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3:Nemo liber est qui corpori servit.【瑠璃椿】

 トーラに指示された場所、それはセネトレア王都ベストバウアー……その東裏町。西裏町で生活している飛鳥にとって、そうそう足を運ぶ場所ではない。西と東は請負組織としての派閥が違う。西はあのトーラという情報請負組織が仕切った街。東は商人組合子飼いの請負組織達が屯する街。大まかに分けるなら、西は奴隷貿易、混血迫害を拒絶する人間の集まり。東はそれを肯定し、金儲けのために人を売ることを厭わない人間たちの集まり。

 勿論裏町と言うだけはあって西裏町だってそれなりには物騒だ。なんたってこの物騒なセネトレアという国の一部なのだから。物乞いは居るし、強盗もいるし、強姦、殺傷事件くらいならば日常茶飯事。それでもまだ西はマシな方なのだ。

 西は殺されるだけ、東じゃ死体さえ残らない。裏町はそんな言葉で語られる。西は金品くらいしか奪われないが、東は違う。人の身体にさえ値段を付ける。臓器や血液、使えるものは全て奪う。金になるものなら全てを持っていく。そんな物騒なのがこの東裏町。そんな破落戸達も、商人の後ろ盾を得ているから好き放題出来る。それが咎められることもない。

 元々西はスラム街のようなもの。それを情報請負組織TORAというものが、西を支配し、整え……一応の秩序のようなものを生み出した。それがあんな少女の功績だとは今でも信じられないが、彼女の情報力は確かなものだ。飛鳥の正体まで洗って言い当てた彼女なら、本人を信用できなくともその情報力だけは信じてやっても良い。そう思う。……というよりここまでくるともう藁にでも縋りたい気持ちで一杯だ。このまま宛もなくただどこにあるかもわからないものを探し続けるというのは、とても力が要ることだ。よくそれが9年も続いたものだと我ながら感心する。それでも同時に、心のどこかでもう諦めている心もある。こんな国だ。原型と留めているんだろうか?もう失われているんじゃないか?何もかもがもう何処にもない。だから何の手がかりも見つからない。そんな風に感じている。

 ただがむしゃらに金をかき集めて。それを積み重ねれば、贖えるのだと盲目にそれを信じて金だけ貯めてきた。

 そんな弱り切った心にあんな甘い餌を与えられたら、食い付くしかない。それだけのために自分は生きてきたのだ。


(いや……今は仕事に集中しねぇとな)


 指定された時間より早めに着いた。指定された物陰に身を隠し犯人が現れるのをただ待つだけ。それから何分経っただろう?一時間には満たないはず。

 飛鳥の前に現れたのは一人の少女だ。暗がりのせいで正確な髪や目の色まではわからない。それでも身につけている服や髪飾り、そのシルエットからそれが少女なのだと分かる。


 「待て!待てと言ってるんだ!くそっ……私の命令が聞けないのか!?」


 闇を裂く、低い声。少女は何者かに追われているのか、息を切らしている。細い足で走り続けて……力尽きたのか、とうとう立ち止まる。彼女を追う靴音。それに少女は振り返る。

 追ってきたのは一人の男。口からは薄汚い笑い声を発している。


「これで……私の勝ちだっ!はは……はははははは!」


 追いつかれた少女は、男に静かに歩み寄る。


「……それなら今より貴方が私のご主様。主様……貴方は私に何をお望みですか?」


 初めて発せられた少女の声。静かに凛と……夜の闇に響く声。とても綺麗な声だけれど、感情の籠もらないその音は、不気味な雰囲気を漂わせる。

 しかし少女を前にしたその男はそんな風には感じないらしい。抵抗を止めた少女の言葉に、満足そうに男が頷く。望みを果たそうと彼女へ手を伸ばし少女を腕の中へと抱き寄せる。


 「……そんなこと、決まっているだろう?」


(奴隷と飼い主か……)


 これから何が行われるのか、おおよその見当はつく。どうせろくでもないことだ。奴隷を買うような人間は大抵人格破綻者か変態。こいつはその後者だろう。少女は買われたところを逃げ出してきたのだろう。助けてやりたい気持ちはある。しかし、いつ犯人が現れるかわからない。不用意に姿を現すわけにはいかない。

 自分の中には優先順位がある。そのためには心を鬼にしなければならないことだってあるわけだ。見ず知らずの少女のための正義感から、これまで積み重ねてきた情報への手がかり足がかり、それを無に帰すことなどできない。


 それでも直視に耐えかねて、目を逸らす。間もなく何かが倒れる音。少女が押し倒された音だろうか?それにしては、もっと重い音。目をやれば、倒れているのは男の方だ。少女は二本の足で立っている。


(……っ!?)


 暗がりにはっきりとした色はない。それでも明色暗色の違いは見て取れる。少女の白い頬とか、それにさきほどまでなかった黒い色がこびりついている。


(あれは……血だ!)


 少女の手口は鮮やかだ。彼女は何をした?一瞬目を離した。その隙に男に触れられただけ。それだけでもう男は動かない。


(……まさか、あの子が犯人っ!?やべぇ完全にノーマーク!色まで確認出来てねぇ!)


  少女が駆けていく。後を追わなければ。彼女が犯人だ。路地裏に現れた血だまりに横たわるそれは、確かに絶命している。飛鳥はそれを確認した。

 どんな手を使ったか。それはあの数術使いから聞いている。毒殺だ。あんな小柄の女が人を殺すには、それぐらいしか方法はない。


(逃がすかよっ……)


 あの少女の外見、その情報を手に入れれば……トーラの依頼は完了だ。この9年間探し続けた情報が、ようやく手に入る。やっと知ることが出来るんだ。

 足音は立てないように、それでも見失わないように少女の後を追う。少女はそこまで足は速くない。難しい仕事ではない。


(っつっても……どうやって見ろって言うんだ?)


 少女の色を知るには灯りが必要。けれど此方がそんなものを持ち出せば追ったことが向こうにバレる。しかし飛鳥の不安も杞憂に終わる。

 少女は立ち止まり、その建物の扉を叩く。ギィと重たい音がして、その扉は開かれる。室内から溢れる薄明かりに、闇の中から少女の輪郭が曝かれる。


 「また帰ってきたのかい、不良品め。何人殺せば気が済むのかねぇお前は。まぁいいさ、お上がり。お前にまだまだ稼いで貰えるんならこっちはそれでも構わんからねぇ……」


 少女を迎える声と共に現れるのは老婆の姿。逆光を背に少女を迎える。


(……よしっ!)


 物陰に身を潜めていたが、これは好機だと足下に落ちていた石を投げる。その音に、少女が一度振り返る。


「…………」

瑠璃椿るりつばき?」


 扉から入ってこない少女を不審そうに呼ぶ嗄れた女の声。


「……気のせいか」


 少女はそう呟いて、扉の内側へと姿を消す。飛鳥はそれを呆然と見つめていた。

 振り返る瞬間、光に照らされて輝く髪は白金よりももっと明るく輝く白。もっと冷たい美しさを秘めた銀色の髪。闇を見つめる虚ろな目は今日の夜よりも深い紫。

 その二色を目にし、時を忘れたようにそこに佇む。自分はあの色を知っている。ずっと探していた、その色と同じ色。

 仕事はもう終わりだ。犯人の色を曝いた。これを報告すればいい。それでお終い。帰るだけ。それなのに、この足は帰ろうとしない。それどころかようやく時を取り戻したそれは、少女が消えた扉の方へ、ふらふらと歩き出している。


(……時計屋か?)


 扉の前には0時で止まった時計が飾られている。それがなにを示すのかは分からない。掲げた手、それが扉を叩くことを躊躇う……けれど、下ろせもしない。そのままじっとしていることも出来ず、取っ手に手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。


「おや、お客さんかい?おやおや……今日は客入りの良い日だねぇ」

  「こんな時間にやってる店があるとはな。飲み屋って感じでもないが、ここは何なんだい婆さん?」

 「婆なだけに飲み屋じゃなくてバーじゃよ……なんて言えたらいいんだがねぇ。生憎うちでは酒なんか売らないよ。うちの商品はもっと生きが良くて酒の快楽よりも上等な一級品ばかりさ」


 飛鳥を出迎えるのは一人の老婆。年を食いすぎて逆に年齢不詳といった感じの女だ。よく言えばミステリアス、悪く言えば童話に出てくる悪い魔女みたいな感じの老婆。ひひひという笑いと共に口元に浮かんだ笑みは不気味というか軽々しく信用できない類のそれだ。


  「んだよ。ようやく開いてる酒場を見つけたと 思った俺の感動を返してくれよ。振られて傷心の俺は酒でも浴びようと思って家中から金引っ張り出してきたってのに……」

  「フォフォフォ……女に振られたかお若いの。相手は見る目がないのぉ。儂なら即OKと

  言うところ何じゃがのぉ……お前さんなかなかいい面構えをしておる。それに稀少じゃ」

  「それがなぁ……本命には相手にされないんだ。 こっちは目に入れても痛くないってのに……向こうの眼中にも入ってないんだと。それに婆さんにモテてもなぁ……………」

 「しかしお前さん……見たところ女に困っている風には見えないけどねぇ。その色……あんた真純血だろぅ?カーネフェルの尻軽女共は幾らでもわんさか寄ってくるだろうにねぇ……」

 「金目当ての女なんて懲り懲りしてるんだよ」

 「まぁ、良い時に迷い込んだかもしれぬぞ?女の一人や二人、すぐに忘れられる商品がここにはあるからのぉ……人を傷付けることが出来るのが人である以上、人を癒すことが出来るのもまた……人でしかないとは思わないかえ?」


(この言い草……まさかここ、奴隷屋……?)


 老婆の言葉から察するに、この場所は奴隷屋らしい。内装はいかにもという奴隷屋らしくはなく、まったくそんな風には感じないが、それなりに豪華な調度品。それなりに繁盛している店のよう。


「そうじゃの、どんな子が好みかえ?少年?少女?それとも……儂?」

「三番目は断固却下で」

「つれないのぉ。儂的にはお前さんタイプなんじゃがのぉ。どうじゃ?奴隷なんか止めてここは儂と付き合わんかい?いや、突き合う方向でも全然おっけーじゃよ」


 自重しろ婆。いい加減枯れろ。いろいろと。


「まぁ、8割本気の冗談はさておき……ご所望の品は?」


 それもはや冗談に分類するのが失礼な割合だ。かなり本気じゃねぇか腐れ婆が。

 内心そう思っても口には出さず、微笑を湛える自分は偉いと思う。割と本気で。


「そうだなぁ……カーネフェルの女は駄目だな。 金髪も青い目もしばらく見たくねぇ。かと言ってタロックの女なんて俺の金で買えるとも思わないな」

  「お前さん驚いた割にあっさりノリノリじゃのう。まぁ、それなら心配要らんよ。うちで扱ってるのはタロークでもカーネフェリーでもないからのう……」

「純血じゃ、ない?」

「うちは混血専門店なんじゃよ。くくく、穴場も穴場!お前さんも運が良いねぇ。ここは混血専門高級奴隷店!躾ける時間も金も必要ない!教養仕込みの宝石箱さぁ!」

「へぇ、どんな教養教えてるんだい?」

「ひひひっ……そうさねぇ。昼間は淑女、夜は過激な娼婦。そばに置くだけでもいい飾りになってくれるお人形さ!」


 とことん腐ってやがるなこの国。

 しかしどうしたものか。


(混血専門店……?)


 ミスったか?混血奴隷なんつったらタロック女より高価な時もある最高級奴隷。支払い能力不足で追い返されかねない。

 一般的に純血奴隷の価格は安い。人種間に生じた不平等な少子化により、人の価値は変動した。タロック人の男と、カーネフェル人の女の価値は底辺。ダース売りで何万とか、その程度で売買されるようなご時世だ。それに対してタロック人の女とカーネフェル人の男は高価。血を重んじる貴族共が咽から手が出るほど欲しがる商品。

 そしてもう一つの商品が混血。成金貴族もとい変態貴族達の間では混血趣味が流行り、いかに珍しく美しい混血を所有しているか、或いはその数を競い合う悪趣味な風習がこの国で興った。そしてあっという間に混血の価値は高騰。混血は奴隷貿易において、一人数億から数十億の価値が付く。ものによっては数百億だって夢じゃない。そのくらいの金はあるのかと問われている。


「それでお前さん、好きな色は?奴隷を選ぶには、それは勿論顔や相性も必要じゃが、目の色や髪の色も大事。そのあたりから絞ってみては?うちにはそれなりの数の商品が居るからのぅ。一匹ずつ会っていたら時間が幾らあっても足りないじゃろう」

「そうだな……銀髪で、紫」

「はて…………、今何と言ったかの?」


 答える飛鳥に老婆が一度聞こえない振りをする。それにもう一度同じ言葉を繰り返すことを強いられた。


「紫の目の混血っているか?……俺はあの色が好きなんだが市場で今まで見かけたことは一度もないな。もしかしてそんなのいないのか?」

「お前さん、それを何処から聞いてきた?」


 老婆はあの少女への探りに気付き、それを咎める……と思ったのだがそうではない。老婆は飛鳥を追い出すでもなく、逆上するでもなく、奇妙なことを言い出した。


「おやおや……お目が高い。片割れ殺しをご所望かい?ゲームの参加希望じゃったらそうと早く言いなされ」

「なんだ、その“片割れ殺し”って」

「くくく……知らずにここまで来たとは本当に風変わりなお客だね」

「片割れ殺しは幻の混血のことさね。今まで一人だか二人とか……そのくらいしか生まれてない希少価値の塊さぁ。みぃんな欲しがるけど需要通りに供給出来ないのは仕方のないこと」

「おいおい婆さんよ……幻の混血なんて馬鹿高いモノの相場俺は知らないぜ?持ち合わせで足りるのか?」


 このまま頷いて、わけのわからない話に乗せられても困る。この辺りで一度、手を休めるか。

「それが足りるんじゃよ。ここは賭場。賭けるものさえ賭けてくれれば、それでよし。勝てば無料で商品はお客のものさ。その商品というのがお前さんの言う、紫の瞳の混血なんじゃ」

「へぇ。その参加資格ってのは?」

「いや、この書類に一筆サインをして貰えばそれでいい」

「ええと、このゲームで命を落としても文句は言わない。あと死んだ場合全財産は没収されても構わない……?おいおい酷いぼったくりだな」


 老婆が差し出す紙にはとんでもない要求が記されている。それは命と全財産を賭ける取り決め。



「まぁ、そう言うでない。本来この程度でも安いくらいじゃよ」

「とか言って婆さんが商品だったとかそういうオチはねぇだろうな」

「残念じゃのぅ……儂はそれでも構わんのにのぉ」

「斬り殺してもいいか?」


 流石にそろそろ痺れを切らしての言葉だが、にたにた笑う老婆にかわされる。


「そう怖い顔をしなさんな。婆の戯れ言じゃよ」


「あれは本当に珍しい混血じゃ。普通に買おうものなら億単位でも足りん。もっと価値の付くものじゃ。お客人、お前さんは混血についてどの程度知っているかえ?」

「混血は……男女の双子で生まれることが多い。カーネフェル人(カーネフェリー)タロック人(タローク)の間に生まれた突然変異の子供達。髪の色は片親のものを継ぐ場合と突然変異色に分かれる。しかし目の色は絶対に突然変異。……こんなところだ」

「ふむ……まぁまぁの認識じゃな。しかし正解ではない」


 飛鳥の答えに老婆が静かに頷き、それを訂正し始める。


「お前さんは混血が男女の双子で生まれる確立をアバウトに言っておったが、本来それは絶対と呼んで言い割合じゃ。片割れの居ない混血は、迫害などで片割れを失ったに過ぎんよ」


 ディジットの経営するあの宿にいる双子の混血、アルムとエルム。あの二人のように混血は片割れと共に生まれるものらしい。それが絶対なのだと老婆が告げる。

 しかしそのすぐ後に、老婆は今の言葉と異なることを言う。


「そんな中、絶対から外れた混血が居る。それが片割れ殺しと呼ばれる混血じゃ」

「片割れ殺し……?」

「片割れ殺しは銀色の髪に、唯一の瞳を持って生まれる稀少な混血。その名の通り、片割れは居らぬ。生まれながらの人殺しよ。片割れは死産。その時に生まれるのが片割れ殺し……その罪深さからか、片割れ殺しは他の混血とは比べものにならない程美しい色を持つ。誰もが金を積んで欲しがる至高の宝石」


 片割れ殺し。そうだ。確かにあの人にも……片割れは居なかった。


(まさか……、……あの人なのか?)


 あの少女が、自分がずっと探していたあの人なのか?


(でも、そんな馬鹿な……)


 だってあの人は……確かに死んでいたはずだ。死人が生き返るなんて、常識的に考えてあり得ない。そんなことがあるはずがない。だとしたら別人?けれど片割れ殺しは稀少……絶対の確立から外れた存在。そんなにそんなものがごろごろ存在しているはずもない。


(それにあの色……)


 似ている。とてもよく……似ている。記憶の中で、夢の中で見る人にとてもよく似た色の目。他人の空似?それにしては……似過ぎている。それを確かめる上でも、もう一度彼女に会いたい。ここで引き下がることは出来ない。


「これはそれを賭けたゲーム。命くらい惜しくはないという男気溢れるお客人共が夜な夜なうちの店にやって来るわい。しかし……お前さんは止めておいた方がいいと儂は思うぞ。お前さんほどの色男を失うのはこの世界の損失じゃ」

「あはは……生憎俺の周りの奴らはそうは思ってないんだ」


 書類にサインをする。どうせもう死んだ人間の名前だ。それを記して老婆へ差し出す。


「で?そのゲームってのはどんなもんなんだ?俺は何をすればいい?」


 命知らずの若者め……馬鹿にするような呆れるような哀別の瞳で見る老婆。


「ゲーム自体は簡単じゃ。あれをそのまま参加者が自分の家まで無事に連れ帰れたなら、ゲームはお前さんの勝ち。あれは勝者の物となる」


 老婆がそこまで言ったとき、突然店内の灯り全てが落とされた。

 灯りに目が慣れていたせいで、何も見えない。その闇の中からひしひしと伝わる殺気。


(……俺が何しにここに来たか、バレてたってことか?)


 袖に隠したナイフを両手に構える。夜目が利くようになるまで後手に回ってしまう。油断は出来ない。

 風を切る音。その音へ向かってナイフを投げる。殺気があったから、なんとか読めた。弾き返せた。相手が闇に紛れたら不味い。どうにかして挑発すべきか。



「ん?うちの用心棒の仕業かねぇ……高価な商品がおいてあるから神経質になってるんじゃよ。稀少な商品じゃからのぅ、盗人も来るじゃろ?」


 次の手を考える飛鳥の傍で、老婆が脳天気な声で笑う。

 しかしすぐに真面目な口調で老婆が語る。それはその用心棒とやらに向かって。


「……真純血だろうと客は客、下がりなさい」


 小さな舌打ち。その後に消える殺気。

 老婆が洋燈に火を灯し……部屋の灯りを付けて回り、室内が明るさを取り戻した時には用心棒の影も形もない。何処へ消えたのだろう。床にも壁にも用心棒の武器は残っていない。自分が投げたナイフが落ちているだけ。


  「……しかし見えないくせにお前さん、ようやるのぉ……ゲームの参加資格は十分と言ったところか」


 老婆が満足げに頷いた。


「まぁ、ゲームの参加をどうするかは商品を見た後でも遅くはないじゃろ。入っておいで……瑠璃椿」

「………店主、仕事ですか?」

「さぁのう、それはお前が決めるんだよ瑠璃椿」


 老婆の呼び声に、奥の扉が静かに開く。少女の声。あの闇の中で聞いたそれと同じ声。


「どうだい、お若いの。……フォフォフォ、声も出ないと?」


 老婆に笑われるが、その通りだ。声どころか身動き一つ出来やしない。魅入られたように少女を見つめる。それだけが自分に許されていること。呼吸さえ忘れて、少女の奇跡のような色を見つめる。

 キラキラと流れるような銀糸の髪。夜の闇と光の加減で色合いを変えるそれは淡い月明かりの用の朧気な美しさ。

 少女が此方を見ている。紫水晶のような綺麗な瞳だ。いや、あの石にだってこんなに深い色は無いかもしれない。

 それでも引き込むような、惹き付けられるような感じがするのは、その色だけだろうか?少女の瞳はとても綺麗だけれど、感情の灯らない瞳。透き通るような虚ろな目。彼女は誰も見ていない。目の前に自分はいるけれど、そこに映れていないのだ。

 少女はこちらを見るのを飽きたのか、すぐに視線を逸らす。その仕草に、見られていたとき以上の引力が生まれる。


(俺は、この色を知っている……)


 そしてこの感覚も、知っている。

 最後に一度、目が合った。そしてそれは閉ざされた。そしてそれが二度と開くことはないと知りながら、もう一度その視線を求めた。それが今ここにある。

 人間は欲に突き動かされる生き物。人は本当に自分の意思で生きているのか?それともそれに操られて生きているのか?

 目を逸らした彼女に、もう一度此方を見て欲しい。その瞳に自分を映して欲しい。あの日の微笑みをもう一度、この眼に見せてくれ。

 ふらふらと、足が彼女へ向かい出す。……彼女が視線を少しだけ此方へ上げる。何か言わなければ。


「……なぁあんた、前にどこかで会ったことがなかったか?」


 咄嗟に自分の口から漏れたのは、今時珍しくもないというかとっくに廃れたような口説き文句だ。背後で老婆が吹き出しすのを耳にした。そんな臭い言葉に少女は瞳を瞬かせ、考え込むような素振り。


  「前に……あなたと?」

「仮にそれが真実だとしても無駄じゃよ。これには過去など何もないからのぉ……」


 老婆が語る。少女には過去がない。記憶がないのだと。


「……貴方は、私を知っている?それ、本当ですか!?」


 それまで人形のような無表情を湛えていた少女が、初めてその瞳に感情の色を浮かべた。それは歓喜。

 少女の方から飛鳥へ近づく。その手を取って、嬉しそうに、驚いたようにじっとこちらを見つめる、探るような紫。なんて綺麗な色だろう。

 感情の火の灯った人形。そのままでも美しいのに、もっと素晴らしい何かへ変化したよう。人形が笑っている。目の前で、笑っている。


(間近で見ると……本当、あの人にそっくりだ)


 夢でも見ているのだろうか?これじゃあまるで、あの人そのもの。

 感動からか興奮からか、顔が熱い、息が苦しい……目眩が………目眩?


「お止め瑠璃椿っ!」


 老婆の制止の声。それに少女が我に返って手を放す。


(なんだ?……身体が動かねぇ。目が合っただけなのに……)


  俺の足は再び自分のモノじゃなくなったみたいにフラフラと……彼女の方へと引き寄せられる。目をそらす彼女の瞳が見たい。逃げる彼女を捕まえて……そして……


(ちょ、ちょっと待て!何危ないこと考えてるんだ俺っ!そんなことしてみろ!あの方になんて詫びれば……ってそもそも他人の空似って可能性も十分あるってのにくそっ……)


 思考が危険な方向へと向かい始める。どうして?わからない。必死にそれを振り払おうとするけれど、そんな思いばかりが浮かんで来る。

 頭ではいろいろごちゃごちゃと考えてるのに、それと身体が上手くリンクしていない。別のモノになってしまったよう。一度合わさった目が。一度触れられた肌が。飢えている。見つめて欲しい。もう一度。触れたい。触れられたい。質の悪い薬みたいな依存性。


「……来ないで!私は、貴方を殺したくないっ」


 泣いている。彼女が泣いている。


(……あ)


 それを見た刹那、脳裏に甦る記憶。優しく慈しむような女性の声。


 “もう二度と……泣くことも、悲しむことも無くなるように”


 幸せを祈る声。その祈りの向かう先……それを守ると誓ったのは幼き日の自分だ。

 目の前で、彼女が泣いている。泣かせてしまっている。自分のせいで。


「泣かないで……下さい」

「っ……!?」


 夢だろうか。幻だろうか。それでもいい。だからあなたは、泣かないで。

 手を伸ばし、彼女の頬へと触れる。その涙を拭う。せめてこの人を笑わせられたらいいのに、あの人が願ったように。そう思って笑みかける。彼女は見開いたまま、此方を見ている。伸ばした指先。掌に落ちる透明な雫は温かい……生きた温度。


「もう二度と……あなたが」


 言いたいことがあるのに、声が出ない。それどころか伸ばした腕が痙攣し……膝が力を失って……視界が闇に包まれる。それでもまだ意識はある。声が聞こえる。彼女はまだ泣いている。何度もごめんなさいとそればかりを繰り返す。


「残念じゃのぅ……またお前の勝ちかい。しかし惜しいことをした。カーネフェルの

  若い男は高く売れたんじゃがのぅ……生かしたまま捕らえたかったわい」


 これは老婆の声。あの老婆、そんなこと考えていたのか。やっぱりこの国はろくな人間が居ない。


(くそっ……悔しいが上手く喋れねぇっ……)


 俺は毒にやられたのか?何時?どうやって?俺は彼女に何をした?

 手に触れた。涙に触れた。触っただけだ。それだけ。それだけ?それなのに、どうして?


(まさか……毒人間!?)


 聞いたことがある。

 昔、タロックで貢ぎ物として作られた毒の乙女の話。それで毒殺されたカーネフェル王がいたとか。


(汗に涙も毒なんて……その究極版ってことか。流石にそこまで予想してなかったぜ)


  “犯行に使われた毒は“ゼクヴェンツ”。アスカくん、君の大事なご主人様を殺した毒だ”


 トーラは言っていた。過去を持たないこの少女が用いる毒はゼクヴェンツ。


(毒人間……ゼクヴェンツ……。それなら、この子は……あの人、なのか?トーラの奴……嵌めやがったな)


 いや、違う。例えそうでなかったとしても……こんなにそっくりじゃ、泣かせたら気分が悪い。目覚めが悪いというよりは、眠りが悪い。

 少女はまだ謝り続けている。泣いている。


「笑って、……ください。……な………、さ……、ま」


  「あなたが、笑って…くれるなら……俺も」


 この子が笑ってくれるなら、それだけでいい。それだけで、自分は救われる。


 *




 鳥の囀り。差し込む光。それが重たい瞼をこじ開ける。視点が定まらず、天井を見上げる。

 日差しの角度で大体の時間は分かった。もう朝とは呼べない時間が今だ。


「もう、昼か。随分長いこと眠ってたみたいだな……」

「はい。アスカ様は半日ほど眠っていらっしゃいましたので、今は午後の0時と言った所です」

「そうか……なんか良い夢をみたような」


 何だか幸せな気分だ。夢が覚めなければ良かったのに。あのままずっとこの眼を閉ざしていたかった。


「……あれ?」


 まだ寝惚けているのか?独り言に返される声が聞こえる。その声は、夢の中でも耳にしたはずの……


「瑠璃椿っ!?」


 寝台から身体を起こし、声のする方を見れば……夢から抜け出してきたままの少女の姿。銀色の髪に紫色の瞳の少女が控えている。


「貴方は賭けに勝ちました。今日より私は貴方の奴隷です。何なりとご命令を……ご主人様」


 瑠璃椿が淡々と語り出す。突然のことに頭がついていけない。自分が勝った?奴隷?主人?現実味を帯びない単語ばかりが彼女の口から吐き出されていく。


「な、なんだってそんなことにっ!?俺…あれ?つか俺なんで生きてんだ!?」

「どういう経緯であれ、生きて私を連れ帰った者が勝者ですから」

「そういこと。おめでと飛鳥君!それからやほー瑠璃ちゃん、半日ぶり?」


 窓から現れる訪問者。依頼人数術使いトーラ。にこやかに手を振って土足で室内に彼女が転がり込んだ。


「何でお前がここにいる……ていうかこいつと面識あるのか?」

「感謝してよね。半分は僕が助けてあげたようなものなんだから」


「こちらの方が解毒をしてくださったんですよ」

「マジで?」

「うん、マジ。大マジかなりマジ」


 瑠璃椿にもこの虎娘が恩人なのだと言われては、認めざるを得ない。


「そんじゃ、僕はこれで。仕事忙しいしー……ってことでアスカ君、報酬は確かに渡したよ?」


 そう言い残し、あっという間に彼女は消える。


「……帰りが数術なら、行きは窓から来た意味あるのか?つか窓閉めてけよ」


「……しかしこれであいつに貸しひとつ……いやふたつ……か?何企んでても踊らされてやるしかねぇじゃねぇか……でかい借りだな」


 アスカの口からは重いため息。それを心配そうに見ている瑠璃椿。

 そんあ彼女に何でもないから気にするなと笑いかけ……これからどうしたものかと思い悩んだ。


「もう!何騒いでんのよアスカ、五月蠅いわね」

「げ……しまった!ディジット!!」


 ディジットは奴隷商を嫌っている。自分が奴隷を連れていることがバレたなら、これまでのフラグが一気におじゃんだ。いや、元々一本も立っていないかもしれないけれど、人としての信用とかまで無くしてしまう。


「瑠璃椿っ!戸締まりは!?」

「一応窓も扉も施錠をしておきましたが……」

「よし!でかしたっ!」


 しかしそれでも窓から入ってくるあの数術使いは何なんだ?やっぱり化け物か?

 いや、化け物は何も混血に限った話ではない。

 ドアが蹴破られる音。吹っ飛ばされる。部屋の中央まで跳んできた扉だった物に僅かの哀愁の念を覚えつつ、おそるおそる扉の方へと視線を向ける覚悟を決めた。


「む、無意味……だったみたい、ですね」


 瑠璃椿がぽつりとそう呟いた。その呟きが大きく響くのは、嵐の前の静けさ。部屋が静まりかえっていた証拠。


「で、ディジット……」

「あら、可愛い子ね」


 ディジットが笑っている。笑っているけど怖い。これは女性にしか習得できない特技だろう。そんな気がする。笑いで人を震え上がらせるのは彼女たちの才能だ。出来ればこの地上から消えて欲しいようなそんな才能だ。


「その子……タロークでもカーネフェリーでもないように見えるのだけれど私の気のせいかしら?どうなのかしら?」

「でででででディジット!こ、これには深いわけがっ!」

「あんたじゃ話にならないわ。ねぇ、君……こいつに何かされてない?大丈夫?」


 飛鳥の方はゴミ虫を見るように冷ややかな視線。瑠璃椿には労り同情、それから慈愛に満ちた優しい視線を送る彼女。


「むしろされたのは俺の方なんだけどな」

「うっさい!黙れ!変質者!寄るな変態っ!鬼畜!人でなしっ!信じられないわアスカ!私の目の黒い内に奴隷商に荷担するなんて!こんな子どこから攫って来たのよ!?最っ低!」

「いえ、私は攫われたのではなく……」

「奴隷屋から買った!?はぁっ!?あんたそこまで堕ちてたの!?いくら私が振ったからって奴隷売買に手を染めるなんてっ……不道徳だわ不潔だわ!今日限りでここ出て行って!」

「でででででディジットの目は黒じゃなくて青だよなぁ……なんちゃって」

「ふふふ、そうね。で?遺言はそれだけ?」


「だ、駄目です!」

「瑠璃椿?」


 ディジットの罵声を甘んじて受けている飛鳥を庇うよう、二人の間に立つ瑠璃椿。両手を広げ、自分よりも大きな体を守るように立ちはだかった。飛鳥からは差し込む光に照らされた、彼女の銀色しか見えない。


「アスカ様は私の主です。危害を加えるのなら…」

「止めてくれ瑠璃椿っ!」


 遺言と言う言葉。それはディジットから飛鳥への殺害予告。その奴隷である自分に対する宣戦布告と受け取ったらしい瑠璃椿。

 ディジットは確かに怒っているが、飛鳥を殺したりはしない。それが瑠璃椿にはわからない。だからここで止めなければ、彼女は彼女に危害を加える。


「それが貴方の命令ですか?」


 振り向いて、虚ろな瞳で語りかけてくる瑠璃椿。


「止めてくれ……」

「わかりました、アスカ様」


「訳あり……だったのかしら?」


 危うい瑠璃椿と、それを止める飛鳥。そんな二人の様子を見ていたディジットは、また飛鳥が厄介毎に首を突っ込んだか巻き込まれたのだと理解する。


「ああ、そんなところだ。仕事の関係上預かってるようなもんだよ」

「………あらやだ、私ったらてっきり。あはは……ごめんねアスカ」


 *


「いや、一時はどうなることかと思ったよ」


 外れた扉を直し、飛鳥はようやく一息ついた。

 ここを追い出されたら新しい住処を見つけるまで路頭に迷うところだった。自分だけならまだしも、瑠璃椿もそれに巻き込むことになっていたかと思うと、ディジットの誤解を解くことが出来て本当に良かった。

 落ち着いてみると、いろいろ気になることや聞きたいことが表に現れる。でも、それのどこまで尋ねて良いものだろう。主である飛鳥が命じれば彼女は一から百まで話すだろう。でも……話したくないことまで、話させたくはない。


(どうしたもんかな)


「アスカ様、私は普通の人間ではありません」


 黙り込む飛鳥の心を察した彼女が、口を開き自分を語り出す。


「昨晩アスカ様を昏倒させたのは私の毒…… おそらく私の涙に含まれる成分が皮膚から進入したのでしょう」


 涙……確かに触れた。やはりあれが原因か。


「……涙だけではありません。私の体液は全てが人殺しの猛毒。迂闊に私に触れることは今後お控え下さい。命に関わります」


  淡々とそれらを事実として語る彼女。顔色一つ変えずに自分は人間ではないと口にする。その様子に、胸が痛んだ。

 何も思わないわけではないだろう。何も感じないなんてこともないはずだ。

 それを押し殺すことに慣れてしまった、奴隷の仮面が哀れ。その境遇に突き落としたのがこの手かも知れないと……そう思うと、両手の震えが止まらなくなる。それに気付かれぬよう、素知らぬ顔で…話題を変える。


「なぁ、結局あの店って何だったんだ?唯の奴隷屋とは思えなかったぞ?」

「………奴隷屋午前0時は暗殺組織です。標的は貴族と商人。私という餌に食い付く程度の人間が対象です」


「そういえばお前……過去がないって記憶喪失ってことなのか?」

「……覚えてるには覚えていることもありますが……その中でアスカ様らしき人物の心当たりはありません」


「……そゃあ、まぁ……な。俺が同じ色の人間を 見たことがあるってだけで……そっちが俺を認識したとは思えないしな」

「……では、他の方なのかもしれませんね。すみません、アスカ様」

「どうしてお前が謝るんだ?」



「だって……貴方はとても。その方に会いたくて仕方がないように、感じました。私という紛い物が貴方のすべきことを邪魔だてしているのではないかと……そう思ったんです」

「……そんなんじゃねぇさ。乗りかかった船だ。記憶が戻るまで面倒見てやるよ。俺は請負組織(アンダーテイカー)だしな」

「請負組織?」


ていのいい何でも屋ってとこだ。記憶探しの依頼……あんたが望むんなら手伝うぜ?どうせ……しばらく暇してるんだ」


 トーラがああ言う以上、こいつは何かある。他に手がかりもないし、それに何より……


(やっぱ……ほっとけねぇし)


 やはり他人とは思えないのだ。


「……ですがアスカ様。私は奴隷なのにそれではおかしなことになってしまいます。私が主人の手を煩わせるなど奴隷にあるまじき……」

「……俺がそうしたいんだ」


 彼女の思考回路を読み、逃げられないよう言葉を選ぶ。思想の自由を与える振りで、袋小路に追い詰める自分はこの上なく卑怯で汚らしい人間だと思わなくもない。一応、自覚はある。自分が奴隷だと言い張る彼女。それに主の俺が強く意見すれば彼女はそれを飲まざるを得ない。

 命令しないために命令しなきゃいけないなんて、酷い矛盾だとは思うけれど、他に方法がない。

 でも、違うんだ。これでいいんだ。

 命令するのは俺じゃない。……あなたの方なんだ。俺はあなたの力になりたい。今度こそ、あなたを……あの方との約束を……


「……覚えてる中で一番古い記憶って何年前辺りだ?」

「……1年前です」


 そう語る瑠璃椿の瞳は、もっと空虚さを増したように見える。


「私は欠陥品です。…………最初の主だった人をこの手にかけていた。血だまりの中目を開ける……それが最初の記憶です…………私はその時から人殺し。それ以外の自分なんて……何も」


 それはどんな思いだろう。覚えていること、その全てがそんな記憶。始まりも今もそれだけ。前も後ろも罪ばかりが転がっている。そんな記憶の中に暮らすのは、とても辛いことだろう。

 代われるならば代わってやりたい。だけどそれが出来ないなら、せめて彼女を支えたい。力になりたい、そう思う。


「……そっか。辛いこと思い出させて悪かった。それで瑠璃椿。お前は……いや、君は……過去を取り戻したいと思っているのか?」

「……どうして私はこうなってしまったのか。知りたくないと言えば嘘になります。ですが私は奴隷、道具です。……思うことは許されようと、自分の考えで何かをするということは存在意義に反します」

「そんな言い方………君だって人間だろ?」

「……違います。私は奴隷です。そして……人殺ししか芸のない殺しの道具です」

「ですから私に何をさせたいかは貴方が決めて下さい、飛鳥様。それが主というものです。

  貴方が命令すれば、私は全てを受け入れます。私は奴隷ですから」


 言葉は届かない。彼女は自分が奴隷であることを、それを望んでいるようだ。彼女は人になりたくないのだ、それを受け入れられないのだ。だから、言い方を変えなければならない。


「……じゃあ瑠璃椿、命令だ」

「はい」

「……俺を主と呼ぶな。自分を奴隷とか道具とかのも禁止だ」

「……それは………困ります」


 人形のようだった彼女の顔に戸惑いが生まれる。


「私は奴隷です。過去がない……今しかない、殺人鬼です。私が私であることをやめたら……私は私の持つ今を……たった一つの持ち物さえこの手からなくしてしまいます」


 やればできるじゃないか、褒めるように彼女の頭を撫でるように軽く叩いた。それに彼女が驚きながら此方を見上げる。何をされているのか、何を言われているのか分からない。そんな表情で。


「……ほらな、ちゃんと言えるじゃないか。言って良いんだ。俺が許す。……やりたいことがあるならそう言え。嫌なことがあるんなら嫌だって言え。奴隷にだって口はあるんだからさ」

「……アスカ……様」

「アスカでいいって。様付けなんか慣れてねぇからむず痒いって。……それで瑠璃椿。君はどうしたい?」


 主の命令に、奴隷である彼女は逆らえない。自分の中で希薄になっている自分の意思を……それを必死に言葉にしようと彼女は奮闘する。それが命令ならば、彼女はそうせざるを得ないから。


「私は……私がどうしてこんな身体になったのか……どうして奴隷になったのか。過去を……自分を取り戻したい……です」


 こぼれ落ちた言葉。それが彼女の意思。


「“瑠璃椿”と呼ばれる度……それは違うのだと否定したいのに、私にはその記憶がない。

  言葉がない。だから私は瑠璃椿。奴隷で、道具で、人殺し。過去を知ったからと言って、何かが変わるとは思えない。私は、何も変われない。それでも……私は理由が欲しいんです。説明できない理不尽……それを唯受け入れるのはとても……苦しいことですから」


 吐き出される言葉は苦しげ。自分の何もかもを否定したくて堪らない。大嫌いな自分というものから逃げ出すことが叶わないなら、それを受け入れるだけの理由が欲しいと彼女は願う。


「その名前、嫌いなのか?」

「等号で結びつけられるはずもないもの。それを縛り付けるものが名前です。けれどそれを自己と認識することで、存在証明としていることもまた事実……好き嫌いで測れるようなものではないのだと思います。縛められていて、突き放したいのにどこかで縋っているのかも」


 名前とはそういうもの。それは自分ではないのに、自分だと決定づけられる烙印。それでもその数文字と、人は人生を共に歩む。切っても切れない関係。

 名とは一つの支配の形だ。名付けられた人間は、その支配者から逃れることは出来ない。彼女は未だにその名に引き摺られている。囚われている。

 彼女の意思が自分を奴隷としてあることを望み、人としての自分を認められないのなら……それならせめて、名前だけでも自由になっても、人間になってもいいんじゃないか?


「……なぁ、じゃあ別の名前で呼んでも良いか?」

「どうぞお好きなように、アスカ……」

「……リフル」

「リフル……?」


 彼女に告げた名前。そう名付けるのは、自分のエゴか?矛盾しているのかもしれない。彼女があの人でないのなら、自分は彼女をその代用品としようとしているのだ。自由にするどころか、縛り付けようとしている。そうじゃないのか?

 それでも、この名前は自分だけのエゴではない。祈りだ。彼女の想いがそこにある。それを伝えることが、今日まで自分が生きてきた意味、。

 瑠璃椿があの人でなかったとしても……彼女を助けることで、少しは自分が犯した罪を償える。償ったつもりになれる。そんな押しつけがましい自己満足に過ぎないのかもしれない。それでも彼と同じ色の彼女をそう呼ぶことで……救われる気がするんだ、少しだけ。


「……いい名前だろ、俺の兄弟の名前なんだ」

「アスカには、兄弟がいるんですか?」

「……今はいねぇな。こんな場所で暮らしてるんだ。親も兄弟もいるわけねぇさ」

「……誰にも呼ばれる前に死んじまった、弟の。可哀想な名前だろ?貰ってやってくれるとあいつもきっと喜ぶ」


 何も知らない瑠璃椿。この少女は主から与えられたものを、とても嬉しそうに受け取った。形のない物。それでもそれはアスカから初めて贈られた物。見えないそれを愛おしげに呟き、彼女が微笑んだ。


「……ありがとうございます。それなら……頂きます。私は、今日から……リフル、ですね」

 その微笑みに、胸が痛むのは罪悪感か。いいや、それでも彼女は喜んでいてくれる。それなら別にいいじゃないか。そんな風に思う自分を心底嫌悪する。

 だけど彼女が笑うから、それだけで釣られてしまう。救われたような錯覚に陥る。


「ああ、よろしくな!リフル」

「はい!アスカ様!」

「様止めれ」

「あ……」


 錯覚でも何でも、今の自分は彼女という存在に救われていた。この糞ったれた現実にやって来た夢か幻のように儚い人を、守りたいとは思うのだ。例え彼女が彼ではなかったとしても。

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