第5話 廃れかけた町へ
編集夜明け前の集会所には、油と湿った土の匂いが残っていた。私は長机の上に、図書館で見つけた古い地図の写しと、石碑から写し取った文字を並べていた。昨夜のうちに縄、木杭、つるはし、鍬、それに崩落へ備えた板材まで集めてもらったが、どれも長く使われていなかったらしく、柄は乾いてささくれ、鉄の刃には赤錆が浮いている。使えないものをより分け、残った道具の柄を布で巻き直す。追放を告げられたとき、城の者たちは私を役立たずの村人Aと呼んだ。確かに、岩を砕く魔法も、水を呼ぶ奇跡も使えない。それでも、目の前にあるものが何に使えるのかを見極めることはできる。私は最後のつるはしを手に取り、意識を集中させた。【古い採掘用つるはし】
【刃先の摩耗は大きいが、柄の芯は生きている】
【補強すれば、硬い土を崩す作業に使用可能】「これも使える」小さく呟いて脇へ置くと、戸口から声がした。「まだ起きてたのかい」振り返ると、昨日、集会所の前で話したおばあさんが立っていた。深いしわの刻まれた口元を固く結び、片手には湯気の立つ木椀を持っている。「明日の準備が気になってしまって」「明日じゃないよ。もう今日さ」窓の外を見ると、東の空が薄く白んでいた。いつの間にか夜が明けかけている。おばあさんは呆れたように鼻を鳴らし、木椀を机へ置いた。「飲みな。腹を空かせたまま土を掘ったら、先にあんたが埋まるよ」中身は薄い麦粥だった。決して豊かな食事ではない。それでも、差し出された椀の温かさが指に染みた。「ありがとうございます」「礼は水が出てからにしな」厳しい言い方だったが、追い返す気はないらしい。私は粥を口に運びながら、机の地図を指した。「長くここで暮らしてきたあなたなら、昔と変わった場所を知っているはずです。この線の先に、以前は何がありましたか」おばあさんは目を細めた。「昔は柳が何本も並んでたよ。子どもの頃は、その下で水を汲んだ。けど、山崩れのあとに土が流れ込んでね。柳も枯れて、道も分からなくなった」「山崩れは、どの辺りですか」「北の斜面さ。石碑の裏から伸びる獣道を行けば、崩れた岩壁に出る」地図の線と一致していた。旧水路は村の中央へ直接入っていたのではなく、北斜面の下を回り込み、柳の並木沿いに水を落としていたのだ。日の出とともに、集会所の前へ十数人の村人が集まった。戸を閉ざしたままの家も多い。それでも昨日まで目を伏せていた人たちが、鍬や籠を手に立っている。空の水桶が並ぶ井戸端を横目に、私たちは北の斜面へ向かった。先頭を歩くのは、村の地形に詳しいガルドという大柄な男だった。肩に担いだつるはしは、私が補強したものだ。「本当に、この先に水路があるのか」「石碑の記録が正しければ」「正しくなかったら?」「そのときは、掘った土を畑の盛り土に使います。何も残らないようにはしません」ガルドは一瞬こちらを見てから、低く笑った。「城の連中よりは、ましな答えだ」獣道を抜けると、斜面の裾に不自然な窪みが続いていた。草に覆われているが、直線に近い。斜面の手前には、腰ほどの高さまで雑草が伸びていた。私が地図と見比べていると、おばあさんが枯れた切り株を杖で叩いた。「これが柳の名残だよ。昔は、この辺りまで根が水に浸かってた」切り株は半ば腐り、表面には苔が張りついている。鑑定すると、根の下に湿った土の層が残っていると出た。水路の線は、やはりここを通っている。私は縄の向きを少し修正した。石碑の図だけを信じていれば、掘る場所を数歩外していたかもしれない。「助かりました」「昔話くらいしか役に立たないと思ってたけどね」「昔を知っている人がいなければ、地図はただの線です」おばあさんは答えず、杖の先で草を払い始めた。その横で、小さな女の子が空の水筒を抱えて立っていた。手伝いに来たというより、母親についてきたらしい。「お水、出る?」まっすぐな問いに、私はすぐには頷けなかった。「水路は見つけます。でも、飲める水かどうかは、確かめてからです」女の子は少し残念そうにしたが、「じゃあ、待ってる」と言って母親のもとへ戻った。確かめてもいないことを約束して、失望させるわけにはいかない。私は木杭を打ち、縄を張って記録上の水路幅を示した。最初の鍬が土へ入る。湿った表土の下は、粘りの強い赤土だった。村人たちは二人一組になり、土を崩す者と籠で運ぶ者に分かれた。私は掘り出された石や木片を一つずつ確かめていく。しばらくして、子どもの声が上がった。「石が並んでる!」駆け寄ると、土の下から平たい石が帯のように現れていた。自然にできた並びではない。表面には水で削られた細い筋が残っている。私は石へ触れ、鑑定した。【旧水路・側壁石】
【著しく埋没】
【構造の一部は保持されている】
【上流側に閉塞箇所あり】私は水路の底へ短い木片を置き、傾きを確かめた。上流から村へ向けて、わずかだが確かに低くなっている。水を流すために作られた構造で間違いない。「これなら、入口さえ開けば村まで届きます」「畑にもか?」農具を抱えた男が身を乗り出した。「途中で枝分かれしていた記録があります。ただ、全部が残っているとは限りません。まずは本流を通して、壊れた場所を一つずつ直す必要があります」すぐに収穫が戻るわけではない。そう伝えても、誰も道具を置かなかった。今日掘った分だけ先へ進む仕事だと分かったのだろう。胸が高鳴った。「水路です。ここで間違いありません」その言葉が伝わると、作業の手が目に見えて速くなった。誰かが笑い、別の誰かが隣家へ人を呼びに走る。午後には二十人を超える人が斜面へ集まっていた。けれど、喜んでばかりはいられなかった。十歩ほど掘り進んだところで、石組みは途切れた。前方を塞いでいたのは、土ではなく、斜面から落ちた巨大な岩だった。大人三人が腕を広げても囲めないほど大きく、水路の中央へ深く食い込んでいる。ガルドが岩を叩き、顔をしかめた。「こいつは無理だ。割るには火薬か、土魔法がいる」集まった人々の間に沈黙が落ちた。つい先ほどまで動いていた鍬が止まり、誰かが「やっぱり駄目か」と漏らした。私は岩の周囲を歩いた。正面から砕けないなら、別の方法を探すしかない。私は岩そのものを鑑定した。【崩落岩】
【花崗岩質】
【表面の破砕は困難】
【下面に旧排水溝の空洞あり】
【左側面の土圧が高く、不用意な掘削は二次崩落を招く】空洞。私はしゃがみ込み、岩の右下に手を差し入れた。冷たい風が、指先をかすめる。完全に塞がってはいない。岩の下に、水が通っていた隙間が残っている。「岩を割る必要はありません」「どうする気だ」「下の空洞を広げます。ただし左側は崩れます。右から回り込み、板で天井を支えながら掘ります」ガルドが眉を寄せた。「そんな細い穴に誰が入る」「私が入ります」即答すると、周囲がざわめいた。「駄目だよ」あのおばあさんが、人垣を押し分けて前へ出た。「あんたが見つけたからって、あんた一人が命を張る道理はない」「でも、空洞の位置を確かめられるのは私です」「なら、確かめる役だけやりな。掘るのはこっちの仕事だ」おばあさんの言葉に、ガルドも頷いた。「細身のやつを二人出す。お前は入口から指示しろ。勝手に奥へ行ったら、縄で引きずり戻すぞ」城では、役立たずと決めつけられ、何を言っても聞かれなかった。けれどここでは、私の力を使いながらも、私だけに背負わせようとはしない。その違いが胸に残った。私たちは板材を短く切り、簡単な支柱を組んだ。岩の右側から土を少しずつ削り、空洞へ通じる穴を広げていく。日が傾く頃、ようやく人ひとりが腹ばいで進める程度の隙間ができた。若い村人のレオが縄を腰に結び、穴へ入った。私は入口に膝をつき、手元の土や石を鑑定しながら指示を出す。「右手の黒い土は触らないでください。上の石が落ちます。左下の砂利だけを掻き出して」「分かった……こっちは、少し湿ってる」湿っている。私は身を乗り出した。その瞬間、穴の奥から鈍い音が響いた。ごろり、と石が転がる。続いて、細い水音がした。「水だ!」レオの声に、外で待っていた人々が息を呑む。穴の底から濁った水が一本の筋になって流れ出し、掘り返した水路の石を濡らした。歓声が上がりかけた、そのときだった。水と一緒に、黒い泥がどっと吐き出された。鼻を刺す腐臭が広がり、流れの中から白い骨のようなものが転がってくる。私はそれを拾い上げ、鑑定した。【魔獣の肋骨】
【死亡から十年以上経過】
【体内に残留した魔力が水路内部を汚染】
【上流に大型個体の死骸あり】喜びは一瞬で消えた。このまま水を通せば、畑どころか、村人たちの命を危険にさらす。私は骨を握りしめ、暗い穴の奥を見つめた。細い水音の向こうから、何かが石を引っかくような音が、かすかに聞こえてきた。




