第十二話
屋敷を出たのは、たぶん――生まれてから初めてだった。
門をくぐった瞬間、空気の厚みが変わる。
屋敷の空気は整えられていて、必要な匂いだけが並べられている。でも外の空気は、遠慮がない。焼いたパンの甘さ、乾いた木の匂い、馬の汗、通り過ぎる人の香油。全部が混ざって、ちゃんと“街”の呼吸になっている。
馬車は揺れながら、王都の大通りへ出た。
そして――そこで、僕は言葉を失った。
広い。
道が広い、というだけで胸が鳴った。
屋敷の回廊は人のための幅しかない。けれど王都の道は、国のための幅がある。石畳は整然と敷き詰められ、轍が刻まれていても崩れていない。馬車が三台並んでも余裕を残してすれ違える――その余裕が、ただの便利じゃなく“力”に見えた。
カーテンの隙間から外を見る。
視界いっぱいに、中世の絵本みたいな街並みが流れていく。
白い壁に濃い木の骨組み。
梁が格子のように走り、家の輪郭をくっきり縁取っている。屋根は急で、赤茶の瓦が陽を拾い、窓枠には花が並んでいる。二階の窓からは洗濯物が垂れて、風に揺れていた。それが生活の旗みたいだった。
露店が整然と並ぶ区画があり、香辛料の匂いが一瞬だけ鼻を刺す。
果物の山、焼き菓子、布、陶器。
売り子の声は大きいのに、どこか陽気だ。値を呼ぶ声さえ歌に聞こえる。
――綺麗だ。
綺麗で、明るくて、眩しい。
屋敷の庭園は静かで優しかったけれど、王都の優しさはもっと騒がしい。騒がしいのに、整っている。人の数が多いのに、道がそれを受け止めている。国が“ここに人を集める”と決めた意思が、石畳の隙間から見える気がした。
そして――子どもたち。
通りの脇、広場の一角で、子どもたちが走り回っていた。
木の輪を棒で転がして追いかける子。石を並べて陣地を作る子。誰かの肩に飛びついて笑う子。転んで、泣きかけて、それでも友達に引っ張られてまた走る子。
笑い声が、道の上を跳ねる。
馬車の車輪の音に負けないくらい、軽くて強い音。
その隣では、母親らしい女が腰に手を当てて見守りながら、笑いながら叱っていた。
男たちは荷車を押して、文句を言いながらも手は止めない。
パン屋からは湯気が立ち、香りが街路樹の葉に絡む。
――世界は、普通だ。
少なくとも、庶民の世界は。
父が言っていた「ダンジョン崩壊」も「軍備拡大」も、この通りには影として落ちていない。落ちているとしても、子どもたちの笑い声がその影を蹴散らしている。
僕は思わず、馬車の窓に指をつけた。
ガラスが冷たい。僕は守られた箱の中にいる。その冷たさが、逆に現実だった。
(……こんなふうに、皆、生きてるのか)
胸の奥が、きゅっと鳴った。
感動、と呼ぶにはまだ言葉が追いつかない。
でも、心臓の裏側が薄く熱を持つ。魔力の熱じゃない。もっと柔らかい、景色に触れたときの熱。
父は正面を向いたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
見ていい、と言われた気がした。
馬車が進む。
大通りは続く。
旗が揺れ、紋章が並び、衛兵が整然と立っている。
王都は大きい。
大きいだけで、守りに見える。
でも――守りが必要な理由があるから、こんなに整っているのかもしれない。
子どもたちは、まだ知らない。
知らないまま笑う。
笑える街であることが、いちばんの“国の強さ”なのだと、五歳の僕でも分かった。
馬車が角を曲がると、遠くに城壁が見えた。
高く、厚く、影が濃い。
その影を背負って、王城が立っている。
――この明るさを、あの石の冷たさが守っている。
そう思った瞬間、僕の背筋が少しだけ伸びた。
木剣を握る手の感覚が、胸の奥に蘇る。
守るべき温度は、屋敷だけじゃない。
この通りの笑い声も、その一部だ。
馬車は王城へ向かう。
石畳の音がさらに硬くなる。
けれど僕の目には、まだ広い道と、走る子どもたちの影が残っていた。




