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犬頭の探偵は黄昏に沈む世界で明日を夢見る事ができるか  作者: せんこう
代用品の少女はその街で彼と出会い自らの願いを見つける事ができるか
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代用品の少女はその街で彼と出会い自らの願いを見つける事ができるか①

頬を打つ汚水の雫に瞳を開けば、檻のように視界を囲むビルの隙間に星の無い狭く暗い宙。

それから鼻腔に届く血と汗の混じった匂いと、遠いサイレンの高い響きに、時折聞こえるのは悲鳴の混じった喧噪の声。記憶に残る内で二番目に最悪な目覚めだ。

時間にして数秒の睡眠からの覚醒。いや、この場合は一時的な昏倒からの回復と言った方が正しい。


「あァ畜生、やるじゃねぇかオイ」


背中を起こすと流れ出るままに地面を汚していた、今は額を伝う血液で視界の半分が赤く滲んでいく。20m上空からの墜落で地面に張り付き引き延ばされた四肢を、悲鳴のような関節の軋みを無視して無理やりに引き起こす。どうにかそれに成功、代償として無意識に悪態がこぼれていた。

立ち上がると酩酊に近い感覚に吐き気を覚える。それを促進させる、早鐘の様に打ち続ける鼓動は自分がまだ生きているという証拠だろうが、それもこの状況では何時まで続くか。

軽く残る眩暈はまだいいが、とにかく全身が痛い。加えて昨夜から酷使し過ぎで体力だけが自慢の自分でも、流石にそろそろ限界を迎えそうである。が、残念ながら今は、その末端から脳へと伝わる抗議の声を無視する事にする。

苦痛に妥協して重い瞼に従い眼を閉じる行為は永遠の眠りを意味している。まだ、取り敢えず今はその甘い誘惑を受け入れる事は出来ない。


「此処までだ犬頭。良く持たせたとは思うが、この路地裏がお前の終着だよ」


その舐めた台詞に何か気の利いた皮肉を言い返したかったが、顎を強打して痺れが残り、あちこち傷だらけの口腔内で舌が上手く回ってくれない。というより今のままでは相手の言い分そのままが事実だ。

クソッタレ。こっちが箱詰めのネズミみたいに必死だってのに、手前は涼しい顔しやがって。

そう思うとますます腹が立ち、無理して嫌味を吐こうとすると代わりに出たのは血反吐ときたもんだ。その勢いで前のめりに倒れそうになるが、意地でも膝は付かない。

顔を上げて視界に入った、何時の間にか周囲を囲む厳つい男達は皆戦闘仕様の半機械化。近頃のチンピラはサイバネティクス強化が標準仕様らしい。

手にする獲物もバリエーション豊かでおなじみの半ドス、日本刀から拳銃に機関銃、ロケットランチャーまで様々だ。見れば勝ち誇るようににやけ面の、その幾らかには見覚えのある顔がある。

情けは人の為ならず、あの言葉は嘘だと確信した。これも自業自得と言えばいいのか?

うん、俺が甘かったんだな。次からヤクザの組を襲撃する時はきっちりと全員仕留めるか再起不能にすると心に誓った。

ただ、ボロ雑巾の様な今でさえ、自分にとってそいつらの存在は大した問題では無い。

最大の問題はそれらを指揮する男。そう、この状況の元凶であるクソ野郎。そいつをどうにかしなければ、俺に夜明けは迎えられないだろう。

全身を嫌味な程に似合う高そうなスーツで包み、唯一体のどこも機械化されていない、いや、その必要が無い相手側の最大戦力のその男は、目元に酷く深い隈を刻んだ目で此方を見据えていた。

その姿はこんな場末の路地裏であっても汚れ一つ付いておらず、一見どこぞのコーポの重役が会合の帰りにふらりと道を外れて迷い込んだ様にも見える。

勿論それが明確な擬態である事は疑いようが無い。こんなサラリーマンが、神秘たる術を行使する会社員がそうそう居てたまるか。


「メイガスがヤクザと傭兵使って人さらいとはなぁ。魔術の秘匿と研鑽はどうしたこの野郎・・・!」

「ふん、私とてこの様な歪んだ神秘と文明に汚染され堕落した都市になど訪れたくは無かったさ」


下品な笑みを浮かべる群れの中で唯一今の状況を面白くもなさそうにそう言う男は、ゆっくりとその得物を構えた。

手にする柄に蒼い石を備えた短剣は、見たところ男の魔術の触媒だろうか。

石に灯る鈍い光は次第に強くなり、それはつまり不意打ちとはいえ頑丈だけが取り柄の自分を此処まで痛めつけた一撃の次弾を用意しているという事だろう。


「犬頭、最後にもう一度提案をしよう。娘の居場所を吐け。それで私は仕事を終えて帰国できるし、お前は何時もの様にこの腐った都市で残飯を漁っていられる。どうだ、魅力的な提案ではないかね?」


フラつく頭に馬鹿な最後通告が響く。その意図を理解出来なくて、それでも何とか意味は分かった。ああ、こういう状況はこの仕事を始めて何度目だ?

だいたいこう言って、お前は助けてやるからどうこうって言うんだよなこの手の奴らは。

そう考えると少し笑える。なんだ?悪党にはそういうマニュアルでも有るのか?

仮にその提案を受け入れたとして、はいサヨナラと帰してくれる訳は無い。その結末はおおよそ碌なものじゃないと決まっているし、何よりとてもじゃないがその選択の結果に確実に訪れる彼女の行き止まりを、俺は絶対に許せない。

なら、ならさ。俺は何時だってこう答えてやるのさ。


「嫌だよ、ばぁ~かァ!」


立ち上がる。そうさ、何時も通りだ。血反吐まき散らして、痛てぇ痛てぇって文句言いながら。

だからどうした?こんな苦痛が何だっていうんだ。俺が、ただ死にそうなだけじゃないか。

そんな事よりも、俺は諦めの結果に待つ後悔にだけは耐えられない。人から見れば馬鹿な強がりでも、これだけはどうしたって御免だ。

例えその結果であっけなく死んでしまうとしたら、残してしまう人に色々と申し訳ないとは思うけれど、後悔はきっと無い。

そう思えるから、確信出来るから、俺はそうする。

うん、そう思える事は大事だ。そう思える何かは、今の俺の失いたくない一部だ。


「あのお嬢さんは手前らには高嶺の花さ。フラれ男のくせに未練が過ぎるぜ、出直して来なロリコン野郎が!」


そんな強がりを言ったって、何かが変わるわけじゃない。どこもかしこも傷だらけ、お気に入りのコートはすっかりくたびれて、血まみれ汗まみれで酷く臭い。今時浮浪者の方が恰好はまともだ。

けれど、それだけで躰に力が漲る。まだ足は動く。この手に、相手を殴る為の、気力という名の燃料が、まだ残っているから。

ああ、そうだよ、これだ。これが、俺だ。


「ならば此処で果てるがいい。何、知りたい情報は貴様のその犬頭から直接聞くことにしよう」


男は俺の言葉に、初めて少しだけ顔を歪め、言うや否や短剣が蒼い輝きを放つ。続くのは先程の押し出す空気の大砲ではなく切断を目的とする風の刃。

刃はメイガスの思惑通りの軌跡を描く。飛来する不可視の剣。狙うは頸椎、その生命を停止させる最適解の一閃は。


「何だと?」


笛の鳴るような高音で放たれて。それから存外に鈍い音で、砕ける様に霧散した。

どうだい?驚いてもらえたなら満足だ。

初めて男の、その口から動揺を隠しきれていない言葉が発せられたのはいい気分だ。

その理由。男にとっての埒外は、その必殺の一撃。俺の頸を断つべく放たれた刃が狙い過たずそこに触れる刹那、例えるなら何らかの障壁に阻まれ弾ける様に掻き消えた現象にある。


「あーああ、知らねぇ。こうなっちまったら、俺が死ぬか、お前が死ぬかだ」


後頭部から絶えず流れる血に沿って伸びるのは、鋼の毛皮。元々灰に近い色は、俺の血を吸って鈍い銀に、そして黒く濁る。

にやりと嗤う、滲んだ血で描かれた、紅い上弦の三日月の様に曲がる俺の口元。実際には吐き気を抑えてゲロを我慢しているのだが、それは内緒だ。格好がつかない。

それから、ああ、クソ。こいつは何が有っても慣れる事は無いだろう。

最初は小さく、やがて大きく頭蓋の内側で響く。戦え、そして喰らえと声がする。

その声に伴い加速していく鼓動は制御できない。急増し循環する血液の内圧で全身の血管が浮き上がり、今にも破裂しそうだ。

加えて今では膨張する筋繊維の一本一本まで明確に知覚出来る。拡張された五感は処理出来ない程に膨大な情報を脳へと流し込み初め、決壊寸前の堤防に蟻の一穴を穿つのは時間の問題。俺の薄っぺらな自意識なんて、例えるなら激流に辛うじて浮かぶ紙の船。

気分が悪い。良いわけが無い。だってそうだろう?

俺は今から、自分で選択して、一時とはいえ俺では無くなるからだ。

そう選択せねばならない理由。情けない話になるが、目の前のボンクラ共とメイガスに偉そうに虚勢を張ってはみたものの、このままではジリ貧。奇跡が起こらなければどうにもならない土壇場である事に変わりはない。だから、不本意ながらその奇跡に頼る事にしよう。

紙の船は今にも倒れ、激流に飲み込まれようとしている。囁きが大きくなるに比例して俺を塗り潰そうとする奔流の源。頭蓋の内側から染み広がるどす黒い何か。それがかつてあった俺の正体なのか、又は別のそれなのか。まだ、それは分からない。

この出元が何処で、どんな経緯があるかなんてどうでもいい事だ。今は、この場を切り抜ける。その為に、俺はこの回数制限付きの切り札を使う。


「何らかの加護。他の神秘を阻み、その上で闘争を強制する祝福。いや、呪いか」


また男に僅かな感情の変化が宿る。ああ、何だアンタ。焦っていやがるな?

いいね、こいつは気分が良い。まあその理由は分かるぜ。俺はお前らみたいのにとっての天敵。理を異にする理の化身、らしいからな。


「・・・貴様、伝承保持者か」


もう、こうなったら止まらねぇ。俺が一人死ぬか、こいつらがまとめて死ぬか。

なら、一応確認。先に言っておかないとフェアじゃない。


「さあ、死にたい奴はかかってこいよ。ただし今夜は特別大サービス、今この瞬間が手前らの崖っぷちだ。逃げてぇ奴は、好きにしな」


一瞬の空白の後に響く哄笑。馬鹿笑いは無知故か、この場で笑っていないのは俺と、スーツの男の二人きりだ。

残念ながらこの親切な提案を受け入れる賢人は此処には一人もおらず、俺を含めどいつもこいつも馬鹿揃いらしい。なら、後は単純。そう、殺し合いだ。


「ああ、そうだ。他はともかくアンタに自己紹介はまだだったな」


殺されるにしても、殺すにしても。相手の名前くらいは知っておいた方が良いだろう。

だから、俺は吠える。宣戦布告の名乗り上げを。


「俺はベオ。月夜見探偵事務所荒事担当、探偵だ!」


まあそういう訳で、今夜の最終ラウンド。今から俺が死ぬかもしれない戦いが始まる訳なんだが。

何事も始まりが肝心だ。それが生きる為に、そして納得して死ぬ為に必要な決まりさ。そうだろ?






と、いう訳で始めから。その彼女との出会いともなる、とある依頼の始まりから。

俺は朝、割と寝起きが良い方だ。

時刻は六時。春先の今頃でも辺りは深く立ち込める霧のせいでまだ薄暗く、惰眠を貪る環境も時間にも余裕はあるが、そいつを振り切ってのそのそとベッドから起き出した。

何時もの様に顔を洗い、歯を磨いたらそのままカップに安いインスタントコーヒーの粉を入れ、水道水を流し込む。

整備不良で配管がすっかり錆びついて、酷く臭い水道水で淹れる安物のコーヒー程不味いものは無いが、事務所下の半物置である自室には湯を沸かす道具が無いので仕方ない。

上の事務所まで上がれば飲料水も、ガスも電気ポッドもあるが、昨夜は所長が遅くまで調べ物をしていた筈だ。彼女を一杯のコーヒーの為にわざわざ起こすのは気が引ける。

うんざりする様な不味さを誤魔化してそれを啜れば、まだぼやけていた視界が錆臭い匂いとカフェインで次第に覚醒していき、眼前の鏡に映るのは最早見慣れてしまった犬頭。

ぴんと張った耳。切れ長で深い青の瞳に、ふさふさとした鈍い銀色の毛並みは明らかに普通の人のそれでは無い。

それにやたらと大きな口。突きだした先端に乗っかっている黒い逆三角形の鼻は、俺の意思に従ってヒクついている。何となく軽く瞼や口唇を引っ張ってみるが、そのままに伸びる口唇に、鼻先なんてなんだかしっとりと湿っていてどうしたってマスクや特殊メイクの様な作り物ではなさそうだ。


「何なんだよなぁ、全く」


目が覚める度の恒例行事も今では殆ど惰性の様なもので特に意味の有る行為ではないが、そのうち何かのはずみでするりとこの毛皮が剥がれたりしないだろうか。

いや、実際には元々こうだったかもしれないし、仮にこいつが剥がれたとしてもこの下から何が出てくるかなんて分からない。

つまり一見犬の毛皮を頭から被った犬頭な不審な男が俺。ああ、ついでに身元不明と記憶喪失も付け加えないと。

こんな状況になってもう一年になるが、こうして俺は何とか生きている。

それもこの街の路地裏で訳も分からずフラフラ彷徨っていた俺を、所長が拾ってなんだかんだと面倒を見てくれているお陰なのだが。


「兄貴、ベオの兄貴~」


そんな事を考えながら呆けていると控えめに車庫のシャッターを叩く音が聞こえる。応えるように勝手口を開くと其処には見知った顔があった。


「おう、勤労少年。クソ不味いコーヒー飲むか?」


クロスバイクだったか。街乗りの自転車に跨って、やたらと大きなバックパックを背負った馴染の少年に答える代わりにそう言いながら、自分の飲みかけの泥水、もといコーヒーが入ったカップを突きだしてみる。


「うわ、コーヒーなのに錆くさ。こんなもん飲むのは兄貴くらいでしょ。ほら、朝刊」

「おう、わざわざありがとよ。しかし所長、今時紙媒体の新聞だなんてなァ。お前、学校の寮はファーストだろ?バイトとは言えこんなセカンドの中頃まで配達とか大変だな」

「その分手当貰ってるし、兄貴に挨拶もできるからさ」


日に焼けた、純粋で眩しい笑顔を向けられると何だか後ろめたい気持ちになるのは何故だろう。若いってのは羨ましい。あ、いや実際俺は自分の年齢を知らない訳だが、まあ高校生より若いって事は無いだろう。


「そうかい。けどまぁ未来ある学生があんまり関心しねぇぞ。お前さんは元々ニヴルヘイム住とはいえ魔素の汚染度も低いんだ。金貯まったらさっさと申請出して外界に出るか、治安の良い上の階層に移りな」

「上の階層ねぇ」


そう言って少年、アキトの向ける視線の先を、自分もつられるように見上げる。

雑多なビルの向こう、この階層の中枢である区域、ファーストを構成する一際背の高い構造物の群れ。その中心に、それらを遥かに超えて、空を貫いて聳え立ちその先端が霞む程に高く、巨大な建造物。

それは越界柱ユグドラシル。九つの階層を、かつて東京と呼ばれた都市を貫く、巨大な柱である。

今では唯一まともに、閉ざされ分かたれた階層を越える手段であり、今も見えているぼやけた先端のその先、宙に続かぬ果ての無い空を越えた向こうにはまた別の階層と都市が有るのだとか。

全て人から聞いた話にはなる。自分はその普通であった頃の記憶が無いが、世界は元々こういった容では無かったらしい。

十年前に突如起こった、言葉のとおりに天を裂き、地を割る大異変。結果、その破壊は物理法則から外れた埒外の変化を辿る事になる。

つまり以前では鼻で笑うような絵空事、今では子供さえ周知する一般常識。簡単に言えば一部を分かたれ、又は歪に引き延ばされた日本の一部は外界とは異なる空間に九つの階層を持つ多重構造の閉じた異界へと変化した。

その混乱の折、崩壊し成す術を失った政府に変わって事態を収拾させたうえで新たな秩序を敷き、その功績と既成事実で今は実質の東京の支配者であるのが最上層に居を構える胡散臭い巨大複合企業グループ、バルドルであり、お決まりの陰謀論じみた噂話では当時の大異変の折、影でその混乱を更に混沌とさせる種をばらまいたとか、そもそもバルドルのやらかした怪しげな実験だの儀式だのの結果でこの事態が引き起こされただとか言われているが、その辺りは本当に良く分からない。

そして、変わってしまったのは世界だけでは無い。世界が変わってしまったのなら其処に住む人も例外でなく、特にこのニヴルヘイムはその変化が顕著に表れている。


「上の階層は下から上がってきた人への偏見強いって言うしなぁ。バルドルにでも就職できれば別だろうけど、そこまでオレ頭良くないし、ニヴルヘイムは下層との繋ぎで案外働き口多いし」


アキトはまだ学生なのに色々と考えている。聞けば一人暮らしでバルドル資本の高校に通っているらしいが、自立の為にこうして学業の傍ら比較的治安の悪いセカンドで逞しく金を稼いでいるそうだ。なんとも立派じゃないか。

しかしおせっかいだと分かっているが気を付けた方が良いとは思う。この辺ならまだいいが、いやこの辺りでも下手をすれば厄介な事件に巻き込まれる可能性が有るからだ。


「まあ二つ上のミドガルズくらいなら問題無いんじゃねえか。行った事ねえが」

「兄貴はこのニヴルヘイムしか知らないんだっけ。まあ兄貴のその頭じゃあ下から上がってきたって方が信憑性あるもんね」


その言葉に悪気が無い事は分かっている。出会ってすぐの頃に比べると、こうして気安く接してくれることはむしろ嬉しくもあるくらいだ。


「馬鹿。ほら、これで行きがけに朝飯喰って学校行きな」

「やぁりぃ!じゃあ、兄貴も良い一日を」


駄賃として幾らかの小銭を握らせてやるとアキトは笑顔で手を振り、自転車に乗って去っていく。


「良い一日ねぇ」


小さくなる背中を見送りながら不味いコーヒーの残りを飲み干し、溶け切っていない粉末をザリザリと噛み締めながら、まだ暗い空を見上げる。

第七階層都市ニヴルヘイム。とある理由から人間がそのままの形で生活できる限界の最下層に位置するこの階層は時折原因不明の天候不良があり、今日みたいな日は春先のくせに特に肌寒く辛気臭い。

そんな天気模様でこうしていると、色々と思い悩んでしまいそうになる。

例えば未だに戻らぬ存在していたかもしれない記憶に、この犬頭の由来。後は暫く実入りの良い依頼が無いせいで火の車の事務所の懐事情に、それに対して全く危機感を覚えていないマイペースな所長。いや、その辺は何時もの事なんだが。

湿っぽく考えたところで仕方が無い事は分かっている。駄目だな、俺らしくもない。

取り敢えずは寂しい懐事情に対しての方策を考えなければ。先月の仕事では結局依頼人の裏切りで、他から僅かに補填はあったが実質マイナス収支。今は取り掛かっている大きな依頼は無いし、当面の予定も無い。それなら幾らか伝手を当たって便利屋の真似事でもして糊口をしのぐとするか。

金と暇が無いからと派手に損耗した相棒を何時までも整備しないままほったらかしにしているのは忍びない。それにそろそろ事務所の家賃とガス代の支払いも有るし。ああ、世知辛い。


「それじゃあ所長起さねぇように、お得意様廻りの準備するかね」

「おい、貴様」


なんて考えていると、見知らぬ声色が耳に届く。


「あ?」


不意に声を掛けられて、辺りを見回すがその主は見当たらない。


「此処だ」

「ああ」


その発生源が、俺の思ったより身近だと気が付いて、つられて目線を下げて。

その姿が瞳に映った。


「此処は月夜見探偵事務所で間違いないか?」


小柄な体から発せられる鈴の様な高く澄んだ声。この辺りでは見かけた事のない、俺の最近の記憶にも無い金色の髪に翠の瞳。幼くも整った顔立ちは、あと数年すれば誰もが振り向く美女へと成長する事を想像させるが、現在はそう在るために成長途中だろう。どう見ても幼女以上美女未満な外見の子供がそこに立って居た。

手には大きなトランクケースを抱えている。そういった知識の無い自分から見てもかなり身なりの良いであろう装いで、こうして事務所を訪ねてきた事から考えて彼女が依頼人か、その身内だという事は直ぐに判断出来た。


「ああ、お客さんか。悪いな、直ぐに案内を」

「ふん、察しが悪ければ反応も鈍い。腕利きの探偵と聞いていたが、貴様の様な獣付きを番犬にしている様では程度が知れるな」


その娘が発した言葉に空気が凍る。

可憐な容姿からは想像できない、見るからに機嫌の悪そうな、眉間に皺を寄せて露骨に不満を隠そうとしない態度。

加えてそれは相手が子供であると差し引いてもまだ悪く、初対面で、明らかにこう、敵意とまでは言わないが、相手に対して自分の印象を考慮しない物言いに思わず面食らって言葉を失ってしまう。


「どうした、さっさと案内しろ駄犬。それとも何か、貴様は飼い主の指示が無ければ何も出来ない番犬以下の馬鹿犬なのか?」


更に続く台詞、いや罵倒に思考まで一時停止。最初は聞き間違いかと思ったが二度も続けば流石に疑いようは無い。出会い頭の軽口、というか嫌味は最近の流行りなのか?いやいや先程のアキトの発言に比べてこの娘の言葉は棘があり過ぎる。

先制のジャブは中々鋭いじゃないか。クール、クールだ俺。


「どうもお客様、こちらへどうぞ」

「ふん、時間が無いというのに。さっさと案内しろ」


褒めてやりたい。大人の義務として、この口の悪い上に態度のでかい子供に世間の常識を叩き込む事より、雇われている身として客をもてなす事を優先できた自分を褒めてやりたい。


だがなキッズ、しょうもない依頼だったらその時点で保留している大人としての義務を実行してやるからなこの。


「さあこちらですお嬢様ァ、荷物もお持ちしまさぁ」


そんなことはおくびにも出さずに平身低頭、荷物持ちに作り笑いでアピールする姿を行き違いに出ていったアキトに見られなくてよかった。数日間はからかわれる事になる。

そんな訳でやたらと偉そうで態度のでかい、この治安のよろしくないセカンドでは場違いな子供。

彼女、アリスとの出会いがこの騒がしい数日間の事件の始まりになるわけだが、今の俺がそんな事を知る筈もなく、マッハで上昇していくストレスの捌け口を今からどうするべきかと考えていた。

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