヘルマンの顔を、愉快に眺め、エリアスは紅蝙蝠を軍事局長官へと飛ばした。そしてズルターンのまじないの瓶をヘルマンに渡し、呪術局へ行くよう命ずる。

「アイツの話が本当かどうか、呪術局の連中と詳しく調べてくれ。俺は、――すぐにミズガルズへ飛ぶ」

 ヘルマンは顎を引き、引き締まった顔で挙手した。


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