第十一話
訓練が始まると、日付は薄くなる。
昨日と今日の違いが、朝日じゃなくて筋肉痛で分かる。
庭園の花が咲いたとか、噴水の音が澄んでいるとか、そういう“季節の報告”より先に、握った木剣の重さが一日の形を決める。
毎朝、訓練場へ向かう。
土の匂いと汗の匂いの境界を跨ぐと、身体が勝手にスイッチを入れる。切り替えが早くなるのは、たぶん良いことだ。たぶん。
アイク副隊長は、いつも先にいる。
「遅い」
と言う日もあるし、
「早い」
と言う日もある。
時間の概念が僕と違うのか、たぶん“気合”で測っている。騎士という職業はだいたいそうだ。
最初にやるのは、構え。
次に足。次に呼吸。
それから素振り。型。間合い。打ち込み。
「剣は腕で振るな。身体で振れ」
何度も言われる。
何度も言われるたびに、少しずつ違うところに刺さる。言葉は同じなのに、僕の身体のほうが変わっていくからだ。
剣を振ると、音が出る。
音が出ると、クロエが来る。
「エド!」
茶髪の影が回廊から飛び出してくる。
止まらない。止まれない。止まる理由がない。クロエはそういう生き物だ。
父に断られても、剣を学べなくても、クロエは訓練場にいることをやめなかった。
代わりに“見学”を自分の役割にしてしまう。役割を見つけるのが上手い。上手すぎて怖い。
クロエは訓練の端に座り、僕の木剣の軌道を追う。
足の踏み込みを追う。
アイクの声を追う。
時々、僕の腕を見る。
――あったかい、と言った場所だ。
僕は魔力を漏らさないように意識する。
剣を振るときほど、魔力は滲みやすい。身体が熱を持つと、内側の熱も騒ぐ。騒ぐから、抑える。抑えたまま動く。動いてもこぼさない。こぼしたら、クロエが気づく。クロエが気づいたら、屋敷が気づく。屋敷が気づいたら、僕の夜が終わる。
最適な使い方。
派手にしない。
目立たない。
壊さない。
アイクは僕の変な癖に気づいているようで、気づいていないようでもあった。
たぶん気づいている。気づいているのに、今は触れない。触れないことで守っている。そういう大人の距離感を、僕は少しだけ信用してしまう。
「休憩だ」
アイクがそう言うと、クロエが飛んでくる。
「エド、みた! すごい!」
説明が雑。褒める気は本物。
クロエは僕の袖を掴み、頬を寄せるように笑う。場の空気が丸くなる。訓練場にいる騎士たちが、なぜか少し優しくなる。クロエはまだ小さいのに、もう“マドンナ”の気配がある。本人は自覚していない。自覚していないからこそ強い。
僕は少しだけ困って、少しだけ嬉しい。
嬉しいという言葉は、僕の中だとまだ輪郭が薄い。けれど、クロエが笑うと、胸の奥のざわつきが静かになる。理由は分からない。分からないのに、確かにそうなる。
そうして訓練を終えると、屋敷へ戻る。
戻ると、夜になる。
夜になると――僕の中のもう一つの訓練が始まる。
書庫へは、以前ほど自由に行けなくなった。
クロエが夜な夜な僕の部屋へ侵入してくるからだ。侵入という言い方は悪い。クロエは「帰宅」くらいの感覚で入ってくる。
扉が少し開く。
足音がする。
クロエが当然のようにベッドへ上がる。
当然のように僕の服を掴む。
当然のように胸元へ頭を押しつけて眠る。
……僕の夜の自由、全滅。
だから僕は、魔法の練習をさらに小さくした。
指先に集めるのはまだ無理だ。“一点に届かない”。無理をすれば呼吸が浅くなる。めまいが来る。最悪気絶する。クロエの隣で気絶とか、やめてほしい。いや、想像しただけで終わっている。
腕全体に流す。脚全体に満たす。留める。散らさない。
呼吸を整えるだけでも練習になる。
息を吸って、吐く。
空気の中の“元”が、胸の奥を満たす。満たしても、こぼさない。
クロエは時々、寝ぼけたまま僕の胸元に手を当てて、ふにゃっと笑う。
その手が、僕の中の何かに触れている気がして、僕は息を殺す。息を殺すと回復が遅くなる。遅くなるのに、殺してしまう。矛盾だ。矛盾を抱えたまま、眠りが浅くなる。
次の日、また訓練。
またクロエ。
また夜。
また小さな練習。
日々は繰り返しているのに、屋敷の外の匂いだけが、少しずつ濃くなっていった。
父の帰りが遅くなる。
遅いだけじゃない。
扉が開く音が硬い。
足音が重い。
訓練場の汗の匂いではなく、王城の石の匂いがする。冷たく、硬く、乾いている匂い。そこに金属の匂いが混じる。武具の金属ではない。国の金属だ。
夕食の席で、父は言葉が少ない。
少ないのに、落とす単語が重い。
「……崩れた」
父が箸を置く音が、やけに響いた。
母は目を伏せずに聞いた。
母の目は、数字と同じくらい嘘を嫌う。
「ダンジョン?」
父が頷く。
「崩壊だ。異常な崩れ方をした。中の魔物も、動きが違う」
母の指が、無意識に杯の縁を撫でた。
不安が指先に出る。母は隠すのが上手いのに、指先だけは正直だ。
「ここだけじゃないのね」
「各国でも起きている」
父は淡々と言った。淡々としているほど、内容は深い。
「サデウスでも。聖王国でも。帝国でも」
母が息を吸う。
屋敷の中の空気が一度、薄くなる。
「……揃いすぎている」
母の言葉に、父が同意するように目を細めた。
「軍備が動き始めた。露骨に増やしている国もある。理由を作るのが上手い連中だ」
軍備。
その言葉は、訓練場の木剣より重かった。木剣は振れば音がする。でも軍備は、振らなくても人を切る。
僕は黙って食べるふりをした。
子どものふりは、得意だ。泣かない代わりに、隠すことだけは覚えてしまった。
クロエは分からない顔をしていた。
分からないのに、父と母の空気の変化を感じ取って、僕の袖を握り直した。弱い握力なのに、心のほうは強い。
父はクロエを見て、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「大丈夫だ」
言い切る。
言い切ることで、家の柱を立てる。父はそういう人だ。
でも――父の目は笑っていなかった。
僕はその目を見た。
見てしまった。
見てしまう癖は、こういう時に役に立つのか、ただ苦しくなるだけなのか分からない。
夜、クロエが僕の胸元で眠る。
僕は呼吸を整える。
空気の中の“元”が胸の奥を満たす。満たすのに、心だけは満たされない。
ダンジョン崩壊。
各国の軍備拡大。
言葉が、屋敷の壁の内側まで入り込んできた。
世界が動き始めている。
僕はまだ五歳で、指先に届かないものがある。
それでも――守るべき温度は、もう腕の中にある。
だから僕は、次の日も木剣を握る。
息を吸って吐く。
最適な使い方を、積み上げる。
繰り返しの中に、亀裂の匂いが混ざり始めた。




