1:Ne furtum facias.【魔物退治】
セネトレア第一島ゴールダーケン。この島に残された自然はそう多くない。値段の付く物でそれが誰かの所有物でないのなら、奪って奪って売り払う。セネトレア建国当時の暗黒時代の爪痕は、今にもこうして刻まれている。
今商人達が木を切らなくなったのは、もっと質の良い木材がカーネフェルから安く手に入れられるから。遠い海の向こうから運んできた方が、目の前の木を切るより金がかからないとはなんともおかしな話ではあるが、人を雇って木を切らせ、街まで運ばせる方が金がかかるということだろう。
そんなこんなで野放しになった山々は荒れ放題。それを手入れし、人が暮らせるくらいまでに戻したのが裏町の住民だ。
そして今飛鳥が立っている緑の森。そこには人以外のものも暮らしている。これまではそれでも良かったのだが、これからはどうにもそうはいかないらしい。そこには人がこの場所で生きるのに不都合なものが住み着いたのだ。城の裏側に連なる山脈。その向こう、東側に暮らす商人達が山を再び切り開き始めたのだ。
木は要らないが、土地は居る。金がある人間にとってここは楽園、都付近の地価は高い。商人組合の管理下にある土地を金で贖い、それを更に高価に売りつける。相場を知らない人間はそれにまんまと騙される。例えば他国の貴族とか。
治安は最悪で物騒とはいえ、ここは世界貿易の中心地。安全も金で贖える。その買い物の際に利用する屋敷があっても困らない。
西と東は表通りを境に隔てられ、それぞれに暗黙の了解がある。
だから商人達が西の裏町に入り込むことはない。同様に、西の住人が東に踏み込むこともない。生き方が違う。もはや別の国と言って良い。そこに踏み込んでどうなっても文句は言えない。
西へやって来た人間は身包み剥がされ金品強奪されるだろうし、暴行を受ける程度はあるかもしれない。東へ行った人間は奴隷商に売り飛ばされるか最悪彼らの配下に殺され、パーツとして商品覧に並ぶことになる。
結論として何を言いたいのか。それは、こうなったのは東側のせいだということだ。直接踏み込まなくとも間接的に問題を増やしてくれる。
「まぁ、お前らも生きるためには仕方ないよな。ああ、それくらい俺もわかる」
飛鳥は柄に手を掛けながら、目の前のそれに話しかける。勿論会話などは成り立たず、それはぐわぁだのしぎゃあだの人の言葉でどう表現したらいいかわからない威嚇の声を発する。面倒臭いのであqwせdrftgyふじこlp;とでも表記しておこう。まぁ、大体そんな感じに返答された。
「だが、いいか?ここはセネトレアっつう国だ。世界で一番金に五月蠅い場所だ」
金さえ払ってくれるならそれは客。例えそれが人間でなくとも彼らは商品を売るだろう。
言うなればこれ達の罪状はこそ泥のようなもの。
もっともこの無法王国で盗みは罪にはならない。そのまま逃げおおせる力とか、追っ手を打ち負かす力があれば彼の勝ち。今飛鳥が対峙している相手は、その力を持っていた。
それでも罪は誰かが裁かなければならない。国がそれを裁かないのなら、こうやって飛鳥のような者が雇われる。自分自身が完全な正義だとはまず思わないが、金のためならたまには正義っぽいこともする。
その相手が威嚇はしても、襲ってこないのは相手の間合いに踏み込んでいないから。
飛鳥はゆっくりその間合いを詰める。そして一歩、その境界を越えた。
「金は対価だ。それがねぇんじゃ……払って貰うしかないよな、てめぇの命で」
襲い来る獣に飛鳥が柄より抜き払うは、愛刀ダールシュルティング。わけあって柄はそれなりに重いが、剣自体はそこまでもない。それでも長剣だから短剣よりは遙かに重いわけだけど。
この剣を手にして9年目。昔は一振りするにも体力をすり減らしたものだが、今はそんなんでもない。
背も伸びた。筋力だって付いた。手だって昔よりでかくなった。
それでも変わらないことが一つ。常に危険と隣り合わせの生活をしていたからか、食べる以上に走り回らなくてはならない忙しなさからだったか、自然と身につけた逃げ足の早さ。その素早さは別に逃げる方向だけに使わなくても良い。
そのスピードをもって、相手の攻撃を刀で受け止める。
飛鳥が盾を持たないのは、この剣一本在れば十分だからだ。攻撃は最大の防御とはよく言うが、この場合ちょっと意味が異なる。勿論その意味もこの刀は持っている。
しかしダールシュルティングはその逆の意味も併せ持つ。防御は、最大の攻撃。
「……っ悪いな!」
受け止める力を強くし、一歩踏み込み、斬りつける。斬るというよりは抉る。そんな風に傷を負わせる。
致命傷には至らない。そう思っただろう。その獣は人間を、飛鳥をよく知らない。
森の緑から空の青へと。瞳に映る景色が変わり、揺らいだことに戸惑っている。でも大丈夫だ。すぐに何も迷えなくなる。
まずは一匹。
人間なんて弱い生き物だと彼らは思っていたのだろう。仲間を一匹失ったことをまだちゃんと理解できていない。
それはそうだ。実際人間は弱い。それでも人は強かだ。
「勝てば官軍って言葉……お前らには理解できねぇか」
力こそが全て。力が正義。それが自然の掟。強者こそが生きる法。
それはこのセネトレアでも買わないのだろうが、人と獣……そこで一つだけ違うことがある。獣は正々堂々、それが生き様。だけど人間は姑息も卑怯も褒め言葉。勝った者勝ち。
未知への警戒から距離を取ったままの残りの標的に、飛鳥は愛刀を戻し、代わりに右と左にそれぞれ四本……計八本のナイフを掴む。そしてそれを風へと乗せて相手へ飛ばす。
攻撃を仕掛けられた反射で、獣たちが襲い来る。それを見越してまた投げる。
ナイフの数は目くらまし。一つ当たればそれでいい。
それが掠ったのを見届けて、飛鳥はそれに背を向け加減しながら走り出す。それを見た獣たちはようやく本調子。
追われれば逃げ、追い詰められれば襲い、逃げられたら追う。それが彼らの本能だ。
しかし、そう急な運動はあまりよくない。例えば、毒を食らった身体なら。
「ま、こんなもんか」
追いかけてきていた足音はしばらく走ればすぐに消えた。振り返れば二匹の獣が倒れている。まだ息はある。当たり前だ。今のナイフに塗った毒は最初の猛毒とは訳が違う。動きを止める程度のモノだ。
それを見て、もう一度ダールシュルティングを鞘から抜いた。それを二回振り降ろせば、死骸は最初のを入れて三匹。これで依頼完了。
動かなくなった獣。それを普通に獣と呼ぶのはどうだろう?かと言ってそれは人ではない。
世界を脅かす昨今の数値異常。環境破壊というか天変地異というか何というか。この獣たちはそれが生み出したものだ。
大昔にどこぞの学者が言ってのけたよう、“万物は数である”、がこの世界の理だ。
人も獣も、土も水も風も空気も空も。全ては0から9までの10の数。その膨大な桁の組み合わせで構成されている。
人の思考も感情も数値によって表すことが可能。勿論遺伝情報なんかも突き詰めれば数値。
だから数値異常は、これまでの常識を覆すようなことばかりを引き起こす。
魔物退治と依頼された今回の仕事の標的。
魔物なんて呼ばれてはいるが、元は普通の動物だ。それが数値異常を来し突然変異を起こして巨大化したり顔が増えたり足が増えたり。外見以外の例を挙げるなら、知能や力が増して悪さをするようになる。他にも凶暴性が増したりと言った異常も報告されている。だが、全てがそうだというわけではない。
一つフォローするならば、身体が大きくなれば食べる量も増える。環境破壊の著しいセネトレアでは自然での食料も豊富とは言い難く、人里に降りて畑を荒らすことになる。
元はと言えば人間が悪い、そういう話になるのだが、山を切り開いたのは商人だ。そのとばっちりを受けるのが農村の人間だと言うのは不条理だ。彼らもこのセネトレアで生きるためには食料を生産し、生計を立てなければならない。どんな背景があろうと、害獣は害獣。それが大きさ、知能と力を付けたため普通の罠では始末できず、退治に出かけた村人が返り討ち。
国は金儲けにしか目がなく、平民がどうなろうと知ったことではない。裏町界隈は教会兵の管轄からも外れる。街から離れた山里に位置するこの村も、一応分類するならベストバウアー西裏町。
裏のもめ事は裏で処理する。そのためにあるのが請負組織。それで手を焼いた村人からその依頼を飛鳥が引き受けた。そういう形になる。
「本当は本気で戦ってやるのが餞なんだろうけどな、俺の趣味じゃないんだよ」
運が悪かったなと、死骸に語る。
面倒臭いのは嫌いだ。誰だって危険は少なく楽して金儲けの方が好き。余程の馬鹿かバトル馬鹿か戦闘狂でも無い限りそれが普通。飛鳥は自分がそういう意味では至極まともな人間だと理解している。命あってこその、金。
カーネフェル人の男が稀少とは言え、自分に変わる価値の人間は居る。それでも、その人間は飛鳥ではない。死は記憶の終わりだ。約束を途切れさせること。それは許されない。その前に、やらなければならないことがある。だから、これでいい。
森に背を向け、依頼人の待つ村まで戻る。退治を追えたことを伝えると、彼らは安堵の息を漏らした。これが本当に慈善活動なら気分が良かったんだろうが、こちらも生活がかかっている。タダ働きをする気はない。裏家業とはいえ、これも商売。依頼遂行の確認をしてもらうまで、先に報酬の話へと移った。
「とりあえず言われた奴は始末した。何かあったら、TORAの方へ連絡してくれ」
「はい、それでは報酬の方はTORAへと振り込めばいいんですね?」
「ああ、頼んだ」
TORAというのは請負組織の名前。飛鳥の組織ではない。西裏町を統べる大所帯の機関の名前だ。
分類は情報請負組織という風変わりなその組織。その名の通りTORAの扱う商品は情報という媒体だ。
個人や中小請負組織に仕事の斡旋もしてくれるし、金さえ払えばどんな情報でも教えてくれる。逆に情報を売ることも出来る。
その情報を守るための警備は怠らないその組織の建物が、西裏町で一番安全な場所かも知れない。
一体どんな技を使っているのか知らないが、そこの組織の頭が生み出したシステムはセネトレアの表も裏も世話になっている。
セネトレアで現金の持ち運びは危険。奪われる可能性がある。
だから多くの人間はその安全な場所へ金を預ける。そして依頼契約があれば、TORAが依頼人の通帳に情報として記載されている数値を、請負人のそれへと指定された金額を移動させるわけだ。現金でのやりとりより、お互い安全にスムーズに取引が出来る。
TORAは銀行を営んでいる情報屋。そんなところだろうか。それに世界で最も安全な、という形容詞がつくかもしれない。
しかしそんな便利なシステムを利用するには条件がある。
まずTORAという組織に加盟し傘下に入らなければならない。保護して貰うには仕方のないことだ。
登録は無料だが、名前、顔、年齢、人種、職種。そんな個人情報をTORAに預けることになる。これが条件の一つ。
そして二つめ。“奴隷貿易に荷担しないこと”。これが大きな条件だ。
セネトレアに置ける奴隷貿易とは二つの意味がある。
まず一つは純血奴隷の売買。
これは隔たった少子化が生んだ不幸。タロック人は年々女が生まれなくなり、カーネフェル人は年々男が生まれなくなった。これにより黒髪の女、金髪の男奴隷は高価。逆に黒髪の男、金髪の女奴隷は毛ほどの価値もない、ダース売りでやっと値段の付くの商品だ。
高価な人間は、貴族の家に養子に買われ跡継ぎだの嫁だのとして宛がわれるが、価値のない人間は違う。使い捨ての命。労働資源として酷使される。不眠不休、食事も一切与えない。そんな主人の下に送られる奴隷も大勢いる。
そんなことになった原因は、言うまでもなくこの国セネトレア。
初めにセネトレアの商人は武器を作った。船を造った。そしてそれを売って金を得た。
それを売ったことでタロックとカーネフェルの戦争は激化。そして流れてくる移民、亡命者。そこにやってきた少子化。人の価値が数値化した時代。
セネトレアはここで次なる商品に目を付けた。それが人間。
雪国タロックは食料不足に悩まされている。そこに金と食料を持って商人は現れる。そして高価な女児を売り渡させる。背に腹は代えられないということで、貧しい人々はそれに従う。
そして次はカーネフェルへ。セネトレアはタロック人の国家。タロック人の外見を利用し、奇襲を掛け、人を攫ってくる。
そしてそこにもう一つ新たな要因が加わる。狂王と名高いタロック王が敷いた“男子虐殺令”。女が生まれず男ばかりが生まれる現状を打開すべく作られた、輪廻信仰からの悪法。跡継ぎである長男以降生まれた男児をすべて処刑するというその法は、多くのタロック人を震え上がらせた。
役人の目を誤魔化し女として育てたり、金を渡して見逃して貰ったり、そんなことをする親もいたが、子供が成長すれば金が無くなれば誤魔化しは利かなくなる。
そしてやっぱりそこに現れるのは奴隷商人。我が子を殺めるくらいなら、とタダ同然で売り渡す。どこか遠い場所で生きて幸せになってくれると願って。
勿論世の中そんなに甘くない。奴隷が送られるのはセネトレア。物言う道具に生きる価値無し。使い潰されはい終わり。
そんな純血奴隷の現状を確認したところで、飛鳥はもう一つの奴隷貿易の存在を思い出す。
もう一つは混血奴隷の売買。TORAを治める頭は混血だと聞く。その頭が禁じているのはおそらく此方を差す言葉。
混血はさっきの獣同様、数値異常で生まれた新人類。黒髪のタロック人と金髪のカーネフェル人の間に生まれた突然変異の子供達。ディジットの所にいるアルムとエルムの姉弟がそれだ。
髪や目の色にその数値異常が現れるため、純血とは異なる色を持つ。おまけに美形が多いことで有名だ。例えば平均的な容姿の両親から美少女だの美少年が生まれるわけだ。
それを普通に可愛がろうと言う余裕があったのは道楽貴族達。普通の人間はそのあり得ない色と容姿に腰を抜かした。それで始まったのが混血迫害。
その美しく可憐な者を殺すのは忍びないと引き取る貴族が現れ……混血の価値は、上がった下がった。
貴族の間で混血ブームが起こり、それを愛玩動物のように愛で飼うのがこの世の中の上流階級の嗜みだ。
より美しい色、珍しい色。そして多くの混血。それを所有していることがある種のステータス。人形のように飾り立て、社交界の供に連れ歩かれる姿は、まるで装飾品。美しい瞳の色も相まって、混血は宝石と例えられることがある。
人が人を飼う。この時点で既に人としての一線を逸脱してしまっているが、その程度で人の欲が終わるはずもない。
普通に犬猫のように可愛がられ愛される混血は稀だ。愛玩動物ではなく、彼らは奴隷貿易での目玉商品。一匹売れば何億という金が手にすることが出来るとあって、混血狩りは二重に加速した。
まずは金目的に生きたまま捕らえる者。
そして、その異様な色の化け物に高価な価値が付けられたことが許せない人間達の恨み辛み。彼らは純血至上主義を掲げ、過激な混血虐殺を行った。
つまり……TORAの頭は、混血の自分から情報を得たいのなら、その保護を受けたいのなら、混血迫害に荷担するな。そう言っているのだ。
だからまず、奴隷商なんかと繋がりのある者がこの組織に入ることは許されない。その審査を通った者だけが、そのシステムを利用することが出来る。
その登録の際、請負組織として登録しておくと、それ専用のサポートを受けられる。TORAに寄せられた依頼の中から、その組織に向いた仕事を回してくれたり、とか。
そうでなくとも加盟していて損はない。TORAではなく自分の組織に直接やってきた依頼なんかの下準備に、情報収集の場として利用している者も多い。
しかし、危険人物と判断され登録出来ない人間は情報閲覧システムを使うことが出来ず、依頼の場合は直接窓口で交渉を行うこととなる。幸い飛鳥は審査が通ったので、こうしてそのシステムを利用できているわけだ。
ぼんやりと長閑な村を眺めていると、村人がちゃんと三匹とも死んでいることを確認し、もう一度礼を言う。
「ありがとうございました!しかし一体どうやったんです?」
「ああ、まぁ企業秘密と言いたいところだが、まぁ毒駆除だ」
「毒ですか!?」
自分たちが毒なら蒔いたが効かなかった驚く村人に、自分の毒はそんじょそこらの毒とは違うと飛鳥は口の端を歪ませ微笑する。
「ああ、これは俺の創作だからな」
「お兄ちゃん、剣士なのに剣使わないの?かっこわるー、毒なんてだっせー」
しかしそれをすぐさま聞きつけた子供に笑われた。
(おのれ芋ガキ。良い度胸じゃねぇか)
大人げなくも相手になってやろうと子供の方へと振り向いた。
この子供はまだ世の中と飛鳥と毒を舐めきっている。幼さ故の無知だろう。勝手に憧れ勝手に失望し始めた。
「請負組織ってもっと格好いいと思ったのにさ」
「おいおい毒を舐めるなよガキ」
「舐めないよ。美味しく無さそうだもん」
「そっちの舐めるじゃねぇから。毒の渋さがわからねぇとはお前人生の半分をそんしてるぜ」
小一時間ほど説教でもしてやろうかと思ったが、村人達が後ろでくすくす笑い出したのでどうでもよくなった。子供相手に本気になるのも馬鹿らしい。
とりあえずここは下手に長文をぐだぐだ語るのはよろしくない。それを言い訳と見なされ余計失望されるのがオチだ。子供には理論的な話は向かない。それならむしろ、適度に恰好付けた方が簡単に納得してくれるか。
「いいかガキ。強い剣士ってのは滅多な事じゃ剣を抜かねぇんだよ」
ふっと何かを内に秘めた物憂げな憂い顔でそう意味深に語れば、子供は途端にはしゃぎ出す。森で普通に剣を使ったことはこの際置いておく。勿論内に秘めたことなどないし、深い意味など無い、見え透いた嘘だ。
世の中そんなに甘くないし綺麗事ばかりではないが、それを信じている子供に現実叩き付ける必要はない。そんな面倒まで見ていられない。子守りを依頼されたわけではないし。
しかしその一言で何故か活気づいた村人達は見送りの際に剣士様コールを始めた。恥ずかしいが、好意が感じられるからそう悪い気はしない。金目的だったのに、これではまるでいいことをしたみたいだ。
空気を読んでどこかの立派な騎士のように、爽やかな笑顔で手を挙げ立ち去る。
多分顔見知りが見たら「ギャグ?」爆笑しているところだが、初対面の人間なんてこんなものだ。
「転職でもすっかな」
帰路に付きながら飛鳥はそう呟いた。
我ながらなかなか演技力がある。嘘を吐くのは得意だし、人を騙すのはもはや特技だ。
稀少な純血カーネフェル人の外見だ。父親譲りの瞳の緑はそこらの人間より深い色。森の日陰……その緑よりももっと濃いと思う。髪の色だって金髪とは言っても明る過ぎない。きちんとした恰好くらいすれば貴族の下に転がり込むことなど容易いだろう。この外見を利用してもしどこかの貴族のお抱えの劇団とかにでも就職できたなら。日給は幾らくらいなんだろうか。時給なんだろうか。歩合制なんだろうか。今より稼げるんだろうか。
そんな下らないことを考えている内に見慣れた景色が見えてきた。
その頃には
西裏町の目印、時計塔。それを見ると、帰ってきたと思う。ここは故郷でも何でもないけれど。
「アスカおかえり!」
宿の扉を開けるとアルムが出迎えてくれる。可愛らしい笑顔が此方を向くが、それ以上などない。買い出しに行ったエルムの帰宅時にするよう抱き付いたりとか、そんなサービスはない。親しき仲にも壁はあり。ただしあって欲しい容赦はない。
しかしそれでいい。彼女がぱたぱたと駆け寄ってくるときはろくなことがないから、今回は何もなかったのだろうとそれに安堵する。
ほっと息を吐いたときだった。アルムが思いきりずっこけた。床ふきをしていた彼女が放置していた雑巾バケツが招いた悲劇。
そしてアルムがぱたぱたと此方に寄ってきた。ろくでもないことが起きた証拠だ。
「アスカー……どうしよう」
「…………とりあえず、雑巾持ってこようぜ?」
頭の片隅で笑えばいいと思うよ。とかそんな現実逃避めいた声が聞こえたが、逃避しているわけにもいかない。帰宅早々床ふきを手伝わされることになるは思わなかったが、自身のリアルラックの底値に慣れて、こんな展開に今更嘆く弱さなど無い。
そうしてぞうきん掛けを始めた飛鳥は……視線を感じて顔を上げる。そこには嘲笑うように此方を見下す人の瞳があった。
「…………いい様だな」
そう吐き捨てほくそ笑むのは黒衣の男。髪も瞳も真っ黒なのに、その上服まで黒とかどういう趣味しているんだろう。気まぐれで掛けたり掛けなかったりする眼鏡は今日は掛けている。
言うまでもなく彼はタロック人。飛鳥が敵国のカーネフェル人だからというわけではないが、気に入らない相手であることは確かだ。
「どうしてこういう時ばかりてめぇは……」
普段は地下室に籠もりきりで出てくることはないこの宿のお荷物居候。洛叉という名のこの男は闇医者をやっている。腕は立つようだが、闇医者なので何かしら法を犯している犯罪者。
この宿は最高だ。飯は旨いし、ディジットもいるし、常連客も気の良い奴ばかり。しかし気に入らない点がひとつだけあるとするなら、それこそこの闇医者だ。絶望的に馬が合わない。それどころか互いに互いが大嫌いだ。深い理由は特にないが、気に入らないものは気に入らない。
「貴様は床を這い蹲っている姿がよく似合うな。おそらく前世は蛆虫か何かだったのではないか?」
「ゴラァ闇医者!お前の大好きなアルムのためだ。お前もぞうきんがけしろ」
思いきり雑巾を投げてやるが、避けられる。地下室の黴の分際で生意気な。
「断る。貴様のような下賤な人間ならばいざ知らず、この俺の指は繊細なんだ。命を扱うための商売道具故」
この闇医者と比べたらまだモヤシの方がしっかりした筋力があるだろうに。お前は地下室で何やってんだ。隠れて肉体改造なんかしてたら思いきり笑ってやる。腕立てとか腹筋とかをこの根暗男が薄暗い地下室で励んでいる姿を想像し、軽く吹き出す。
それを欠陥品を見るような憐れみの視線で返される。
「しかし貴様、……ぞうきん掛けと言ったか?まさか彼女にそんなことをさせたのか!?」
信じられないと言う風に目を見開いて。すぐにアルムに向き直る。
床が何だの言っていた男が床へと片膝を付き、幼い少女の手を取った。闇医者は彼女のその手に雑巾が捕まれていることを知り、すぐさま手を放させる。
「いかん。手が荒れている。これは由々しき事態だ。アルム、私が診てやろう」
「馬鹿なこと言ってないでいい加減今月の家賃払ってくださいよ洛叉さん」
完全に変質者のノリで地下室に幼女を連れ込もうとした闇医者に、どこからともなく現れた弟エルムがストップをかける。
これこそエルムの特技。足音を殺すことが得意なのと影の薄さという天性の才で時折人を驚かせる。それを理解している飛鳥も内心驚いた。
しかし闇医者はその来訪も知っていたようくるりと姉から弟へと向き直る。
「お早うエルム。君は今朝も美しい髪をしているな。庭師が真心込めて育てた薔薇とて君の色には敵うまい」
よくよく考えなくとも、普通に食事を届けに行ったりと地下室へ双子は遊びに行っている。しかし思わず止めずにはいられない危なさがこの闇医者にはあった。そして今度は弟の方を口説きにかかった。完全に変態です。ありがとうございました。
「洛叉さん、もう昼ですから」
これ以上寝言を言うのならいっそのこと永眠しやがればいいのに。そんな含みを込めてエルムが語るが、この腐れ闇医者はめげない。むしろ混血美少年に罵られて眼福。そんな空気すら漂わせていた。
さっきまでドS顔で人を見下していた男は何処へ消えたのか。
ディジットも何故こんな男を匿っているのか。あまつさえこの男の何処に人として惚れる要素があるのか。全く理解できない。自分が仮に女でも、絶対に彼には惚れない自身がある。確かに顔は悪くないかも知れないが、それ以上でも以下でもない。
良く言えば知的クールなインテリジェンス。悪く言うなら根暗陰湿変質者。おまけに性悪と来ている。最悪だ。はっきり言って最悪だ。
飛鳥はこの危険人物をどうしてくれようと、闇医者自身にも聞こえるようにエルムを注意する。
「止めとけエルム、こいつは変態だ。変態は相手にするだけ無駄だ。何やっても基本的に喜ぶ」
「ですけどアスカさん。無視してもそれはそれで喜ばれるんで困るんですよ」
「ああ、そう来たか」
対処の仕様がない。もういっそのこと城にでも聖十字にでも突き出せばいいんじゃないかこの犯罪者。何をやらかしたか知らないが、この闇医者は国際指名手配をされている重罪人だ。おそらく幼女監禁強姦致死罪とかそんなものだろう。絶対そうだ。そういう顔をしている。いや、もしかしたら相手は少年かもしれないが。なるほど、見事な変態だ。感心する。感心ついでにもう二度と視界に入らないでくれればいいのに。
「あ、そう言えばアスカさんは仕事帰りでしたよね。お疲れの所引き留めて……いや、姉が迷惑掛けてすみません」
「いや、まぁ気にすんな」
気配りの出来る弟は、飛鳥が闇医者の罪状を妄想している短時間でこの場のそもそもの状況を完全に把握したらしい。
彼の言葉に思わずいつものことだし、と付け加えそうになった自分を自制。しかしこの少年は聡い。おそらく飲み込んだ言葉を知っている。申し訳なさそうに頭を下げて飛鳥の手から雑巾を奪った。
「姉さん、洛叉さんと遊ぶのはこれが終わってから。わかった?」
「はーい、エルムちゃん!」
「……労働に勤しむ混血というのも絵として悪くない。素材が良いから何をしていても映える、いやだがしかし」
「お前本当に一回絞首刑でもなってこいよ頼むから。もしくはさっさと地下帰れ」
ブツブツと怪しげな言葉を紡いでいる闇医者に皮肉を吐いてから、飛鳥は食堂兼一階を後にする。エルムがお目付役にいれば大丈夫だろう。
アルムはぼーっとしているからどうにか出来ても、しっかりしているエルムは出来事を適確に言い表すことが出来る。
エルムは普通にディジットを慕っているから、彼女が悲しむような情報は伝えないだろうが、闇医者が何か問題を起こしたならすぐに彼女の通報するだろう。ディジットはあの双子を妹弟……いや、我が子のように可愛がっているから、そんなことが起きればすぐに百年の恋も冷めるはず。
(ま……大丈夫だろう)
気にくわない野郎だということは確かだが、奴もそこまで馬鹿じゃない。
奴がここに居座っているのはここの環境がいいからだ。
地下は倉庫以外闇医者が独占してるし、家賃だってきちんと払っているか正直怪しい。ここから追い出されたらいろいろ困るに違いない。だから追い出されるようなことはしないだろう。
それに彼からは何か、感じるのだ。自分と同じ感じ……とまではいかないが、似たような属性の人間だと思う。非常に不本意だが。
表情と言葉じゃない。目と声が合っていない。彼の言葉は本当でもあり嘘でもある。そんな風な不確かさ。それが自分とよく似ているのだ。
アルム達に興味があるのは本当だろう。だが、それがどういう興味なのかはいまいち判別尽きかねる。
どちらにしろなんか危ないのは確かだ。目がイっちまってる。だからここは丸く収めて幼児性愛ということにして罵っておくのが慣例。混血マニアという属性もそれに加えておこう。
混血好きは大抵変態だ。混血が生まれて今年で18年。飛鳥が生まれ1年前にこのセネトレアで生まれたのが混血の起源だったという話。発祥の地だから世界で一番混血狩りが激しいのもこの国ではある。
今は表だった狩りはそんなになくなったが、完全になくなったわけでもない。混血虐待の影に隠れてそれが見えにくくなっているだけだ。
混血を買うような人間は変態だ。最年長でもまだ18。十代とかそれにまだ満たないそんな子供に興味を示す奴は変態だ。
だからやっぱりあの男は変態だろう。そういう結論に飛鳥は達したが、今更だと思い直した。
よく考えなくともあの男は変態だ。以上、考察終了。
(無駄な考察で時間つかっちまった……)
朝早くから仕事。それに往復歩き。それなりに疲れた。
(二度寝でもするか)
布団の感触を思い出しながら、借りている自室のある三階まで、二段抜かしで階段を登る。廊下を進み部屋の扉まで辿り着く。
鍵を開けて開けばそこは勝手知ったる我が家。
「あー……怠い怠ぃっと」
頭を掻きながらずかずかと歩みを進め、腕を振りろす動作。
上着として愛用している着物の裾、そこに隠した短剣を投げ飛ばす。
誰もいないはずの空中。その刃物が見えない壁に阻まれたよう、弾き返され床へと落ちる。
「へぇ……僕に気付くとは、なかなかやるね」
聞こえたのは女の声。面白がるような響きを感じた。
しかし勝手に人の部屋に上がり込まれた自分としては、まったく面白くはない。
「そいつはどうも。で?城と教会どっちに突き出されたいんだ不法侵入者?」
ギロとその壁を睨み付ければ、その辺りの空気が光り出し、そこから一人の女が現れた。
女というよりそれは少女だ。少女と言ってもディジットよりは年下。アルムよりは年上。幼女以上少女未満というかそんな感じ。年にして13、14その辺りに見える外見だ。
「あはは☆どっちもお断り。大体そんなことしたら君も困るよね?」
長い金髪は、僅かに癖があり、右に左に刎ねている。しかし彼女はカーネフェル人ではない。瞳が青でも緑でもなく、金色だった。
飛鳥はその色に気付き、今の芸当の裏を取る。これは純血じゃない。混血だ。
「別に困んねぇけど?俺は」
金を払って借りている自分の部屋だというのに、安らげない。これはまた……危険な相手が入り込んだものだ。
少女の瞳は金色……というより、まるで宝石だ。黒目と呼ぶべき目の端は良く見るれば茶色。瞳孔のあるべき瞳中枢が一番明るい。そこが金色に輝いて見えるその様は、虎目石そっくりだ。
(こいつ……数術使いだ)
そんな危険な相手だというのに、その外見はなんとも拍子抜けする。
フード付きの赤いケープとスカートと……リボンとフリルを随所にあしらった可愛らしい服装だった。良く見ればフードには猫のような耳の形になっている。
外見だけなら可愛い女の子。地下室の闇医者を呼んでくれば喜びそうな……
そのまま地下室の男に煮るなり焼くなり好きに始末しろと預けに行こうかとも思ったが、正直それは難しい。難しいというかまず無理だ。
混血が狩られる対象になったのは、何も外見だけのせいではない。
混血には数術の才が先天的に高い。
この世の全ては数字。その数を視覚で捉え、働きかける力を持つ奇跡の使い手。
何も見えない才無き人間から見れば、まるで魔法。
けれどそこにはちゃんとした法則があって、彼らがやっているのは数学だ。計算によってその魔法めいた現象を引き起こしている。
けれど飛鳥には数術の才など……ほとんど無い。
数術使い達のように世界を数値としては見えない。見えないがわけあってというか運が良かったというか、そんなわけでちょっと使える。その程度だ。
その自分が使えるのは止血とか。その程度の回復数式。
しかしこの少女は違う。密室へと入り込み、姿を消して……そんな計算式、飛鳥は知らない。知ったところで使えない。それが解る。
純血が使える数術なんて、たかが知れてる。無理をすれば脳味噌が沸騰して脳死か廃人か。
それが純血と混血の違い。
純血に出来ないことをいとも簡単にやってのける。その異質さへの恐れ。それが迫害の根本にある。
自分は純血至上主義でもないはず。それでも飛鳥は今知った。
殺さなければ、殺される。こんな恐ろしい存在と、同じ空間に生きることなど出来ない。
飛鳥の反応を見た少女は、面白がるようにこりと笑った。
その笑い方は飛鳥や闇医者と同じ。笑ってるけど、笑っていない。
その気になれば今すぐに、お前なんか殺せるんだ。でもそうしない。でもそうしようか?どうしようかな。そんな風に笑う彼女。その掌で弄ばれているような薄気味悪さ。
「まぁ、そんなことはさて置きさ。ねぇ、飛鳥君。僕は君に頼みたいことがあるんだよ」
教えてもいない名前を知る少女。その名を呼ぶことで、彼女は自分を支配するよう、言葉を紡ぐ。
今この瞬間、飛鳥はこの少女に支配されていた。断れない。断れない。断れない。
笑顔のはずのその少女。しかしその内の唯ならぬ迫力に飲まれ、飛鳥は息を呑む。
その時だった。脳内に谺した声。女の声。
(……そうだ)
自分に命令していいのも。支配していいのも。それはこの世界に一人だけ。
それ以外の言葉に屈することは許されない。
我を取り戻した飛鳥の口は……いつも通りに不敵に笑い、はったりの虚勢の言葉を紡ぐ。
「お願いします、だろ?年上動かすには礼儀ってのが必要だぜ、世間知らずの嬢ちゃん」
少女は丸く瞳を見開いた後、口をつり上げ三日月型に笑わせる。
「……へぇ、やるつもり?僕が数術使いだって気付いてないわけでもないだろうに」
「てめぇ俺をストーキングしてただろ?視線が煩わしいったらなかったぜ」
「うわ。バレてた?帰宅途中の君のあの独り言のあの下りは吹き出しそうになってやばかったよ。“俺だって別に顔は悪くねぇんだしすぐに花形役者になってそう遠くに行ってようやく俺の大事さに気付いたディジットが”の辺りとか」
「すいませんでしたお嬢様。俺が悪かったんでその辺で勘弁してください」
視線なんか気付いてなかったが言ってみただけ。
正解どころか聞かれたくないことまで聞かれていたようだ。失策所の話じゃない。
すぐさま謝罪を告げればお気に召したのか、少女がけたけた笑う。
「あははははは。凄いや飛鳥君、全然心込もってない」
「込める気ねぇしな、当然だろ」
「あははははは」
心底おかしいと言った風に笑っていた少女はそこでぴたとそれを止め、真顔に戻る。
「安心してよ。今君をどうこうするつもりならとっくにそうしてる。僕がどうしてここでわざわざ君を待っていたと思う?」
「そうか夜這いとは俺も罪な男だ。俺の寝込みを襲う気だったか」
「あははははははははははははははは!!……いや、それはないよ。飛鳥君確かに悪くないんだけどなんか僕のタイプじゃないし」
「泣くほど笑うな!冗談に決まってんだろ!」
皮肉のつもりがなんでか唯の自虐ネタに格下げされてしまった。この女、恐るべし。
真顔に戻った途端泣くほど笑うとは、本当にくるくる表情の変わる。どこまで本気なのかがわからないのは相変わらずだが……悲しいことに今の笑い泣きだけは本気に見えた。それだけに、こっちは凄く凹む。……が、いつまでも自虐ネタを引き摺る趣味はないので、さっさと開き直ることにした。
「んで?わざわざ張ってたってことは俺に用があったんだろ?姿隠してたのは腕試しってところか?」
「正ー解!読みのいい人は嫌いじゃないよ」
「で?」
「うん、良いと思うよ。だから僕は君に依頼をしたいんだ」
今日は疲れた。心身共に。
それならそうと早く言えと言い返す気力もない。
「へいへい。そんで依頼人さん、まずは名前を」
脱力気味に、飛鳥が少女の名前を尋ねる。何時までも不法侵入者呼びは面倒臭いし、仕事を受ける受けないにしても、その内容を聞く必要があり、その際に支障が出そうだ。
「僕はトーラ」
少女が語る。その名は脳より先に耳が動いた。それくらい良く聞く、聞き慣れた単語だったのだ。
「情報請負組織TORAの頭。今後も是非ともご贔屓に……アスカ君?」