水晶玉の値段
単斜晶
どう見ても中学生。百歩譲って高校生。黒いフード付きのマントのようなものを羽織っているが、明らかに着慣れていない。そして小さな水晶玉をテーブルの上で転がしながら、一度も俺を見ないでぶつぶつ呟いている。
「占い師ーになったーら、占い師ーになったあら、常連百人できるかな」
呪文かと思って耳をそばだててみれば下手くそな替え歌。俺はこのブースに立ち寄ったことを激しく後悔した。
「そいつで、俺の未来とか見えるわけ?」
少し苛ついてせっつく。こういうところは、客が来たらそっちから話しかけるものなんじゃないのか?
「見える見える。大きな水晶を買ってるお客さんの姿が」
ニヤニヤしながら言っても説得力がまるでない。呆れた俺に気づいたのか少女はようやく俺の顔を見た。
「だって言えないじゃん。もうすぐ死んじゃうなんて」
…え?
少女は再び小さな水晶玉を転がしはじめた。
「へ、へー。そんな小さな水晶で、そんな事まで見えるんだ」
精一杯、平静を装って悪態をつく。
「そもそも子どもの占い師に、いきなりヘビーな予言をされてもねー」
「子どもじゃないし!」
テーブルをバンと叩いて少女が抗議した。そして直ぐまたニヤニヤ顔に戻る。
「大きな水晶買ってきたら教えてあげる」
少女が平然と言い放った。こいつの親はどういう教育方針なんだ。少し叱ってやるかと思ったが、彼女の顔はもう笑ってない。急に気が変わって、俺は一階の(怪しい)雑貨屋で少し大きめの水晶玉を購入し、また戻ってきた。たぶん偽物、ガラス玉。しかしこの際どうでもいい。インチキ子ども占い師にはこれで充分。
「さあ、これでどうだ」
もう言い逃れはさせないとばかりに水晶を少女の目の前に差し出す。
「おめでとー! 今の善行で呪いは解けたよ」
少女が満面の笑みを浮かべて俺に告げた。全身の力が抜け、俺は膝から崩れ落ちた。
こんな…こんな単純な詐欺に引っかかるとは…
俺は、あの小さな水晶玉のように、小生意気な少女の掌でコロコロ転がされていただけ。小馬鹿にしていた相手にやりこめられることほど惨めなことはない。たぶん得意げに笑っているはずの少女を見たくなくて、俺はしばらく床に突っ伏したままでいた。
考えてみれば俺は、自分の未来が知りたかったわけではないのだ。そんなものは占ってもらうまでもなく自分が知っている。少しだけ相談したいことはあったが、それは友人で事足りたし極論キャバクラでよかった。そんな程度の悩み。それが駅前で強引に渡されたティッシュでこの占い館を知り、興味半分、怖いモノ見たさで尋ねてみただけのこと。俺は占いの類を一切信じていなかった。
「お客さん、駅前で綺麗なおねーさんにポケットティッシュもらって来たんでしょ? 実はね、あのティッシュ配りのおねーさん、美人の上にすっごく霊感が強いの」
俺の心を見透かすように彼女は言った。
「だけど真面目すぎるのかなー。いつもお客さんと喧嘩しちゃって、こないだなんか水晶玉、床に叩き付けてお客さんに怪我させちゃって。それで今は謹慎中ー」
占いとはそんなに恐ろしいものだったのか? というか何をすれば占いで怪我なんかするんだ。やっぱり一生避けて生きるべきだった。後の祭りであるが。
彼女がなにやらゴソゴソと動き始めた。
「はいこれポイントカード。最初のお客さんだからスタンプおまけしておくね」
はあ、え? ちょっと待て「最初の」ってどういう意味。
「あ、でも一週間以内に再来しないとポイント全部失効だから気をつけてね」
いやいやそれかなりの悪徳商法だし。それより「最初の」って。俺が口を開く前に彼女は心を見透かすように俺の目をのぞき込んだ。
「ね、お客さん。いつまでも細かいことでうじうじ悩むタイプでしょ」
こいつがテレパシーを持ってるのか、それとも俺が分かり易い性格なのか。
「なんかさー、見くびられてるみたいだから教えてあげるけどさー、キャバクラ行くよりうちの方が絶対安上がりだよ、絶対」
恐ろしい、占いはとんでもなく恐ろしい。
「今のは、お・ま・け。ほら、最初のお客さんだからー」
ニヤニヤ笑う彼女から逃げるため、俺は代金を投げるように支払い、そのブースを飛び出した。どうせ当てずっぽうさ。高まる鼓動を鎮めようと深呼吸をする。少しビクビクしながら振り返るとブースの看板が目に入った。
【水晶占いコーナー(見習い)】
なぜ見習いの文字に気づかなかった。人生初の占いをしてもらおうと言うのに何という散漫な注意力。
俺は急ぎ足で帰ってビールを飲んでさっさと寝た。こんな日は何も考えずに寝てしまうに限る。そのための薬はいくらでも確保してある。余った時間があればたぶんその時間分悩むに決まっているのだから。
斜方晶
二度と行くつもりはなかった。行ったところで何も解決しないと分かっていた。
「えーじゃー、ポイント貯めようと思って来てくれたってわけー?」
俺は何事も無駄にしない主義。失効するポイントほど腹立たしいものはない。
「そんなことより占ってくれよ」
「はいはいもちろんですとも。えーと…そういえばお客さん、昨日は何の用で来たんだっけ」
俺は驚いた。思い出してみると俺は昨日、何も相談していない。それよりももっと驚いたことがあった。こいつは占いもしてないのに代金をせしめたのだ。
「それは言いがかりだよー。よーく思い出してよ、お客さんが勝手に置いてったんだよ。」
言われてみれば確かにそうだ。俺はあの場から逃げる口実として財布を取り出したのだ。
「えへん、いやその…じゃあこういうことにしないか? 昨日のは今日の占いの前払いってことに」
少女は心底軽蔑したといわんばかりの目で俺を睨んだ。
「大人ってそーゆんだ。相手が子どもだと、偉そうな顔してそーゆー卑劣なこと要求するんだ」
「いやだから単なる提案だから。無理強いするつもりはないし、あれー今、自分が子どもだって認めたよねー」
「そんなことどうでもいいし!」
少女はバシッとテーブルを叩いた。
「さーどうなの?今日の分は払うの払わないの? つまりこれって、」
これではまるで恫喝だ。ただし子どもがいくら怖そうな顔をして見せてもちっとも怖くない。
「お客さんは男だから分からないかもしれないけどね、女が一人で生きていくって、それはとっても大変なんだから」
まるで場末のスナックのママみたいなことを言う。まあ、残しておいてもどうせ消えていく金だ。少女が喜ぶ顔も見てみたくなって、俺は今日の分を支払うことにした。しかし期待に反して少女はもらって当然という得意顔を見せた。こいつは骨の髄まで生意気で出来ているようだ。
「で、悩みってなーに」
「実は俺、もうすぐ死ぬんだ」
「へー」
あまりの素っ気ない反応に、俺は間違って実は趣味はサッカーですと言ってしまったのかと一瞬不安になった。
もちろん、そんな言い間違いはありえない。
「嘘じゃないんだよ。えーとだから」
悔しいが念を押す。
「うん、いま聞いたよ。…で?」
こいつは絶対に子どもだ。生きることが時に狂おしいほど残酷で悲しいほど不運であることなんか知りもしないんだ。
「いや、相談というか何というか、だからそういうことなんで、俺が死ぬまでいいから俺と付き合ってくれないかなー、なんてね。実は…昨日一目惚れしたんだ」
彼女は心底驚いたようで、しばらく口をぽかんと開けたまま固まっていた。
「…照れずに真顔でよく言えるねー」
「反応するのはそこかよ!」
今度は俺がテーブルを叩く番だった。
「なんだ、私の占い、当たってたんじゃん」
水晶玉欲しさに口から出任せを言ったことを認めた。
「そうだよ。だから心底驚いた」
「付き合うの、わたしは別にいいんだけど…それって犯罪なんじゃないの? 児童何とかとか少女育成何とかとかの」
とうとう未成年であることを認めた。ついでに条例名がことごとく違っている。しかし話を早く進めたいからここでは指摘しない。
「いいんだよ、どうせもうすぐ死んじゃうんだし、今ならスピード違反も怖くない」
「えーでも…たぶん死なないよ。だって昨日、わたしが呪いを解いてあげたしー」
俺は苦笑した。彼女は自分の占いを本気で信じているのか、それとも俺を慰めてくれているのか。
「何しろ死ぬことだって当てたんだからね。これはもう私を信じて問題ないと思うの」
俺は再び苦笑した。本気かどうかはこの際どうでもいい。ましてこの問題で押し問答するのもばからしい。ここは一つ、彼女の言い分を信じておくことにした。
「そうだね死なないね。でも、死ぬと思っていたから思い切って告白したんだけど、死なないとなったら、その…犯罪犯してまで未成年とは付き合えないかな」
「別に私が捕まるわけじゃないから気にしないけど。で、つまり死ぬって分かったら一度でいいから恋愛してみたいと?」
「何だよまるで恋愛経験ゼロみたいな言い方。俺だって一度や二度の恋愛経験くらいあるさ」
「だったらもっと本質的なこと考えればいいじゃない。ほら何だっけ? 死ぬまでにしたい108つのこと?」
「7つのこと! 死にそうなのに108つも出来るか!」
「まあまあ。で、経験が限りなく少ない恋愛がその中の1つってわけ?」
「いや、別に他には何もないんだよ。ただ誰かを好きでいたい。誰かに好かれたまま死にたい。それだけのこと」
これは本音だった。本心だった。誰からも惜しまれない死に方などしたくはなかったのだ。
「ところで、どうしてもうすぐ死ぬわけだったの?」
「末期の癌なんだよ。たぶん普通に見えるだろうけど、俺、常時モルヒネ飲んでる。薬が切れると激痛で立っていられなくなるし、背骨に転移して身長縮んでるんだ」
「だったらホスピス行った方がいいんじゃないの?」
「やけに詳しいね」
小娘の口からホスピスなどという単語が飛び出して俺は驚いた。身内に癌患者がいるのだろうか。
「なんたって占い師ですからね!」
見習いのくせに…とはもちろん言わない。
「たぶん癌にならないと分からないんだと思う。そして家族持ちにもたぶん分からない。別れが悲しいとか辛いとかいう次元じゃなくて、独身者の癌には空しさしかないんだ」
「親がいるでしょ」
「あれは…あれはまったくの別物。俺が癌になったら喜んで、子どもの時みたいに世話を焼くんだ。そりゃ親だって悲しいだろう。でも、本当は老後の面倒看てもらえなくて落胆しているようにも見える。だからそれは、心配という名の単なる支配。病院替えろだの青汁飲めだの、痛み止めは体に悪いだの、俺はそういうことが言ってほしいんじゃないってことが全く分かってない」
「だから、恋人が欲しいんだ」
「うん。ただ寄り添っていてほしい。そして俺の死を、ただ悲しんでほしい」
「恋人や奥さんだって、同じように心配して世話焼くんじゃじゃないの?」
「彼女と奥さんは別物だろ。仮に支配したくても支配しきれない。親と競合関係になるからね」
「つまりそれってー、自分と同じ空しさを、もっとも身近な誰かに舐めさせたいと」
彼女の言葉が胸を突き刺した。
「どうせ傷つけるなら、赤の他人ではなく大切な人かあ」
「…俺って嫌なヤツだね」
「うんでも、ある意味それって偉いよ」
「ん? どうして」
「だってそれって、他人に迷惑かけたくないってことでしょ? 公衆衛生の意識が高いっていうか、自律した考え方だよね」
「偉い持ち上げようだな」
落ち込んだ俺の様子に気づいたのか、少女が突然優しくなったような気がした。
「世の中にはさ、家庭や社会に不満があるからって、無差別殺人する馬鹿も確かにいるけど、あれはね、やっぱり少数派なんだよ。ホントはみんな、社会や世間に迷惑かけたくないと思ってる」
何やら話が違う方向に進んできたようだ。
「だいたいねー、生きるの死ぬの言ってるときの人間が一番純粋なんだよ。欲望も怒りも悲しみもストレートに表に出ちゃうから。そしてだいたいみんな自暴自棄になる。他人を傷つけようとする。でもお客さんはただ悲しむだけ。偉いと思うんだ、わたしは」
つくづく変な褒め方をするやつだ。そもそも誉められているのかどうかすら危ういのだが。
「いや、ごめん。別にそんな大袈裟なことじゃなくてね、いや何というか、ただ彼女か欲しいなあって」
「うん、分かるよ。誰でもいいけど誰でもいいわけじゃない。ずっと探し続けているんだよね、優しい肩を。ホッと出来る誰かの肩。その肩にもたれかかれたら死んでもいいなって」
話が元のテーマに戻ってきた。そう、俺はざめざめと泣きたいんだ。誰かの肩にもたれ掛かって、誰かに優しく抱かれて。そうすれは安らかに死んでいけるような気がする。諦めて死んでいけるような気がした。
「で、どうなんだよ。この憐れな俺と付き合ってくれるのか」
もはや失うものはないと腹を据え、自嘲気味に問いかけた。肩にもたれて泣く相手は誰でもいいわけじゃない。俺はこいつの肩で泣きたいんだ。
「いいよ」
「うそ!」
「でも、店外交渉禁止なの、ここ」
「キャバクラかよ!」
「だからデートはここで。どうせ死んだらお金使えないんだし。あと、店内デートは1時間3万円ね」
「ますますぼったくりバーだ!」
よほど育ちが悪いのかこいつの金銭感覚は意地汚い。それともたんまり貯め込んでブランド品でも狙っているのか?
「あのさー、この世の中は結局お金だし、女が一人で生きていくってそれだけ大変なんだよ。それとも何の見返りも無しで、こんな可愛い子が、お客さんみたいなおっさんと付き合ったりすると思う?」
「まだおっさんじゃない。俺は35だ」
それと、自分で自分のことを可愛いと言うのもどうなのか。
「私たちからみたら、もう充分おっさん。ね、純粋な関係性って純粋な動機からでないと構築できないと思う?」
「え?ええ?」
「つまりー、一番最初の動機が不純だったりすると、その関係は絶対に純粋な関係には変化できないのかな」
こいつは形勢が不利になると、難しい話で切り抜けようとする癖があるようだ。それとも占い師の養成学校で、こういう切り返し方を教えているのだろうか。
「そんなことはないんじゃないか。ほら、政略結婚から愛が芽生えたって話も聞いたことあるし」
「じゃあ、頑張りなよ。知り合ってたったの2回目で、しかも相手はおっさんで、普通こんなんで純粋な関係性なんて構築できない方が自然なんじゃないかなー。私、お客さんがどれだけ純粋なんだか見届けてあげる。私の肩で泣きたいんなら、それくらいの努力はしないとね」
ニッコリと微笑んで少女が言った。俺はその案を受け入れた。納得してというより仕方なく。こんな話がしたくてここにいるわけじゃない。そして、残された時間は、もうあまりないのだ。
三斜晶
こうして少女との不自然な関係がスタートした。考えてみればずいぶんと人をばかにした扱いである。しかしどうせ俺はもうすぐ死ぬ。いざとなったらここでこいつを押し倒せばいい。それで警察に通報され、留置所に入れられて、アパートのモルヒネ取ってきてくれと頼んだら、警官はどんな顔をするのだろう。
「つまらないから何か悩み事話してー」
狭い占いブースで向かい合っていれば自然とこういう流れになることは分かっていた。
「そんなデートがあるか!」
「ふつーのデートって何するのよ」
「とりあえず…お互いの家のこととか趣味とか、そういうの知りたいじゃない」
「へーへーへー」
少女は俺のことを明らかに小馬鹿にしていた。
「いやいいよ。俺は別にそんなことに興味ないし」
「だから相談事!相談事!」
まあ、こいつと普通の信頼関係を築くのには相当時間がかかるだろう。というかそもそもこいつの方に純粋な関係を築くつもりがあるのか甚だ疑問なのだが。
「悩みというかね、んー何というか、癌になってから世の中が信じられなくなっんだよ、俺は」
「へー、それまでは信じてたんだ」
そして変なところでこいつは鋭い。
「いやま、そこに言及し始めると切りがないからさ」
「はいはい続きをどうぞ」
ニコニコしながら先を促す。いつ来ても直ぐに会えるのだから未だに客はついていないようだ。考えてみれば看板に「見習い」なんて書いてあって占ってもらおうという酔狂な客が現れるわけがない。指摘してやろうかとも思ったが俺は黙っていた。少しは世の中の厳しさを教えてやった方がいい。何しろ子どものくせして客商売をしようというのだから、甘やかしてばかりでは本人のためにならないし。
「癌なんだと正直に言えば、誰もが哀れみのこもった表情に変わる。そうでなければ腫れ物に触るみたいに。だけどね、いずれにしろ優しいのは最初だけなんだよ。治療が長引けば、誰も良い顔しない。俺、3回入院したからね、3回目の入院ともなれば、あからさまに迷惑そうな顔をする。俺、企画部だったんだけど先月、営業部に転属になったんだ。営業なんて一度もしたことない。まして抗癌剤の治療中で、モルヒネ打って出勤してるの、上は知ってるはずなのに、退院していきなり外回りの営業だよ。俺、わかったんだ。優しさにも寛容にも、賞味期限があるんだなって」
「治療が長引いて、優しさの賞味期限が切れたってこと?」
「そう。実際俺は厄介者なんだと思うよ。結婚もできなかったし。子どももいないし」
「結婚できなくて子どもがいないと邪魔者なんだー」
「俺はそうは思わないよ。でも世間がそう言うんだ。そのくせ癌になんかなりやがってって…」
耳を塞いでも聞こえてくる陰口を思いだし、俺は泣きたくなった。最初に優しくしてしまった反動なのか、転移してからの会社での風当たりは辛辣だった。「不治の病を乗り越えて職場復帰した」とは、たった一回の治療入院体験を指すと言うことが分かった。転移したらもはやヒーローでもなんでもない。癌になったヤツは会社にとっても癌。恐ろしいことにこれが現実だった。
「寂しいね」
「うん」
「ね。この水晶見て。お客さんの買ってくれた水晶玉」
少女に促されて、俺が買ってやった水晶をのぞき込む。水晶玉の中では橙色の光がゆったりとうねっていてた。
「安くても高くても水晶は水晶。お客さんにとってはガラクタでも、必要な人にとっては宝物。ね、言ってる意味分かる? 人間だって同じなんじゃないのかなー」
「えっとつまり、会社じゃ役立たずの俺でも、役に立てる場所があるだろうってことか?」
「そーそー!」
「それは…どこだ」
「うん、だからそれを、一緒に考えよ」
少女が俺の手に自分の手を重ねてにこりと笑った。赤子のように柔らかくて温かな手。
俺はもしかしたら、最後の最後で運を掴んだのかもしれない。
正方晶
こうして俺の生き甲斐探しが始まった。彼女と話しはじめて分かったことは、そもそも生き甲斐に相応しい行為や行動などという高尚なものは存在しないということだった。つまり行為行動は何だっていい。問題となるのは「生き甲斐を感じ取る力」がみなぎっているかどうかなのだ。
「お客さんがお医者さんだったら難民キャンプに行って活躍できるけど、ただのつまらないサラリーマンじゃ行くだけ迷惑。だけどそれを以てお医者さんしか生き甲斐を持てないなんてことはないわけでー」
カチンと来る言い方だが言ってることは正しい。
「だってトイレ掃除に情熱燃やしてる人たちがいるんだよ。それなのに、何もやらないで生き甲斐に優劣つけるのは結局自分自身だし。あ、それともやっぱり、本音じゃ他人の評価を気にしているとかー」
生き甲斐とはしょせん趣味や慈善活動に尽きるのか。趣味なら他人の評価など関係ないが、無趣味な者には叶わない夢。そして慈善活動には資格や高度なスキルが求められるという現実。残された俺たち一般人はボランティアに活路を見出せはいいじゃないかというわけか。
「そうそう。でも世の中にはその一般人の方が多いわけだし、だからみんな悩んで変な活動始めちゃったりするとかー」
そうそう、占いとかね…と言いたかったが口にはしなかった。
「たとえば20年間こつこつ寄付を続ければニュースになるかもしれないよ。でもお客さん、そんな地道な活動は苦手そうだしー」
苦手というか、俺、もうすぐ死んじゃうし。もう面倒なので訂正はしないが。
「誰にも感謝されないと充足感が得られないっていうなら、それは生き甲斐じゃなくて誉められたいだけでしょ? これ、峻厳に区別するべきなんだと思う。いいじゃんストレートに誉められることがしたい! って言えば」
しかしそれを言ってしまっては肝心のモチベーションが崇高でなくなる。
「つまりお客さんは、生き甲斐が持ちたいの誉められたいの? 誉められれば安心して成仏できるの」
別に誉められたいわけじゃない。確かにこの社会に存在した証拠は欲しいような気もする。だけど今となってはそれも空しい。なるほど。別に俺は誉められたくはないよ。だからボランティアとか社会奉仕をしても、たぶん納得して死ぬことは出来ない。
「たぶんね、ボランティアとか社会奉仕はね、生き残った者がすればいいんだよ。てか、そういうもんでしょ。今生きるの死ぬの言ってる人がボランティアなんかしても、たぶん余計に辛くなるよ。そしてその辛さを押し殺して『立派な生き様だった』と言われることだけ信じて死んでいく」
空しい、それは激しく空しい。どうして死ぬ直前まで偽善者でいなければならないのか。いやだよ俺、愛想振りまきながら死んでいくなんて。
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
「思いっきり、好きなことすればいいんじゃない? 何がしたかったの」
「好きなことが…ないんだ」
俺は絶望的な真実を白状した。そう、俺にはやりたいことなんて何もない。いや何もないわけじゃない。恋人が欲しかった。
「いるじゃん恋人」
「いや、それは」
俺は苦笑した。こいつは子どもだ。恋愛のレの字もまだ知らない。さぞかし純粋培養されて育ってきたのだろう。しかし死を目前に控え、相思相愛で何でも願いを叶えてくれる恋人を得るなんて、そんな都合の良い夢が叶うわけがない。ただこうして、デートと称した相談事に乗ってくれる可愛い女の子が身近にいてくれるだけで、俺は満足すべきなのかもしれない。
「保険金、全額どこかに寄付しちゃおうかな」
「それなら感謝されるし充足感もあるよねー」
少女の返事はまるで棒読みだった。物事を金で解決しようとするのは思考停止も同然。だいいち死んだ後に感謝されても嬉しくも何ともない。
「仕方ないじゃない。全身癌が転移していてモルヒネ打って、ひーひー言いながら辛うじて生きてるだけなんだから」
「それはそうなんだけど」
自分で言う分には平気だが、人から言われると少しむっとする。
「だけどねー、実は1つだけあるんだよ。お金がなくても出来て、誰かに心の底からから感謝される事が」
「ふーん、そんなことが本当にあるのかなあ」
何やらきな臭い予感がした。少女は、初めて会ったときのようなニヤニヤ笑いをしている。
「あるんだよこれが。不幸な人を見つけて全力で支援すればいいの!」
「…臓器提供とか?」
「あー、あれはね、確率的なそんなに上手くいかないんだよ。日本は手続きが煩雑だしねー。どうしてもって言うなら闇組織に頼んだ方が確実。でも…それだと金持ち爺の命を延ばすだけなんだけどね」
それは、いやだ。
「なるほどでも、その、不幸な人を見つけるのが、俺には難しいと思うんだけど」
だいいち不幸な人間と言えば、まず俺だ。俺の存在を見つけ出して手を差し伸べてくれる奇特な人物がいないんだから、不幸な者は社会から隠蔽されるようなシステムが出来上がっているんじゃないかと疑いたくなる。
「それがねー、あるんだよこれが!」
少女はテーブルに前のめりになり、目をキラキラさせて言った。
「ね、ね、知ってる? 神待ちサイトってゆーの」
「あ…う、うん」
予想は当たった。と同時に嫌な予感がして来た。
「家にいられなくて、居たくなくて、どうしようもではないで家出した女の子が、エッチを代償に一晩泊まる場所を手に入れるんだよ。その情報交換サイト」
「それくらい知ってるよ、ニュースで見たことあるし」
「ホントー? ロリコンだからやったことあったりしてー」
「ないない。で、それと生き甲斐がどんな関係があるのさ」
「だからー、神待ちサイトに貼り付いて、希望する女の子とどんどんコンタクト取るの」
「でもそれって犯罪じゃん」
「ばかあ? だから泊まる場所と食事だけ提供して手は出さないの。それで、それだけで、もしかしたら転落する運命の女の子を救えるかもしれないんだよ。これすごくない?」
「いやでも俺、やだよ。犯罪に巻き込まれたり、警察に捕まったりとか、俺そういうの勘弁してほしい」
「…ね。最初の日にさ、自分はどうせ死ぬんだからスピード違反も怖くないって言ったの、あれ何だったの」
少女に指摘されて気づいた。そうだ、俺はもうすぐ死ぬんだ。怖いものなんか何もないじゃないか。
「それ、本当に誰かを救えるのかな」
「救えるよ。っていうかねー、救ってほしくて凍えてる子が山のようにいるの」
やってみようかな。
「うん、お客さんならきっと出来るよ」
そうしてまた少女は俺の手を握りしめた。俺のことももっと救ってくれよ。言いたかったが言わなかった。いつかは思いが届くかもしれない。
菱面体晶
そして俺は、家出少女にベッドと食事を提供する活動を始めた。
誰にも言えないボランティア活動。そして実際は、気味悪がられて逃げられることもある。感謝されないどころか変態! とののしられたことも数知れず。しかし俺は満足だった。俺が手を差し伸べなかったら、別の場所で体を提供していたかもしれない少女達を俺は間違いなく救ったのだ。俺のこんな人生が誰かの役に立った。というか俺という存在が役立った。これは確かにかけがえのない体験だった。
もう思い残すことはない。いつ死んでも構わないと俺は思った。しかしある日ふと不思議なことに気がついた。それはモルヒネを飲み忘れた時のこと。モルヒネは、痛みのレベルに合わせて、効き目が消える前に計画的に投与するもの。痛みを感じてから服用するものではない。これによって24時間痛みを感じずに生活することが可能なのだ。ところが俺は、ある日モルヒネを飲み忘れたにも関わらず痛みに襲われなかった。それと、心なしか体の調子が良い。何かが起こっている。
「不思議なんだ。何度か薬を飲み忘れたのに痛みが出なくて。どうしたんだろ、もしかして神経が麻痺して来たとか」
「そうじゃないよ、治ったんだよ」
「そんなバカな」
「だってお客さん、大きな水晶買ってくれたじゃない。あれで呪いは解けたって言ったでしょ?」
少女の言ってることの意味が分からなかった。
「え?だって、」
「お客さん、あの水晶で自分の命を買ったわけ。ねー、私の言うとおりにしてよかったでしょ?」
「…じゃあ俺は死なないのか? そんなばかな」
「そだよ。ほら、鏡貸してあげるから目をよく見てみなよー。あんなに真っ黄色だった白目が、すっかり白くなってるよ」
彼女が差し出した手鏡を奪うように受け取り、俺は目を見開いて鏡に映した。確かにあれだけ濁っていた白目が白くなっている。今度は両手を広げてみた。少しだけ赤みのある自然な肌色の手。黄疸が消えている!
「俺、死なないのか…」
信じられなかった。しかし最近の体調の良さと、今知った白目や膚の色の変化。これは明らかに好転の証拠。俺は死なないんだ。真っ暗だった未来の扉が薄ぼんやりと見えてきた。なんだかんだ言っても俺は生きたかった。生きることは素晴らしいことなんだ。
「ありがとう。何てお礼を言ったらいいか」
俺の声は涙声になっていた。喜びと、驚きが同時にわき上がってきて何度か嗚咽を漏らした。
「まーこれが仕事だし」
「ねえ。お礼に何か美味しい物をご馳走したい。というか一緒にお祝いしてくれ。俺、もっと君のこと知りたい。せっかく貰った命なんだ。大事にしたい。もちろん君のことも」
「残念!」
「え、何が」
「えーと、最初の約束、憶えてる?」
「最初の?」
「デートはここでだけっていう約束」
「いやそれは言葉の綾ってやつで。第一、嫌いじゃないから承諾したんだろ?」
「別に好きでも嫌いでもないよ。お客さんにはそんな感情抱いちゃいけないって教わったし」
「客じゃないだろ恋人だろ!」
「…恋人じゃないよ、大切な大切なお客様」
俺は愕然とした。ずっと騙されていたのか。貯蓄を全部使い果たすほどに。
「騙してないよー」
まるで俺の心を読んでいるように彼女が言った。
「騙してないよ。だって死なないで済んだじゃない。これけっこうすごいと思うよ-。見習いとは思えない成果でしょー。ってか私が一番驚いてるんだけどね」
あははと彼女は笑った。
「おめでとう!」
「全然めでたくない。空しい、ちっとも嬉しくない」
「それ、おかしいよー。死んじゃうから絶望してたんでしょ? 空しかったんでしょ? じゃあ死ななければ絶望なんてしなくていいんじゃん。空しくなんかならないていいんじゃん。お客さんが自分でそう言ったんだよ」
「確かに言った」
「じゃあいいじゃん。元気だしなよ」
「でも堪らなく空しいんだ。それよりも、死を覚悟していたこの数週間の方がはるかに充実していた」
「あのさー。いいかげん気づきなよ。結局お客さんは、私と会ったその日から死なないって決まったわけ。だからお客さんは実際には死なないのに、死ぬ死ぬ思い込んでいただけ。お客さんが、私の占い信じてないの分かってたしね。まー面倒くさいから放っておいたわけだけどー」
俺は占いを信じているふりをしていた。そして少女は、俺が占いを信じてないのを知っていた。なんなんだこの滑稽な茶番は。俺は最初から今までこの小娘に弄ばれていただけだったのか。怒りとともに欲望が目を覚ました。これも生きていればこそ。
六方晶
「分かった。ありがとう。だからもう終わりにするから、最後に一度だけ、外でデートをしてくれ」
「そーゆこと言うと、きっと後悔するよ」
「何なんだよ。俺はお前の言うこと信じて、それであんなにセックス出来るチャンスがあったのに、我慢してきたんじゃねーか。お前がそんなつもりなんだったら、あいつらとセックスしちゃえばよかったよ。くそっ! すげー損した」
少女が俺の頬を叩いた。
「最低!」
「最低でけっこう。代わりにお前に慰めてもらう!」
俺は二人を別っていた小さなテーブルを脇に放り投げた。俺が買ってやった安物の水晶玉が割れる音がした。しかし構わず彼女に襲いかかる。抱きしめ、不自然な姿勢のまま一緒に床に倒れ込み、仰向けになって彼女の両肩を抑えこんだ。
「そういうことするんだ」
怯えているかと思ったが少しも怯えてなかった。醒めた目。子どもとは思えない、冷たい目。俺は何も言わずに彼女に口づけた。冷たいくちびる。その口を少女は開こうとしない。首筋を舐め回しながら乱暴に彼女の体をまさぐった。小さく硬い子どものような体。無抵抗な彼女の体は弛緩し、緊張も生気も感じられなかった。
そのとき少女が俺の耳元で囁いた。
「やっぱりもう一回、死ぬことにする?」
途端に俺の体は恐怖にこわばり、冷たい汗が背中を伝った。忘れていた「死」を思い出す。そこに少女が、子どもとは思えない力で俺をはじき返した。ひっくり返って俺は壁に後頭部を痛打する。少女はいつの間にか起き上がり、俺を真上から見下ろしていた。
「あーあ、失敗失敗。上手くいくと思ったんだけど、ふむふむ、所詮これが見習いの実力ってわけなんですねー」
独り言のようだった。そして少女は、頭を抱えて無防備になっていた俺の股間を思い切り蹴り上げた。声にならない悲鳴が出る。目の前が真っ暗になり、体中から脂汗がしみ出してきた。
「なんかさー、本末転倒してるっていうか、これが人間の浅はかさってやつ? 生きられると分かってまず考えることがセックスって。お客さん、恥ずかしくない?」
少女は、うずくまり身もだえている俺の脇腹あたりを、ブーツの先で何度も突いた。
「実はねー、生きるの死ぬの言ってたお客さん、少しだけ格好良かったんだよ。自分の死を目前にして、人の痛みの本質が見えてきた人なんだなってね。だから、お客さんだったら、あの子たちの気持ちを分かってくれるんじゃないかって。だけど残念! お客さんは、あの子たちの悲劇を、ほんの少し先送りにしただけなのでしたー」
「そ、それだけでいいって言ったじゃないか!」
俺は精一杯の弁解のため声を絞り出した。その途端、俺は横っ面を思い切りブーツの踵でで踏みつけられた。
「口答えするんじゃない! お前には想像力ってものがないのか! どうしてあの子たちと話をしなかった。心で触れ合おうとしなかった。結局お前は自分が可愛いだけ。良い事して誰かに誉められたかっただけ。お前は犬か? いや、犬以下だ。いっそ犬だったら、ひとときでもあの子たちを癒やすことができただろう。しかしお前は、絶望しか持ち合わせていないあの子たちから、何も感じ取ることが出来なかった。あの子たちは、お前と同じだった。同じだったのに!」
そうだよ、俺は君と仲良くなりたかっただけ。家出少女になんか興味はなかった。そう言いたかったが苦しくて声が出せない。涙でぼやけた瞳に、彼女が何かを俺に差し出しているのが映った。指でつまんだそれは、怪しく橙色に輝いている。
「まーいいや。何事も経験だものねー。さーてと、これからお客さんに罰を与えます」
少女の声は、いつもの声に戻っていた。さっきの激しさは何だったのだろう。しかしその疑問は、新たな懸念に消し飛んだ。…罰? なんで俺が罰を受けなければならないんだ。
「いっぱいあるよー。私が与えたチャンスを無にした罰でしょー。あと、救えるはずのあの子たちを、再び荒れ野に放ってしまった罰。あの子たちはね、何を隠そう本当に神様を待っていたの。【神待ち】ってあながち間違いじゃないんだよね。誰が命名したのか知らないけどセンスあるよ。で、彼女たちにとって本当の神。100万分の1回の確率でしか出会えない神。本当に残念! お客さんだってなれたのに。誰かさんか誰かさんの、神様に」
手にしていたのは割れた水晶の欠片だった。抵抗する俺を押さえつけると、少女は再び信じられない力で俺の口をこじ開け、その欠片を放り込んだ。
ごっくん
俺の体はそれを異物と判断するどころか、まるで渇きを癒やすように、あっと言う間に体の奥に送り込んでしまった。ちくりちくりと体の中が疼く。まるで水晶の欠片が、血管を高速で巡っているように。
「とりあえずこれで許してあげる。ないと思うけど、もし敗者復活戦があったら頑張ってね、おにいさん」
あはっと笑って彼女は俺の腹を思い切り蹴り上げた。俺は激痛に呻きのたうち回った。そして必死に声を張り上げた。このままじゃ殺される。こいつは狂ってる。体中から声を振り絞って叫んだ。生きるために。
等軸晶
しかし俺は、いつの間にか気を失っていた。立て続けにくしゃみを三回して目が覚めた。体中がちくりちくりと痛む。小さな棘が全身をうごめいているようだった。体を起こして周りを見渡して驚いた。俺はビルとビルの谷間にある狭く細長い空き地にいた。一階に雑貨屋があり二階より上が占いの館だったあの古ぼけたビルは、いったいどこに行ったのだ。
全ては夢だったのか? 死なないで済むという話はどうなったのだ。しかし、あれから何時間が過ぎたにしろ、確かに俺は薬を飲んでない。
「俺、生きられる、んだよな」
こらえきれずに涙が溢れ出た。蹴られたり踏みつけられたりした頬に涙がしみた。しかしこれは再生の痛みだ。死に至る痛みではない。
ちくりちくりと体の中で水晶が疼いた。生きていることを責めるように。
onaishigeo「水晶玉の値段」2012/02/23 初出:ブクログのパブー http://p.booklog.jp/book/39870