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「空間移動魔法に秀でた魔術師?……呪術局以外にと言われたら、思い付かないな」
青い瞳を不思議そうに瞬かせ、イヴァンは答えた。そして知った風に、ボリスのことだろう? と視線で問う。カウンターに座るエリアスは頷いて、受け取ったグラスに口を付けた。
王都の外れにあり、灼熱の地へと続く巨大な森を背後にして建つパブには、悪魔はもちろんのこと、灼熱の地で服役する死者や、鬼、吸血鬼、ドワーフなどありとあらゆる種族が来店する。店主のイヴァンは、月光のような銀色の髪に、魔物を容易く惑わせる美貌を持つエルフであり、元・王都情報局長官だ。退官した今では、こうしてパブで料理と酒を振舞っている。
「……俺もそうだよ。大体、そんな術師がいたら、呪術局が放っておかない」
エリアスは思わず溜息を零した。そこへ、イヴァンの微かな笑い声が降り掛かる。エリアスは不快げに顔を上げた。
「魔法陣や何かの術じゃなく、一時的に“結界を抉じ開けた”とか、……」
イヴァンは面白い悪戯を思い付いたような顔付きで、笑っていた。尖った耳に長く艶やかな髪を掛けながら、怪しげに目を細める。
「この世はひとつの巨木と同じで、根や枝が全て通じているのと同じように、どこかで必ず通じているものなんだよ。――泉の伝説を、聞いたことはない?」
「伝説?」
イヴァンはエリアスの怪訝な眼差しを受け止めて、古くから伝わる昔話だよ、とまるで秘密話をするように囁いた。
「神界にあるウルズの泉には運命の女神がいるんだ。彼女は泉の水を浄化して、そこに根を張るユグドラシルが枯れないように、大事に守っている。雨の日も、雪の日も、嵐の日もね」
彼の青い瞳が、深く、揺らめいている。柔らかな唇が小さく開いて、そっと閉ざされ、また微かに開く。
エリアスはカウンターに腕をついて、イヴァンの次の言葉を待った。
「それがなぜかというと、そのユグドラシルはとても大きな樹でね、あちこちに巨大な根を張って、この世界を支えていると信じられているからさ。巨人国にあるミーミルの泉や、もちろん冥界のフヴェルゲルミルの泉にも根っこが伸びていて――妖精の国アルフヘイムや小人の国ニダヴェリール、中津国、闇穴にも繋がっている」
「“九つの世界”――ユグドラシルか。確かに、そんな昔話があったな…」
もう、若い連中は知らないだろうね、とイヴァンは頷く。遠くを眺めるような、達観した眼差しだ。
「お前だって、年齢的には知らない世代じゃないか?」
「俺は、……いや、どこかで聞いたんだ。誰に聞いたんだったかな。……」
ふと、エリアスは不思議な気分になった。幼い頃か、それともいつか、どこかで聞いたのだが、誰にどのような形で聞いたものか、思い出せないのだ。だが、聞いたことのある話だった。首を傾げるエリアスと同じように、イヴァンも首を傾げてみせ、そして小さく肩を竦めた。
店を出ると、夜空には色鮮やかな光の帯が広がっていた。青みがかった明るい緑色から黄色、それが一面に溶けるように光っている。
冥界には太陽が昇らない。代わりに昼間には青空に月が浮かび、漆黒の夜空には赤や白、青や緑の光が帯を作るのだ。美しい灯りに照らされながら、エリアスは自身の屋敷へと帰宅した。
「ウルズの泉、ですか…」
屋敷の一切を取り仕切る使用魔は、不意のエリアスの問い掛けに不可解そうな表情をしたものの、すぐに、私も聞いたことがございますよ、と頷く。エリアスの先々代がいた頃からこの屋敷に勤める使用魔は、エリアスが脱いだ真紅の軍服を丁寧に片付けながら、静かに口を開く。
「そこに根を張るユグドラシルは“生命の樹”ともいわれ、その実を食べると永遠の命を得ることができる、とか。そのような話もありますね」
「へえ、そんな話もあるのか」
使用魔は深い皺のある顔を、更に皺くちゃにして微笑みながら、熱い紅茶を淹れ、カップを差し出す。温かな湯気と仄かな香りに、エリアスはほっと、ソファーの背に身を沈めた。
「ええ、あと私が知っている話ですと……これは随分、古いものですが、ウルズにいる運命の女神が守っているのは、実はユグドラシルではなく、泉そのものだ――という話です」
「泉そのもの……?」
ええ、と頷きながら、使用魔は部屋の中央にある大きな暖炉へ向かう。燻るように小さくなっていた炎に手を翳し、乾いた唇を舐めて、呪文を呟く。すると炎は中心を青白くして、大きく燃え出した。
エリアスや、屋敷に勤める使用魔たちは、もとより炎を司る種族だ。屋敷内のどの部屋にも必ず暖炉があり、常に温かな炎が薪の爆ぜる音を響かせているのだ。
「ユグドラシルが根を張る三つの泉は、本来は一つの泉だったのです。ですが、泉からは強力な浄化作用と魔力が常に溢れ出ている。その強大な力を一つの場所に留めておくのは危険だということで、三つに分けられたのです。神界と、冥界と、巨人国それぞれに」
エリアスは使用魔の背中越しに、温かに燃える炎の光を見詰めた。炎は橙色に揺らめき、空気を震わせ、ちらちらと辺りに影を作っている。
「忘れ去られた、古い伝説のひとつですよ。本当かどうかは分かりませんが」
ぱきん、と小さく、薪が音を立てて崩れる。
使用魔が一礼をして退室した後も、エリアスはしばらく暖炉の炎を見詰めていた。
「本当に、こんなところにソイツは住んでいるのか?」
灼熱の地――ムスペルヘイムの火山の麓にある町に向いながら、エリアスは口元を覆い、ヘルマンへ問い掛けた。ヘルマンも同様に、眉を顰め口元を押さえながら、エリアスへ向き直る。
辺りは視界が効かないほどに、強烈な硫黄の煙に満ちている。刺激の強い有毒ガスが立ち込め、おそらく下等な魔物ならば一溜まりもないだろう。エリアスやヘルマンとて、長い時間はいられない。その内、体が痺れて動かなくなってしまう。
ヘルマン率いる第二部隊の隊員から、医術局の薬草園の片隅でよく、ボリスと見知らぬ男の姿を見掛けたと話があったのは、つい昨日のことだ。その隊員も、ボリスが男と共にいることなど珍しいから、印象に残っていたのだという。医術局員の話によれば、男は医術局の者ではなく、院にいる患者でもない。局員がボリスから聞いた話といえば、男が硫黄の町に住んでいるということだけだった。半年前から、時たま院を訪れるのだという。
医術局と薬草園に籠もりっきりのボリスの交友関係は非常に狭い。その中で、エリアスが知らない者などいなかった。硫黄の町に住む男の存在など、聞いたこともない。
「それにしても、酷いにおいだ」
白濁とした煙も、硫黄によって黄ばみを帯びているように見える。町といっても、このような場所に住むものなど、皆無に等しい。
煙を深く吸い込まないように呼吸を抑えながら目を凝らせば、エリアスは、もうもうと立ち込める煙が薄まっている場所を見付けた。ふいに、風が吹き、エリアスの長い髪を揺らす。新鮮な空気の流れに、エリアスとヘルマンは顔を見合わせた。風上に、小さくも大きくもない、粗末な小屋があったのだ。
小屋の周りには様々な植物が茂っている。この土地に、植物など育つものなのかと思うエリアスは、恐る恐る、それらを眺めた。派手な色味の巨大な花からは、死肉の強烈なにおいが漂い、あちこちに絡まる蔓や蔦には、壺のような形の実がごろごろとぶら下がっている。その壺のような実は中が空洞になっていて、覗けば、溶けかけた昆虫の死骸が詰まっていた。軍事局長官のガンナの執務室も植物に溢れているが、あの部屋にこの得体の知れない草花を持っていったら、彼は失神するだろう。そんなことを考えながら、エリアスは何とか嘔気を抑えた。
胸がむかむかするような光景だが、不思議なのは、辺りに満ちる空気がとても清らかなものであることだ。それが小屋から流れ出ていることは確かだった。
エリアスとヘルマンはもう一度だけ顔を見合わせて、小屋の戸に手を掛けた。