第二十話
共同稽古の日は、朝から屋敷の空気が少しだけ“硬かった”。
いつもの訓練なら、土と汗の匂いだけで完結する。
でも今日は、そこに「よそ行きの香り」が混ざる。香油、馬具の革、磨かれた金属――つまり、来客の匂いだ。
(はいはい、うちの訓練場が“国の社交場”になりましたよ、と)
口に出したら父に怒られるので、心の中だけで言っておく。
発端は単純だった。
食事会のあと、ガイが言ったのだ。
『剣、みせて! 木のやつ、いっしょに!』
あの目で言われたら断れない。断る理由もない。
そしてガイは、断れない勢いのまま周囲に撒いた。
『レティシアも! セシルも! みたいよな!?』
レティシアは「もちろん!」と即答し、セシルは「……べつに」と言いながら一拍遅れて頷いた。
“べつに”はだいたい“見たい”だ。猫と同じ。
その話がいつの間にか大人の耳に入り、いつの間にか「公爵家の子どもたちの親睦」という立派な箱に入れられ、いつの間にか――殿下まで付いてくることになった。
見学、という名目で。
(見学って便利だな。剣も魔法も政治も全部“見学”で正当化できる)
父が言ったのは昨夜だ。
「ギルバード殿下も来られる。お前は普段通りでいい」
普段通り。
普段通りでいられたら、人生だいたい楽だと思う。
訓練場はいつも通り、広くて、静かで、土が温い。
朝露の匂いがまだ残っていて、踏むと足裏が少し沈む。沈む感覚が好きだ。自分が地面に捕まっている感じがする。
アイク副隊長は、当然のように先に立っていた。
「今日は客が多いな」
「……はい」
「お前が呼んだんじゃないのか」
(呼んでません。ガイが呼びました。僕は巻き込まれました)
言えないので、黙る。
門の方がざわつく。馬車の音が近づく。蹄の音。車輪の音。
その音が訓練場の端まで来ると、空気の“温度”が変わった。
最初に飛び込んできたのは、声だった。
「エドー!」
ガイだ。
焼けた肌が朝日に合う。笑顔が一番最初に来る。こういう子は、本当に国の結び目になる。
「約束! 剣!」
「約束」
僕が言うと、ガイは「やった!」と両手を上げた。両手を上げるとバランスが崩れそうなのに崩れない。……いや、崩れてるけど本人が気にしてないだけだ。
次に、赤が来る。
「おっそい! エド、ちゃんと待ってた?」
レティシア・ヴァレン。
ポニーテールが跳ねる。本人の心と同じ速度で跳ねる。速い。速すぎて、たまに置いていかれる。
「待ってた、っていうか――早く来た」
「だって楽しみだもん!」
うん、そういうとこは子どもで助かる。
子どもが子どもでいてくれると、こっちも少しだけ子どもでいられる。
遅れて、静かな足音。
「……ひとが多い」
セシル。ショートカット。声が小さい。
なのに、言葉がちゃんと届く。不思議だ。静けさって、時々武器になる。
「見に来たんだろ」
僕が言うと、セシルは「……うん」とだけ返した。
返事が短いほど、本音が混ざりやすい。
そして最後に、空気が一段だけ整う。
護衛の騎士たちの足音。揃う金属の擦れる音。
その中心に、金髪の少年――ギルバード殿下がいた。
「……お邪魔、します」
声が小さい。
小さいのに、場が勝手に静かになる。王族の声って、そういう性質がある。
殿下の後ろから、父が歩いてくる。アンセル・ブロア。近衛騎士団の頂点。王の親友。
父が来ると、訓練場が“場”になる。土の上に、目に見えない線が引かれる。
「自由に見学していい。ただし――」
父の視線が子どもたちをなぞる。
なぞるだけで背筋が伸びる。五歳の時より、少しだけ“伸び方”を知ってしまっている自分が嫌だ。
「怪我はするな。無茶はするな。……そして、互いを知れ」
互いを知れ。
食事会と同じ言葉。
同じ言葉なのに、今日は木剣がそこにある分、少しだけ現実味が増す。
大人たちは訓練場の縁に並び、会話を始める。
談笑みたいな声色。けれど、目は笑っていない。目はずっと子どもたちを追っている。
値札をつける目。
でも、値札だけじゃない。――未来を測る目だ。
(測られる側は、たまったもんじゃない)
僕は木剣を手に取った。
握った瞬間、手が落ち着く。木の重さは嘘をつかない。人の言葉はよく嘘をつくのに。
「まずは、見せるだけだ」
アイクが言う。
その声があるだけで、僕は“訓練”に戻れる。戻れるのに、背中の視線が刺さる。刺さるから、余計に背筋が伸びる。背筋が伸びるから、木剣の軌道が綺麗になる。……はい、評価されるループ。
(やめろ。そのループ、最悪だ)
深呼吸。
息を吸って吐く。体幹に力を入れる。重心を沈める。
魔力は――抑える。今日は絶対に漏らさない。今日漏らしたら、後が面倒で死ぬ。
「いくぞ」
木剣を振る。
風が切れる音。土が微かに跳ねる。
腕じゃない。身体で振る。アイクの言葉が背骨に沿って通る。
一太刀、二太刀。
型を繋ぐたびに、世界が一本の線に絞られる。
「……すげえ」
ガイの声が漏れた。
レティシアは口を開けたまま固まり、セシルは瞬きを忘れた。
殿下は――驚いた顔をして、すぐに驚きを隠した。隠すのが上手い。上手すぎて、逆に心配になる。
「ねえ! 私もやる!」
レティシアが叫んで、すぐに木剣に手を伸ばした。
火は見たら触る。触って燃やす。燃えて学ぶ。
アイクが目だけで制しようとしたが、レティシアの勢いがそれを上回る。
「危ないから、型だけだ」
「型だけでもいい!」
勢いのまま、レティシアが構える。
構え方が堂々としていて、堂々としすぎて逆に危ない。堂々は時々、隙を連れてくる。
「足が浮いてる」
僕が言うと、レティシアは「えっ!?」と足元を見る。
見る瞬間に姿勢が崩れる。火は視線が逸れると揺れる。かわいい。
「見ないで、感じろ」
僕が言うと、レティシアはむっとして――笑った。
「なにそれ! かっこつけてる!」
(はい、出ました。子ども判定)
嬉しいような、むず痒いような。
ガイが横から「エド、いまの、なんか王様みたい!」と言ってきたので、僕は心の中で全力で転んだ。
(やめろ。五歳児の例えに王様出すな。怖い)
「俺も!」
ガイが木剣を持ちたがる。
持ち方が雑で、木剣が泣いている。木剣にも感情があるなら、今たぶん泣いている。
「握る位置、そこじゃない」
僕が言いながら、ガイの手を少し直す。
ガイは素直に直す。素直すぎて、逆に心配になる。素直な土は、踏まれる。
セシルは少し離れた位置で見ていた。
見ているだけなのに、目が“計算”をしている目だ。
「……理屈は分かる。だけど、身体が追いつかない」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
五歳の口から出る言葉じゃない。……いや、僕も人のこと言えないけど。
殿下が小さく手を挙げた。
「……ぼくも、少しだけ」
護衛が一瞬動きかけ、父の目が止める。
殿下の顔が硬くなる。硬くなるのに、引かない。
レティシアがすぐに言った。
「やろ! 殿下も!」
ガイも「やろやろ!」と笑う。
その無邪気さに殿下の肩が少しだけ落ちる。落ちて、また持ち上がる。
殿下が木剣を握る。
手が震えるわけじゃない。けれど、握りが浅い。浅い握りは、心の浅さじゃなく“経験の浅さ”だ。
僕は、殿下の手元だけを見て言った。
「……痛くなる前に、握り直した方がいい」
殿下が僕を見る。
その目が、少しだけ子どもになる。
「……ありがとう」
言って、握り直す。
その動きが、さっきまでよりずっと素直だった。
大人たちの会話が、背中で微かに止まった気配がした。
止まって、また動く。
見ている。見ている。ずっと見ている。
(見ないでくれと言っても無理なんだろうな)
僕は、レティシアとガイと殿下の“型未満”を軽く直しながら、セシルが口にしない疑問を拾うように動いた。
拾って、繋いで、穴を埋める。
気づけばそれが自然になっている自分が、少しだけ怖い。
怖いのに、やめない。やめる理由がない。
「休憩!」
アイクの声が落ちて、子どもたちが一斉に緩む。
ガイが僕の袖を掴んだ。
「エド、すげー! でもさ、さっきの動き、なんか……ぜんぶ知ってるみたいだった!」
レティシアが頷く。
「そう! ずるい! なんでそんな落ち着いてんの! 私、むり!」
セシルが小さく言う。
「……落ち着いてる、というより……最初から答えを知ってるみたい」
殿下が何も言わないまま、僕の木剣を見る。
見ているのは木剣なのに、視線の先に僕がいるのが分かる。
(おいおい、やめろ。集団で僕を解剖するな)
僕は笑って、誤魔化す。
「慣れてるだけ」
「慣れてるだけで、あれできる!?」
ガイが叫ぶ。
レティシアが「絶対うそ!」と指をさす。
セシルは「……うそだね」と静かに刺す。
……あ、これ詰んだ。
僕は助けを求めない。
だからここでも助けを求めない。
結果、四方八方から刺される。
(助けて父さ――いやダメだ、助け求めない縛りが発動してる)
笑いながら、心の中でだけ膝をついた。
その時、訓練場の縁で大人たちが小さく頷き合う気配がした。
会話を続けながらも、ずっとこちらを見ていた目が、何かを確かめた目になる。
“子どもたちは、国の柱になる”
その言葉の意味が、木剣の重さよりずっと重く、僕の背中に乗った。
でも――その重さの前に、ガイが笑い、レティシアが怒り、セシルが静かに刺し、殿下がほんの少しだけ子どもの顔をしている。
それが、救いみたいに思えたのが悔しい。
(……はい。今日も僕は、めんどくさい)
休憩の風が、土の匂いを運ぶ。
その匂いだけは嘘をつかないまま、僕らの足元に留まっていた




