第3話 北の泉の浄化(グレイ視点)
アルヴェールから北へ向かう街道を、
二台の馬車と、テオ直属の魔物討伐隊が進んでいた。
先頭を行くのは、精鋭二十名からなる第1隊。
そのすぐ後ろに、王家の紋章を掲げた黒塗りの馬車が続く。
中にはテオ、グレイ、フィーナ、そして侍女のミイナが乗っていた。
王家の馬車の後ろには、
精流の滝の水を満載した荷馬車、
さらにアルヴェール領警備隊──リュー率いる部隊が続く。
殿を守るように、第2隊の二十名が控えていた。
今回の異変がただ事ではないと判断したテオは、
直属の五隊のうち二隊を率いて現地へ向かっていた。
王家の馬車は、衝撃を吸収する特別な造りになっており、
通常の馬車よりも速く、揺れも少ない。
フィーナが窓の外を見つめながら、小さく息をついた。
「……アナは、来なかったのね」
テオが視線を向ける。
「アナスタシア嬢には別件を頼んである。
こちらには呼んでないんだ。フィーナ嬢悪いな」
「いえ、大丈夫です……」
フィーナは寂しそうにしながらも頷いた。
アナスタシアがいないのは、確かに心細いだろう。
だが──彼女は別の任務に就いている。
それを知っているグレイは、何も言えなかった。
「さすが、王家の馬車は乗り心地が最高ですね、お嬢様」
侍女が明るく話題を変え、フィーナを励まそうとする。
その声を聞きながら、グレイは窓の外に目を向けた。
湿った冷気が流れ込んでくる。
空気が重い。
肌にまとわりつくような、嫌な気配。
「……着いたな」
馬車が止まり、扉が開く。
グレイは外に降り立った瞬間、息を呑んだ。
北の泉は──
想像以上にひどかった。
黒い濁りが水面を覆い、かつての碧さは欠片もない。
魔力の流れが乱れているのが、肌でわかる。
テオが険しい表情で言う。
「……ここまで悪化しているとはな」
フィーナがつらそうな声で呟く。
「どうして……こんな……」
兵士たちが、運んできた樽を3つ、泉の縁に配備した。
テオは険しい表情で周囲を見渡し、すぐに声を張った。
「泉に流し込め」
「はっ!」
兵士たちが樽を抱え、蓋を外し、澄んだ水をゆっくりと注ぎ込んだ。
だが──
黒い濁りは、まったく動かない。
泡ひとつ立たず、沈黙したまま。
兵士が不安げに振り返る。
「……殿下、反応がありません……」
テオは唇を固く結んだ。
「……そうか、だめだったか……」
空気が重く沈む。
誰もが期待していた浄化が、何も起きなかった。
(伝承の水でも効かないのか?)
全員の心に焦りが見え始めた。
すると、フィーナの侍女が沈黙を破った。
「お嬢様……ミストラ草をお持ちになっていたではありませんか。
植えてみましょう。きっと、泉の力を助けられるはずです」
フィーナがはっと顔を上げる。
「そうだ……ミイナ、ありがとう。
みんなで手分けして、泉の縁に植えましょう」
グレイや兵士たちも頷き、ミストラ草の鉢を荷馬車から降ろす。
数名の兵士が、泉の周囲に等間隔で植えていく。
だが──
植えたそばから、ミストラ草はしおれ始めた。
葉が黒ずみ、茎が折れ、根元から、音もなく崩れ落ちていく。
「そんな……!」
フィーナが声を震わせる。
「ミストラ草まで……効かないの……?」
フィーナの手が震えた。
(……この泉、ただの汚染じゃない)
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
(……この気配、間違いない)
「……来る」
剣に手をかけると、フィーナが振り返る。
「え?」
「魔獣だ」
次の瞬間、森の奥から低い唸り声が響き、
黒い影がいくつも飛び出してきた。
「全員、構えろ!」
テオが叫ぶ。
騎士たちが盾を構え、リューが馬上で槍を構える。
魔獣の群れは、まっすぐフィーナの方向へ突進してきた。
「フィーナ、下がれ!」
グレイは叫び、彼女の前に飛び込む。
魔獣の牙を受け流し、返す刃で喉を断つ。
斬撃の軌跡が光の線となり、魔獣が倒れていく。
(……数が多い)
倒しても倒しても、フィーナに向かってくる。
まるで“何か”に引き寄せられているように。
「くそっ、数が多すぎる!」
リューの叫びが聞こえる。
俺はフィーナの前から一歩も退かず、斬り伏せ続けた。
だが──
横から飛びかかってきた魔獣の爪が、
フィーナのリュックを引き裂いた。
「きゃあっ!」
中身が宙に舞い、泉の縁に当たってガラスが割れた音がし──
そのまま泉へ落ちた。
ドボンッ。
黒い水面に沈んだ瞬間、
その部分から光り輝き、1m四方が透明になった。
「……え?」
フィーナは目を見開く。
グレイも一瞬、動きを止めた。
「今の……見たか?」
テオが魔獣を一体斬り捨てながら、泉を振り返る。
黒い濁りの中に、ぽっかりと丸く、澄んだ水の輪が広がっていた。
兵士たちとアルヴェール警備隊が最後の魔獣を仕留め、ようやく周囲が静かになる。
テオは息を整えながら、泉の縁に駆け寄った。
「……なんだ、これは……?」
グレイがフィーナのほうを振り向く。
「フィーナ、あのカバンに何が入ってた?」
「えっと……ハンカチと、メモと、あと、ハーブウォーターが確か1本入っていたかと……」
その言葉に、場の空気が変わった。
「ハーブウォーター……?」
テオが呟く。
テオは泉を見つめたまま、低く言った。
「さっきまで、精流の滝の水も、ミストラ草も効かなかった。
だが──ハーブウォーターが入ったカバンが落ちた場所だけ、濁りが消えている」
グレイが短く息を呑む。
「つまり……」
テオは続けた。
「……水と薬草、それぞれ単体じゃだめなんだ。
蒸留して調和した状態のハーブウォーターだからこそ、浄化できた」
フィーナが小さく震える声で言う。
「……調和したハーブウォーターだから……」
テオは力強く頷いた。
「ああ、北の泉を浄化できるのは、ハーブウォーターかもしれない」
フィーナは何かを思い出したように、はっと息を呑んだ。
「……もしかして……魔獣が私に集中したのって……」
グレイが振り向く。
「フィーナ?」
「今朝……ハーブウォーターを準備している時に、
エッセンシャルオイルの瓶を倒してしまって……
少し、腕にかかってしまったの。
あれって……魔獣を引き寄せるって、グレイが言ってた……」
グレイの表情がわずかに強張る。
「……その可能性はある」
テオが短く息を吐いた。
「なるほど……だから魔獣が一直線にフィーナ嬢へ向かったのか」
フィーナは唇を噛み、うつむいた。
「……ごめんなさい。私のせいで……」
グレイは首を振った。
「違う。フィーナのせいじゃない。
誰にでも起こり得ることだ。気にするな」
テオも短く息を吐き、落ち着いた声で言う。
「そうだ。責任を感じる必要はない。
むしろ、フィーナ嬢の調合が泉を救う可能性があるんだ」
フィーナは顔を上げ、わずかに息を整えた。
その様子を確認してから、テオは迷いなく声を張った。
「では、フィーナ嬢、グレイとすぐにアルヴェールへ戻って、
ハーブウォーターを大量に用意して、再びここへ持ってきてほしい」
「はい、承知しました」
フィーナは力強く頷いた。
テオは続ける。
「グレイ、フィーナ嬢をしっかり守れよ」
グレイは短く頷く。
「ああ、わかってる」
(何があっても守って見せる)
短い返事に、揺るぎない決意が宿っていた。
テオは一旦王城に戻って報告しに行くという。
第二隊は北の泉周辺に留まり、住民の避難と防衛線の構築に取りかかる。
それぞれが、自分の役割へと散っていった。
アルヴェールに戻ったフィーナとグレイは、すぐに領民を集めた。
作業倉庫では、蒸留器が次々と火にかけられる。
フィーナは配合を指示し、グレイは人々の動きをまとめ、
ミイナは在庫として保管されていたハーブウォーターを樽へ詰め替えていった。
アルヴェールには、もともと二樽分──約六百本のハーブウォーターが備蓄されていた。
さらに全員の努力のもと、半日で新たに一樽分(約三百本)が完成した。
「ミイナ、あなたはここに残って。
毎日作り続けて、兵士たちに届けてほしい」
「はい、お嬢様。必ず」
ミイナの力強い返事を背に、
フィーナとグレイは再び北の泉へと馬を走らせた。
夕暮れの森を抜けると、北の泉にはすでにテオが戻っていた。
討伐隊の一部も合流し、周囲には緊張が漂っている。
「フィーナ嬢、グレイ、早かったな」
「とりいそぎ、樽三個約900本分準備しました。追加も随時かけてあります」
「助かる」
テオの声に、フィーナは頷き返す。
テオは泉の縁を指し示した。
「……見てくれ。この前浄化された部分は、まだ透明を保っている。
だが、周りのほうから少しずつ濁りが戻り始めている」
グレイは息を呑んだ。
「やはり源が強すぎるんだな」
討伐隊の兵士たちは、三つの大樽を
泉の北・東・西の三か所へと運び込んだ。
テオが手を上げる。
「流し込め!」
掛け声とともに、三方向から同時に栓が開けられ、
透明なハーブウォーターが勢いよく泉へと流れ込んだ。
次の瞬間──
泉全体が、まばゆい光を放った。
北から、東から、西から、
三つの光の波が水面を走り、
中央へ向かって重なり合う。
黒い濁りがみるみる後退し、
まるで夜明けが三方向から押し寄せるように、
透明な輝きが泉の隅々へと広がっていく。
(こんな光景は見たことがない)
「……すごい……!」
誰かが震える声で呟いた。
光は泉の底まで届き、
やがて水面は、かつての碧さを完全に取り戻した。
「やった……!」
「浄化されたぞ!」
歓声が一斉に上がり、兵士たちが武器を掲げる。
その声は、森の奥深くまで響き渡った。
グレイは剣を下ろし、胸の奥に溜まっていた緊張がようやくほどけていくのを感じた。
隣ではフィーナが胸に手を当て、安堵の息をついている。
その横顔を見た瞬間、心の底から「守れてよかった」と思った。
フィーナが俺の方を見て微笑む。
その笑顔に、胸がじんわり熱くなる。
テオが剣を収め、フィーナの前に歩み寄った。
「フィーナ嬢……本当にご協力感謝する」
「いえ、ここにいる皆さんや、アルヴェール領地の皆の力です」
「ああ、そうだな。全て関わっている皆の働きが実を結んだ。皆、本当によくやってくれた」
テオの言葉は、ここにいる、領地にいる全員への敬意が込められていた。
そして、テオはフィーナを見た。
「実は──北の泉の浄化が成功したら、
フィーナ嬢を連れてきてほしいと兄上、第一王子レオナルトから言われていたんだ」
フィーナは驚いて目を瞬かせる。
「わ、私を……?」
「ああ、直接会って話したいとね」
フィーナは緊張しながらも頷く。
「承知しました。行きます」
「第1隊は泉周辺の警戒に残る。他の者は王城へ向かうぞ」
こうして、浄化を終えた一行は、
新たな目的地──王城へと向かうことになった。




