第十六話
馬車が屋敷の門をくぐった瞬間、空気の味が変わった。
王城の空気は乾いていて、吸うたびに喉が擦れるみたいだった。
それが、土と花の匂いに置き換わる。庭園の水の匂い、灯りの匂い、使用人たちの温度の匂い。匂いに温度がある、って変な言い方だけど、屋敷はそういう匂いをしている。
「おかえりなさいませ」
クララの声が先に包んでくる。
王城の声は“届く声”だった。屋敷の声は“包む声”だ。包まれると、肩の力が抜けそうになる。抜けそうなのに、抜けきらない。
玄関の灯りが溢れて、扉が開く。
「にいさま!」
次に飛んできたのはクロエだった。
茶髪の影が走ってくる。止まらない。止まれない。止まる理由がない。僕の足に抱きついて、頬を押しつける。あったかい。あったかいってだけで、世界が少しだけ正しくなる。
「おそい!」
怒っている声の形をしているのに、嬉しさが先にある。
僕は困って、でも少しだけ笑ってしまった。
「……ごはんだった」
「ごはん!?」
クロエの目が、また別の意味で光る。五歳の語彙は“ごはん”だけで勝てる。ずるい。
「おいしかった!?」
「……おいしかった」
嘘じゃない。
パンはふわふわだったし、菓子は光っていた。レティシアは変な感想を言い続けたし、ガイはパン屑を落としたし、セシルは“ふつう”って言って譲らなかった。
――楽しかった。
その言葉が喉のあたりまで来て、僕は飲み込んだ。
楽しかった、って言うと、王城で聞いた重い単語まで一緒に吐きそうで。
「クロエ。夜更かしはするな」
父がそう言いながら、クロエの頭を一度撫でる。撫でる手は優しい。
でも父の目は、まだ遠い。王城の石の冷たさを、目の奥に置いたまま帰ってきている目だ。
クロエは「はーい!」って返事をして、僕の手を離さない。
離さないまま引っ張る。
「にいさま! いっしょにねる!」
……知ってる。
僕の夜の自由、今日も全滅。
それでも、腕を引かれる温度が救いみたいで、僕は素直に歩いた。
廊下を進むたび、屋敷の静けさが体に戻ってくる。静けさが戻ってくるのに、王城の足音だけが靴底の裏に残っている。
寝室。
灯りが柔らかい。壁の影が丸い。王城の影は角が尖っていたのに、ここは丸い。
クロエは自分の部屋に戻る途中だというのに、当然の顔で僕のベッドへ登る。登って、僕の服を掴んで、胸元に頭を押しつける。帰宅というより、帰還。
「にいさま、いい匂い」
「……飯の匂いだよ」
「ちがう。にいさまの匂い」
……そういうの、やめてくれ。
胸の奥が変なところをくすぐられる。くすぐられると、息が浅くなる。浅くなると――僕の中の熱が騒ぐ。
僕はそっとクロエの髪を撫でて、落ち着かせる。落ち着かせたいのはクロエじゃなく、自分だ。
クロエの呼吸が少しずつ一定になり、まつ毛がゆっくり落ちていく。
寝るのが早い。羨ましい。五歳ってこうあるべきだ。……僕も五歳なんだけど。
僕は灯りを少し落として、椅子に腰掛けた。
背もたれが軋む音が小さいのに、やけに大きく聞こえる。音に敏感になっている。王城のせいだ。
(食事会、か)
頭の中で言葉を転がす。
“食事会”って言葉は柔らかい。柔らかいのに、今日のは硬かった。噛んでも噛んでも飲み込めない硬さがあった。
まず、子どもは子どもだった。
レティシアは火だった。何でも「やってみる!」って言いそうな火。火は明るい。明るいから、見えないものまで照らす。照らしてしまう。危ない。
ガイは土だった。誰かが笑うと自分も笑う。誰かが困ると勝手に近づく。土は優しい。優しいから、踏まれる。踏まれても怒らない。怒らないから、踏まれる。危ない。
セシルは……水? いや、違う。水は揺れる。セシルは揺れない。
氷だ。薄い氷。薄いのに割れないふりが上手い氷。割れないふりが上手い氷ほど、割れた時の音が大きい。危ない。
五歳の僕が、そんなことを考えるのは変だ。
変なのに、考えてしまう。考えてしまうのは――父が、僕に“知れ”と言ったからだ。
顔を覚えろ。癖を覚えろ。
言ったことを忘れるな。
要するに僕は、友達を作りに行ったんじゃない。
……“柱”に会いに行った。
王様の言葉が、耳の奥に残っている。
柱。国を支える。互いを知れ。笑え。笑いが血を止める。
血。
五歳の会話に出ていい単語じゃない。
でも王様はさらっと言った。さらっと言ったから、逆に怖い。血が当たり前にある世界だと知っている人の言い方だった。
そして、大人たちは見ていた。
僕らが菓子を食べる顔。
パンをちぎる手。
水を飲む癖。
誰が先に笑って、誰が譲って、誰が譲らないか。
何も言わなくても分かる。――値札をつける目だった。
(僕も見てたから、分かるんだよな)
その事実が、ちょっとだけ苦い。
苦いのに、やめられない。やめられないのが一番嫌だ。
じゃあ、僕はどうだった?
僕は笑った。
笑ったけど、半分は扉の向こうを見ていた。見ていたというより、聞いていた。
崩壊。軍備。境界。結束。
単語が落ちてきて、そのたびに、皿の上の甘さが少しずつ薄くなった。
“子ども”を演じるのは簡単だった。
パンを食べて「おいしい」と言う。菓子を見て「すごい」と言う。レティシアの勢いに頷き、ガイの雑さに笑い、セシルの“ふつう”に首を傾げる。
でも“子ども”でいるのは、難しい。
子どもって、本当は知らないから笑える。
知らないから転べる。知らないから、また走れる。
僕は、知ってしまった。父に言われて知ってしまった。今日の食事会は、ただのごはんじゃないって。
――じゃあ、僕は何になる?
柱?
穴を埋める役?
守る役?
クロエの寝息が、胸元から小さく聞こえた。
その寝息が、答えみたいに思える。思えるのに、言葉にすると嘘になる。
守るべき温度は、腕の中にある。
それだけは確かだ。
だから――明日も木剣を握る。
息を吸って吐く。
最適な使い方を積み上げる。派手にしない。目立たない。壊さない。
そして、必要なら――僕が穴を埋める。
そう決めた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
痛いのに、やめない。やめられない。やめる理由がない。
その痛みが、自分の首輪みたいで嫌だった。
(五歳で首輪とか、ほんと、勘弁してほしい)
心の中でだけぼやいて、僕はクロエの髪をもう一度撫でた。
あったかい。
この温度を失いたくない、という気持ちだけが、今日の食事会の中で一番本物だった。




