第二十四話
屋敷の門を出た瞬間、クロエの指が僕の手を二回握り直した。
「おそと」
「外」
「ひと、いっぱ……いっぱ!」
語彙が足りないから、同じ言葉を重ねる。
重ねた分だけ胸が膨らんでいるのが分かる。二歳の胸が膨らむ音って、意外とうるさい。
今日の外出は“散策”だ。
大人たちの会話で言えば、親睦。
僕の言葉で言えば――監視付きの自由時間。自由って便利だ。括弧付きで何にでも化ける。
馬車の座席は広い。なのにクロエは僕の膝に座る。
空いている場所はある。あるのに僕の膝が選ばれる。選ばれると断れない。
断る理由がないのがいちばん厄介だ。
クララが向かいに座って、ずっと落ち着かない顔をしていた。
「お、お坊ちゃま……お嬢様が……その、落ちませんか……」
「落ちない」
「落ちますう……」
落ちない。クロエは僕の服を掴む力だけは妙に強い。
強すぎて、たまに僕の呼吸が浅くなる。いや、これは別の理由か。
馬車が大通りへ出る。
石畳の音が硬くなる。車輪が小刻みに跳ねるたび、クロエの身体もぴょんと揺れて、そのたびに笑う。
「きゃっ」
「いま、揺れた」
「ゆれた!」
二歳にとって、揺れるだけで娯楽になる。世界が優しい。悔しい。
窓の外、王都は今日も“普通”を装っていた。
白い壁に濃い木の骨組み。格子の梁。赤茶の屋根。窓枠の花。
露店の布が風に揺れて、香辛料の匂いが馬車の隙間から刺さる。焼き菓子の甘さが遅れて追いかけてきて、胃が勝手に反応する。
クロエが鼻をひくひくさせた。
「……あまい」
「焼き菓子」
「おかし!」
クララが慌てて背筋を伸ばす。
「お嬢様、まだ早いです! お昼の前に甘いものを……!」
「おかし!」
「お嬢様……!」
僕は笑いそうになるのを堪える。
クララの“慌て方”はいつも本気で、クロエの“要求”はいつももっと本気だ。
馬車が止まり、外の空気が一気に入ってきた。
革と金属と香油と、たくさんの人の匂い。
それに混じる、パンの湯気。新しい木材。笑い声。泣き声。呼び声。
クロエが目を見開く。
「わ……」
声が出ない。出ないまま、僕の指をきゅっと掴む。
怖いんじゃない。溢れそうなだけだ。
護衛の騎士が二人、先に降りる。
周囲を一瞬で見回し、視線が通りの角を測って、頷く。
“散策”は自由じゃない。分かってる。
僕が降りようとすると、クロエがすぐ立ち上がった。
「あるく!」
「抱っこだ。踏まれる」
「あるく!」
譲れない決めごと、が二歳にもあるらしい。
僕は一拍考えて、クロエの手をしっかり握り直した。
「じゃあ、歩け。離すな」
「はなさない!」
――言い切る。
言い切れるだけで強い。二歳は最強だ。
通りへ出ると、音が増える。
増えるのに、騒がしいだけじゃない。規則がある。道が広いから、人が流れる。
馬車が三台すれ違える石畳の余裕が、喧嘩を減らしている。
余裕は国の力だ、と五歳の僕でも分かってしまう。
子どもたちが走っていた。
輪を棒で転がして追いかける子。石を並べて陣地を作る子。転んで、泣きかけて、すぐ笑う子。
大人はそれを叱りながら見守って、叱る声もどこか笑っている。
クロエがじっと見る。
「……あそんでる」
「遊んでるな」
「くろえも……?」
「今度な」
「こんど!」
約束は重い。重いのに、二歳は軽々と握る。
その握りが、僕の指を縛る。
縛られているのに、痛くない。
むしろ、ほどけたら怖い。そう思ってしまう自分が、いちばん怖い。
「おかし……」
クロエがまた鼻をひくひくさせた。
甘い匂いは、王都の空気の中でいちばん卑怯だ。子どもも大人も同じ顔にしてしまう。
「あとで」
「あとで!」
返事が早い。
“あとで”が理解できているのが、逆に腹立たしい。可愛い。
露店の布が風で揺れて、影が石畳を撫でる。
人の流れの中で、僕らの歩幅はどうしても遅い。遅いのに、置いていかれない。護衛がいるから――というのもあるけど、王都自体が“遅い歩幅”を飲み込める幅を持っている。
その幅が、国の余裕だ。
(余裕があるから笑える。笑えるから余裕がある。……どっちが先だ)
考えかけたところで、前方から聞き慣れた声が飛んできた。
「エドー!」
声が先に走って、本人が遅れて追いかけてくる。
ガイだ。焼けた肌が陽に合う。こいつはいつも、景色の一部みたいに馴染む。
「クロエもいる!」
「いる」
「いる!」
クロエが僕の手をぶんぶん振った。振るな。腕が外れる。
レティシアもいた。ポニーテールが跳ねる。跳ねるたび、周囲の視線がちょっとだけ集まる。本人は気づかない。気づかないから強い。
「やっぱり来た! ねえクロエ、覚えてる!?」
「てぃしあ!」
「よし!」
(何が“よし”なんだ。レティシアの中で何かが達成されてる)
セシルは少し後ろ。歩き方が静かだ。
人混みの中でも、自分の周りだけ空気が薄い。そういう種類の子がいる。近づくと涼しい。たまに寒い。
殿下――ギルバードは、護衛に挟まれて一歩遅れて来た。
遅れているのに、中心にいる。王族の位置ってそういうものだ。
クロエが金色を見つけて、すぐ反応する。
「きらきら!」
殿下が困った顔で笑った。笑い方がまだ下手だ。でも、下手な笑いは信用できる。
「……こんにちは」
「こんちは!」
クロエが即答して、僕の指をもう一度握り直す。
握り直すたびに、僕の中のどこかが落ち着くのが癪だ。
ガイが露店を指さした。
「クロエ、まるいの、ころころ!」
「ころころ!」
「ころころじゃなくて果物だ」
「ころころ!」
(はい、負け。二歳の語彙に勝てるわけがない)
僕らが笑って歩き出しかけた、その時。
レティシアが急に前を向いて胸を張った。
さっきからずっと“言いたくて仕方ない顔”をしていたのに、やっと言うタイミングを掴んだ顔だ。
「……あ、そうだ!」
声が大きい。王都の鳩が一羽、びくっと首を振った。
「私にも妹いるんだ! クロエと同じくらい! 今度ぜったい――」
そこまで言いかけて、レティシアは一瞬固まった。
固まって、背後を振り返って、ぱっと笑う。
「……じゃなくて! いる! 今日、いる!」
(勢いで宣言してから現物出すな。順番って知ってる?)
レティシアが手を振ると、少し離れたところにいた護衛の影の間から、小さな赤が出てきた。
赤髪。
レティシアより濃くて、でも炎みたいに暴れない。
きちんと整えられた髪が、揺れるというより“整って”動く。
その子は、周りを一度だけ見回した。
見回すのが早い。怖がってるというより、状況を理解しようとしている目だ。
二歳の目じゃない。
いや、二歳だからこそ怖い。
「ほら、ノリス!」
レティシアがしゃがんで、背中をぽん、と押す。押し方が雑。愛はある。
「……の、ノリス!」
ノリスが名乗る。声が小さい。小さいのに、頑張っている音がする。
「で、でね! こっちがエド! エドはね、すっごいの! それでこっちが――」
「くろえ!」
クロエが先に名乗った。
名乗る速度が速い。譲らない。二歳にも譲れない決めごとがあるらしい。
ノリスが目をぱちぱちさせて、クロエを見た。
赤と茶。
色が違うのに、同じ“幼さ”が並ぶと急に世界が柔らかくなる。
レティシアが誇らしげに言う。
「ノリスは、私の妹! クロエと同い年! ね、かわいいでしょ!」
(自分の妹を他人に自慢するの、何なんだろうな……でも分かる)
ノリスが頬を少し膨らませた。
膨らませるのが控えめ。怒りも控えめ。常識が先に立っている。
「……おねえちゃん、うるさい」
「うるさいって言うな!」
「うるさい」
「言うな!」
(もう喧嘩してる。仲良しだな)
ガイがすぐにしゃがみ込んで、ノリスにも同じ目線で笑った。
「ノリス! ぼく、ガイ! ガイだよ! えっとね、クロエ、かわいい!」
「かわいい!」
クロエが自分で言った。
ガイが一瞬固まり、次の瞬間腹を抱えて笑った。
セシルは少し離れた位置で、ノリスを見て――小さく息を吐いた。
観察の目。評価じゃない。ただの確認みたいな目。
殿下は護衛の後ろから一歩だけ出て、静かに頭を下げた。
「……こんにちは」
ノリスは一瞬固まって、それから小さく真似して頭を下げた。
真似が上手い。上手すぎて、二歳としては怖い。
「……こん、にちは」
言えた。偉い。
レティシアが「えらい!」とすぐ褒め、ノリスが「……うん」とだけ返す。褒められ慣れてない返事だ。
クロエが、ノリスをじっと見る。
見るだけで終わらない。クロエはそういう生き物だ。
クロエは僕の手を離して――離しそうになって、僕が反射で握り直す。離すな。勝手に口が動く前に、手が動く。
でもクロエは、離さない代わりにノリスのほうへ半歩だけ寄った。
寄って、指を伸ばして、止まる。
触っていいかを迷っている。迷うクロエは珍しい。
ノリスも、クロエを見ている。
視線が鋭い。鋭いのに、怖くない。冷たい水みたいな落ち着きだ。
二人の間に、露店の布が揺れる影が落ちる。
赤い布の影が、二人の頬に一瞬だけ模様をつけて、すぐ消える。
「……さわる?」
ノリスが言った。
自分が触るんじゃない。“触っていいよ”を先に出す。
二歳がやる気遣いじゃない。
クロエがぱっと笑う。
「さわる!」
そして、ノリスの袖の端を指先でつまんだ。
布の感触を確かめるみたいに。
ノリスは瞬きを一回して――それだけで受け入れた。
「……ふわ」
クロエが言う。言葉が少ないのに、ちゃんと伝わる。
ノリスが小さく頷いた。
「……ふわ」
(同じ言葉で通じ合うな。そこで友達になれるんだな、君たち)
レティシアが満足そうに頷く。
「でしょ! ノリス、いい子でしょ!」
ノリスが即座に言った。
「……おねえちゃん、うるさい」
「うるさい言うな!」
ガイが笑い転げ、セシルが口元だけ少し緩め、殿下が肩を落として小さく笑った。
笑い方がまだ下手だ。でも、下手な笑いが一番信用できる。
クロエが僕の指をまた握り直す。
「えど、みてた?」
「見てた」
「ノリス、ふわ!」
「ふわだな」
ノリスがそれを聞いて、僕の顔を見た。
二歳の目なのに、妙に真っ直ぐで、妙に落ち着いている。
「……えど」
呼ばれた。名前を覚えた。早い。
レティシアが胸を張る。
「エドはね、すっごいんだよ! 剣がね、びゅんって! どーんって!」
(擬音で説明するな、火が火を紹介するな)
ノリスはレティシアを見て、淡々と言った。
「……わかんない」
「なんで!?」
「……どーん、ってなに」
正論。
レティシアが詰まり、ガイが「どーんはどーん!」と助けにならない助けを出し、僕は心の中で全力で転んだ。
それでも――
クロエとノリスが、もう一度だけ指先で袖をつまみ合う。
その小さなやり取りが、街の喧騒の中で妙に静かに見えた。
二歳の友達は、たぶんこうやって始まる。
言葉じゃなくて、距離と、触れ方で。
僕は二人の手元を見ながら、なぜか胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
守るべき温度が増えると、怖くなるはずなのに。
増えると、逆に――今だけは、世界が壊れにくく見える。
(錯覚だとしても、今日くらいは信じたい)
レティシアがまた胸を張った。
「ね! 今度はもっとちゃんと遊ぶ! ノリスもクロエも! ぜったい!」
ノリスが小さくため息をついた。
「……おねえちゃん、また勝手」
でも、その声は嫌そうじゃなかった。
嫌じゃないから、受け入れてしまう。
クロエが笑って、殿下が小さく頷いて、ガイが「やった!」と跳ねる。
セシルが「……約束」と呟く。
王都の石畳の上に、子どもたちの“今度”が並んでいく。
並んでいくほど、背中のどこかが少しだけ怖くなる。
怖くなるのに、僕は笑ってしまった。




