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「温泉?」


 フォウは目をまん丸にした。


「そんなもんがあるんですか? ここに?」


「ああ、そうだよ」


 氷浦教授はゆったりと安楽椅子に腰かけ、アールグレイの紅茶をくゆらしながら頷いた。


「そもそも日本という国は、どこを掘ってもたいてい温泉が出てくるといっていい。なにしろ火山のないところでも、地熱で温められた地下水が湧き出てくるんだから。

 ましてやこの付近は、かつては黒鉱ベルトとまで呼ばれた土地だ。鉱夫たちが体を休めるため、大々的に温泉が掘削され、整備されていたんだよ」


「でも、黒鉱ベルトってのは鉱石が出てくるというだけで、火山とは関係ないでしょう?」


 議論する二人に、和彦が新しい熱い紅茶を供した。


 三人は今、研究所の別棟にあるリビングルームで、優雅に午後のお茶を楽しんでいた。


 というのも事情があって、せっかく取り寄せた新しい論文を元に機器を改良したところ、どうも日本の風土にはその理論が合致しないようで、誤差ではすまされない数値ばかりが吐き出されるようになってしまったのである。

 その顛末を著者にメールで連絡したものの、なしのつぶて。

 しかたなく氷浦教授も、計測機器をいったん止める決意をしたのだ。


 外は吹雪。


 けれども研究所には立派な自家発電が備わっており、部屋はぽかぽかと暖かい。さらには、和彦が勤勉に毎日補給する薪によって、暖炉にも楽し気に火が踊っている。

 寒がりのフォウがここで生きていけるのも、これらの暖房が完備されているおかげだ。


「あ、でもここの自家発電も、地面の下からエネルギーを取ってきてるんでしたっけ。天然ガスか、地熱発電? 戦前の建物だっていうのに、たいしたもんですね」


「それが、この土地が選ばれた理由のひとつだからね」


 氷浦教授がおっとりと答えた。


 この研究所の建物は、元は旧日本軍の最期の砦として密かに建設されたものだという。いざというときには天皇一家を移住させる予定もあったというから、その覚悟たるや生半可なものではない。

 自家発電はおろか、水道関係もその他のインフラも、最後の最後にここへ籠城することを想定して整備されていた。

 もっとも、結局は出番のないまま終戦を迎え、打ち捨てられていたものを氷浦教授が買い入れ、自分の研究所として改修したのだが。


「近くに鉱山があるから兵器を作るにも便利だし、地下資源も抱負だ。冬は豪雪に閉ざされてしまうのも、守る側にとっては有利に思えただろう。

 そうそう、ここにも地熱温泉の湯は引かれているから、フォウくんが毎晩入っているお風呂も、温泉の一種といっていいんだよ」


「へええ」


 フォウはますます目を丸くした。


「それじゃあ、シャワーだけですますのはもったいないんですね? しまったなあ。俺たち香港人ってのは、浴槽に湯を溜めて浸かる習慣がとんとなくって」


「湯を溜めるのが面倒くさいのなら、旧鉱山の脇にあった温泉がまだ使えるそうだから、入りにいってみるといい。

 今でもいい温度の湯が湧き出ているというので、村の人たちが整備し直したんだ。成分としても、ラジウム温泉の資格がありそうだというので、日本温泉協会に申請してみるかという話になっているそうだよ」


「えっ。ここの鉱山からはラジウムなんかが出るんですか」


「実際にはラジウムでなくて、ラドンがほとんどのようだけどね。日本には意外に多いんだよ、ラドン温泉は。ラドンが地下水に溶け出すというのは、つまりその土地の奥底にウラン鉱石があるということだ。これをなんとか活用できないかということで、鉱山も開発されたんだろう。

 もっとも、採算が取れなければ、どんな事業も長続きはしないものだがね」


「鉱山といえば」


 フォウと氷浦の会話に和彦が割り込んだ。


「この間、フォウくんがやっつけた強盗の後日談を聞いたかい? なんでも彼らはレアメタル強盗という珍しいものだったそうだよ」


「えっ。なんだそれ」


 すぐに頓狂な声をあげたフォウだけでなく、いつもは泰然としている氷浦教授も、この情報には驚いたようだ。


「そんな話をどこで聞きこんできたんだね、和彦」


「もちろん村からですよ。珊瑚ちゃんは理系の勉強をしているだけあって、そういう情報には敏感ですからね。レアメタルとか言われても、警察だってどうしていいかわからなかったんでしょう。高校の天文地学の先生に警察から協力要請があったので、その先生から珊瑚ちゃんが上手に聞き出したみたいです」


 フォウが強盗を追いかけていったことは、珊瑚しか知らない。バスの乗客たちもあのパニックの中で、フォウが何者かなど気にする余裕はなかっただろう。


 誰かが強盗を二人まとめてやっつけてしまったことは評判になっていたが、幸いにしてそれと山奥の研究所を結びつける者はいななかった。

 ましてや、バスと強盗を凍らせたのが和彦であったことは、フォウ以外の誰にも見とがめられていない。


 とはいえ、現に犯人の一人は蹴られて気絶、もう一人は水たまりの中に昏倒しているとあっては、警察も後始末に困ってしまったのだろう。

 新聞にもテレビにも、続報らしい話はいっこうに流れてこなかった。


「けど教授、このあたりの鉱山からは、まさかレアメタルも出るんですか?」


「そんな話は聞かないけどねえ」


「ああ、レアメタル自体はどこかのリサイクル工場から奪い取ってきたものらしいです。中には大量のリチウムなどが含まれていたそうで。

 珊瑚ちゃんの知識によると、リチウムは覚せい剤を作るときにも利用されるので、警察がやっきになって追っていたんじゃないか、と」

「バッテリーとかにも使われてるんだろ? わりと簡単に爆発しちゃうから、航空制限貨物にもなってるんじゃなかったっけ」


 そんなこんなでマークされていた犯人が、追いつめられた挙げ句、ど田舎の雪国までやってきて、運の悪いことにそこで正義感の強い炎使いと鉢合わせしてしまった、というわけか。


 そう考えたら、笑えないこともない事件ではあるが。


「犯人たちがこの町までやってきたのは偶然ではなく、廃鉱山があるせいかもしれないね。さすがにレアメタルはないとしても、鉱夫が戦前に切りだしてきた鉱石がそこらにごろごろ放り出されたままになっているし、精錬所の大型機械も残されている。それにレアメタルを加えて、何かを作ろうとしていたのかもしれない」


「いや、そんな高尚な連中にはとうてい見えませんでしたけど……」


 フォウが首をかしげた。


「なあ、和彦さん。どう見てもあいつら、ただのチンピラ崩れのゴロツキって感じだったよな。たぶん水素の原子番号だって答えられない手合いだよ。鉱石とかレアメタルとかも、単に誰かの手先にされて集めてただけなんじゃないかなあ」


 その言葉を聞いているうちに、和彦は何か落ち着かない気分になってきた。


 見ればフォウも同様なようで、しきりに尻のあたりをムズムズさせている。まるで、出発命令を待っているそり犬のように。


氷浦教授が笑った。


「二人とも、気になってしょうがなくなったようだな。いいだろう、廃鉱山の精錬所までの道のりを教えよう。和彦はともかくフォウくんは、自分の目で確かめないと我慢ができないだろうからな」


「いや、その、それは……」


 フォウが頭をかいた。

 猪突猛進、無我夢中。普段は止めて止まらぬ暴れん坊も、かまわないから行ってこいと言われたら、一応は戸惑ってしまうようだ。


「仕事のことはかまわないよ。どうせ替えの部品が届かない限り、空間認知計の調整はできないんだ。ちょっとした遠足のつもりで、骨やすめしてくるといい。幸い、ここしばらくは雪も降らず、上天気が続いている。和彦、せっかくだから弁当でも作っていきなさい」


「はい」


「フォウくんは着替えとタオルの用意をするといい」


「き、着替え? なんでですか。鉱山の中に入るとそんなに汚れちゃうんですか?」


「ははは。そりゃあもう戦後何十年も打ち捨てられている場所だから、多少の汚れは覚悟せねばな。だが、いくら汚れても大丈夫なんだよ。精錬所の近くには露天風呂があって、そこは今も村の人たちがたまに使っているから、いきなり行っても入浴ができるはずだ。

 あそこまでわざわざ行くからには、ついでに、村の自慢のラドン温泉にも入ってきなさい。後で村の人に話をしたら、きっと喜んでくれると思うよ」


「はあ……」


 強盗の話がいつの間にか、お弁当を抱えた秘湯ツアーになってしまった。

 思わず顔を見合わせた和彦とフォウも、結局は笑い出した。


「和彦さん、サンドイッチにしようぜサンドイッチ! それなら俺も手伝えるもん!」


「いや、君がこの間つくった巨大おにぎりの迫力はそうとうなものだったよ。塩味はまったくしなかったけれど、中にランチョンミートを丸ごと突っこむというのは思いもかけない荒業で、なかなか楽しかった」


「あれは! 俺は香港人だからオニギリの握り方なんか義務教育で習ってねえの!」


「君の作品を見るに、どうやら野菜炒めやチャーハンも義務教育じゃなかったみたいだけど」


「うるっせえな! どうせ俺は料理が下手ですよ!」


 下手というよりは、せっかちすぎてレシピの順番を守れないのが原因の大部分ではないかと和彦は思っていたが、そのことは黙っておくことにした。

 下手の自覚はあっても、毎回めげずに料理の手伝いを申し出るところがフォウらしさである。

 その心意気を理解できなければ、この青年とは付き合っていられない。


「じゃあ、チーズとハムをちぎってもらおうかな。それならさすがに、致命的な失敗とかもないだろう」


「あっ、ひでえな和彦さん。俺だってパン焼いてバター塗るくくらいのことはできるんだぜ」


「サンドイッチのパンは黒コゲになるまで焼いちゃいけないし、君は前回もそう言って、パンに塗りたくったのはバターでなくてカスタードクリームだったよ。キュウリを挟んだカスタード入り黒焦げパンは、なかなか衝撃だった」


「あー! だからっ、あれは!」


 二人が大騒ぎしながらキッチンに向かうのを見送って、氷浦教授は紅茶の最後の一口を飲み干した。


 かちゃりとカップを置き、静かに微笑む。


 フォウが来てから、和彦は変わった。

 しかもこれは、いい変化だ。


 平行世界からやってきたという彼を、氷浦は自分の息子として受け入れた。それは何も、彼を研究対象にしたかったからではなかった。

 常に感情を押し殺し、生きることも死ぬこともどうでもいいと言わんばかりに振る舞う彼を、放っておくことができなかったからだ。


 リューンの話を聞き出すにも、一年はかかったと思う。


 しかし氷浦が示そうとした同情も、彼は、冷たい視線のひとつで拒絶してしまった。

 亡国の王子。

 しかも、別の世界からの。彼は完全に心を閉ざし、誰とも打ちとけようとはしなかった。

 日本に連れてきてからは、表面だけ愛想よいふりをすることは覚えた。けれども、九条のお節介も珊瑚のほのかな恋心も楊に風と受け流し、少しも心を動かされているふうはなかった。


 フォウが現れるまでは。


 今の和彦は笑い、怒り、悩む。フォウの見るものを、共に見ようとする。感じようとする。

 そればかりか、他人の感情に気付き、寄り添うこともできるようになった。氷浦を父と呼ぶ、その言葉にも最近は温かみを感じる。


 それだけのためでも、キース・メックリンガーのちょっかいを耐える値打ちはあるというものだ。


 今回の齟齬のある論文の背後には、キースの意地悪な思惑があると氷浦教授は睨んでいた。

 わざと失敗させて、こちらの反応をうかがっているのだろう。相手が苛立っているのを見たいという程度の理由でも、キースはよくこんな振る舞いをする。


 いいさ。今回はそれと、ピクニックとが交換だ。


「おっと。温泉もあったな」


 独りごちて、氷浦教授はふふっと笑った。


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