代用品の少女はその街で彼と出会い自らの願いを見つける事ができるか⑦
それは何時の事だったろう。
凄く寒い日だった。お母さんはお仕事で遅くなるらしい。先に眠っている様に言われていたけれど、私は出入口に面した、庭が見える二階の自室の窓からその帰りを待っている。
ちらちらと降る雪は白く、とても綺麗だけど、積もってしまうと心配だ。お母さんが転んで怪我をしてしまうかもしれないから。
勿論、お母さんが帰って来てくれた後ならいくらでも積もってくれていい。二人で暖かい部屋から一面に積もる銀色の庭を眺めるのは好きだし、体調が良ければ一緒に雪遊びが出来る。
それに、沢山雪が降れば、積もった雪を理由に暫くお母さんが外出を控えて家にいてくれるかもしれない。
まだかな。まだ帰ってこないかな。
今日の日記は書き終えて、もうやる事が無くなってしまった。吐く息で、白く曇る窓。指でなぞるとその端に雫が流れ、真っ直ぐな線を引く。
意味の無い手遊びで時間を過ごして、お手伝いさんが帰り際に用意してくれたお茶はすっかり冷えてしまって。うとうとと眠りそうになっていると、遠く車のライトが近づいてくるのが見えた。
眠気は一瞬でどこかに行ってしまう。大急ぎで自室から飛び出し階段を駆け下りて、少し息が苦しい。それでも私はお母さんを迎える為に走る。
「あら、アリス。ごめんなさい、起こしちゃったかしら?」
外套の雪を払いながら、私を見て笑顔になるお母さん。
溶けた雪で濡れた髪に気が付いて、私は急いでタオルを取りに行く。それを手渡すと、何故だかお母さんは髪を拭かずに私を抱きしめてくれた。
少し冷たくてびっくりしたけれど、私は少しも嫌じゃない。
お母さんの髪は何時も花の様ないい匂いがする。優しく背中を撫でてくれる手は、とても安心できる。
それにほら、もうこんなに暖かい。ちっとも寒く無いよ。
それは確かに、何時か在った光景。それを、私は確かに記録している。
遠く俯瞰するように。偽物の私には、今となっては余りにも現実的でない記録。
けれど。ねえ、アリス。私にも在ったんだよ?
その記録に負けないくらい。とても暖かな記憶が。確かに、在ったんだよ。
事務所へと帰る車内は行とは違い助手席にアリスの姿があったが、俺も彼女も自分から言葉を発する事は無く、街に近づく事でやっと聞こえてきた、ラジオから流れる安っぽい音楽が小さく響いている。
事態が大きく動いた今、早急にアリスから聞くべき事は多い。しかしデリケートな問題だ。何よりあんな事が有って、傷ついて涙を流し、疲れからか小さな寝息を立てて助手席で眠っている彼女を今はそっとしておいてやりたい。
よし、現在判明した事実を基に俺の考えをまとめてみよう。アリスはあの女の事を家族と、しかしその目前ではマスターと呼び、しかし別れ際には母さんと呼んでいた。
対してあの女はアリスを七号と、そして失敗作と呼ぶ。
昨夜から含め此処まで情報が出揃えば流石に幾らか察しが付く。クソ女の専門分野、その至った禁忌。そしてその上で為そうとしている何かが、購入した死体の山とそれを材料とする心臓の容をした錬成炉を回答とする。
これらが示すものと、アリスが止めようとし、ソフィアが成そうとしている何か。そしてこの事件の行き着く先。その輪郭が、ぼやけながらも少しずつ見えてきた。
「すまなかった、取り乱してしまって」
アリスの声で思考が途切れる。
横目で見ると、浅い眠りから覚めた彼女の涙は止まり、僅かでも休息を取れたお陰かその顔色も幾分か良い。声にも何時もの冷静さが戻り、どうにか話くらいは出来そうだが。
「馬鹿、まだ寝てろって。君のその生真面目さは美徳だと思うが、無理して説明しようとしなくていい。俺の事は気にしなくていいから」
俺は出来るだけ、努めて明るい調子でそうアリスに勧める。せめて今だけは、状況がどうあったとしても、今くらいは彼女を休ませておきたい。
「心配は無用だ。私も、ベオに聞いてほしいんだ」
そういって此方を見るアリスの真っ直ぐな眼差しと俺の視線が重なる。
傷ついてなお、その心は折れてはいない。俺が思う以上に彼女は強い。その瞳には強い決意が宿っている。
言葉はもう震えてはいない。
今だって、本音を言えば俺はアリスに無理をさせたくはないと思っている。けれど彼女がそう望むのなら。俺はその意志を尊重するべきだろう。
「よっし、じゃあ聞こうか。今日は散々振り回されたんだ。ちょっとやそっとじゃ驚かないぜ」
ラジオの音量を絞り、環境を整える。
「ああ、聞いてくれ。私とマスターのこれまでを」
アリスはゆっくりと静かに、しかしよく通る声で、此処に至るまでの彼女の物語を語りだした。
その物語は普通の家庭の、普通の母娘から始まった。
母の名はソフィア、娘の名はアリス。不幸な事に父親を早くに事故で亡くし、二人きりの家族はそれでもその時点までは互いに幸せだった、そうだ。
「だった、そうだ、ってのは?」
「ああ、すまない。確かに記録としての記憶は在るのだが、自分で経験した訳では無いので、何処か他人事の様な言い方になってしまうな。話を戻すがその出来事は、世間で言えば珍しくは無い話だった。遺伝子に起因する、それも常人であれば症状が現れることすら無い、メイガスにのみ致死に至る難病。本当に僅かな確率で発症するそれが、アリスの身に起こってしまった。全ての発端はそこに在る」
良くある話。それを人は悲劇というが、実際にその立場に置かれる者達にその評し方は酷だ。人間は何時も自分の身に起こらない出来事を簡単な言葉で例えてしまう。
「それが普通のケースと少し違っていたのは、母親は才能ある優秀なメイガスで、特に医療分野に特化した錬金術師であったという事だ」
母親はその心血を注いで娘の治療法を探した。あらゆる物質、様々な術式を検討し、神秘と科学の両側面で出来得る限りの全てを行った。
しかし、これもまた、良くある話ではあるのだが、努力は何時も、結果として結実するわけでは無い。
時間は過ぎゆくばかりで、娘の容体は症状の進行を遅延させる事は出来ても、病魔は確実に娘のその躰を、まるで紙にインクが黒く滲むように蝕んでゆく。
それでも、母親は諦めなかった。医療の分野だけでは娘を救えない。錬金術でも限界がある。ならば、他の神秘にその答えを求めたのは当然の帰結とも言えるだろう。
「彼女はあらゆる手段を用いてメイガスの協会の上層部に取り入り、その地位を求めた。そうする事で広く知見を求め、そこに救いがあるのだと、そう信じたんだ」
金も、物も、その身でさえも使って母親は成り上がり、気が付けば当代一の錬金術の大家として周囲に認知される程の高きに至る。
しかし母親は見落としていたのだ。其処に至るまでの過程に、どれ程の者を蹴落とし、不幸にし、顧みなかったか。そしてその中に、必ず救うのだと誓った娘自身が含まれていた事を。
結局娘を救う術は、何処にも無かった。
そして母が見落としていた、忙しさに段々と一緒に過ごす時間も減ってしまい、それを気遣った娘が言葉に出来ないまま最期に願っていた望みは、その死の後に見つかる事になる。
遺品整理の折見つかった、それは何時かの折に珍しく物をねだった娘へと贈った、かつては自分の物であった使い込まれた小さな手帳。
日々を記録したその日記の最後には、こう記されていた。
かみさま。どうか、おねがいします。また、おかあさんといっしょにすごせますように。もし、このまましんでしまうのなら、さいごはおかあさんといっしょにいられますように。
我が身に降りかかる運命に対する呪いの言葉すら、其処には無かった。娘の為に、娘を顧みなかった母に対する非難も、恨む言葉も無く。
其処に残された最期の願いは。母がそれに気が付きさえすれば、容易に叶えられる、けれど叶えられることの無かった、そんな願いだったのだ。
その命だけでなく、その心も救えなかった。その言葉に、一人の母親は壊れた。
「そしてマスターは手を伸ばした。完全な死者の蘇生という禁忌に」
正確に言えば一度死亡し、完全に生命活動を停止した肉体が再び蘇る事は無い。
構成する肉体の損壊は不可逆であり、それにより失われる魂と呼ばれる観測不可能な、しかしその個人を定義するために絶対不可欠の要素を呼び戻す事は不可能と定義されている。
その不可能を引っくり返すために、彼女はアプローチを変える事にした。
器が完璧に死者と同一であれば、其処に宿る魂も同じであるという結論。それが死者の肉体の完全な再現。即ち科学、魔術の双方を利用した人間の完璧な複製技術である。
「・・・成程な。そいつは確かに禁忌に抵触する技術だ。もしそんな事が可能なら完全に適合する身体の代替。科学だけでは実現不可能なメイガスの複製。魔術、科学のどちらを用いても看破出来ない人間の入れ換え。そして疑似的な不死すら実現できる」
「ああ、そしてその技術はある意味で完成した。亡くなった娘の疾患の原因となる遺伝子以外は科学的にも魔術的にも完全に同一の存在の試験体。その七番目が私という訳だ」
「それでも、あの女は君を失敗作と言った」
「ああ、そうだ。完全に同一の肉体の再現、完璧な記憶の転写。それらを行っても、私は結局、マスターの望んだアリスでは無かったのさ」
初めは、これで娘が戻ってきたのだと母は喜んだ。今度こそ、必ず幸せにするのだと。
けれど、時間の流れと娘の成長と共に、その齟齬は明確になる。
例えば仕草。笑った時の顔や、歩く歩幅。此方へ手を振る様子にペンの持ち方まで。僅かな差異に、澱の様に違和感は積もる。
あの子はそんな顔で笑わない。そんな顔で怒らない。そんな顔で泣かない。
どうして同じではない。どうして同じでない。どうして同じ事が出来ない・・・!
「それでも、私は幸せだった。どんなに罵倒されても、どんなに殴られても、要らないと捨てられたとしても」
無意識にハンドルを握る手に力が篭る。その理由はソフィアに対する怒りではなく、アリスに起こった悲劇を知った悲しみでも無く。
その始まりはきっと純粋で、なのに何故、いやだからこそこうなってしまったのだと理解してしまった自分に対する無力感からだ。
「私にとってのマスターは、あの人にとってのアリスの様に、誰にも代えられない母親だったから」
そうか。君は、それでもあの女を、母親と呼ぶんだね。
「・・・だって、覚えているんだ。優しかった母さんを。その声を、抱きしめてくれた暖かさを。覚えている、覚えているんだ」
堪らず一度車を路肩に停めた。そうしなければ、シートベルトを外せない。隣に女性が乗っているのなら、交通ルールは守らないとな。
「アリスの記録では無い。本物でない、アリスと同じことが出来なかった偽物の、作り物の体でも。一緒に過ごした時間が確かに在った。その想い出は本物だ。私の記憶は本物なんだ。私のこの想いは本物なんだ!あの人にとって私は偽物の失敗作だとしても、私にとって・・・、あの人は!たった一人の、母さんなんだ・・・!」
「ああ、分かってる。分かってるぜ」
これでようやく彼女を抱きしめてやれる。引き寄せた小さな躰を包むように腕を回し、涙を拭う為に胸に抱く。
「ベオ、ベオ!望まれていないだなんて事は分かっている!それでも私は、あの人を止めたい。あの人を助けたい。このままでは、あの人は、あの人自身を壊してしまう・・・!」
これでやっと、彼女の本心を。この依頼の本当の目的を俺は知ることが出来た。
なら、やるべき事はもう分かっている。
「約束するよ、アリス。俺はもう一度、必ず君の母親の元に君を連れていく」
俺では役不足だなんて分かっている。けれど今は。今だけは、この小さな少女の想いに応えたい。そう在りたいと願う、自分で在りたい。
「その時は遠慮しないで、言いたいことを言って親子喧嘩でもすると良いさ」
それは彼女への誓いでもあると同時に自分への誓いでもある。
どんな結末になったとしても、俺はこの身の全てで、この願いを叶えてみせる。
また一つ、約束は交わされた。俺は、絶対にそれを違わない。
事務所に帰り着くと所長と、何故か鷹野とワタリが俺達を待ち構えていた。
此方に気が付くと皆慌てた様子で駆け寄り、その勢いに何か切迫した空気を感じる。
「おいおいどうした、皆揃って」
「どうしたじゃないぞベオ、何度連絡したと思っている!こっちはヤバい事になっているっていうのに」
珍しく狼狽した様子のワタリにそう言われて今までやけに静かだったポケットの端末の存在を思い出し手を伸ばす。コートの内ポケットから引き出すとそいつはくの字に曲がってしまっていて、どうやら防空壕でのいざこざで壊れてしまっていたらしい。
「ベオ君、状況を整理しよう。ソフィアさんとは接触出来たのかい?」
「ああ、だが逃げられた。大人しく捕まってくれるタマじゃ無さそうだ」
「そうか。ベオ君、落ち着いて聞いて欲しい。数時間前に、アリスちゃんに賞金が
懸けられた。メイガスの協会からね。条件は生け捕り、金額は100万ポンド。その理由は、もう分かっているね」
「・・・くっそ、やる事が速いじゃねぇか」
アリスがどういった存在であるか分かった今であればその高額な賞金にも納得できる。
彼女はいわばソフィアの造り出した禁忌に至る成果物。考えたくは無いが、その手の知識に乏しい自分ですら幾らでも有効活用する術が思い付いてしまう。それだけの価値を見出した協会のお偉いさん方にはもっと、さぞかし素敵な計画が有るんだろうな。
全く感心するぜ。目の前にそいつがいたら、迷わずハグしてやりたいね。そのまま鯖折り決めてベッドの親友にしにしてやろう。
「そしてもう一つ、残念ながら考え得る限りで最悪な報告が有ります。ラタトスクが検知したのですが、今夜一人のメイガスがこのニヴルヘイムに侵入した事が分かりました」
言いながら鷹野が示す端末に映る人物。そこには映像越しでも分かる深い隈の刻まれた鋭い目の、高級スーツに身を包んだ男の姿があった。
「彼は現フィアナ騎士団団長、オルター・フィン・フォルグ。フィアナ騎士団とはその業界では有名な、純粋に戦闘に特化したメイガスの集団。そして彼はその長であり、バルドルでも特別要注意人物に指定されている、協会でも指折りの殺し屋です」
つい数時間前に対峙したソフィアはあれでも研究職のメイガスである。操るグロテスクな人形はともかく、彼女個人の戦闘力は一般人と同等かそれ以下だ。
それに対し、完全に戦闘に特化したメイガス、それも上位の者となるとその戦力は文字通り一騎当千と言っていい。
単身空を舞い、銃弾を跳ね返す。なんて単純な身体強化は当たり前で、最も恐ろしいのは各分野に特化した、超常の現象を再現する魔術にある。
その振るう権能とも呼べる能力は、それこそ神話や物語に語られる半神、英雄に等しい。
「そいつが今、馬鹿みたいな大金ばらまいて兵隊集めてやがる!お前さんの探し人と、そっちのアリスちゃんを探すためにな。お前とその子が一緒に居るところは、俺はともかく烏の巣で他の奴に見られているんだ。此処に目星を付けられるのも時間の問題だぞ!」
急な展開で頭がくらくらしてくる。それは現実逃避などという単純なものでは無く、現状を理解しているが故に起こる怒りが起因する反応だ。
ああ、そうかい。どいつもこいつも。
「・・・寄ってたかって一人の子供相手に、どいつもこいつも自分勝手に!」
そう、俺は。この状況に怒りを感じている。
アリスには、非なんて呼べるものは何もない。その出自も、これまでの経緯も。その躰に勝手に見出された価値も。何もかも誰かに押し付けられ、そして奪われようとしているモノだ。
「アリスがそれを望んだのか?選んだのか!?」
今こんな事を言っても意味は無い。けれど言わずにはいられなかった。
時間としては数秒、天を仰いで思考する。ならどうする?俺に何が出来る?この状況を打開する最適解は何だ?ぶん廻れ俺の頭脳。
それで結論は出た。俺の出来る最大限。
それは地雷原のただ中、派手なクリスマスツリーを背負って全力疾走する行為に等しい。
だが、そこを走るのが他の誰かじゃなく。
俺自身なら、まあ、いいか。
今夜はまだ終わりそうにない。それでも、やると決めたのだから。
「ワタリ、情報をばらまいてくれ。犬頭の探偵が、目標の女の子を攫って逃げ回ってるってな」
「正気か!?街中から狙われるぞ!」
「そうさせるのさ。キャスに追跡ビーコン付けとくからそいつの発信コードも添えて、出来るだけ高値で馬鹿どもに売りつけてやりな。あ、あがりは後で折半な。鷹野チャン、前に押し付けられたアドレスは捨てちまったから、すまないが君のルートでベルと繋いでほしい。どうせこの状況も把握して覗き見してるんだ。俺が話したいって言えば向こうも分かるさ」
俺の提案に眉を顰め、彼女らしくなく露骨に不快感を隠そうともしない鷹野。その理由は俺が交渉を持ちかけようとしている相手の性根の曲がり具合と子供じみた悪辣さを理解しているからだ。
「言いたいことは分かります。けれど、分かっているんですか。あの人は、絶対に遊びますよ?」
「だよなぁ。まあ、夜明けまで持たせたらアイツも満足するだろ。所長、ハティの新しいバレルと弾薬、あとスコルの拡張ブレードと替刃、あるだけキャスパーに積んでくぜ。でさ、悪いんだけど」
「アリスちゃんの事は任せて。もう、結局無茶しちゃうんだからベオ君は」
所長はあくまでもいつも通り。これでもそれなりの付き合いだ。俺自身勝算があってこの馬鹿げた賭けに出ようとしている事も分かっているんだろう。
「頼りにしてるぜ所長。よっし、ひと暴れすっかなぁ」
伸びをするとバキバキと背骨が鳴る。こっちは長時間ドライブの後だ。それがこれからオールナイトでパーティだって?コリをほぐす良い運動になるだろうぜ。
「待て、待ってくれベオ、こんな状況になってしまった以上お前に迷惑は掛けたくない!私が此の身を差し出せば・・・!」
「おおっと、そいつは無しだ。その選択肢は、初めから無い」
言いたいことは分かる。しかしその提案は却下だ。そいつだけは許容できない。今から俺が、どんな目に遭うか、そんな些末事よりも。
「心配するなよアリス、俺はね。約束は、必ず守る」
そう心配そうな顔をするなよ。なあ、もう泣かないでくれ。また抱きしめたくなるじゃないか。
だから、その代わりと言っては何だが、一つ。ちょっと恥ずかしいが俺の秘密を聞いてくれ。
「俺ってやつは、何かと偉そうにカッコつけているけれど、実はたいした奴じゃない。この俺だって、たった一年分の記憶しかない、その上で仮に作られた、いわば子供みたいなものさ。その点で言えば、君の方がずっと大人だな」
初めは苦労したものさ。真っ白な記憶、過去の無い自分。踏む地面さえあやふやで、夜眠る前にこの俺は、明日も同じ俺なのかと気が気じゃ無かった。そんな今日が明日に続いているかさえ不確かな自己。
だけど、だからこそ。
「だからこそ、俺は何時も自分に問いかけている。今の俺はかつての俺に恥じる事無く生きていられているか。俺の信じるモノは間違っていないかって。そいつがようやくしっかりしてきたのは、割と最近の事なんだ」
ああ、そうだろ?この問いも、ずっと自分自身へと向けてきたモノだから。
その自分を創るモノ。容造るモノの正体は。
「そいつがこの街で出来た俺の記憶だ。出会ってきた人みんなが、その記憶が俺の容を造って来たんだ。もちろん君も、今では俺の大切な一部だ。だから、だからさ」
そうさ。きっとこの選択も、間違ってはいない。たとえこの後、路地裏で野垂れ死ぬ事になったとしても、後悔だけは、絶対にない。
「俺に、君を護らせてくれ。君との約束を、守らせてくれ」
これもまた、俺の一部になる大切な記憶だ。それを奪おうとする奴を、俺は決して許しはしない。
その答えでやっと、アリスは涙混じりではあったが笑顔を見せてくれた。
「ああ、分かった。分かったよ、ベオ。だから、どうかお前も」
「安心しな、俺は死なない。待っていてくれるかい?朝はまた、紅茶を入れるから」
打つ手は打った。伝えるべきは伝えた。これから必要なのは車と武器と弾薬と、少しの運だけだ。
後にバルドル警備局において、悪夢の夜と呼ばれる事件が発生した時刻は午前零時を丁度過ぎた頃であった。
一斉に始まった交通規制はセカンド居住区を境に蟻一匹通さない程に厳重で、治安維持の名目で装甲車とバリケードが展開し、警備局本部は普段はユグドラシル周囲の重要拠点防衛用、自立型二脚戦車を含む兵器群を惜しみなく展開し、各捜査官も対軍想定特務兵装を装備。その用意の周到さから当時より警備局、ひいてはバルドル自体がこの騒動の情報を事前に察知しており、一般人の保護を目的に幾らかの裏取引があった事を示唆している。
また規制外の区域において街頭テレビやラジオ、SNS等に、問題となった事件の元凶、いや逃亡犯、または被害者と思われる人物の詳細な外見や運転する車両などの情報を含むライブ中継の映像。果ては何時対象が行動不能になるかなどの賭けのオッズまでが掲示され、何故か事件後はその全てが公式には一切抹消されてしまった為、一連を記録した動画などは後日高額で取引される事になる。
ともかくそういった事情からこの事件自体がセカンドに潜伏する犯罪者や不穏分子の検挙、掃討を目的とした出来レースであり、当局の陰謀論を検討する余地は大いにあると後にメディア関係者や一部の警備局職員が語ったという。
只それが議論されるのはまだ先の事であり、今現在、その渦中にあるベオにとっては意味の無い話だ。
「あああああ!ベルの野郎、悪乗りしやがってェ!」
かつては大戦時の名機であり、受け継いだのは地獄の猫の名を持つモンスターマシン。
それを所長がめちゃくちゃに改造した結果。キャスパリーグとベオが名付けた更なる怪物が夜を駆ける。
安全運転時とは異なり運転手の事なんて考え無しに加速する車体。シートに半ば体をめり込ませ、慣性を無視して無理矢理にハンドルを切る。間を置かず先程までなぞっていた軌跡を通過する鉛玉の雨あられ。雹の代わりに手榴弾が飛んでくるのはご愛敬だ。
「待ちやがれ犬頭ァ!ここで会ったが百年目、大人しく俺の遊ぶ金になりなぁ!」
「叔父貴の仇だベオ!刻んで野良犬の餌にしてやる。共食いになっちまうのは勘弁なァ!」
「借金返済借金返済借金返済私のバラ色の未来ィィィィィィィィ!」
「祭りだ祭りだァ!暴れられれば理由はどうでもいいぜェ!」
「・・・・・・死ね」
各々が言いたいことを言いながら、目的だけを一つに殺到する賞金稼ぎの傭兵とヤクザと多重債務者と馬鹿と意味不明。
後を追う車列は30台を超え、刻一刻と更に数は増えるばかり。幾つものぎらつく肉食獣の目の様な車のライトが誘導ビーコンを発信し続けるキャスパーの背後を捉える。現時点での陽動は成功しているようだ。
「好き勝手言いやがって、手前らがくたばりやがれ!」
後輪を滑らせながら左折のついでにお返しの鉛玉を打ち込む。狙い通りの弾道で前輪をパンクさせた先頭車両が続く何台かを派手に巻き込みスクラップになるが、そのスクラップを乗り越えて追跡する車の数が更に増え続ける。
これでいい。追手は俺に釘付けだ。せいぜいありもしない人参目指してレミングしやがれってんだ。
「遅れんなよクソッタレ共が!子供を金にしようって馬鹿は死ななきゃ治らねぇからなァ!」
ゴールは夜明けだ。時間にして残り五時間。遥かに遠く、それでも俺は必ず辿り着く。
そう、約束したからな。




