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さて、フランス。
世界に知られた一大観光地、ルルドの泉である。
ムルスは先ほどから、やや途方に暮れつつ街の大通りを歩いていた。
もちろん、地球人らしく見えるように変装はしている。
リューンの戦士階級に特有の青い肌を象牙色に染め、この世界では年寄りしか白髪にならないらしいという知見は得ているので、白い髪も黒く染めている。
服はそのへんの洗濯物から体格に合うものを選び放題だから、なんの問題もない。
問題があるとすれば、右腕だった。
正確には、右腕がないこと、というべきだろう。
ただでさえムルスは、地球人にしてはかなり大柄な部類で人目を引きやすい。筋肉隆々のその巨体が右の袖だけをヒラヒラさせていると、さらに目立ってしまうのだ。
そもそもリューンの戦士は滅多に袖のある服を着ない。
極寒のリューンであえて防寒着をまとわないことが、彼らの矜持であったからだ。からっぽの袖に気を遣うのを怠ってしまい、そのうっかりの結果として今、ムルスはやたらに道行く人々から振り返られている。
しまった。何か袖に詰めてくるべきであった。
だが、とムルスは首をかしげる。
奇跡の泉を求めてやってくる者の中に、手や足の欠けた者はいないのだろうか。
車椅子に乗った老人は何人か見かけたが、それも、老人であるがゆえの車椅子だった。
どちらかというと泉への訪問者は、奇跡など別に必要のなさそうな、やたら着飾った連中ばかりである。ジャメリンに見せられたあの動画に登場していたのと同じ手合だ。
まさかこの全員があの男女のように、奇跡の泉を他人に紹介するのが主たる目的なのだろうか。それもまた奇特な話だ。
街のあちこちで売られているポリバケツも、ムルスを困惑させた。
どうやら着飾った連中はその入れ物を買い、奇跡の泉の水を持ち帰っているようだ。
あんな安っぽいものに入った水が、持ち去られた先で奇跡を起こすとはとうてい思えないのだが。
「地球人というのは、本当によくわからん……」
ムルスは独りごちた。
アイザス様を連れてくる前に、まずは偵察しに来てよかった。
ただでさえ癇性なアイザス様は、呑気なこの街のありさまを見て、お前はまたジャメリンに騙されたのだ馬鹿者、と大暴れしたことだろう。
気がつけばムルスは街はずれまで来ていた。
せっかくここまで来たのだ。バカを承知で、あの連中のように泉の水を汲んで戻ってみようか。
などと逡巡していたら。
「……誰だ⁉」
視線を感じた。
咄嗟に振り返ったムルスは、戦闘態勢を取ろうとして、虚をつかれてウッと呻った。
そこにいたのは、若い男だった。
黒髪、黄色みを帯びた肌、掘りの浅い小作りな顔の造作、小柄な体つき。
リューン・ノアと連れ立っている、あの炎使いの小僧と似ている。
おそらく、同じ系統の民族だろう。
「やあ、こんにちは」
使う言葉も同じだった。
「誰だというからには、あなたも見かけによらず日本の人なのかな。その顔立ちや体格を見たら、とうていそうは思えないんだけど。すごいな、こんな偶然ってあるんだ」
「……なんの用だ」
ムルスは不機嫌に返事をした。
「俺には、お前のような見ず知らずの若造に声をかけられる筋合いはない」
「あなたにはなくても、僕にはあるんだよ」
「なんだとう?」
「僕はここでずっと待っていたんだ。あなたのような人を」
「俺のような?」
「そうだとも! あなたはその腕を失ったことがあきらめきれなくて、無駄を承知でルルブの泉を訪ねてみるほどに絶望しているんだよね?
腕を無くすまではレスリングでもしてたのかな。その筋肉はどう見ても実戦用で、ボディビルみたいな作り物じゃない。しかも、腕を失ってからも鍛練を怠っていない! 完璧だよ、あなたこそ僕がずっと求めていた人だ!」
目を輝かせ、頬を上気させて青年は言う。両手を広げ、今にもムルスを抱きしめんばかりだ。
その興奮ぶりがまったく理解できず、ムルスは薄気味悪さに後じさりしてしまった。
見かけは痩せぎすの、どこといって特徴のないひょろっとした青二才だ。ムルスが指で突いただけで、ひっくり返って気絶くらいはするだろう。
それなのにこの迫力はなんだ。この異様な雰囲気は。
腕を掴まれ、ムルスはぞくりと背を震わせた。
しかし青年はムルスの反応など気にもしない。左腕の次は胸や肩の筋肉を遠慮なく撫でまわしてくる。
挙げ句、すがりつかんばかりの距離からムルスの顔を見上げて、言った。
「僕があなたに、新しい右腕を上げるよ」
「なっ」
ムルスは仰天した。
今、この男。
なんの話をした?
「驚くのも無理はない。けれど、聞き違いじゃないよ」
にっ、と青年が笑った。
その唇がなぜか、耳まで裂けたようにムルスには思えた。
「右腕……取り戻したいんでしょ?」