A ~prologue~
冥界の中心、王都から北にある――フヴェルゲルミルの巨大な泉に浮かぶ町は、濃厚で清らかな朝霧に包まれていた。
「ねえ、先生。どんな悪人でも望めば一度だけ、現生に戻ることが出来るって、本当?」
月が昇り切らない夜と朝の境目に、王都医術局が管理する広大な薬草園にはふたつの影があった。
少女の白い手袋に包まれた指先が葉を摘めば、煌びやかな水滴が滴り落ちる。湿った土のにおいと、清々しく冷えた空気が混ざり合った。少女は深く息を吸って、すんと鼻を鳴らした。そばかすのある顔は血の気が失せ、所々、皮膚が青黒く染まっている。彼女は、黒死病で死んだのだった。
「わたし、院で噂を聞いたわ。この世で自分が一番大切なものを代価として、一日だけ現生に連れていってくれる悪魔がいると」
少女は、傍らの白衣を纏う長身の悪魔を見上げた。彼は甘みを感じさせるストロベリーブロンドの髪に、柔和な顔つきの優男のようだ――王都医術局に勤める医師である。彼は軽く身を傾けると、少女の指先から摘みたての葉を取った。
「ロマナ、手を止めないで。この薬草は夜が明ける前に摘み取らないと、薬として使えないのだから」
「はあい、先生」
少女は小さく肩を竦め、口を噤んだ。肩に垂れた長い金髪を耳に掛け、黙々と丁寧に葉を摘んでいく。
空が白み、鳥の囀りがどこからともなく聞こえてくる。医師は、空を見上げた。そして、朝露に濡れた薬草でいっぱいになったかごを抱え直す。彼はふむ、と頷いて、この程度で良いだろうと判断すると、少女を院へと促した。少女は最後に摘んだ葉をそっとかごへ入れ、医師の後をついて薬草園を出た。
「ロマナは、一度だけ現生に戻れるとしたら、何をしたいの?」
少女は俯いたまま、しばらく考え込むようにゆっくりと数度瞬きをした。緑色の瞳が、潤んでいく。その横顔に、医師は穏やかで優しげな眼差しを注ぐ。
「……ミランに、心配しないでと伝えたい。わたしのことは忘れて、幸せに生きて、と。…」
「ミランは婚約者だったね、君の」
「ええ、とても素敵な人だったわ。あの時は、彼を失うことなど考えられなかった――彼もわたしと同じ思いよ。わたしたちは、ああ、……どうしてこんなことになってしまったのだろう…」
少女の声は嗚咽となって、静かに響いた。医師はそっと少女の肩を抱いてやった。慈しみ深い眼差しが、悲痛に嘆く少女を見守る。
「わたし、治療を終えて現生のことをすっかり忘れてしまう前に、彼に会いたいわ――」
少女の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。彼女はそれを拭いもせずに、無造作に白い手袋を剥ぎ取った。腕、手首、手の甲、あちこちの皮膚に、点々と内出血の痕が見て取れる。それらはしかし以前よりも薄れ、消えかけている。
「彼に会いたい。ああ――ボリス先生…!」
少女はぎゅ、と両手を握り締めると、耐え切れず、医師の胸へと顔を埋めた。