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仮面の重さ

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/09

第一章 ごっこ遊びの残酷

「はい、じゃあ次、ユキちゃんはお母さん役ね」


 幼稚園の教室に、先生の明るい声が響く。私──藤崎雪は、その瞬間、全身が硬直するのを感じた。またか。またあの「ごっこ遊び」の時間だ。


「やだ」


 小さな声で呟いたが、誰にも届かない。周りの子どもたちは既に役になりきり始めている。ミホちゃんは赤ん坊役で「ばぶー」と言いながら床に転がっているし、タケシくんは犬役で四つん這いになって「わんわん」と吠えている。


 私だけが、ぽつんと立ち尽くしていた。


「ユキちゃん、どうしたの?お母さん、やってみて」


 先生が優しく促す。その優しさが、かえって私を追い詰める。


 仕方なく、ぎこちない動作で想像上の赤ん坊を抱く真似をする。でも、それだけだ。言葉が出てこない。「よしよし」とか「いい子ね」とか、そんな台詞を言えばいいのだろうけれど、喉が詰まったように何も出てこない。


 私は私なのに。なぜ「お母さん」にならなければいけないのだろう。


 家に帰ると、母が「今日は何して遊んだの?」と聞いてくる。


「ごっこ遊び」


「楽しかった?」


「……うん」


 嘘をついた。でも、本当のことを言っても母には理解できないだろう。他の子は楽しそうにしているのだから。


 ある日、流行りのアニメ『ミラクルフラワー』のごっこ遊びが始まった。クラスの女の子たちは我先にと「フラワーローズ役がいい!」「私はフラワーリリー!」と叫ぶ。


 私は隅で小さくなっていた。


「ユキちゃんは、フラワーチューリップね」


 リーダー格のアヤカちゃんが決めた。拒否権などない。


「ミラクル!ブロッサムチェンジ!」


 みんなが叫ぶ。私も口を開く。でも声が震えている。こんなに恥ずかしいことはない。なぜみんな平気なのだろう。なぜ私だけがこんなに苦しいのだろう。


 変身ポーズを真似ろと言われる。腕を上げ、回転する。顔が熱い。涙が出そうになる。


 幼心に、私ははっきりと理解していた。


 ──私は、私でしかない。


 他の誰かになることなんてできない。なりたくもない。私は私のままでいたかった。それなのに、世界は私に「演じろ」と要求してくる。




第二章 演劇部という地獄

 小学三年生の春。部活動選びの日がやってきた。


「部活は先着順です。定員になったら締め切りますので、入りたい部活がある人は早めに申し込んでくださいね」


 担任の佐藤先生が説明する。私は既に決めていた。パソコン部に入るのだ。ゲームを作ったり、絵を描いたりできると聞いていた。もしダメなら漫画部。どちらも一人で黙々と作業できる部活だ。


 昼休み、私は部活動の申し込み用紙が置かれた職員室前の廊下に走った。でも、既に人だかりができている。


「パソコン部、もう定員だって」


 前にいた男子が肩を落として戻ってくる。


 心臓が早鐘を打つ。急いで掲示板を見ると、パソコン部の欄には「定員に達しました」の赤い紙が貼られている。漫画部も同じだった。


 残っているのは……演劇部、吹奏楽部、陸上部。


 吹奏楽部は楽器ができない。陸上部は運動が苦手だ。消去法で、演劇部しか残らなかった。


「嘘でしょ……」


 小さく呟く。よりにもよって、一番苦手な「演じる」ことをしなければならない部活に入ることになるなんて。


 初めての部活動の日。演劇部の部室は視聴覚室の隣の小さな部屋だった。六年生の部長、川村麻衣先輩が新入部員を前に話す。


「今年の演目は『いそがしい王様』に決まりました。配役は来週オーディションで決めます」


 オーディション。その言葉だけで胃が痛くなる。


 結局、私に回ってきた役は召使いの一人だった。台詞は少ない。「はい、王様」「かしこまりました」程度。それでも、私には重荷だった。


 練習の日々が始まる。王様役は六年生の男子、坂本健太先輩。お妃様役は同じく六年生の女子、高橋沙織先輩だった。


 高橋先輩の演技を初めて見たとき、私は息を呑んだ。


「あら、召使い。このお茶はぬるいわ。作り直してちょうだい」


 尊大で、傲慢で、でもどこか滑稽さもある。完璧なお妃様だった。彼女は間違いなく「高橋沙織」ではなく、「お妃様」そのものだった。


 同じ小学生なのに。なぜこんなに違うのだろう。


 本番の日が近づくにつれ、私の不安は膨らんでいった。夜、布団の中で何度も台詞を復唱する。


「王様、お客様がお見えです」


「かしこまりました」


 たったこれだけの台詞なのに、頭から抜け落ちてしまいそうで怖かった。




第三章 記憶の空白

 本番当日。


 体育館の舞台袖で、私は震えていた。客席には保護者や他の学年の生徒たちが座っている。


 幕が開く。王様とお妃様が登場する。


「まったく、今日もいそがしい、いそがしい」


 王様の台詞。笑いが起きる。順調だ。


 そして、私の出番がやってくる。足を一歩、また一歩と踏み出す。スポットライトが眩しい。


 王様が私を見る。


 ──何か言わなければ。

 でも、何を言うのだっけ。

 頭が真っ白になる。台詞が、完全に抜け落ちていた。


 時間が止まったように感じる。客席がざわつき始める。王様役の坂本先輩が困惑した顔で私を見ている。


 その時だった。


「……お客様」


 すぐ横から、小さな声が聞こえた。高橋先輩だ。お妃様の衣装を着たまま、私に台詞を教えてくれている。


「王様、お客様がお見えです」


 私は、かろうじて声を絞り出した。


 芝居は何とか続いた。終演後、高橋先輩が私のところに来た。


「大丈夫だった?」


「ごめんなさい……」


「ううん、いいのよ。緊張するよね。でも、ちゃんと言えたじゃない」


 先輩は優しく微笑んだ。でも、私は自分が許せなかった。


 なぜ、私は演じられないのだろう。なぜ、私だけができないのだろう。




第四章 能という試練

 小学五年生の秋。国語の授業で日本の伝統芸能を学ぶ単元があった。


「今日から三週間かけて、班ごとに『能』を演じてもらいます。最終的に、一つの班を選んで、全校集会で発表してもらいます」


 担任の山田先生が告げた瞬間、教室中が「えー!」という声に包まれた。


 私の班は五人。リーダー格の佐々木くん、活発な美咲ちゃん、おとなしい健人くん、そして演技が上手いことで有名な真央ちゃん、そして私。


「演目は『附子』にしよう。面白いし」


 佐々木くんが提案する。『附子』は、主人が附子(実は黒砂糖)を毒だと偽り、家来二人がそれを知りながら食べ尽くし、主人の大切な壺を割った言い訳に使うという、ユーモラスな話だ。


 配役が決まっていく。主人役は真央ちゃん。彼女の演技力なら完璧だ。家来役の一人は佐々木くん。そしてもう一人の家来役が……私になった。


「雪ちゃん、大丈夫?」


 美咲ちゃんが心配そうに聞く。


「……うん」


 本当は大丈夫じゃない。でも、断れなかった。


 練習が始まる。真央ちゃんの主人役は素晴らしかった。能独特の抑揚と動き、すり足、扇の使い方。全てが様になっている。


「附子に近づくでないぞ!毒じゃ、毒じゃからな!」


 威厳と、でもどこかとぼけた感じも滲ませる。小学生とは思えない演技だった。


 一方、私の演技は……。


「雪、もっと声を大きく。それと、附子を見る時はもっと欲しそうな顔をして」


 佐々木くんが指導する。


 私は何度も何度も同じところを練習した。でも、上手くならない。体が硬く、声も小さい。


「まあ、本番までにはなんとかなるよ」


 佐々木くんは言ったが、その声には不安が滲んでいた。


 そして、各班の発表の日。


 真央ちゃんの演技が際立っていた。山田先生だけでなく、見学に来ていた校長先生も感心している。


「では、全校集会で発表する班は……五班に決定します」


 私たちの班だった。


 真央ちゃんは喜んでいたが、私は絶望していた。全校生徒の前で、また失敗する。そんな未来が見えた。




第五章 評価という残酷

 全校集会当日。


 体育館の舞台に立つ。全校生徒約四百人が客席にいる。三年前の演劇部の本番よりもずっと多い観客だ。


 幕が開く。


 真央ちゃんの演技は完璧だった。笑いも起きている。佐々木くんも上手く演じている。


 そして、私の番。


「主人がおらぬ間に、あの附子を食べてみようぞ」


 台詞は出た。でも、私の声は震えていた。体の動きもぎこちない。


 なんとか最後まで演じ切った。拍手が起きる。でも、その拍手が私に向けられたものではないことは分かっていた。


 終演後、山田先生が講評した。


「真央さんの主人役、素晴らしかったですね。佐々木くんも良かったです」


 私の名前は呼ばれなかった。


 教室に戻ると、クラスメイトたちが話している。


「真央ちゃん、めっちゃ上手かったね」


「うん。プロみたいだった」


「雪ちゃんは……まあ、頑張ってたけど」


 その「まあ」という言葉が、全てを物語っていた。


 帰り道、一人で歩きながら考えた。


 やはり、私には演技の才能がない。幼稚園の頃から分かっていたことだ。


 人には得手不得手がある。


 私が得意なのは、工作や折り紙、お絵かき。

 一人で黙々と作業できるもの。誰かを「演じる」必要のないもの。


 それでいいじゃないか。そう思おうとした。

でも、心の奥で小さな声が囁く。


 ──この世界は、演じられる人間を求めている。

 その声を、私は必死に打ち消した。




第六章 大人という役

 二十六歳の春。

 私は三度目の転職をしていた。


 最初の会社は、新卒で入った広告代理店。朝九時から夜十一時まで働き、休日出勤も当たり前。上司は常に怒鳴っていて、同期は次々と辞めていった。

 私も一年で辞めた。


 二社目は、デザイン事務所。もっと自分に合っていると思った。でも、クライアントとの打ち合わせが苦手だった。


「もっと明るく話してよ。クライアント、不安そうな顔してたよ」


 先輩に言われる。

 私は、デザインは好きだった。でも、「デザイナー」という役を演じることができなかった。


 明るく、自信満々に、自分の作品を語る。そんなことができなかった。

 半年で辞めた。


 そして今、三社目。小さなIT企業の事務職。


「藤崎さん、お客様から電話です」


 受話器を取る。手が震える。


「はい、お電話ありがとうございます。株式会社テクノスの藤崎と申します」


 声が裏返る。相手は不機嫌そうな声だ。


「先日の見積もりの件だけど、まだ届いてないんだけど」


「申し訳ございません。すぐに確認いたします」


 電話を切ると、額に汗が浮かんでいた。


 ──「演じろ」。

 私は自分に命令する。


 有能な事務員を演じろ。明るく、テキパキと、効率的に。そんな人間を演じろ。


 でも、体が拒否する。心が拒否する。


 私は私でしかない。なぜ「有能な事務員」を演じなければならないのか。


 定時後、上司に呼ばれた。


「藤崎さん、最近ミス多いね」


「申し訳ございません……」


「それと、もうちょっと周りとコミュニケーション取ってほしいな。ランチも一人で食べてるでしょ?もっと他の人とも話さないと」


 コミュニケーション。また、その言葉だ。


「はい、気をつけます」


 そう答えたが、どうしていいのか分からなかった。


 アパートに帰ると、部屋は散らかっていた。洗濯物が山積みで、シンクには食器が溜まっている。


 ベッドに倒れ込む。天井を見つめる。


 子どもの頃の演技とは違い、今は生活がかかっている。上手く「演じ」なければ、生きていけないのだ。


 でも、どうすればいいのだろう。


 幼稚園の頃から、小学生の頃から、ずっと苦手だった。二十年以上経っても、私は変わっていない。


 スマートフォンを手に取る。SNSを開くと、同級生たちの投稿が並んでいる。


 真央ちゃんは、今や舞台女優として活躍している。『附子』で主人役を演じたあの真央ちゃんだ。彼女の投稿には、華やかな舞台の写真と、たくさんの「いいね」がついている。


 高橋沙織先輩は、大手企業の管理職になっていた。部下を率いる姿が、投稿された写真から伝わってくる。


 みんな、上手く「演じて」いる。社会人という役を、大人という役を、完璧に演じている。


 なぜ、私だけができないのだろう。

 私の何がいけないのだろう。




第七章 仮面の亀裂

 月曜日の朝。

 目覚ましが鳴る。でも、体が動かない。


「行かなきゃ……」


 呟くが、布団から出られない。このまま、ずっとここにいたい。誰にも会いたくない。誰も演じたくない。

 結局、会社を休んだ。


「体調不良です」


 電話でそう伝えた。それは嘘ではなかった。心が、体が、限界を迎えていた。


 一日中、ベッドで過ごした。スマートフォンで動画を見る。何も考えたくなかった。


 夕方、母から電話がかかってきた。


「雪?元気にしてる?」


「……うん」


「声、元気ないわね。何かあった?」


「何もないよ」


 また、嘘をついた。幼稚園の頃と同じように。


「そう。無理しないでね」


 電話を切ると、涙が溢れてきた。


 無理しないで、と言われても。無理をしなければ、この世界では生きていけないのに。


 翌日も、翌々日も、会社を休んだ。上司から心配するメールが来たが、返信できなかった。


 一週間が経った頃、もう会社には行けないと悟った。


 退職届をメールで送った。


 ──また、脱線してしまった。

 これで四度目だ。




第八章 本当の私

 無職になって一ヶ月が経った。


 貯金は減っていくが、不思議と焦りはなかった。むしろ、解放感があった。


 毎日、絵を描いた。デジタルでも、アナログでも。誰に見せるでもなく、ただ自分のために。


 ある日、描いた絵をSNSに投稿してみた。それほど期待はしていなかった。

 でも、予想外の反応があった。


「この絵、好きです」


「色使いが素敵」


「もっと見たいです」


 コメントが次々と届く。


 ……私の絵を、認めてくれる人がいる。

 その事実が、少しだけ心を温めた。


 投稿を続けた。フォロワーが増えていった。

 そして、ある日。


「イラストの依頼をしたいのですが」


 DMが届いた。

 初めてのイラスト依頼。報酬は決して高くなかったが、私にとっては大きな一歩だった。


 クライアントとのやり取りは、全てメールとチャット。直接会う必要はない。電話もほとんどない。


 ──これなら、私にもできるかもしれない。

徐々に、依頼が増えていった。フリーランスのイラストレーターとして、なんとか生計を立てられるようになった。


 でも、それで全てが解決したわけではなかった。


 クライアントとの打ち合わせ。オンラインとはいえ、カメラをオンにして話さなければならない時がある。


 その時、また「演じなければ」という恐怖が襲ってくる。


 「プロのイラストレーター」を演じなければ。自信に満ちた、頼りになるクリエイターを演じなければ。


 打ち合わせが終わると、どっと疲れる。


 ──私は、一生このままなのだろうか。


 「演じる」ことから逃げ続けて、でも完全には逃げられない。




第九章 小さな変化

 ある日、高校時代の友人、香織から連絡が来た。


「久しぶり!雪、元気?」


 香織は、数少ない私のことを理解してくれる友人だった。


「うん、まあまあ」


「今度、お茶でもしない?話したいことがあるんだ」


 久しぶりに、外で誰かと会う気になった。

カフェで香織と再会する。彼女は相変わらず明るかった。


「雪、フリーランスになったんだって?すごいじゃん」


「まあ、食べていけてるだけだけど」


「でも、雪らしいと思う。会社員、合ってなかったもんね」


 香織はそう言って笑った。


 「実はね」香織が続ける。


「私、カウンセラーの資格取ったんだ」


「え、本当に?」


「うん。それでね、雪に聞きたいことがあって」


 香織は真剣な顔になった。


「雪って、子どもの頃から『演じる』のが苦手だったでしょ?それって、もしかしたら……」


 香織は、ある可能性を示唆した。


 私が長年抱えてきた「演じられない」という感覚。それは、単なる性格の問題ではなく、もっと深い理由があるかもしれない、と。


「専門家に相談してみたら?別に病気とかそういうことじゃなくて、自分を理解するためだよ」


 香織の言葉に、私は戸惑った。でも、同時に、少しだけ希望も感じた。


 ──もしかしたら、答えが見つかるかもしれない。




第十章 答えを探して

 香織の紹介で、カウンセラーの先生に会った。


 穏やかな表情の、五十代くらいの女性だった。


「藤崎さん、今日はどうして来られましたか?」


 私は、子どもの頃からの話をした。ごっこ遊びが怖かったこと。演劇部での失敗。能の発表。そして、社会人になってからの苦しみ。

 先生は、静かに聞いていた。


「藤崎さんは、『自分であること』をとても大切にされているんですね」


「……はい」


「でも、世界は『役割を演じること』を求めてくる。そのギャップが、ずっと苦しかったんですね」


 その通りだった。


 「一つ、お聞きしたいのですが」先生が続ける。「藤崎さんにとって、『演じる』と『自分でいる』は、完全に別のものですか?」


「え……?」


 その質問の意味が、すぐには理解できなかった。


「例えば、藤崎さんが誰かに優しくする時。それは『優しい人を演じている』のでしょうか?それとも、『藤崎さん自身が優しい』のでしょうか?」


「……」


「社会の中で役割を果たすことと、自分を失うことは、必ずしも同じではありません」


 先生の言葉が、ゆっくりと心に染み込んできた。


「完璧に演じる必要はないんです。藤崎さんらしく、その役割を果たせばいい。それは『偽りの自分』ではなく、『自分の一側面』なんですよ」


 帰り道、先生の言葉を反芻した。


 真央ちゃんや高橋先輩が上手く「演じられた」のは、彼女たちが自分を殺していたからではない。むしろ、自分を活かしていたのかもしれない。


 そして、私が苦しんでいたのは、「演じること」そのものではなく、「完璧に別人にならなければいけない」と思い込んでいたからかもしれない。


 ──私は私のままでいい。


 でも、私には色々な側面がある。


 絵を描く私。友人と話す私。クライアントと仕事をする私。

 それら全てが、「私」なのだ。




エピローグ

 それから数ヶ月。


 私は相変わらずフリーランスのイラストレーターとして働いている。


 今日は、大きなプロジェクトのオンライン打ち合わせがある。

 パソコンの前に座り、深呼吸する。


 ──「演じろ」。

 でも、その意味は以前とは違う。


 私は、完璧なプロを演じる必要はない。ただ、仕事をする時の私でいればいい。

 カメラをオンにする。


「お待たせしました。藤崎です」


 声は、少し震えている。でも、それでいい。

完璧じゃない私も、私なのだから。


 クライアントとの打ち合わせは、なんとか無事に終わった。以前ほど疲れていない。

 夕方、母から電話がかかってきた。


「雪、元気にしてる?」


「うん、元気だよ」


 今度は、嘘じゃなかった。


「そう、良かった。声も明るくなったわね」


 電話を切ると、窓の外を見た。


 夕日が、部屋をオレンジ色に染めている。


 私の何がいけないのだろう。


 その問いに、まだ完全な答えは出ていない。

でも、もう答えを急ぐ必要はないと思えるようになった。

私は私のペースで、少しずつ、前に進んでいけばいい。


 完璧に演じられなくてもいい。

 ただ、私らしくいればいい。


 ──そう思えるようになった今日この日を、私は忘れないだろう。



──完──

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