戦乙女はその傍らに青い鳥の実在を信じる事ができるか②
「しまった。ニヴルヘイムとの連絡手段について、あまり深く考えていなかったな」
そんな単純な事に思い至らなかったのは、やはり初めてのバカンスで浮かれていたからだろうか。
基本的な知識として、この九界はそれぞれの階層を隔ててしまうとリアルタイムの通信を行う事は出来ない。それは階層として区切られた都市の間には、いわゆる異なる世界の層なるものが存在し、唯一それを越えて九界を貫く越界柱ユグドラシルを介してでしか基本的には人も物の移動も、通信の回線すら使用できない。
これらの事により、それぞれの階層は一般的にその階層にのみ繋がるネットワークを構築して利用している。
つまりそれ以外、他階層と通信する為にはユグドラシルの内部に開通し、一日で全階層を行き来する定期便に搭載されたストレージを介する電子メールや伝言メッセージ、後はユグドラシルを直接経由するバルドルでも数少ない者にしか使用を許されない特殊回線くらいしか方法が存在しないのだ。
そんな事を何時か所長から教えられたなと思い出し、通信エリア外という表示の端末を目の当たりにして途方に暮れる。
とりあえず無事に目的地に到着したと、それからアリスには土産は何が良いかと尋ねようとしてこれだ。慌てて電子メールを送信するが、ストレージを乗せている定期便はそのまま上の階層へと向かったところで、それがニヴルヘイムへと到着し、更にアドレスごとに振り分けられて送信、それから相手の端末が受信するのが明日になるだろうと、たった今端末の通知で知る事になった。急に連絡が取れなくなると思うと、アリスには所長が付いているとはいえ、流石に少し心配だ。
「その辺りは心配ありません。元々アリスちゃんの身辺警護には会長の特命でバルドルの人員が秘密裏に付いていますし、そこから定期的に安否を確認する事になっていて、何かあれば私の専用端末に連絡が入る事になっています。ただ、この端末は社外秘の特殊なモノになりますので、すみませんがベオさんにお貸しする事が出来ないのですが」
その考えを察してか、到着早々に彼女には気を使わせてしまった。これはいけないな。
「いや、こいつは完全に俺が悪いよ。まあ所長は状況を分かってるだろうし、アリスにも良い様に説明してくれると思うさ」
という訳で今はニザヴェリルに到着後、迎えとして手配されていた俺にはちょっと豪華すぎるリムジンに乗り込み、目的の施設へと向かっている所だ。
ふと目を外へと向ければ、まだそれ程ユグドラシルからは離れていない筈なのに広がる緑の展望。成程、階層を越えるという事はこういう事か。この光景は、都市以外には荒野が広がるニヴルヘイムとは全く異なる。
定期便内での鷹野の説明によると、ニザヴェリルはこの様に手つかずの自然と地殻変動による山々が連なる自然豊かな階層であるのだという。
彼方に見える山脈などはかつての日本最高峰である富士山よりも標高が高い。環境としてはスイスのアルプス地方に近いのだとか。
「その環境もあって、大異変直後からこの階層には殆ど住民が暮らしていません。現在でも総数は千人程度、その殆どはバルドルかその関係者であると言われています」
確認されている階層の広さはニヴルヘイムの二倍という事だから、そういった事情から限られた地域以外は人の手が全く入っていないのだという。故に初期はその環境を利用した特殊な研究室や工場が稼働していたというが。
「それも第八階層ムスペルヘイムに、より豊富な地下資源と利用可能な土地が確認され、更には無人工業地帯が稼働してからはその機能は殆どをそちらへと移転し、現在は階層特有の豊かな自然を利用したリゾート開発が進められる事になりました。今回向かう施設はその第一号となる場所になります」
「なるほど。で、その施設の、というよりニザヴェリルのバルドルを統括しているのが、鷹野チャンのお姉さんの」
「ええ、鷹野トウコ。血のつながりは無いのですが、間違いなく私が姉と慕う女性です」
本来であれば彼女が出迎えにターミナルまで訪れる事になっていたのだが、何か不測の事が有ったという事でそれは叶わなかった。だから直接、その彼女とは施設で初めて会う事になっている。
「直接会うのは一年ぶりになりますか。何分忙しい人ですから」
その名の口にする度に滲む匂い。それは疑いようも無く、純粋な喜びであった。
鷹野から語られる人柄も褒める言葉しか見当たらない。察すると彼女の身内という眼鏡越しだとしても十分に優秀で、人格者であるのだろう。
「俺も会うのが楽しみだよ。まあ、俺の頭の事で驚かせなければ良いんだけれど」
ああ、くそ。余計な事を言った。少しばかり鷹野の顔が曇る。
いや、俺自身はまったく気にしていないのだが、ニザヴェリルに到着するまでの道中。ユグドラシルのターミナルや定期便内で、ちょっとしたトラブルがあった。
その折に、俺が浮かれていたせいで彼女に迷惑をかけてしまった訳なのだが。まあ、それはどうでもいい。既に終わった事だ。
「姉さんはベオさんの頭の事を知っていますよ。ベオさんはバルドルの、特に警備局では有名人ですから」
「たはは、鷹野チャンには何時も迷惑かけてるからな。面目ない」
会話の方向転換の為にまた気を使わせてしまって申し訳なく思う。せっかく自分ではとても利用することが出来ないような高級リゾートに誘ってもらったというのに、俺もまだまだ気が利かないようだ。
「ええと、何だっけ。今回の目的地の名前は」
「それは、ああ。見えてきましたよ」
鷹野の指し示す前方を見れば、森を拓く様に続く真新しい道路の先、湖畔に白鳥が羽を広げるが如く広がる白い、中央に伸びる主塔に思えるビルは白亜の城の威容。そして特に目を引くのは施設のシンボルか何かだろうか。壁面に輝く、紅い盾に槍の紋章。
「ホテル・シンドリ。宿泊施設は勿論、カジノ、レジャー、ショッピング等、人をもてなすに思いつく限りの全てを詰め込んだという、会長も設計に関与した自慢のリゾートだと聞いています」
「はは、ベルの設計はともかく、なんだ。すごく、わくわくするな!」
これは本当に本心だ。鷹野は今回の目的は視察だと言っていたが、明らかにニヴルヘイムしか知らない俺を不憫に思って誘ってくれたのだろう。その好意を嬉しく思ったから、この三日間は心から楽しむつもりで随行する事を決めた。
そう、楽しむつもりだった、のだが。
まあ、うん。何となく、そうはいかないんじゃないかという嫌な予想があった。
だって鷹野はまだ気が付いていないようだったが、あのホテルの端に見覚えのある黒い翼の影が覗いていたし、それが鷹野の姉が出迎えに訪れなかった理由の一端である事も察しが付いてしまって。
それからこれは本当に始末が悪い事だけど、悪い事ほど当たってしまう、俺の勘というやつが告げていた。
多分、何かトラブルが起こると。
という訳で、そのバカンスは始まったのだ。それが俺達の人生をほんの少し、そして彼らの人生を大きく変えてしまう事になる訳なのだが。それもまだ始まったばかりで、何の事情も知らない俺には、確実に爆発する爆弾の導火線が静かに点火したという予感だけがあった。
「おや?おやおやおや?ベオじゃないか。こんな所で君に出会うだなんて偶然だねぇ」
何時かは出くわすんじゃないかと思っていたが、到着して直ぐにその顔を拝む羽目になるなどとは流石に思っていなかった。隣で鷹野の顔が引きつっているのを直接見なくても分かる。
その男、実際に九界を支配する大企業。バルドルの長、ベル・バルドルは待ち構えていた様に、いや実際に待ち構えており、到着してリムジンから降りたばかりの俺達二人を何時ものように大袈裟な様子で出迎えた。
「言いたいことは幾つか有るが、取り敢えず俺の知る限りアンタと此処で出くわす予定はなかった訳なんだ。どういうつもりだ?バルドルの会長ってのは思ったより暇なのかよ」
「みんなが優秀だから楽させてもらっているよ。まあ、それでも自分でやらなきゃならない仕事があって、これもそのうちの一つさ。ニザヴェリルの開発は僕が主導する計画の一つだからねぇ。何も知らないスタッフには気の毒だけれど、オープン前に抜き打ちの視察ってやつさ」
まあそういった理屈なのは分かった。本心がどうであるかは別になるが。
実際、この男が自分で言うよりも多忙の身であるという事は分かっている。今回こうして目の前に現れたのも、流石に元々の予定のついでに、その道すがら見知った顔がいたので少しからかってやろうかといった程度のものだ。俺はともかく、周囲の者達にとっては迷惑以外の何物でも無いが。
「会長自ら手広くやってんだな。まあ俺には関係ないさ」
「そう寂しい事を言うなよベオ。しかし水臭いね。わざわざ鷹野君に頼まなくてもこれくらいのバカンスの招待なんて幾らでもしてあげるし、何より君や月夜見くんが望むなら何時だって君たちをバルドルのそれなりのポストに迎え入れる用意が有るんだよ?」
軽く言うが、ベルにはアリスの件で借りがある。そしてその行為に対しての代償である未だに白紙の、俺のサインのみが署名された白紙の契約書をこいつは握っているわけなのだから、必要でない限りこれ以上に借りを作りたくは無い。
「馬鹿言うんじゃない。誰が好き好んでアンタの首輪付きになるかよ」
「会長、申し訳ありませんがお時間です」
側に控えた数人の内の秘書か何かに声を掛けられたベルは、もうそんな時間かい、などと大袈裟に肩を竦めてみせた。
「慌ただしくて済まないが、これから幾つか見て回る場所が有るんだ」
「そうかよ。ならこれでおさらばだな」
ようやくこの意図が分からない、ベルの言う所の偶然が終わりそうでせいせいする。
明らかに気落ちしている鷹野の心中を慮れば冷やかしでしかないベルの無神経な思惑はうっとおしいし、だからその背後から俺を対象とした、お前のせいで発生したこの状況をどうするつもりだと言った様子のベルが引き連れているスタッフから向けられる、憎悪すら篭った視線には心から同意しよう。
「うん、そのつもりだったんだけれど」
げ、嫌な予感が。
少し考えて、ベルは本当にたった今思いついた様子で、何でもない様に告げた。
「気が変わった。今夜は僕も此方に宿泊する事にしよう。近々まとめて休みを取るつもりだったし、丁度いい」
「はぁ?」
うん、良い考えだね。だなんてこいつは手を叩いて、俺を含めて硬直した周囲の反応などお構いなしといった様子でいやがる。
「君、査察後に入っていた僕の予定は全てキャンセルする。フレスベルグと同行スタッフは先に本社へ帰投するように。迎えは、そうだな。明後日でいいよ。それから明日の本社定例会と連盟代表との面会は一任すると、三上君に伝えておいてくれ」
耳に届いた情報を分析するに、成程。つまりこの野郎は今、その高すぎる社会的身分に見合った重責を思い付きでぶん投げたという訳だ。勤め人の悲哀とはいえ、投げられた先でそいつを受け止めざるを得なかった誰かには同情するしかない。
「という訳さ。夕食に君と鷹野君を招待させてもらうから、その時に改めてゆっくり話す事にしよう。それまで二人でその辺を散策してみてはどうだい?では、後でね~」
気の毒なほどに青ざめて慌てふためき後を追う秘書や護衛を尻目に楽しそうに去っていくベル。
あの野郎、唐突に現れて、此方の予定や了解など確認もせずに言いたい事だけ言って去っていきやがったぞ。
「さいあく、さいあくです。どうして、こんなことに」
状況に耐えきれずがっくりと膝を付いて崩れ落ちた、痛々しい様子の鷹野にどう言葉を掛ければいいのだろうか。正直、未熟な俺には分からない。
すると、去っていったベル達の代わりに、ホテル施設から慌ただしく此方へと駆けてくる人影が見えた。
「あの老害がぁ!会長は何処に行った、今日という今日は顔面が原型を留めぬほどにぶん殴ってやる!」
殺意すら込められた怒声でまた理解する。ああ、そう言う事なのだ。彼女もまた、現在進行形で理不尽にベルに振り回されている被害者である。
本来であれば彼女は、姉としての余裕と威厳を以って。純粋な善意で招待した二人を出迎え、もてなして、その滞在期間が素晴らしいモノになるようにと算段を付けていたのだ。
それが早朝よりVIPの予定外の来訪の連絡を受け、迎え入れる為の準備に走り回った挙句に、その気まぐれのせいで最大限の労力を必要とする最高権力者に継続して対応する差配をしなければならない羽目になってしまった。
「そもそも三上が何でもかんでも甘やかすからこういう事になるのだ!会長の暴挙を御せれなくて何の為の社長職だ、取締役会なのだ!どいつもこいつも役立たずどもめ!」
うん、美人が怒ると恐ろしいだなんて事は以前に鷹野に怒られた時身に染みて理解していたが、自分以外に向けられたモノだと分かっていても、正直こわい。多分何時もの彼女からは遥かに逸脱しているであろう狂奔ぶりに、正直俺は面食らっている。
「姉さん」
そして鷹野の、迷い歩いた先で、ようやく母親を見つけた子供の様な頼りなげな声で我に返る彼女は、その存在に応える為に一瞬で本来備えている理知的な落ち着きを取り戻した様だ。
「・・・ようこそ、久しぶりですが元気そうで何よりですアヤナ。そして貴方が、ベオさんですね」
しかしその静かで穏やかな表情に似合わない、額に怒りが原因の怒張した血管を薄く浮かべたままで。
「初めまして、私は鷹野トウコと申します。妹が何時もお世話になっている様で、想定外のトラブルはありましたが安心してください。最高の思い出になるように、二人を歓迎しますよ」
彼女はその素晴らしい忍耐と努力で消耗した精神のまま、頼れる姉としての体面を維持する事に成功し、どうにか引きつった笑顔でその場を取り繕う事が出来たようだった。
正直に述べると、私は当初から相当に浮かれ切っていた。
姉からの発破で、何時もの自分らしくない行動を衝動的に取り。半ば無理のあるこじ付けで彼を誘い、まさか、あんなに簡単に了承を得る事が出来ただなんて。
思えば、その後の展望に心躍らせていたあの時が、私が一番はしゃいでいた時間だったのかもしれない。
いや、確かに、奇跡の様に全てが思い通りにいくわけが無いとは思っていたのだ。
ただしそれは、ふと訪れたレストランで出されたランチがいまいちだったとか。後は、事前に聞かされていた眺めの良い湖畔を二人で散歩している途中に、急な通り雨に二人して濡れてしまうとか。
そんな風に、後で振り返った時に、あの旅は素晴らしいものだったけれど、あれは少しついていなかったね。だなんて二人して笑いあえる程度の。他の全てを引き立てる為のスパイスくらいになるような、何でもないトラブルが一つか二つ、あっても仕方ないと。
だというのに、その始まりから。悪い方向に思いもよらぬ事は続いてしまう。
ユグドラシルのターミナルで起こった事は、余り思い出したくは無い。
全ては事前に話を通していなかった自分の責任だ。彼の申し訳なさそうに頭を掻く仕草を見て、私は口当たりの良い言葉しか言えなかった。
ニザヴェリルへと向かう定期便の中で起こった事は、今思い返しても胃の底が重くなる気分だ。
単純に、高い金を払って、ファーストクラスを取れば彼が喜んでくれるという事自体が間違いだった。
針のむしろの様な視線と、それから自分が少しばかり席を外したせいで、彼の耳に届いてしまった言葉に、私が馬鹿みたいに怒って、その誰かに同じくらいの、いやそれよりももっと酷い言葉を投げつけてやろうとして。そんな私の手を引いて、大丈夫だからと微笑む彼の顔を見る事が辛かった。
私のせいで、本来であればその必要も無かった目に遭って。嫌な思いをして。
だというのに、その自分の失態に落ち込んでいる私に気を使う様にはしゃいで見せる彼に。せめて、その失態を帳消しに出来なくても。
後で振り返った時に、初めは散々だったけれど、ニザヴェリルに着いてからは本当にいい思い出になったと。そう思ってもらいたくて。
そんな儚い思いは、あの金色の悪魔のせいで、脆くも崩れ去ってしまった。
姉さんを責める事は出来ない。会長は恐らく、ベオさんの行動を逐一把握し、何か機会が有れば接触する事を狙っていた。その意図は不明だが、私と違い、それが純粋な好意や善意である筈は無い。
ベオさんは明らかに、何か意図をもって度々接触してくる会長を警戒している。只でさえ前回の事件で借りを作ったと、それでどんな難題を吹っ掛けられるか分かったものでは無いというのに、そんな相手に出くわして、気分が良い訳は無いのだ。
しかもあの悪魔は、あろうことか私達の滞在期間に合わせて同じホテルに滞在するなどと宣言した。姉さんは怒って抗議してくれると言っていたが、このホテルどころかこの九界に存在するほとんどのモノは会長の所有物といっても良く、責任者といえど所詮雇われの身。主の命を拒む事など出来ない。
そんなわけで。私は何もかもに打ちのめされて、力なく膝から崩れ落ちる形でその三日間は始まった。
けれど、きっと。その三日間を何時か振り返った時に、私は同じ事を想う。
同じ言葉を述べる。同じ表情を浮かべて、同じ光景で胸がいっぱいになって。
ああ、あの旅は。本当に、素晴らしいものであったねと。私はどれだけ時が過ぎても、その死の間際であっても。そう微笑むことが出来ると断言できる。
「話には聞いていたけど、本当に良い眺めだな。俺、湖を実際に見るのは初めてかもしれないよ」
まだ昼食には早い時間という事も有り、部屋の準備と昼食をとる予定のレストランが開く前に、鷹野と二人して散歩に出かける事にした。
「ええ、本当に。この規模は未調査領域である九階層を除き、最大のモノであると聞いています。水質も汚染されておらず、生態系構築の為に放流された後、半ば野生化している鱒などは名物の一つであるそうですよ」
鷹野の説明する言葉は落ち着いていて、何時もの調子を取り戻したようである。
俺はそのガイドを素直に聞きながら景色を純粋に楽しんでいるという訳だ。
成程、普段はニヴルヘイムのやたらと威圧的なファーストのビルも、何処もかしこもつぎはぎだらけの間に合わせなセカンドスラム街も、荒涼とした荒野が続くばかりのサードも。どれとも違う展望は、自分がテレビや雑誌の映像でしか知らなかった、本物の自然の美しさというやつなのだろう。
抜けるような空の青に届きそうな険峻。麓ならともかく山々の山頂は万年雪で白く染まっている。
「そういえば雪を見るのも初めてだ。ニヴルヘイムは去年暖冬で、冬の時期も雨ばかりだったからな」
「そうでしたね。まあ、去年の冬といえば、その」
しまった。その話題は今すべきでなかったかもしれない。
俺にとってはいい思い出なのだが、鷹野にとっては少し、思う所が有るらしく、これについては余り話題にしたがらないのだ。
「それにしてもさ。鷹野チャンのお姉さん、ニザヴェリルの実質的な責任者なんだって?そんな忙しい人にあれこれ世話してもらって申し訳ないな」
あれから落ち着きを取り戻した鷹野の姉、トウコさんに簡易的な施設や階層の説明を受けた時の事を思い出す。ベルのせいでこれから忙しくなるというのに色々と配慮してもらっているのは正直申し訳ない。俺としては別に、こうして近所を散歩しながらだらだらと三日間を過ごしてもいいわけなのだが、彼女の言うところでは明日以降、職務の合間に色々と周囲の案内をしてくれるのだとか。
「あの、ベオさん」
「ん?」
不意に、鷹野が俺の横顔を見つめているのに気が付いた。
それで匂いに気が付く。これは、彼女が求めていたこと。それはきっと、俺が思うより前からそう望んでいた事だったのかもしれない。
「その、えっと。私も、姉さんも鷹野なんです。ですから、その」
もっと、違った形で言い出せれば良かったのに。だけど色々あって先延ばしにしてしまって、他の誰かにはそうしているくせに、自分には何故そうしてくれないのかという、本当に控えめな非難を込めた、臆病な匂い。
「ですから、その。ほら、姉さんと同行する時だとか、齟齬があってはいけませんし、だから、このニザヴェリルに滞在している間だけでも良いんです。ですから、その」
だというのに、結局嫌われたくなくて。悪く思われる事が怖くて、何より否定の言葉を聞きたくは無かったから。だから、こんな言い方しか出来なくて。
そんな言葉を言わせてしまった自分が恥ずかしい。正直に言えば、初めての出会いのいざこざで一度否定されて、その後に単にそう切り替えるタイミングを逸していただけの話ではある。
だから、彼女がそう望んでくれるのなら、俺の答えは一つしか無いんだよ。
「アヤナ」
「は、はい!」
簡単な事だ。時には、そう呼ぶ事も有ったのだから、それを普通の、当たり前にすればよいというだけの話。
「もし許してくれるなら、これからはずっと、君をそう呼ばせてほしいと思うんだけど、いいかな?」
ああ、こんな顔を見せてくれるのなら、臆病にならずに、もっと早く提案しておけばよかった。
「・・・はい、はい!私はずっと、そう望んでいたのですから!」
その答えに。ニヴルヘイムを出てからはずっと緊張していたり、落ち込んでいたりしたその顔に、その咲くような笑顔に俺も思わず照れた表情をこの毛深い顔に浮かべて。
「お取込み中の所悪いんだけどさぁ」
初めて耳にする声に振り返る。
何時からか其処に存在ていた、そいつらから発せられた言葉には。
「そこの犬男、ちょっと人質になってくれないかい?」
温厚な俺でも流石に怒るぞ馬鹿野郎。




