第十五話
食後の空気は、甘い匂いで終わらなかった。
子ども卓の上では、最後に出たぷるぷるの菓子がまだ光っていて、レティシアは「もういっこ!」と口を尖らせ、ガイはパンの欠片を指で追いかけ、セシルは水の入った杯を両手で持って、ただ静かに眺めていた。
五歳の世界はそれで完結するはずだ。腹が満ちれば、心も満ちる。少なくとも本人たちはそう思う。
――奥の卓だけが、ずっと別の食事をしていた。
王様が席を立つ。椅子の脚が床を擦る音が、ひとつ鳴っただけで部屋が揃う。
揃うって、怖い。綺麗だから余計に怖い。
「本日はありがとう」
グラント・ガリム・アーサーの声は低く、柔らかく、そして決定だった。
殿下――ギルバードがそれに続いて礼をする。少し遅れて、それでも必死に揃えようとしている。遅れることを恥じている顔じゃない。遅れても、立つことはやめない顔だ。
子どもたちは一斉に頭を下げる。
レティシアは急に“いい子”の角度になる。ガイは途中でふらっとして、慌てて戻す。セシルは完璧に無音だった。
……五歳でみんな器用すぎない? 僕も含めて。
給仕が子どもたちを促すと、僕らは手前の卓から立ち上がった。椅子が高くて、降りるのに少しだけ足がもつれる。もつれた分だけ恥ずかしくなる。
恥ずかしい、という感情は、体より先に顔へ出るから厄介だ。
「エド! またね!」
レティシアが手を振る。振り方が大きくて、これで転んだらどうするんだと心配になる。でも転ばない。転びそうでも転ばない。そういう生き物だ。
ガイも「またな!」と叫び、セシルは小さく頷いた。頷くだけで“別れ”になる子だ。
僕が一歩下がって道を譲ると、父――アンセルの手が肩に置かれた。
「行くぞ」
短い言葉。けれどその手は“行け”じゃなく“守る”の手だった。
守られる側でいるのは、楽だ。楽なのに、妙に息が詰まる。
控えの廊下へ出る。
王城の匂い――石と金属と乾いた静けさが戻ってきた。料理の甘さは一瞬で追い払われる。夢が醒めるみたいに。
僕ら子どもは先に通される。
……ただし、先に“追い出された”というより、先に“見送られた”。
見送られた、の方が正しい。
背中に、視線が刺さる。
刺さるというより、撫でられる。値札をつけるみたいに。
さっきまで笑っていた大人たちの目が、笑っていない部分で僕らを追っている。
(はいはい、分かってます。見てますよね。めちゃくちゃ見てますよね)
心の中だけでツッコミを入れながら、僕は歩幅を崩さない。崩すと目立つ。目立つと、また“評価”が増える。
曲がり角の手前で、子どもたちを世話する侍従が「こちらへ」と声をかけた。
レティシアとガイは素直に付いていく。セシルは一拍遅れて、でも遅れたことを誰にも分からせないまま付いていく。
僕も続く――ふりをして、ほんの一瞬だけ足を緩めた。
壁の装飾――タペストリーの前。視線をそっちへ向けたまま、耳だけを奥へ残す。
大人たちの声は、扉の向こうでさらに小さくなる。
小さくなるのに、言葉は重くなる。重いから、耳に引っかかる。
「……子どもは、よく見ていたな」
王様の声。
“よく見ていた”の主語が、僕らだと分かる。見られていたのに、見ていた、と言う。これが王様の言い方なんだろう。
「レティシア嬢は火だ。場を動かす。剣にも、言葉にもなる」
スペンサー・ヴァレンの声が混ざる。どこか誇らしげで、でも誇りを皿の下に隠すのが上手い声。
「ガイ坊やは土ですわね。人を集める。……ただ、優しさは刃物にもなります」
柔らかいのに迫力のある声。ベティ様――王様の妹だと聞いたその人の声が、ふわりと落ちる。
王族の声は、柔らかくても床に沈まない。
「セシルは……静かすぎる。けれど、静けさは魔法になる」
これはローゼン家の母――カラー様の声だ。
褒めているのに、どこか刺す。褒める刃、というのが本当にあるんだと知る。
次の瞬間、王様が淡く笑った気配がした。
「さて。ブロアの子はどう見る?」
――来た。
胸の奥が、ほんの少しだけ硬くなる。
硬くなるな、と自分に言いながら硬くなる。こういう時、体は言うことを聞かない。
父が答える前に、別の声が挟まった。
「……大人しい。だが、鈍くはない。むしろ逆だ」
スペンサー卿だ。秤の針みたいな声。
「食事の手つきが整っていた。五歳にしては整いすぎる。周囲の様子を見て、自分の振る舞いを調整していた」
……やめてくれ。
そんなの、“ただの癖”だ。僕が好きでやってるわけじゃない。目立ちたくないだけだ。
王様が「ふむ」と短く返す。
「私は、あの目が気になった」
王様の“気になる”はだいたい重要だ。
胃がちょっと縮む。
「笑っている時も、半分は扉の向こうを見ていた。子どもの目ではない。――覚える目だ」
覚える目。
褒め言葉の形をしているのに、鎖の音がする。
カラー様が言う。
「隠すのが上手い子は、危ういです。……魔力の話ではありませんよ?」
笑いが混ざる。
混ざるのに、誰も否定しない。否定しないのが答えだ。
ベティ様が低く言った。
「助けを呼ばない顔をしていたわ」
その一言が、なぜか一番痛かった。
呼ばない顔。呼べない顔。呼ぶつもりがない顔。
五歳の僕が、そんな顔をしているらしい。……面倒すぎるだろ、僕。
父の声が来る。淡々としていて、だから重い。
「剣はまだ木剣だ。だが、型を覚えるのが早い。……それと、クロエが絡むと、余計に冷静になる」
守る対象があると冷静になる。
それ、褒めていいのか。褒めると、余計に背負うぞ。
王様が、少しだけ声を柔らかくした。
「アンセル、お前の子だな。……良くも悪くも」
良くも悪くも。
王様がそう言うと、世界が“良い方”だけを選べない感じになる。
「場をまとめるのはレティシアでもいい。人を繋ぐのはガイでもいい。セシルは沈黙で支えるだろう」
王様が続ける。
「だが、ブロアの子は――“穴を埋める”」
穴。
誰かが逃げた穴。誰かが届かなかった穴。誰かが怖くて止まった穴。
そこへ黙って体を差し込むタイプ。たぶんそういう評価だ。
王様の声が少し低くなる。
「穴を埋め続ける子は、いずれ自分が穴になる。……見ておけ」
父が短く返す。
「承知しております」
承知してる、で済むなら楽だ。
済まないから、承知してるって言うんだろうな。大人はずるい。
侍従の声が、僕を呼ぶ。
「エド様? こちらへ」
――まずい。聞きすぎた。
僕はタペストリーから目を離して、何でもない顔で頷いた。
何でもない顔を作るのは得意だ。得意になってしまったのが、たぶん一番の問題だ。
子どもたちの列へ戻ると、レティシアが振り返って言った。
「エド、遅い! 迷子?」
「迷ってない」
「じゃあ、なんで遅いの!」
……それはね。
大人が僕を“国の部品”みたいに採寸してたからだよ。と言えたら楽なのに。
ガイが笑った。
「エド、ねむいの?」
セシルは何も言わずに僕の顔を一度見て、すぐ前を向いた。
見抜いたのか、見抜いてないのか分からない。分からないのが、セシルの一番怖いところだ。
僕は小さく息を吸って、吐いた。
王城の空気は乾いている。胸の奥が少しだけ渇く。
(ただの食事会、ね)
五歳のふりをして笑いながら、僕は歩いた。
背中では、王様と公爵たちがまだ何かを決めている。
その決める音が、さっきまでのデザートの甘さより、ずっと舌に残った。




