第十四話
食事会の部屋は、匂いが先に“王城”だった。
焼いた肉の香ばしさ。甘いソース。湯気の立つスープ。
でも、それより強いのは銀食器の冷たい光と、床に吸い込まれていく足音の整い方で――要するに、料理まで「姿勢を正せ」と言ってくる。
長い卓が二つ。
奥は大人たち。手前は子どもたち。
最初から、そう分けられていた。
分けられているのに、部屋はひとつ。だから音と匂いと視線が混ざる。混ざって、うまく隠れているつもりのものが、たまに漏れる。
王様と殿下が席につくと、場は一度だけ静かになって、すぐに「さあ食べよう」の空気に戻った。
戻った、というより戻された。
「ほら、子どもたちはこっち」
誰かの声が柔らかく言って、僕らは手前の卓へ座らされる。
椅子が高い。足が床に届かない。届かない足がぶらぶらするのが嫌で、僕はつま先を椅子の縁に引っかけた。
レティシアが隣の席に飛び込むみたいに座った。
「ねえ! これなに!? おいしそう!」
皿が置かれた瞬間、目がきらきらする。五歳はこういう時、世界でいちばん正直だ。
ガイはもうパンをちぎっている。
「うわ、あったか! ほら、これさ、ふわふわ!」
セシルは皿を見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
“おいしそう”でも“まずそう”でもなく、「知らない」顔だ。知らないものを知らないまま見ている顔。
給仕の人がスープを注ぐ。
湯気が立って、レティシアが両手で頬を押さえた。
「え、あったかい。あったかいの、いい……」
感想が幼児で助かる。
この場で“味の奥行きがどうの”とか言い出されたら、僕はたぶん逃げる。
「エド、食べて! ほら!」
ガイがパンを差し出してくる。半分ちぎったやつ。
自分の食べかけを渡すの、たぶん行儀悪い。けど、悪気がない。悪気がないのが一番強い。
「ありがとう」
受け取ってかじる。
あったかい。柔らかい。バターの匂いがする。口の中が一瞬だけ幸せになる。
――幸せ。
その言葉が浮かんで、僕はすぐに飲み込んだ。
今、そんな言葉を使うと、薄い氷の上を踏むみたいで怖い。
「ねえエド! この肉、すごい! かたいのに、やわらかい!」
レティシアが訳の分からないことを言っている。
訳は分からないけど、うまいんだろう。うまいから、そうなる。
セシルは小さくスプーンを動かして、黙って食べている。
黙っているのに、ちゃんと周りを見ている。目だけが動く。
怖いというより、落ち着かない。猫が隅で見てるみたいな感じ。
「セシル、ねえ、これ好き?」
レティシアが聞く。
「……ふつう」
「ふつうってなに! おいしいでしょ!」
「……ふつう」
セシルは譲らない。
譲らないけど、喧嘩する気もない。
言葉が短いから、レティシアの勢いが空振りする。
ガイが笑った。
「セシル、ちょっとだけ、にこってしたらいいのに!」
「……べつに」
「べつにって、ふつうって、なんだよ!」
ガイが笑いながら言う。
五歳の会話は、だいたい同じところをぐるぐる回る。ぐるぐる回るのに楽しい。楽しいから、回る。
僕は頷いたり、「うん」と言ったりして、ちゃんと輪にいるふりをする。
ふり、じゃない。いるのはいる。楽しいのも、たぶん本当だ。
でも――耳は、奥の卓へ向いていた。
大人たちの声は小さい。
小さいのに、言葉が重いから耳に引っかかる。
子どもの笑い声の上を、刃物みたいに滑っていく。
「……崩壊の頻度が……」
「……各国でも同様……」
「……軍備の動きが早すぎる……」
断片だけが聞こえる。
断片でも、胸の奥が冷えるには十分だった。
(やっぱり、ただのごはんじゃない)
父の声も混ざっている。
父はいつも淡々としている。淡々としているほど、内容が深い。
王様の声は低くて、部屋の隅まで届く。届くけど、刺さり方が違う。命令じゃないのに、決定になる声。
殿下の声は、時々だけ混ざる。
少年の高さ。けれど、混ざるたびに部屋が一瞬だけ固くなる。
固くなるのに、すぐに大人の誰かが柔らかい言葉で包む。包んで、殿下の声を“食事会”の布で隠す。
レティシアが僕の袖を引っ張った。
「エド! 見て! これ、ぷるぷる!」
皿の上の何かを指さしている。
甘い菓子だ。透明で、光が中で跳ねる。宝石みたいに見える。
「……すごいな」
「でしょ! ねえ、たべていい? いいよね?」
許可を取っているふりをして、もう手が伸びている。
五歳の“いい?”は、だいたい“見る?”と同じ意味だ。
ガイが身を乗り出す。
「俺も! 俺もそれ!」
「順番!」って給仕の人が笑って言う。
笑う声が優しい。優しい声が、この場を“子どもは子ども”に戻してくれる。
セシルは菓子を見て、ほんの少しだけ目を丸くした。
丸くしたのに、すぐに戻す。戻して、何でもない顔でスプーンを持つ。
その“戻し方”が、妙に上手い。五歳なのに。
(この子、泣かないタイプだな)
根拠はない。
ただ、直感が言う。こういう子は、泣く前に飲み込む。飲み込んで、平気な顔をする。
平気な顔が上手い子ほど、あとでどこかが割れる。
「エド、ねえ、食べないの?」
ガイがパンを頬張りながら言う。口の端にパン屑がついている。
「食べてる」
僕はスープを飲んだ。熱い。舌が少し痛い。
痛いのに、体の中があったまる。あったまると、心が少しだけ軽くなる。軽くなるから油断しそうになる。
油断するな。
父の言葉が背中の内側で鳴る。
奥の卓から、また断片が落ちてくる。
「……聖王国も……動く……」
「……サデウスが……理由を……」
「……帝国が……境に……」
“動く”“理由”“境”。
子どもの皿の上に、見えない石が落ちてくるみたいに重い。
レティシアが菓子を口に入れて、目を見開いた。
「えっ! なにこれ! すっごい! つめたいのに、あったかい!」
また訳の分からないことを言っている。
でも、嬉しそうだ。嬉しそうだから、周りも嬉しくなる。
ガイが笑いながら手を叩く。
「レティシア、へん! でも、わかる! なんか、いい!」
「でしょ! ねえセシル! たべて!」
セシルは少しだけ迷ってから、口に入れた。
そして、ほんの一瞬だけ――口元がゆるむ。
ほんの一瞬。見逃したら、なかったことになるくらい。
レティシアが「今笑った!」と騒ぎ、ガイが「見た!」と騒ぐ。
セシルは「笑ってない」と言い張って、でも耳が少し赤い。
五歳の世界は、こういうので出来ている。
菓子がぷるぷるで、パンがふわふわで、誰かの口元が一瞬ゆるんだだけで大事件だ。
そのすぐ隣で、大人の世界は別の言葉を積んでいる。
崩壊。軍備。境界。結束。
笑い声の裏で、石が組まれていく音がする。
僕はレティシアの皿に菓子を少しだけ分けて、ガイのパン屑を指で払ってやって、セシルに水を勧めるふりをした。
ふり、じゃない。やっている。やっているのに、心の半分は奥の卓に置きっぱなしだ。
父の声が、また聞こえた。
「……子どもたちは、守るべきだ」
守るべき。
その言葉が、胸の奥へ落ちて、沈んだ。
(守られる側、か)
僕はスープの表面に揺れる光を見ながら、こっそり奥の卓へ耳を傾け続けた。
子どもの席で笑いながら、笑っていない部分を隠したまま。
ただの食事会みたいに見えるほど、この場は上手に出来ていた。
だからこそ、余計に――怖かった。




