第二十六話
殿下が来る日は、音が少ない。
馬車の軋みも、護衛の足音も、わざと薄くされている。
王族の来訪って、派手に鳴らすものだと思っていたけど――あれは“見せる必要がある時”だけで、見せなくていい時は、驚くほど静かだ。
静かなまま、訓練場の端に“視線”が置かれる。
僕は木剣を振っていた。
素振り。型。息。重心。
いつも通りの反復。いつも通りの最適な使い方。
なのに、背中の皮膚だけが先に気づく。
(……来たな)
振り終えて、止め。
木剣の先を下げて、一礼だけする。
「お疲れですか」
歓迎の言葉じゃない。
「いらっしゃいませ」でも「殿下」でもない。
僕が言うのはいつもこれだ。合図みたいに。
ギルバード・ガリム・アーサー殿下は、小さく頷いた。
「……少しだけ」
少しだけ。
それが殿下の“逃げ道”だと、僕は知っている。
少しだけなら怒られない。少しだけなら許される。少しだけなら、殿下は殿下でいられる。
訓練場の端、いつも同じ位置に椅子がある。水差しがある。
誰も「用意しました」とは言わない。最初からそこにある。
殿下は座って、水を一口飲んだ。飲み方が丁寧すぎて、逆に喉が渇いていそうに見える。
護衛は一定の距離で立つ。視線は鋭い。でも、剣は抜かない。
それだけで今日は“安全な日”だと分かる。
僕はもう一度木剣を構えた。
殿下の視線が、僕の手元に落ちる。
「……剣は、好きですか」
不意に言われて、僕は少しだけ呼吸を間違えた。
好きか嫌いかで言えば、木の匂いは嫌いじゃない。でも剣の先は、だいたい誰かを傷つけるためにある。
(六歳に聞く質問じゃないだろ……いや、殿下は六歳に聞けない質問を誰にも聞けないのか)
「嫌いじゃないです」
「……好き、とは言わないんですね」
「好きって言うと、調子に乗るので」
殿下が小さく笑った。
笑い方が下手で、だから信用できる。
「……ぼくは、好きにならないといけない」
“いけない”。
その言葉が、殿下の首に巻かれた紐みたいに見えた。細くて、でもほどけない。
僕は素振りを続けながら言った。
「好きじゃなくても、できます」
「……できますか」
「できます。やることと、気持ちは、別です」
言った瞬間、自分の言い方が嫌になる。
大人みたいだ。六歳の言葉じゃない。僕は僕で、ずるい。
殿下はしばらく黙って、膝の上で指を組み直した。
その癖が、“殿下が緊張している合図”になってきているのが妙に怖い。
僕が殿下の合図を知るほど、殿下は逃げ場が減る。
(おい。親密って、こういうことか? 地味に怖いんだけど)
殿下が言った。
「……怖いです」
僕の木剣が、風を切る音が一回だけ長くなる。
怖い。
殿下がその言葉を口に出せる相手が、どれだけいるのか。たぶん、いない。
「何が」
殿下は少し迷って、でも言った。
「……ぼくが、弱いって思われること」
それは、王族の恐怖だ。
弱いと見られた瞬間に、国が揺れる。
国が揺れると、人が死ぬ。
六歳が背負うには、笑えるくらい重い。
僕は木剣を止めずに言った。
「弱いのは、悪いことじゃないです」
「……でも」
「悪いのは、弱いままのことです」
言い切った瞬間、殿下が目を見開いた。
僕は自分で自分にツッコミを入れたくなった。
(待て待て。誰が言うんだそれ。六歳が六歳に説教してる場合じゃないだろ)
でも殿下は、否定しなかった。
否定できないから、黙る。黙れるから、強い。
その日、殿下は本当に“少しだけ”いて、帰った。
帰り際、立ち上がる前に、椅子の脚を指で一度だけ撫でた。
ここに座ったことが、ちゃんと現実だったと確かめるみたいに。
「また、来てもいいですか」
声は小さい。
小さいのに、僕の胸の奥に針みたいに刺さる。
僕は助けを求めない。
でも、求められると弱い。断り方が分からない。
「来ればいいです」
殿下は頷いて、頷きながら少しだけ安心した顔をした。
その顔が、“殿下じゃない顔”だった。
それから数日後。
殿下と僕は、ほんの数分だけ――本当に数分だけ、二人きりになった。
王城の回廊は広い。広いくせに、迷う時は迷う。
光が石に反射して、曲がり角が全部同じ色に見えるからだ。
本当は護衛がいた。
いたのに、曲がり角ひとつで視界から消えた。
殿下が立ち止まった瞬間、護衛は前へ出ていて、僕は後ろにいた。
ほんの少しのズレ。ほんの少しの静けさ。
それが、王族にとっては“事件”になる。
殿下の呼吸が浅くなる。
浅くなるのに、声は出ない。
出せない。出せば、殿下は“殿下としての弱さ”を晒すことになる。
(……はいはい。こういうところ、頑張りすぎ)
僕は殿下の袖を掴んだ。
掴んだ瞬間、自分の手が思ったより強くて驚く。
強く掴むつもりじゃなかった。離されたくないだけだった。
「こっちです」
殿下が僕を見る。
その目が、子どもになる。
不安を隠すことを忘れている目。
「……分かるんですか」
「分かります。道が広いので」
(言い訳が雑。僕の頭の中で地図になってるだけだろ)
回廊を曲がる。
窓から庭が見える。噴水が見える。
噴水の音がするなら、衛兵がいる。衛兵がいるなら、人が来る。
人が来るなら、護衛も来る。
殿下は黙ってついてくる。
ついてくる足音が、僕の半歩後ろで揃う。
その半歩が、なんだか――兄と弟みたいに感じてしまって、僕は自分で自分に嫌気が差した。
(やめろ。勝手に兄になるな。僕は人の兄になるほど立派じゃない)
角を曲がったところで、護衛がこちらに気づいて走ってきた。
走る音が硬い。焦りの音だ。
「殿下っ……!」
護衛が跪く。
殿下が頷いて、いつもの殿下の顔に戻る。
ほんの数分。
ほんの数分で、殿下は殿下に戻ってしまう。
護衛が謝罪の言葉を並べようとした瞬間、殿下が小さく手を上げた。
「……いい」
一言。
それだけで、護衛の口が閉じる。
殿下の一言は、刃みたいに正確だ。
護衛が距離を取り直して、再配置する。
元の形に戻る。元の世界に戻る。
戻る前に、殿下が僕にだけ、小さく言った。
「……さっきの話」
さっきの話。
訓練場の端の椅子。水差し。合図。
“怖い”と言った声。
「誰にも言いません」
僕が言うと、殿下は少しだけ眉を下げた。
安心、じゃない。
たぶん――嬉しい、に近い表情。
「……ぼくは、立派な王になります」
宣言みたいに言って、殿下はすぐ視線を逸らした。
言ってしまったことが恥ずかしいみたいに。
六歳が言う未来の話は、だいたい可愛い。
でも殿下のそれは、可愛いだけじゃない。
可愛いふりをしている刃だ。
僕は、真剣に頷いた。
「なれます」
言い切ると、殿下が少しだけ目を丸くした。
「……根拠は」
出た。殿下が“勉強の顔”になる時の口調だ。
真面目な質問。逃げ道のない質問。
僕は一拍だけ考えて、答えた。
「怖いって言えるからです」
殿下の目が揺れた。
揺れたのに、涙は出ない。出せない。
出せないけれど――揺れるくらいは、許された気がした。
護衛が「お時間です」と言う。
殿下が頷く。
去り際、殿下は小さく言った。
「……また、来ます」
僕は頷いた。
「はい。今日は、どれくらいですか」
殿下は一瞬迷って、でも答えた。
「……少しだけ」
少しだけ。
その“少し”が、積み上がっていくのを、僕は知っている。
積み上がれば、きっと強くなる。
強くなれば、きっと守れる。
――そう思ってしまうのが、僕のいちばん危ない癖だ。




