ギルドは依頼を受けつけない⑩
土床に染み込んだ血はそこだけ黒く変色していた。カートの死体を片付けても生々しい血の跡は消せない。だから、血を吸った部分の土は掘って取り除いて外に撒いた。床には小さくない窪みが生まれてしまったが、血の跡が消えただけましだ。
──その窪みをアスクがつま先で叩く。
「医者はここで殺された。揉み合いになったはずみで、ってとこか? そして、たまたま居合わせた血濡れの蜂が罪を被った」
みるみるうちにケイルの顔から血の気が失われていく。
「指名手配が出たらケイルに首を獲らせるって算段だ。付け火と殺人なら、病気の弟の治療代にはたいても釣りが出るな」
「オレが殺した!」
アスクの腕の下でビーヅが叫んだ。
だが、アスクは依然ケイルを睥睨している。
目論見を看破されて動揺しているのか、あるいはアスクの眼光に恐れをなしたのか、ケイルは硬直したままだ。
「お前らは領主を騙し、ギルドをも欺いて金を詐取しようとした。これがどれほどの重罪か分かってるか?」
「オレが殺ったっつってんだろ! あの医者の野郎、偉そうでムカついたからよぉ! ──おい、ケイル!」
ビーヅに呼ばれてケイルの体が跳ねる。
「あの女押さえろ! 人質にするぞ、それくらいやれんだろ!」
ケイルの揺れる瞳がアイアに向く。すかさずアスクが「動くな」と制し、ケイルはふたたび固まった。
「あいつに手を出したらビーヅの腕折るぞ」
「おおやれよ! ケイルさっさとしろ! なにビビってんだ、あああ゙あ゙あ゙!」
アスクが容赦なくビーヅの腕を捻じ上げ、ミシミシと骨をきしませる。
「ッテメ、マジにすんなこのクソがああああ!」
「やれっつったのお前だろ。おい、絶対動くなよ」
「ケイルッ、はやくしろ! いまのうちにぃでえええあああああああ!」
アスクの鋭い声にケイルは逡巡していたが、ビーヅの悲鳴に背中を押されたように一歩、踏み出した。
「ケイル兄ちゃん……」
ケティが不安げな表情でケイルを見上げている。
「……本当なんですか?」
彼女を腕に抱くアイアもケイルを仰いだ。真っ直ぐな視線がケイルを射抜く。
「病気の弟さんのためとはいえ、そこまでしなければならなかったんですか?」
「オレが! 殺った! そいつみてぇなビビりにやれるわけねぇだろ!」
ビーヅが声を張り上げる──その様はアスクの推測が真実だと裏付けていた。
「ビーヅを……ご友人を身代わりにする以外の方法は、なかったんですか?」
「っ……」
アイアの問いに、ケイルは息を詰まらせた。
「ごちゃごちゃうるっせえ黙れクソアマ!」
「お前が黙れ」
「がっ!」
ビーヅの背骨にアスクが肘と体重を乗せた。
肺を押し潰されながらも血濡れの蜂は声を絞り出す。
「ゲッ、イルぅぅゔゔ……! オ゛レの、言うごど聞げねぇのかああああ゙あ゙!」
「……い……」
「や゛れぇえええええええ!」
「──いやだッ!」
ビーヅの命令を撥ねのけると、ケイルは振り返ってビーヅへと相対した。顔が半分泣いている。
「俺……できない。したくない。ビーヅがいなくなったら俺はどうしたらいいんだ?」
堰を切ったようにケイルはまくしたてる。
「お前を身代わりにして金を手に入れても、きっと一生後悔することになる。その金でケインを治せても俺はケインとケティに……胸を張れない」
「オレなんかっ、どうだっていいんだよ! 兄貴のお前がいなくなったらケティたちが生きていけねえぞ!」
「ビーヅがいなくなったらケティもケインも悲しませる! 父さんも母さんもケントもケビンもカレンも死んだのに、お前まで犠牲にするなんて──俺はもう、家族を失いたくないんだ!」
ケイルの叫びはその場にいる者の耳を打った。
反駁しかけていたビーヅが言葉を呑む。激情に満ちた、涙に濡れるケイルの瞳に気圧されていた。
ビー兄ちゃん、とか細い声が呼んだ。ビーヅが声の主を──アイアに抱かれたケティへ顔を向ける。ビーヅを見つめる幼い目は、ケイルと同じ色だ。
ひたむきな眼差しから逃れることができずビーヅは、ぐう、と喉の奥を唸らせた。
「っクソぉぉぉぉぉぉおおお! クソぉ! クソぉぉぉぉああああああああああああああ!」
その咆哮はアスクへ、アイアへ、ケイルへ、ケティへ、あるいは自分自身へ向けたものなのか。
ビーヅは声の限りに罵り、叫び続けた。
「アイア」
さんざん喚いたビーヅは気力を使い果たしたのか、もはや抵抗することなくテーブルに突っ伏した。ぜえぜえと息を切らしている。
それでもアスクは油断せず、ビーヅの拘束を緩めない。
「子爵様の所に行って兵を呼んでこい」
濃い色の目と目が合う──アスクの指示をようやく理解し、アイアは慌てて立ち上がった。
ケティが不安げな顔でアイアの腕にすがる。
「あ、の」
「ごめんね。……行かなきゃならないから」
アイアはちらりとアスク達を窺う。ビーヅがおとなしくしている今のうちに急がねばならない。「すぐ戻るわ」とケティへ一言残し、すがりついてくる手をそっと外した。
空を掴む指の先で、長い栗毛が翻る。
「だめっ!」
だが、細い指が伸びて栗毛をわし摑みにした。
「痛っ!」
アイアの膝が地面に落ちる。ケティの手を振り払おうとするものの、さらに強く引っ張られた。
「いっ……!」
「ケイル兄ちゃん逃げて! はやくっ!」
「ケティ! やめろ!」
急いで駆け寄ったケイルがケティを羽交い締めにする。けれど、ケティは掴んだ髪を指に巻きつけて離すまいと抵抗する。
「だめだめだめだめ! ケイル兄ちゃんもビー兄ちゃんも捕まったら死刑になっちゃう! そんなの絶対だめ!」
「ケティちゃんっ……!」
「はなして! 兄ちゃんたち逃げてぇ!」
ケティの金切り声が耳をつんざく。そこへ野太い喚き声が重なった。ビーヅだ。涙を滲ませながらもアイアが見れば、ビーヅが床の上でのたうち回っていた。腕を折られたか、肩を外されたのだろう。
悶絶するビーヅを無視してアスクは大股にアイア達のもとへ歩み寄る。腰のナイフが抜かれ、その切先がケティを捉えた。
「っケティ! 手を離せ! ケティ!!」
「いやあ! ビー兄ちゃんいまのうちに逃げてっ!」
必死にケイルがアイアの髪を解こうとするものの、ケティは両手の指を使ってでたらめにアイアの栗毛を絡めとってしまう。力任せに引っ張られた髪が、ブチ、と肌からちぎれる音がした。あまりの痛みにアイアの目から涙が落ちる。
ゴツ、と男の足が歩みを止める。
「サブマスタ……っ」
アイアには一瞥もくれず、アスクはケティの手首を掴んだ。大の男の腕力に、貧相な少女が全力で抗ったところで適うはずがない。
鼻先にナイフが翳されたケティは一瞬怯んだが、栗毛を離そうとはしなかった。
「ケティ!」
ビーヅが渇いた声で叫ぶ。ケイルが咄嗟にケティを抱きかかえた。
アイアも痛みを堪えて振り仰ぐ。
「サブマスター!」
けれど、アスクはそれらをことごとく意に介さず──ナイフを振り下ろした。