第十三話
王城が近づくほど、匂いが冷たくなる。
焼き菓子の甘さも、香辛料の刺激も、どこかへ押し戻されていく。代わりに残るのは、磨かれた石と金属の匂い。乾いていて、口の中が勝手に渇く匂い。
(……うん。ここは、笑い声の場所じゃない)
馬車が止まる。
扉が開く。外の光が差し込んで、いきなり世界が“眩しい白”になる。目を細めると、門の高さが視界を塞いだ。空が切り取られて、細く見える。
父が先に降りて、僕に手を差し出した。
「エド」
五歳の足は短い。階段は高い。高いくせに、転べば音が鳴る。音が鳴れば、視線が集まる。視線が集まれば……面倒が増える。
だから僕は黙って父の手を掴む。硬くて、あったかい。剣を握る手の硬さだ。
鎧の音が揃って鳴った。
衛兵たちが礼をしている。頭を下げる角度まで揃っていて、揃っていること自体が怖い。揃うというのは、命令が通るという意味だから。
僕も真似して頭を下げる。
父は小さく頷いた。
「背すじ」
それだけ。
いつもの稽古の言葉なのに、ここでは“家”の言葉になる。背すじを伸ばすのは礼儀で、盾で、値札をつけられないための抵抗でもある。
門をくぐると、音が変わった。
街の音は混ざっていた。パン屋の声、子どもの笑い声、馬のいななき、全部がぐちゃぐちゃで、でも生きていた。
城の音は、整理されている。足音、衣擦れ、金属の擦れる音。必要なものだけが残って、必要じゃないものが切り落とされている。――まるで剣の刃みたいに。
廊下は長く、天井は高く、窓は大きいのに、光が柔らかくない。
石畳がぴかぴかで、僕の靴が「こつ、こつ」と鳴るたびに、僕の存在を誰かに報告しているみたいだ。
(うるさい……いや、僕の方がうるさいのか)
父の足音は、鳴っているはずなのに鳴っていない。
同じ床なのに、父だけ“音を置かない”。ずるい。騎士ってそういうところまで勝負なのか。
角を曲がる直前、父が歩幅を少し落とした。
視線を前に置いたまま、声だけをこちらへ落とす。
「ここから先は、ただの食事会だと思わせておけ」
思わせておけ。
“言うな”より、ずっと重い言葉だ。
「お前は覚えておけ。あの子たちの顔も、癖も、声も。……それが、国を守る」
国。
さっき馬車の窓から見た、広い道と笑い声が脳裏に浮かぶ。
あれを守るために、今ここで“食事”をする。――そういう理屈が、五歳の胃にはちょっと硬い。
「うん」
それだけ返す。
“なんで?”は飲み込む。今聞いたら、父の言葉の重さが増えて、僕の足が止まる気がした。
扉が開いた。
控えの間は、まだ料理の匂いがしなかった。
銀の燭台がきらきらして、火が揺れているのに、あったかくない。豪華さって、時々“冷たい”と同じ顔をする。
そこに、先に来ていた子どもたちがいた。
「ねえ、ほんとにごはん?」
赤い髪の女の子が廊下の先を覗き込んでいる。髪は高いところで結ばれて、ぴょんぴょん跳ねる。目まで跳ねている。
その隣で茶色い髪の男の子が「たぶん」と言って、もう自分で笑っていた。外の匂いがする子。土と草と日なたの匂い。
「たぶんってなに! ごはんはごはんでしょ!」
赤い子が言い切って、自分で「うん」って頷く。
強い。理由より先に強い。
その赤が、僕を見つけた。
「あっ! きた!」
指をさされる。
行儀が悪いのに、悪気がない。悪気のない失礼って、扱いが難しい。怒ると大人みたいで、笑うと舐められる。――五歳って忙しい。
「ねえ! きみ、ブロア?」
距離が近い。声が大きい。
父が背中の後ろに立つだけで、空気がちょっと固くなるのが分かる。子どもはそれを“こわい”って言う。僕は“重い”って思う。
「……うん。エド」
僕が名乗ると、その子はぱっと笑った。
「レティシア! レティシア・ヴァレン!」
名乗り方が、どーん!って感じだ。
その勢いだけで、場の中心に立てる子。たぶん、転んでも立つ。泣いても立つ。泣かないで立つかもしれない。いや、泣くときは泣く。五歳だし。
レティシアは僕の手を掴んだ。握手というより捕獲だ。
「エドって、けん、できる? できる?」
質問が二ついっぺんに来る。息継ぎがない。
僕は少しだけ間を置いた。
「……ちょっと」
「ちょっと!? ちょっとって、どれくらい!」
また来た。
“ちょっと”って便利だけど、ここでは危険だ。膨らませられる。膨らませられた噂は、勝手に歩く。
助け舟みたいに、茶髪の子が割り込んできた。
「ねえねえ、ブロアってさ、つよいんでしょ? だってアンセルさまの家だもん」
言いながら、自分の胸を叩く。
「おれ、ガイ! ガイ・リュミエール!」
名乗り方が明るい。明るさって、こういう場所では武器になる。
大人たちが作る“薄い笑顔”じゃなくて、ちゃんとした笑顔を持ってくる。場の角が少し丸くなるのが分かった。
「エド! あとでさ、木のやつ! ふるやつ! いっしょにやろ!」
「木のやつ……木剣?」
「そうそう! それそれ!」
語彙がふわふわしてるのに、嬉しさは本物。
僕は頷く。
「うん、いいよ」
ガイが「やった!」って小さく跳ねた。
「ガイ、いま跳ねた! へん!」
レティシアが笑って肩を叩く。
「へんじゃないし!」
言い合いが始まりかけたところで、別の声が落ちた。
「……うるさい」
小さいのに、耳にまっすぐ届く声。
ショートカットの女の子がいた。眠そうな顔。眠そうなのに、目だけが正確にこちらを捉えている。
「だれ?」
レティシアが聞く。聞き方が猫みたいだ。
「……セシル」
女の子はそれだけ言った。
「せしる?」
ガイが聞き返す。
セシルは眉を動かさずに頷く。
レティシアが口を尖らせた。
「セシル、いまの“うるさい”って、わたし?」
「……ぜんぶ」
セシルが言った。
ずるい。全部って、反論の逃げ道がない。
「えー! おれも!? おれもなの!?」
ガイが目を丸くする。
セシルは「うん」と頷くだけ。
レティシアはふくれた顔を作って、すぐに笑った。
「じゃあさ、セシルもこっち来ればいいじゃん。ね、エド!」
また僕に振る。
なんで僕が決める係なんだ。まだ会って五分だぞ。
「……うん。来ればいい」
僕がそう言うと、セシルがじっと僕を見る。
水みたいな目。さらさらしていて、触ると冷たそうな目。
見られていると、僕だけが知っている“食事会じゃない部分”まで覗かれそうで、息が一瞬だけ止まりそうになる。
(三人は知らない。僕だけ知ってる)
父の言葉が背中の内側に残っている。
覚えておけ。顔を。癖を。声を。
……五歳にしては宿題が重すぎる。誰だこれ出したの。いや、父か。父だな。
ガイがまた廊下を見た。
「ねえ、ほんとにごはんだよね?」
レティシアが「ごはんだってば!」って言い切る。
言い切るのに、目だけはちょっと不安そうだ。不安なのに言い切るのが、この子の強さなんだろう。
僕が何か言おうとした、その時。
廊下が急に静かになった。
静か、じゃない。
静かに“させられた”。
足音が二つ近づく。
一つは短く深い。石が道を開けるみたいな足音。
もう一つは軽い。追いつこうとしている足音。息を転がして、合わせようとしている。
「……え?」
ガイの声が小さく漏れた。
レティシアの顔がぱっと変わる。さっきまでの子どもが消えて、“いい子”の顔になる。
セシルは瞬きが減る。眠そうなまま、固くなる。
扉が開いた。
王様が入ってきた。
グラント・ガリム・アーサー。
王冠がどうとか、服がどうとか、そういうのより先に分かる。
この人が入ってきた瞬間、部屋が「王様の部屋」になる。
その隣に金髪の男の子。
殿下。ギルバード・ガリム・アーサー。
僕と同じくらいの背なのに、口元がこわばっている。目が泳ぎそうになるのを、必死で押さえて前を見ている。
王様の手が殿下の肩に置かれていた。置かれているだけで、殿下の足音が少し揃う。
ガイが口を開けたまま固まって、ぼそっと言った。
「……え、王さまって……ほんとに来るの……」
レティシアが小声で返す。
「だって王さまだよ? くるでしょ……たぶん……」
さっき「たぶんってなに!」って言ってたのに。
僕は心の中でだけ、「言ってたじゃん」とつっこんだ。
王様が部屋を見渡す。
それだけで、背中が勝手にまっすぐになる。五歳の背中でも、勝手にまっすぐになる。そういう視線だ。
「よく集まったな」
声は低くて、やさしいのに、逆らえない。
殿下が小さく咳をして、一歩前に出た。こわばってるのに、逃げない。逃げられないのかもしれないけど――逃げないように立っている。
「……ギルバード・ガリム・アーサーです」
殿下は名を言った。
名を言うだけなのに、重く聞こえた。
王様が少し笑う。
「今日は食事会だ、と聞かされていた者もいるだろう。嘘ではない。食事はする」
ガイが「ほっ……」って顔をする。
でも王様は続けた。
「ただし、互いを知る席だ。お前たちは、いずれ国を支える柱になる」
柱。
五歳の僕には、柱って屋敷の木の柱しか知らない。なのに王様の言う柱は、折れたら上が落ちてくる柱だと分かってしまう。分かってしまうのが、ちょっと嫌だ。
僕は息を吸って、吐いた。
父の言った通りだった。
(ほらね。ごはんだけじゃない)
言わない。言えない。
僕だけが知っていることをここで口にしたら、僕は“柱”にされる。五歳の体に、そんな重いものを乗せられたくない。いや、もう半分乗ってる気もするけど。やめてくれ。
ガイがこっそり僕を見る。
レティシアも、セシルも、分からないまま固まっている。分からないからこそ、目が丸い。
僕は小さく笑いそうになって、すぐにやめた。
笑ったら、ちょっと大人みたいで。
それは――今の僕には、似合わない気がした。




