第二十三話
訓練が終わると、空気がほどける。
ほどける、というより――張り詰めていた糸が「切れる前に戻った」感じだ。
アイクの「終わりだ」の一声で、土の匂いがやっと呼吸に馴染む。肩の力が落ちる。落ちて、腕が重い。木剣が急に“ただの木”に戻る。
ガイがその場で座り込んだ。
「はー……つかれた……」
「いま座るな、土がつく」
「土ついても、ぼく、つよくなる!」
(論理が雑。嫌いじゃない)
レティシアは額の汗を腕で拭って、口を尖らせる。
「エドさ、やっぱズルい。止めるの、ズルい」
「当たったら痛いだろ」
「痛くてもいい!」
(それは良くない。自分の身体は大事にして)
セシルは木剣を膝に置いたまま、目を閉じて呼吸だけ整えている。
目を閉じてるのに、見ている。そういう静けさ。人を刺す静けさ。
殿下――ギルバードは、少し離れたところで木剣を返し終えた後、手を見ていた。
手のひら。握りの跡。指の赤み。
王族の手にも、ちゃんと“努力の跡”は残るらしい。残ってほしい。残るから強くなる。
訓練場の縁では大人たちが最後の会釈を交わして、談笑の形のままそれぞれの馬車へ散っていく。
談笑、という名目の測定は終わった。終わったはずだ。背中の皮膚が少し軽くなる。
アイクが僕の木剣を受け取って言う。
「今日は上出来だ」
「……ありがとうございます」
「客の前で変に背伸びするな。癖になる」
(もう癖です、とは言えない)
僕は頷いて、木剣を鞘代わりの布に包む。
その瞬間、門の方から、甲高い足音が走ってきた。
軽い。速い。迷いがない。
迷いがないのに、まっすぐ僕に向かってくる。
そして――
「エド!」
声が、訓練場に花を咲かせたみたいに明るかった。
茶髪の小さな影が回廊から飛び出してくる。
クロエだ。僕の妹。二歳。二歳のくせに“世界の中心”みたいな顔をして走る。
後ろでクララが青い顔で追いかけている。
「お、お嬢様っ、走っては……! 転びます、転びますうぅ!」
転ばない。
転びそうになった瞬間だけ、なぜか足が勝手に前に出る。
クロエはそういう生き物だ。世界がクロエに少しだけ甘い。腹が立つほどに。
クロエは僕の前まで来て、勢いのまま腕に飛びついた。
「エド、した! えど、えらい! かっこいい!」
褒め方が雑。語彙が少ない。でも本気。
その本気があるだけで、さっきまで背中に乗っていた重さが少し軽くなるのが悔しい。
「見てたのか」
「みた! えど、びゅんって! どーんって!」
(ガイと同じ擬音を覚えるな。そこ共有しなくていい)
クロエは僕の袖を掴んだまま、きょろきょろと周りを見る。
僕の“周り”にいる人間を、当然のように確認する目。二歳がやっていい目じゃない。
そして、ガイを見つけた瞬間、ぱっと笑った。
「……わあ!」
ガイが目を丸くする。
「えっ……ちっちゃ……」
「ちっちゃい、じゃない。クロエ」
僕が言うと、クロエは胸を張る。
「くろえ!」
自分で名乗って、満足した顔をする。
名乗れる年齢になったことが誇らしいらしい。たぶん。
ガイがしゃがみ込んで、クロエと目線を合わせた。こういうところ、やっぱり友達思いだ。
「クロエ! ぼく、ガイ! ガイだよ! えっとね、さっきエド、すっごかった! クロエもみた?」
「みた!」
「えらい!」
「えらい!」
会話が鏡みたいに返ってくる。ガイが笑う。クロエも笑う。
その笑い声が、訓練場の土の上で跳ねた。
レティシアがずいっと前に出る。
こういう時、彼女のポニーテールは先に来る。
「ねえ! クロエだっけ? かわいい! ……ちょっと触っていい?」
「さわる!」
クロエは自分から手を差し出す。差し出すのが早い。早すぎて危ない。
レティシアの手が伸びる。その手が大きく見える。五歳は二歳に対して大人だ。
僕は無意識に一歩、前に出ていた。
止めるつもりじゃない。ただ、間に入っておきたい。理由は分からない。分からないけど身体がそうする。
レティシアは僕の動きに気づいて、唇を尖らせた。
「なに、心配?」
「心配」
「過保護!」
(はい、正論。返せない)
でも、レティシアの触り方は優しかった。
髪に触れるのではなく、指先でそっと頬をつつく。頬がぷにっと沈む。クロエが「んふ」と笑う。
レティシアの顔が一瞬だけ、すごく柔らかくなった。
そして、照れ隠しみたいに胸を張って言う。
「……あ、そうだ! 私にも妹いるんだ! クロエと同じくらい! 今度ぜったい連れてくる!」
(勢いで宣言するな。大人が聞いてる)
セシルは少し離れた位置で、じっとクロエを見ていた。
見ているだけなのに、目が“測っている”目だ。
子どもでも、測る。大人の真似をする。あるいは、元々そういう目なのか。
セシルがぽつりと言った。
「……妹」
「妹」
僕が言うと、セシルは一拍置いて頷いた。
「……いいね」
短い。短いけど、ちゃんと本音が混ざっている。
セシルの“いい”は、そう簡単に出ない。出ないから、少しだけ嬉しい。
殿下はクロエから少し距離を取ったまま、こちらを見ていた。
近づかない。けれど、視線は興味を隠せない。
王族の距離感だ。教え込まれた距離感。
クロエが殿下の金髪を見つけた。
金色は目立つ。目立つものはクロエの興味を引く。
クロエは僕の袖を掴んだまま、殿下の方へ半歩だけ進む。
「きらきら……」
殿下の肩がぴくりと動いた。護衛が反射で動きかけて、止まる。
父の目がそこで“止める”。止め方が静かすぎて怖い。
殿下は、ぎこちなく笑った。
「……こんにちは」
クロエは笑う。
礼儀? 知らない。二歳は礼儀より好奇心で生きる。
「こんちは!」
言えた。偉い。
クロエは自分で自分を褒めている顔をする。腹が立つほど可愛い。
殿下が困って、僕を見た。助けを求める目。
僕は助けを求めない。
だから、求められると弱い。弱いというか、断り方が分からない。
「……殿下。クロエは、金色が好きなんです」
口に出した瞬間、自分の説明が雑だと思った。
でも殿下はそれで安心したみたいに、少しだけ肩を落とした。
「そう、なんだ」
「うん! きらきら、すき!」
クロエが言う。
殿下は、ほんの少しだけ笑った。さっきより“子ども”の笑い方。
その空気が、ふっと軽くなる。
軽くなったのに――僕は、クロエの手を握り直した。
無意識に。癖みたいに。
さっきからずっと、僕の中のどこかが「離すな」と言っている。
(……何だよ。訓練終わったのに)
訓練終わったのに、守りの姿勢が抜けない。
抜けないのは僕の問題だ。クロエの問題じゃない。
クロエが僕の腕に頬を寄せて、小さく言った。
「えど、いっしょ」
「うん」
「おそと、いっしょ?」
「……今度な」
「こんど!」
約束という言葉の重さを、クロエは知らない。
知らないから、平気で握ってくる。
その握りが、僕の指を縛る。
ガイが笑いながら言った。
「クロエ、こんど、いっしょにあそぼ! ぼく、うまいの、ある! まるいやつ、ころころ!」
レティシアがすぐ乗る。
「私も! クロエ、つぎ会う時、もっとおっきくなってる?」
セシルが小さく付け足す。
「……成長は、早い」
殿下は少し迷って、でも言った。
「……また、会えますか」
クロエが即答する。
「あえる!」
断言。二歳の断言は強い。
強いから、大人たちの“測る目”とは別の意味で、場が一瞬だけ真面目になる。
僕は笑って、誤魔化した。
「また来いよ。……今度は、ちゃんと遊びも混ぜる」
ガイが「やった!」と跳ねる。レティシアが「ぜったい!」と頷く。セシルが「……約束」と呟く。
殿下は小さく頷いて、木剣じゃない手で胸元を押さえた。落ち着くための癖みたいに。
訓練場の土の匂いに、子どもの笑い声が混ざる。
混ざって、ふわっと広がる。
その瞬間だけは、背中の重さが少し遠かった。
――だからこそ、僕は思ってしまう。
このまま続けばいいのに、と。
続くはずがないのに。
続いてはいけない気がするのに。
クロエの指が、僕の手を握り直す。
「えど、かえる?」
「帰る」
「いっしょ!」
「いっしょ」
僕が言うと、クロエは満足そうに笑った。
訓練場の端で、父がこちらを見ていた。
笑っていない。
でも、その目の硬さが少しだけ緩んでいる気がした。
それが――今日という日が、ちゃんと“日常”だった証拠みたいで、少しだけ救われた。




