第2話 北の泉の異変(グレイ視点)
一月が過ぎ、アルヴェールの空気はすっかり春めいていた。
怪我はすでに塞がり、俺としてはもうとっくに動けるつもりだったが、
フィーナが「無理しないで」と何度も釘を刺すので、しばらくは大人しくしていた。
……まあ、あれだけ泣かれたら強くは言えない。
今では村の男たちと肩を並べて畑に出ている。
土の匂い、風の温度、村人たちの笑い声──
こうして身体を動かしているほうが、俺には性に合っている。
ただ──
たかが30人程度の相手に、怪我を負った自分に、少しだけ情けなさを覚えていた。
あのときはフィーナを守るために無茶をしたとはいえ、
本来の自分ならもっと上手く立ち回れたはずだ。
だから最近は、誰もいない早朝にこっそり鍛錬をしている。
フィーナに知られたら、止められそうだから、絶対に気づかれないように。
(……次は、あんな顔をさせたくない)
そう思うたび、剣を握る手に自然と力が入った。
ミストラ草を使ったハーブウォーターは予想以上の人気で、
領内のほとんどの小麦農家が、休耕期にミストラ草を植えることを決めた。
香りが良いだけでなく、虫除けにもなると評判なのだ。
フィーナはというと、村の女性たちと新商品の開発に夢中だった。
霧吹きの試作品を手に、楽しそうに笑っている。
「恋のエッセンス」なんて言葉が飛び交っていて、
(……俺に使うつもりなのか?)
と考えると、胸が妙に落ち着かなくなる。
呼び方は「グレイ」に変わった。
それだけで、距離が近くなった気がする。
最近は、並んで歩くときに、俺のほうからそっと手を伸ばすことがある。
指先が触れた瞬間、フィーナがぴくっと動くが、
拒まれることはなかった。
ほんの短い時間、軽く手を握るだけ。
それでも、その温度が妙に心に残る。
お互いに気持ちは伝え合ったはずなのに、
劇的に何かが変わったわけじゃない。
だが──
ゆっくり、少しずつ距離が縮まっていくのも悪くない。
一方、グレイは小麦農業の効率化に取り組んでいた。
村ごとに乾燥小屋を共同で使う仕組みを提案し、
「こういうのは、共同でやったほうが効率がいいんですよ。
品質も安定しますしね」
そう説明すると、村人たちは真剣に耳を傾けてくれた。
リューは相変わらずフィーナの護衛として張り付いていて、
ミイナと張り合っている。
そんな穏やかな日々が続いていたある日──
テオから緊急の連絡が入った。
「北の泉に異変があった。すぐ来てくれ」
フィーナと顔を見合わせ、胸の奥がざわつく。
二人は、急いで王宮へ向かった。
執務室に入ると、テオが厳しい表情で口を開いた。
「北の泉の色が濁り、
魔獣が強くなっている気配があると報告が入った」
テオは腕を組み、首を傾げる。
「泉が濁るなんてあるか? 俺は見たことがないぞ」
グレイがため息をつき、淡々と答えた。
「覚えてないのか?
お前がスタンピードを引き起こした時、泉はゆっくり濁り始めて……
最後は真っ黒になったじゃないか。
その直後に魔獣が暴れた」
フィーナが目を丸くする。
「えっ……殿下が引き起こしたんですか?」
「あれ、グレイ、説明してなかったの?」
「そんなこと、話すことでもないだろう」
テオは首を傾げたまま、ぽつりと言った。
「……あの時のことは、正直あまり覚えていない」
三人が黙り込んだそのとき──
「二カ月前までは碧く澄んでいたそうですよ」
部屋の奥から、アナスタシアが現れた。
長かったピンクの髪を短く切り、以前よりも凛としている。
「アナ!」
フィーナが駆け寄ると、アナスタシアは微笑んだ。
「久しぶりね、フィー。元気だった?」
「元気よ!会いたかったわ!」
フィーナがアナスタシアに抱きついた。
(アナスタシア嬢、羨ましい…)
アナスタシアは笑顔で答えた。
「心配かけてごめんね。このとおり、もう大丈夫よ。
テオ様ったら、いつまでたっても呼んでくれないから、出て来ちゃったわ」
「ごめんごめん、なんかタイミングずれちゃってさー」
(この二人ってこんなに仲が良かったか?)
フィーナも同じように思ったみたいで、目を丸くしていた。
「とりあえず、座って話さないか?」
俺がそう促すと、
フィーナと俺はテオの向かいに並んで腰を下ろし、
アナスタシアは右側の一人掛けに静かに座った。
三人が落ち着いたのを見計らい、アナスタシアが口を開く。
「テオ様、この件──、
どうやら隣国ヴァルガン帝国が関わっている可能性があります」
テオの目が鋭くなる。
「詳しく話せ」
アナスタシアは静かに語り始めた。
「まず、北の泉ですが……
二カ月ほど前に、水が濁っていることに泉の管理人が気づいたとのことです。
本来なら、泉が濁った時点で魔獣暴走の前兆として
すぐに王都へ報告しなければならない決まりなんですが、
濁りが濃くなったり薄くなったりしただけで、
完全に黒くなることはなかったそうです。
一度も魔獣の暴走が起きなかったため、
封印の揺らぎ程度だろうと判断され、
正式な報告には至らなかったようです」
俺は眉を寄せた。
「北の泉は、本来は澄んでいたはずだよな」
「ええ。二カ月前までは、碧く澄んでいたそうです」
アナが続ける。
「北の泉には、古来より魔獣鎮めの効果があると言われています。
泉は魔獣を引き寄せる地脈の上にありますが、
同時に水脈が魔力を吸い取り、魔獣を弱体化させていました」
「効果が……弱くなっているのか?」
テオが言うと、アナスタシアはゆっくり頷いた。
「可能性はあります。
本来なら、泉が多少濁っても魔獣の暴走には至らないはずなんです」
そこで一度言葉を区切り、少し苦笑した。
「……あ、テオ様が魔力暴走したときは別ですが。
そのときは泉よりも殿下の魔力のほうが強くて、
過去最大のスタンピードになってしまったんですよね」
「余計な話はいい」
テオがむっとするのを見て、思わず笑いそうになる。
フィーナが小さく首をかしげた。
「質問なんですが……魔獣って、
魔力に引き寄せられるんですか?」
テオが短く息を吐く。
「ああ、強い魔力には敏感だ。
じつは、俺は魔力保持者なんだ。それもかなり大きい。
魔力を制御するために、グレイと旅をしていたんだよ。
今は制御できてるから大丈夫なんだけどね」
フィーナは小さく息をのんだ。
「そうだったんですね……知りませんでした」
テオが肩をすくめて笑った。
「まあ、魔力保持者なんて王族くらいだからな。知らなくて当然だよ」
テオの説明に続いて、俺は言葉を重ねた。
「魔力だけじゃない。魔獣は香りにも反応するんだ」
「香り……?」
フィーナが瞬きをした直後、表情が強張る。
「じゃあ……アルヴェールで作っているハーブウォーターの香りも……
魔獣を引き寄せてしまうの……?」
俺はすぐに否定した。
「いや、一般的に言えば、水溶性の香りは魔獣が嫌う。
逆に、同じ香りでも、油性の香りは強く惹かれる傾向がある。
害虫と同じで、香りの性質の違いなんだ」
フィーナが胸を撫で下ろすのを見て、ほっとする。
だが──
口が勝手に続けた。
「昔の魔獣狩りは囮用の香油を使ってた。
魔獣を誘導するための特別な香りだ」
言った瞬間、胸がざわついた。
(……あれ? なんで俺、こんなこと知ってるんだ……?)
記憶の空白が、また疼く。
そんなグレイの様子には気づかず、アナスタシアが話の続きをした。
「ともかく──今回の乱れは自然現象ではありません。
調べていくうちに、ヴァルガン帝国の影が見えてきたのです」
全員が息を呑む。
「どういうことだ……?」
アナスタシアは少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。
「テオ様……先日救出された研究者の方を覚えておいでですか?
ヴァルガン帝国に拘束されていた間に北の泉について尋問を受け、
情報を話してしまった方です」
「ああ」
テオが静かに頷く。
アナスタシアは続けた。
「その後、北の泉が濁っているという報告が入りました。
そこで、その方と現地を調査したところ──
自然現象とは思えない揺らぎが確認されたのです」
グレイは低く呟く。
「……つまり、北の泉を汚染したのはヴァルカン帝国の仕業かもしれないということか」
「はい。泉が濁ったのは偶然ではありません。
ヴァルカン帝国人の王都流入率も先々月から増えています」
部屋の空気が重く沈む。
テオの拳が静かに握られる。
「……あの国は魔獣を兵器化する研究をしていると聞く。
それに、昔から腕の立つ魔獣狩りを排除しようと動いているという噂もある」
グレイが小さく息を吐く。
「……ああ、魔獣狩りしてたときの、あの毒矢のときか」
テオは短く頷いた。
「そうだ。妙にしつこい連中だったな」
そして話を戻す。
「好戦的で、手段を選ばない国だ。
北の泉を汚すだけで我が国が揺らぐなら──やらない理由はないだろう」
そのとき、フィーナが小さく息を吸った。
「あの、北の泉に精流の滝の水を注ぎ込んではどうかしら?伝承にもあるし……」
全員がフィーナを見る。
テオが「伝承って?」と聞く。
「『滝は精霊の通り道。
大地巡りて護り給う。
風にたゆたう翠は、揺標となる』という、
アルヴェール領の精流の滝には昔から伝わる伝承があるんです」
フィーナが伝承をとなえると、グレイが引き継いだ。
「テオ、お前と話し合って、
俺が、アルヴェール領の魔獣の出現率の低さを調査していただろう?
実際に地図を調べてみたら──精流の滝の水が、領地全体を包むように流れていた。
まるで“水の流れそのものが守りの結界になっている”みたいに」
「もし伝承が本当なら……滝の水がアルヴェールを魔獣から守っていた可能性が高い」
テオアルディはゆっくりと頷いた。
「……確かに、試す価値はあるな」
フィーナとグレイに向かっていう。
「よし。精流の滝の水を準備してくれるか?
ヴァルガン帝国が絡んでいるなら、急がないといけない」
グレイは胸の奥がざわついた。
嫌な予感と、戦いの気配。
だが──
(守る。今度こそ、全部)
そう心の中で呟いた。




