代用品の少女はその街で彼と出会い自らの願いを見つける事ができるか⑭
此処に辿り着く為の全力疾走で息は上がり切っている。
如何に冥神の兜とはいえ、物理的な干渉は防げない。かすりでもすれば容赦なく体を抉る石の礫を躱し、戦いで深く抉れた地形に足を取られ、細かな負傷こそあっても、無事にこの場に五体満足で立っているという事実自体、何かの加護を感じる程の奇跡である。
それも、この巨人の前に立てば全てが前座。今、これからが自分の正念場であり、何か一つでも間違えれば此処が死地になるかもしれないのだ。
ずっと感じていた視線はもう疑いようは無い。この巨人は、私を待っていた。
それが分かっていても恐ろしい。恐ろしくて仕方がない。
この巨人が纏う空気はあの場所に似ている。物言わぬ姉妹たちの内側の匂い。崩れ、腐り朽ちゆく匂い。
ただ渇き、餓えて死にゆくのだと、諦めに沈んでいた、私の地獄。それを容赦なく思い出させる。
怖い。こわくて、こわくてしかたない。
逃げ出す事は簡単だ。生存を優先し、全てを投げ出して逃げる事を、非難する者は此処には居ない。
けれど、私は此処に来た。此処に今、自分の意志で、立っている。
それは。
「どうしたアリス、心配するなよ。俺が側に居る」
肩を支える大きな手の感覚。暖かい、自分を支えてくれる手だ。
「オルターも、所長も、それから多分、君のお母さんも。皆、君を支えている」
「ああ、ありがとう。分かっているよ、ベオ」
優しい声に、何故だか私は、ベオと初めて出会った時の事を思い出していた。
その出会いは我ながら最悪なモノだった。私はこれまでの旅路での疲労と、これからの不安に押しつぶされそうで、彼に随分と失礼な態度を取ってしまった。
それでも彼は自分を受け入れて、あの紅茶を出してくれたんだ。
口に含んで、一口目で分かった。湯の温度が高すぎて、葉を蒸らす時間も長すぎる。カフェでこれを出されたら、きっと残りを飲まずに帰ってしまうだろう。
だけど、似た味を覚えている。誰かのために、自分の出来る精一杯で出された紅茶の味が、何故こんな所で。そんな事に随分驚いて、なんだか妙な顔になっていたかもしれない。
だから、彼に興味が湧いた。まだよく知らない彼の手腕に疑いもあって、後を追いかけたりして、あっけなく見つかって。妙なポリシーを聞かされて、妙なやつだとしか思えない。
実際の所、彼らは想定以上に優秀だった。たった一日でマスターの居場所どころかおおよその目的の推察、それどころか今自分が置かれている状況まで知られてしまった。
このままではまずい。この依頼の本当の目的を知られてしまえば、良くて依頼の撤回、最悪協会への通報なんてされてしまえば追手を差し向けられてしまう。
焦りは無理な密航を決意させ、実行して。
私は本当に、馬鹿な子供でした。独りで何でも出来るつもりで、そんな強がりを彼は、ベオは笑って許してくれて、私をマスターの所へ連れていくと約束してくれた。
その対面は、思っていた通り。マスターは私の事なんて何とも思ってはいなくって、立っている地面の底が抜けるような感覚に、このまま此処で死ぬのだと、そう思っていた。
だけどベオは、私の為に怒ってくれた。自分の危険なんて顧みず、助けてくれた。
だからその帰り道、初めて自分の願いを他人に話した。ベオは黙って聞いてくれて、最後には私を抱きしめて、もう一度、マスターと会わせてくれると約束してくれた。
それがどんなに、どんなに嬉しかったか。
おじ様が追手としてニヴルヘイムへやって来て、ベオは私の為にまた、死ぬような思いをした。
生きて帰るだけじゃなく、おじ様も助けてくれた。後からマナに聞きだしたが、その為に色々と無理をした事を、ベオは秘密にしている様だが私は知っている。
そしてその上で、また私の我儘に応えてくれて。安全な所で待つという約束は破ってしまったけれど、こうして初めて彼の窮地に間に合うことが出来たから。
だから、もう大丈夫だ。もう少しも、怖くは無いよ。
「だから、母さん。貴女にも伝えたい。私は、もう独りでは無いのだと」
ベオの言った通り。私も、もう私だけで出来ているのではない。
その重さが嬉しいんだ。それが作りもので、代用品の私が、それでも生きていたいと願う答えだから。
静かに、その手袋を纏う掌を巨人へと向ける。その中心に備えた紅い宝石が私の想いを伝えてくれる。
「瞳を開け、バロール」
それはとある神話にて、太陽神がその祖父を打ち倒した伝説に起因する遺物である。
魔眼という権能のルーツとも言えるそれは、その伝説の際に砕かれ、幾つかの破片に別れた。
これはその一かけら。込められた力は数多から分かたれた内の一つ。
「止まって、お母さん」
その権能は停止。その瞳と目が合ったモノは全てがその動きを停止する。
実際、その権能を回避する方法は巨人にとって容易いはずであった。
その権能を行使するために必要な行為は、対象がバロールを目視する事に在る。
他の者であればいざ知らず、巨人は対象を目視する必要が無い。故にベオとオルターとの戦いの中で、巨人はただ反射的に戦うだけの怪物であった。
しかし、今は。
それをどう言葉にすればいいのだろう。例えば、娘に呼ばれた母親が、当たり前にそちらへ振り向いて応えるように。
巨人はその瞳でバロールを捉え、受け入れるように完全に停止した。
「おおおおおおおおおぉ!」
オルターが咆哮と共に妖精殺しで巨人を袈裟斬りに斬りつける。
蒼く輝く槍の穂先から迸る、凝縮した破壊の圧力。それを極薄の白刃へと転じさせ、言うなればそれは、厚さ数百分の一㎜に吹き抜ける極小の嵐。
僅かに傷つけるのみであった風の刃は、その一閃に沿って巨人の堅牢な皮膚を裂き、皮下の白い筋肉を半ば斬り開いて骨近くまで露出させた。
「ベオ、身の内であれば貴公の剣が通る!一撃を加えてくれ!」
「応よォ!」
オルターの声と殆ど同時にグラムの炸薬を炸裂させ、妖精殺しの一閃に沿って叩き込む。
手に伝わる鉄の様に堅く重く、それでも肉裂き骨砕く感覚。そして切っ先に届いたのはそのどれとも異なる硬質な感触。
拓き届く巨人の中心。人間であれば心臓に位置する、其処に脈打つのは紅い岩塊。
「オルター、アリスを頼む!」
炸薬を再装填しながら言うと同時に跳躍し、真っ直ぐに其処へと飛び込んだ。
踏み入れる胸の肉は早くも塞がりつつある。このまま俺も、ついでに取り込んで腹の足しにしようってか。
「だがな、今なら俺の方が速い!」
思いきりグラムを未だ鼓動する岩塊に突き立てる。刃は半ばまで刺さり、しかし形はまだ残る。
その理由。まだ砕けず、最期を迎えてなお抗う理由。
「・・・ああ、そうだよなぁ。その想いは当然だ。そいつを否定できる奴は、この世界の何処にも居やしない」
グラムを伝い砕き響く音は只の現象ではない。欠片から立ち上る魔素に込められた言葉持つ匂い。それは犠牲になった多くの誰かの残響であり、まだ死にたくは無いと、こんな姿でも生きているのだという叫びだ。
それを踏みつける権利は誰にも無いはずだ。なのに何故、何故殺そうとする?奪おうとする!
ただ生きたいと、生きていたいという願い。足場にする肉は両足に纏わりつき、敵対者を取り込もうと閉じつつある。だから俺は、答えが無ければ許さぬと、叫ぶ幾千の問いに答えなければならない。
そしてその答えは、初めから決まっている。
「俺自身が、そうすると決めた。君たちを犠牲にすると、それが俺の選ぶ事のできる最善だと、そう信じた」
だから、許さなくていい。恨んでくれていい。
「その選択を抱えて、俺は生きていく!」
グラムのシリンダーに備わる全てのカートリッジを一斉に点火、爆発でその身を砕き自壊しながら、グラムの刀身が完全に心臓たる岩塊を砕き、巨人の命を奪った。
連動して巨人の躰、その全てが活動を停止し、脱力と共に崩壊が始まる。
その刹那に、声が聞こえた気がした。
そうか。なら、仕方がないね。
燐光が大気に解け、その失っていくモノを想う。
もしかすると、何かの掛け違えで、その誰かと別の場所で出会い、争ったり、笑いあったり、共に生きる未来が有ったのかもしれない。
けれど、そうはならなかった。それが、この選択の全てだ。だから。
「何時か、何処かで。今度は違う形で出会えるように」
去り行く誰かに、その背中に手を振る様に。
俺は少しの間だけ眼を閉じて、その行く先が優しいものである事を願った。
沈む夕日が遠く空の端に滲み、偽物の星が宵に輝き始めた頃。最期の再会と別れが在った。
解けていく巨人の肉体の最後に残った頭部が崩れ、内側からソフィアの残骸が現われ、僅かではあるが言葉を交わす事が出来た事は、何もかも手遅ればかりだったこの事件の、数少ない救いだったと思う。
「・・・あら、オルター、随分と久しぶりね。なんだか最近はずっと、忙しくて、ごめんなさい。私、貴方に色々迷惑かけてしまった気がするの」
「いいや、私、いや僕の方こそ、長い間連絡もせずに悪かったよ。君は何度も招待してくれていたのに、結局御自宅に伺う事も出来なかったね」
「あら、お仕事が忙しいなら仕方ないわ。けれど、ええと。ああ、貴方に紹介したかった人が、誰かいた気がするの。うふふ、変ね。なんだかぼんやりしてて、とても大切な事なのに」
下半身は既に崩れて形が無い。白く枯れて砕けた石の様になった其処からの出血が無い為にこれ程の状態でも会話が出来ているのだろうが、少しずつその末端は崩壊していく。
時間は、あまり残されていない。
その最期の時に、それでもアリスは遠巻きに見ている事しか出来ないでいた。
きっと拒絶される事が怖くて、もし、その否定が最期の会話になってしまえば、永遠に分かり合えなかったという事実だけが残ってしまうと分かっていたから。
「アリス」
だから、俺はその背中を押す。
「ベオ、わたし、どうしたら」
涙の理由は分かってる。なら、ならさ。例え傷つく事になっても、きっと後悔しない方が良い。
「君は分かっているはずだ。あの時、お母さんは君の声に応えた。なら、今度は君が言葉を伝えないと」
どんな結果になったとしても、俺は君を笑ったりしないよ。
アリスはそれで決意したように微笑んで、遠慮がちに俺の手を握った。
「ああ、なら。一緒に来てくれるか?母さんに、ベオを紹介したい」
「そいつは光栄だな。さあお嬢さん、最後までエスコートさせてもらうぜ」
その手を引いて、ソフィアの所へ。
此方の様子に気付いて、オルターはもう十分だよとその場を離れる。
それで、ようやく俺は約束を果たすことが出来た。
「マスター、御気分は如何ですか?」
「ああ、其処に居たのね。ふふ、なぁに、その話し方。何かの真似なの、アリス」
優しい声の響きにアリスは一瞬驚いて、急ぎ母の側でその手を取る。
「・・・うん。どうだった?変わった事を言って、驚かせたくて」
「ふふ、お母さんびっくりした。けれど、そんな他人みたいな話し方は寂しいわ。何時もみたいに、お母さんって呼んでくれるかしら」
溢れる涙の意味は喜びで、それを止める理由は無い。誤魔化す様にソフィアの胸に顔を埋め、随分と久しぶりにそう求められて、彼女は彼女をそう呼んだ。
「・・・母さん」
「ええ」
「母さん、母さん・・・。お母さん!」
堰を切ったように溢れる言葉に、俺は何だかこの数日の全てが報われるような気がしていた。見守る二人は、もうどこにでもいるような普通の母娘にしか見えない。その事実が何よりも嬉しい。
「あらあら、どうしたのアリス。何か悪い夢でも見たの?それとも、嫌な事でもあったのかしら」
「ううん、何も、何も嫌な事なんてない。お母さんがこうして側に居てくれるのに、何も」
「あらあら、嬉しいわ。なら今夜は眠るまで一緒にお話をしましょうか。今日は特別に夜更かしをしましょう。何時だったか、へたっぴな紅茶を淹れた事が有ったでしょう?お母さん、あれから練習して上手に淹れられるようになったんだから。お菓子も沢山用意して、沢山、楽しい事を、お話しましょうか」
「うん、うん!」
その時間が、出来るだけ続くように俺はまた祈った。そして出来るだけ静かに、邪魔をしない様にその場を離れようとして。
「ああ、犬のお兄さん。貴方、お名前を聞いていなかったわ」
静かに問われる。参ったな、野暮をするつもりは無かったんだが。
「おっと、こいつは失礼したマダム。俺はベオ。お宅の娘さんの友達さ」
「あらあら、こんな素敵なお友達が居たなんて、お母さん知らなかった」
「うん、母さん。彼はとても良い人で、私が我儘を言って、沢山迷惑をかけてしまったけど、ちっとも嫌な顔をしない。本当に優しい人なんだ」
アリスの言葉が少しくすぐったい。対して俺は所々血で固まってくたびれた毛並みに、ズタボロのコートが恥ずかしく、あまり見苦しくなければいいんだが。
「ふふ、随分と懐いてしまったみたいで。ベオさん、私の娘が随分お世話になったのね」
「いいや、むしろこっちが助けられたくらいだ。アリスはいい娘だよ、お母さん」
「そうなのね、とっても嬉しいわ。あら、もしかしてアリス、ベオさんが好きになったんじゃないの?」
「母さん!そんな事を言っては、ベオが困るよ」
「いいや、こんなに素敵なお嬢さんに想われて嫌な奴が居ると思うかい?我が身に余る光栄だね」
「ベオも!そんな事を言って」
「あら、なら、ベオさん」
「ああ、何だい?」
「アリスを、娘をお願いします。私はもう、この子を助けてあげられないから」
真っ直ぐな瞳は、何故かあの防空壕で初めて出会った時のそれと似ていた。
「・・・そうか、貴女は」
きっと、彼女は何処かの段階で自分の行いに、生み出そうとしているモノの正体に気が付いていたのだと思う。その上でその後始末の為に、その身を犠牲にする選択をした。
その証拠に、十全な状態の巨人と対峙していれば今頃どうなっていたか。
戦っていたのは俺達だけじゃない。彼女もまた、一言だって言い訳もせずに、精一杯にアリスの為に死力を尽くしていたのだ。
「お願いします。この子はずっと、私の妄執でその人生を暗く閉ざされて生きてきた。それがようやく、自由に人生を選べる。これからは、一人の人間として生きていく事が出来るの」
「母さん、私は!」
「ベオさん、お願い。お願いします。狂った馬鹿な女の、最後の願いを、聞いてくれませんか?」
この想いの何処が狂っているというのだろう。彼女の人生はきっと、何処までも娘の為に生きた母の純粋な想いで彩られている。その方向を間違ってしまっただけなのだ。
だからせめて、その終わりが少しでも報われるモノであるように。
「勿論さ、ソフィア。アリスは、君の娘は必ず俺が護る。一人の人間として生きていけるように、側で支えてみせる。必ずだ」
そう、そうさ。それは彼女の為というだけでなく、俺自身の願いでもあるのだから。
「安心してくれ。俺はね、約束を破った事が、無いんだぜ」
「・・・ああ、よかった。ありがとう、ベオさん。優しい、犬のお兄さん」
俺の応えに満足したように微笑んで、ソフィアは最後の仕事に取り掛かる。
「これで、やり残した事は、あと一つだけだわ。アリス、私と、貴女のお姉ちゃんからの贈り物を、受け取って」
ソフィアはひび割れた指で、ゆっくりと懐から小さな手帳を取り出しアリスに手渡した。
手帳越しにソフィアの手を取るアリスに光が灯る。その内側に在った魔素が母から娘に伝わり、何かが受け継がれたのだと分かった。
「これが、私が唯一貴女に残せるモノ。私が受け継いだオーガスタの秘奥の全て。この知識と術で、貴女がそうしてもらった様に、貴女もベオさんを助けてあげるのよ。今時の女の子は、旦那様と支えあうモノなんだから」
「分かったよ。母さん、私、何も辛い事なんて無かった!一緒に居られてずっと、ずっと幸せだったよ!」
「ああ、本当?うれしい、わ」
「母さん!」
それからの会話は、多分特別なモノでは無かっただろう。当たり前で、普通の。母娘の会話。
それでもきっと、その全てを俺は忘れない。
「アリス、何時か、貴女が母親になった時、私みたいになっては駄目よ。よくその子を見てあげて、他の何かと間違えては、貴女も、その子も。何もかもを不幸にしてしまうから」
「うん、うん!」
「それから、夜更かしは、ひかえ、て。ねむるまえには、ちゃん、と、はを、みがいて」
「うん、分かった、わかったから!」
「ああ、よかった、ほんと、う、に」
「かあさん、おかあさん」
「あり、す。わたしの、かわいい、もうひとりの、ありす。どうか、しあわせ、に」
「ああ、ああああああ・・・!」
果たして俺は、本当に彼女の心を、僅かでも救ってやることが出来ただろうか。
届かない場所へ手を伸ばし、失ったモノを取り戻そうとして、それでも結局叶わなかった。
けれど、其処に初めから在ったモノを、その最期に取り戻すことが出来た。そんな彼女が少しでも安らかに逝く事が出来るように、俺が出来る精一杯の答えを、選ぶことが出来たのだろうか。それは今でも分からない。
「・・・ああ、安心してくれよ。約束は、必ず守る。守って、みせるから」
だから、残る者が去る者に出来る唯一の事を。
瞬く夜空の星に。遠く、昔から繰り返されてきたその営みをなぞる様に、俺は静かに誓いを立てたのだ。




