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「おやあ、エリアス次官! またボリス先生が、何かやらかしたのかな」
巨大な泉に浮かぶ町と王都を繋ぐのは、ニーズヘッグの船だけだ。彼は人間の女の姿をしていたり、少年の姿をしていたり、毎日自由自在に変身しているが、元は蛇を司る魔物だ。ビー玉のような目が、部下を伴ったエリアスの姿を見付けて、陽気に笑う。
王都軍事局に勤めるエリアスは、ニーズヘッグの言葉に苦笑だけ返して、彼の小さな船に乗り込んだ。業火をあしらった真紅の軍服に、背に一房流れる艶やかな黒髪――軍事局の切り札、とも謳われるエリアスがフヴェルゲルミルの泉にやって来る理由と言えば、大抵が、王都医術局に勤めるボリス次官絡みであった。ニーズヘッグは分かった風に頷きながら、船を出した。
泉に浮かぶ町にはいくつもの水路があり、七色に変化する泉の水が流れていた。絶えず、軽やかな水音が響いている。
「そういえばここ何日か、ボリス先生の姿、見てなかったな。新しい死者がやって来てから、ずっとその子に付きっきりだったんだけどね」
病で死んだ人間は冥界に着いてすぐ、王都医術局の静養院に送られる。死者は一定期間、この静養院で生活をし、あらゆる病も怪我も癒してしまうという伝説の泉の水と、魔力を秘めた薬草とで、傷付いた心身を回復させるのだ。冥界の生活に慣れて、治療が済む頃にはほとんどの死者が、人間界で暮らしていたことを忘れる。だがこの一連の流れは病死した者にとって、冥界で過ごす為に必要なことだった。当然ながら、死を受け入れられない人間が多いのだ。
様々な魔物が住む冥界で、隔離されたフヴェルゲルミルの泉に浮かぶ町は、一種の更生機関なのだった。
「ヘルマン、その新入りは何て名前なんだ?」
軍事局の仕事は、もちろん冥界の防衛や有事の際の出動、官僚の護衛が主だが、その他に、中津国に住む人間たちの魂を案内する役目もあった。罪人や悪人、病死した者の魂は冥界に、それ以外の者は神界に送られるのだ。ちなみに神界では選別人と呼ばれる半神が、死者の案内をしている。
エリアスが率いる軍事局第一部隊は罪人や悪人の魂の連行を担当しているが、病死した者の魂の案内はヘルマン率いる第二部隊の担当だった。
「一番新しい者ですので、……ロマナという少女ですね。十六歳、ペスト、第十四地区。ひと月前、私が案内した者です」
ひょろりとした痩身で、スキンヘッドがトレードマークのヘルマンは、黒い軍服の懐から出した手帳を捲りながら答えた。エリアスは腕を組みながら、ふうん、と相槌を打った。
静養院近くの船着場に着き、エリアスとヘルマンは桟橋へ下りた。エリアスは青空に上った明るい月を見上げながら、呟く。
「美人なのか?」
「は――いえ、ああ、おそらく、ボリス次官の好みの女性かと」
ヘルマンの答えを聞いて、エリアスは脱力し、またか、と盛大に溜息をついた。ヘルマンも堪えられなくなったのか苦笑いを浮かべ、慌てて咳払いをした。
「とりあえず、医術局の連中に話を聞こう」
医術局の静養院は中央に円形の建物があり、そこから東西に翼を広げるようにふたつの病棟が建てられている。広大な院の敷地内には薬草園があり、そこは死者たちが自ら手入れをしていた。そこには泉の水を引いた大きな噴水があり、神聖な空気に満ちている。
院内は白を基調とした内装で、清潔さに溢れていた。悪魔には少々目が痛くなるような明るさだったが、医術局に勤める者は慣れてしまうのだろう、白衣を纏った悪魔たちは忙しなく動いている。エリアスもヘルマンも、眩しさに目を細めるしかなかった。彼らは院に漂う妙な潔癖さが苦手だった。なぜだか、力を吸い取られるような気分になるのだ。
「軍事局の方が何の御用ですか?」
医術局の管理部へ向かうと、壁一面にあるカルテの保管棚の前で、膨大な量のカルテを振り分けていた一名の悪魔がやって来る。この多忙な時間に、何の用だと鬱陶しげだ。医術局の悪魔たちは、死者以外には素っ気無い。毎度のことながら、エリアスは苛立ちを落ち着かせる為に一息ついて、口を開いた。
「こちらの用件は分かっているはずだろう? ボリス次官はどこにいる?」
「ボリス次官は今、外出中です」
「行き先は」
「患者に最も必要な治療です。これ以上は、たとえ軍事局といえどお話しできません」
仏頂面の悪魔はその表情を変えないまま――むしろ眉を寄せ、不快な顔をして、軍事局のふたりをじろじろと見詰め返した。
「確かに。たとえばその治療がどんな非道なものだとしても、冥界内であれば俺たちは文句は言わないし、万が一、外界に向かう必要があるとしても、正式な手続きをすれば、こうして出向くこともない」
いい加減、苛立ちを隠す気も失せたエリアスは突っ慳貪に言いながら、ヘルマンへ目配せする。ヘルマンは頷くと、手帳を捲り、そこに挟み込んでいた紙片へ視線を落とした。
「三日前の十四時、この静養院東南で、一名の悪魔と死者の気配が突如途絶えています。詳しく言えば、薬草園の中央にある噴水付近で結界の歪みが発生し――つまり不正な空間移動魔法が使われた記録があります」
ヘルマンの持つ紙片には奇怪な文字が並んでいる。特殊な暗号文だ。今朝方、情報局で得た情報である。
王都情報局は、冥界から外界――中津国へ続く巨大な門を管理、監視している。特別な理由で中津国へ出る時には、情報局を通して陛下へ申請し、許可証を受け取らなくてはならない。エリアスやヘルマンなども、任務で死者の魂を迎えに行く時には必ず許可証を提示していく。だが時折、門を使わず、空間移動魔法や魔術を使って不正に冥界を抜け出す者がいる。大抵は冥界に張ってある結界に引っ掛かって捕まるのだが、稀にこうして、軍事局が逃亡者を追わなくてはならない事態に発展する。
「……薬草園へ案内致します。ですが、先生の行き先は分かりません。もしかしたら中津国かもしれないとしか、我々には…」
医術局の悪魔は諦めたように溜息をつくとカルテを置いて、大儀そうに、エリアスとヘルマンを外へと促した。
「前回、ボリスが中津国へ抜け出した時に使った魔法陣は、どんなものだったか覚えているか?」
王都軍事局長官の執務室には、所狭しと草花が生い茂っている。数日前まで蕾だったものが、今では白く可憐な花を咲かせて、甘たるい香りを漂わせていた。
温室のように生温かい空気に、エリアスは閉め切っていたガラス窓を開けて、ソファーに凭れるガンナへ声を掛けた。執務室にあるデスクの上には、まだまだ処理しなくてはならない書類が重ねられているが、長官であるガンナは長椅子に横になるように足まで乗せて、寛いでいる。彼のふわふわとした癖毛の髪さえも、怠惰に寝惚けているように見える。窓際で新鮮な風に当たりながら、その姿を眺め、エリアスは小さく吐息をついた。
「さあ、どんなのだったっけ……あいつが呪術局の宝庫から勝手に持ち出した奴じゃなかったかな? でもアレも、今では制限が掛けられて使えないはずだろう」
ガンナの言葉に、エリアスは素直に頷く。
「ああ、だからボリスの気配が消えた薬草園を調べてみたんだ。呪術局の魔術師も連れてきて」
魔法や魔術の類に詳しくないエリアスでも分かったのは、呪術局がよく使用する魔法陣の気配は欠片も残っていなかったということだ。辺りにはフヴェルゲルミルの泉の、清らかな空気が流れているだけだった。
「ボリスは人間をひとり、連れていっているんだ。ふたり分の空間移動魔法なら、魔法陣もそれ相応の大きさが無いと駄目な筈なんだが……魔術師が言うには、もしかすると新しい空間移動魔法なんじゃないかって。結界の歪みも、跡形もなく修復されていたらしい」
「呪術局でも把握できない空間移動魔法があるのか」
「そりゃあ、無いとは言い切れないが、……」
考え込むように腕を組むエリアスを見上げながら、ガンナはそっと体を起こした。そして怪訝そうに眉を寄せる。
「あいつに、そんな頭があるか?」
あの、薬と女にしか興味がないような奴が――…ガンナとエリアスはどちらからともなく、吹き出した。そしてすぐ、神妙な眼差しを交わす。つまり、誰か協力者がいるということだ。