人形眼球 前日譚
すべては母の死から始まった。
父は人形師だった。
精巧で浮世離れした美しさを持つ球体関節人形、キャストドール。
人間も動物もこの世には存在しない生き物も、父の手によって息を吹きこまれ、幻想的な世界の住民として突如そこに出現する。
途切れることのない製作依頼、定期的に開かれる個展。
腕は良く、評判のいい職人だった。
何より、母と娘の私を愛し、そんな父を母と私も愛していた。
私が中学一年生のころ、元々体が弱くよく床に臥していた母が病気で死んだ。
父はみるみる感情を失くし、工房に引きこもるようになった。
ドール製作で現実逃避し、やるせない想いをぶつけているのか、紛らわしているのだろう。
そんな状況でも仕事の依頼が途切れることはない。
私はといえば父と同様ショックが続き、学校でも人と話すのが億劫になって次第に周りから人が消えた。
家に帰れば人の気配がしない暗いリビングで何をするでもなく、ぼうっとした時間を過ごした。
あんなに温かかった家が、一瞬で息のない無機物と化した。
人形のようになった娘、攻防から姿を見せない父、灰になった母。
私は中学時代の長くを一人きりで過ごした。
中学三年生になり半年ほど過ぎたときだった。
父が突然私を呼んだ。
興奮し、歓喜に満ちた表情で私の手を引き、数軒離れた工房へ連れ出す。
父が帰ってきてくれた。そう思った。
母を喪った傷を修復するのに時間を要したのだ。
これからはまた一緒にご飯を食べ、仕事の話を聞き、少しドジな父に小言をいいながら笑う、あの日常が戻ってくる。
二人でぽっかりと空いた穴を埋めながら、母を想い生きていける。
そう期待に胸を膨らませて、父が誘う工房へ入った。
そこにいたのは母だった。
正確には母そっくりのキャストドールだ。
「見てくれ、真宵」
身長、顔の大きさ、腕の長さ、長いまつ毛。
仕立て直すほど気に入っていた、ふんわりとした花柄のワンピースを着て椅子に座っている。
父と初めてデートへ行ったときに着た服だと何度も聞かされた、あのワンピースだ。
どうしてだか、グラスアイの片眼だけ空洞だ。
それに、この人形はどこか――
「色々試してみたんだ。お母さんの体の一部、お父さんの体の一部、退役、月の満ち欠け、遺品、正しい呪文、儀式……本当に色々。調べては試した……」
「お父さん……? 何を言ってるの……?」
「やっとできたんだよ。真宵。完璧な降霊術だ。お母さんの魂がここに宿っているんだ。わかるだろう? この今までにない生々しさ。生命の鼓動。今にも動き出しそうだ……私が望んだ、ドールの高み……」
その通りだった。私は一目見たときから違和感を覚えていた。
今までの人形にはなかった何者かの幽かな気配がそこにはあったのだ。
しかし降霊術が本当に成功しているとして、宿ったモノは果たして本当に母なのだろうか。
誰がそれを確かめられるというのだろうか。
何より、父の正気ではない行動に恐怖した。
瞳孔が開き、焦点の合わない目。口元は常に笑っているのに、目は一切笑っていない。
こけた頬、汚らしく伸びた髭、白髪が多くなった頭髪。
記憶の中にある父の姿とは別人のようだった。
否定したら、どんな言動をとるかわからない。
父相手にそんな警鐘が鳴ったのは初めてだった。
「本当に君たちはそっくりだ。真宵が大きくなるにつれて、どんどんお母さんに似てきて……今では姉妹のようだ。きっと真宵にはもう一人の自分がいなくなってしまったように感じたことだろうね」
「……ありがとう、お父さん。私のためを思ってくれたのよね。お父さんも、お母さんに会いたかったのよね……」
「……わかってくれるんだね、真宵」
「……でも」
腕を広げて私の元へ歩み出そうとした父は足を止めた。「もうあれから2年経ったわ。気持ちの整理も少しずつつけたの……今はお母さんだけじゃなく、お父さんまで失ったように感じているわ」
「そうか……すまないね。寂しい思いをさせてしまった」
父の申し訳なさそうな顔に、うまくいくと思った私は功を急いでしまった。
早くあの優しい父に戻ってほしかった。
そんな気持ちが判断を誤らせたのだ。
「ねえ、お願い。また一緒に暮らしましょう。朝にトーストを焼いて、夜には一緒にテレビを見て、休日には近所の公園へ散歩に行って……。」
私は声を振り絞った。
「命日にはお母さんのお墓参りに行って、二人で前を向いて生きていきましょう。私、お父さんとなら――」
「いつからそんなに薄情な娘になったんだ!!!」
突然の怒号に、大きく体が震えた。
温厚な父からは聞いたこともない声に驚愕し、恐怖でいっぱいになった。全身が震える。
「そんな楽しい思いを、お母さんにさせてあげないつもりなのか!? 二人だけで楽しく暮らして、お母さんはのけ者か? 今までずっと三人だったのに、いなくなった瞬間もうどうだっていいのか!?」
「そういうことじゃ……!」
「何が違う!! あかりさん……僕たちの娘はあまりのショックでおかしくなってしまった……ああ、なんて酷い……あかりさんがいなくなった人生なんて……」
父は母を模したキャストドールの手を滑らせるように優しく頭を撫で、続いて頬を撫でた。
自分が作った人形に心酔しているかのような手つきだった。
「……やっぱりそうだったか……」
呟いて、机に置いていたスプーンを握ったまま私ににじり寄る。
「人は動くためにはエネルギーが必要だ。私たちはそれを食べることによって摂取している。だが、お母さんは自発的にそれをすることができない。空っぽの人形に入れてしまったのだから。だから力となるものを、僕たちが外部から与えてあげなければいけないんだ。何だと思う?」
父は近づきながらそんな話をする。
西日が透ける締め切ったカーテンの隙間から、陽光が強く差し込む。
逆光になった父が、今まで感じたことのないほど恐ろしい人に見えた。
「愛だよ。僕だけではだめだった……あかりさんに帰りたいと思ってもらうには、家族みんなの力が必要なんだ。あかりさんがいなくなることに慣れるなんて……そんな恐ろしいことは許されない」
「私だって!……私だって、お母さんに戻ってきてほしいわ……でも……もうお母さんは……」
「……やっぱりあかりさんが完全に蘇らないのは、真宵からの愛が足りなかったんだな」
怒りと失望に満ちた声だった。
私は父からの聞いたこともない声に、完全に怖気づいてしまった。
「大丈夫だよ、真宵。君が行動で愛を示せば、お母さんもちゃんとわかってくれる」
私の前に立った父は、父ではない別の誰かだった。
少なくともこのときの私にはそう思えたのだ。
片手に持ったスプーン。
片目のない私そっくりの母の人形。
行動で示す愛。
私は恐怖でしりもちをついた。
膝が笑い、腰が抜けている。
この場から逃げ出したいのに、体が言うことを聞かない。
何をされるのか見当がついてしまった私は、力を振り絞って左目を手で隠した。
その精一杯の反抗も、父によって無情に、簡単に剝がされてしまった。
逆光になった父の顔が近づく。
「さあ。君の愛を、あかりさんに」
スプーンが視界の半分を埋め尽くす。
瞼と眼球の間に冷たく硬い異物が入り込んだ。
悲鳴を上げた。
痛い。どうして。やめて。痛い。痛い。なんで。お父さん。やめて。いや。痛い。痛い。痛い。
初めて父を殴り、ひっかき、蹴り上げた。
しかし父は私の片腕を抑えつけただけでびくともしなかった。
視界が赤く、黒く染まる。
頭の内側を抉られているような頭痛。こめかみが痛い。
私から噴き出る赤黒い液体が、父の顔や手をぬらりと染め上げている。
やめて。やめて。いや。いやよ。いや。痛い。どうして。痛い。お父さん。お母さん。助けて、助けて助けて、誰か助けて。アあああアアああああアアアあああアあ。
私がこんなにも苦しんでいるのに、父の口元は常に笑みを湛えていた。
私の眼球をスプーンで抉る父は、至極幸せそうだった。
気を失いかけても、痛みで意識を取り戻す。
取り戻した傍から気を失いかけ、また痛みで意識を取り戻した。
それを何度も、何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も繰り返した。
そうしてようやく、私は泡を吹いて痙攣し、意識を失うことができた。
*
気が付いたとき、私は病院にいた。
私のただならぬ悲鳴を聞いて近所の人が通報してくれたらしい。
父は現行犯で逮捕され、人形は警察に押収された。
罪を償ったあと、会うべきか否かを決めかねていたが、もう悩む必要がなくなる。
父はすぐに留置所で自ら命を絶った。
もう手の施しようがないくらいにおかしくなってしまっていたのだろう。誰にも救えないほどに。
私の左の眼窩は空っぽになったままだ。
本当に一人になってしまった私は、左目に巻かれた包帯も含め、好奇の目に晒されながら生活を営んだ。
かつて友人だった同級生も、近所の優しかった老夫婦も、私にはただのノイズとなっていた。
何を言われても心が動かない。
煩わしいと思ってはいても、昔ほどの心の大きな動きはなかった。
笑いも、泣きも、怒りもしない私の魂は人形に吸い取られてしまったのだと囁かれた。
それもただのノイズだった。
私を突き動かしたのは、もうすぐ高校二年生になろうとしている頃だった。
朝いつものようにベッドから起き上がったとき、部屋の壁際にあの人形が立っていたのだ。
「……っひ…………ッ!」
私は恐怖で叫び声をあげた。
警察が押収したはずの人形だ。こんなところにあるはずがない。
震える体ですぐに警察に電話をしたが、誰もこの家には持ってきていないという。
引き取ってもらった数日後、学校から帰るとその人形は玄関に立っていた。
引き取ってもらった数日後、朝起きるとその人形はリビングに立っていた。
警察は引き取ってくれなくなった。
父が自死した以上、証拠品として保管する必要がないのだと説明されたが、明らかに気味悪がって関わり合いになりたくないという本心が透けていた。
「……お母さんなの……?」
人形に問うても、返事はない。
ただじっと、グラスアイと私の左目で、私を見ている。
見れば見るほど、私と母は瓜二つだ。
ぴくりとも動かない母の姿をした人形は、私自身を見ているような気さえしてくる。
私はその人形が家にあることが怖くなり、一睡もしなくなった。
それでも睡魔は襲う。
あまりの眠気にリビングのソファで意識が途切れそうになった。
瞬間、視界の左にソファでうとうととしている自分の姿が映った。
突然のことに、慌てて目を開ける。
人形がテレビの前で包丁を持って立っていた。
全身が総毛立ち、反射的にソファの隅で身を丸めた。
包帯の下がじくじくと疼く。
ただこの人形を家に置いておくことなどしてはならない。
動かないことを確認して、慎重に包丁を取りあげた。
もう警察は頼れない。
私はとにかくこの人形を手放したくて、資源ごみに出したり店で引き取ってもらったりしたが、結果は同じだった。
二度と関わり合いになりたくないと、二束三文で売ったお金すら返金しなくていいという業者もいた。
こんな状況になっても、私はこの人形を破壊することができないでいた。
私の身の安全のためだと言い聞かせながら何度だって試した。
しかし、母の姿をしたものを直接手に掛けることなど、どうしてもできなかった。
だから自分の見えないところで、人の手によって処分してほしかったのに、人形は家に戻ってくる。
人形に埋まっている私の左目を取り出すことも試みたが、接着されているのか外すことはできなかった。
私は時間があれば父の工房に積みあがっていた、胡散臭い魔導書や黒魔術の本を読んだ。
おそらく、父のいうエネルギーというものが人形に少しずつ充填されているのだ。
私の左目を通じてなのか、本に書いてあったように人のエネルギーを吸っているのかはわからないが、まだ完全に満ちてはいない。
だからまだ満足に動くことができていないのだ。
それができたとき、きっと私は殺される。
理由はわからない。
だが包丁を持ってくるなど、それしか考えられない。
私はあの人形に命を狙われているのだ。
あの人形の中に入っているのは母などではない。
母が私に向かって包丁を持つなんてありえない。
私は母を信じている。
もしこれが母だったならば、私は動く人形と共に生きる狂人と化しているに違いなかった。私も父の娘なのだと痛感する。
私はネットの口コミで曰く付きの、いわゆる呪物を引き取ってくれる店を探した。
見つけたのは、隣町にある骨董堂だ。
表向きはただの骨董堂だが、店主が呪物に理解があり、その話をしても快く引き取ってくれるのだという。
そうして私は蓮見骨董堂の門を叩き――蓮見宗介と出会った。
昔書いたホラー小説の前日譚でした。
本編は蓮見宗介視点で、真宵が店に来るところから始まっていました。




