日は残酷に昇る
「六ちゃん、これはどういうこと…説明してちょうだい」
艶の手の中には真っ赤な手紙があった。端的に言うと、例の手紙が見つかってしまったのである。六はなにも言えず、苦笑いを浮かべる他ない。
この話には、複雑な過程があったりする。
まず六はいつも通りに起床し、いつも通りの日々を送っていた。朝食の準備はいつもよりも順調だったし、皆が食卓に揃うのも早かった。何なら、順調すぎるぐらいである。
六が洗濯物を干している間に、艶は掃除を始めていた。掃除の担当は、六か艶のどちらか洗濯当番でない人がやることになっていた。その日は偶々艶がその担当で、艶は応接間や厨など隅々掃除をしていく。慣れた手つきで次々掃き、残る部屋は一つ。六の部屋だった。六の部屋は玄関の隣にあり、その向かいが応接間。艶はよく反時計回りに掃除をする癖があった。
いつも通り六の部屋に入り掃除をしていると、艶は六が勉強机にしている台に何か引っ付いていることに気が付いた。ゴミだと思い手を伸ばし何かを引っ張ってみる。するとテープが取れ、解放された赤い紙が艶の横を通り落ちる。
艶は一瞬目の前が真っ暗になった。見たことのある手紙がどうして六の部屋から出てくるのか。理解ができなかった。ワナワナと震える手で赤いそれを拾い上げる。ふと、とある考えが脳裏をよぎった。
これは壱に送られてきたものではないのか。六はそれを恨んで、部屋に隠していたのではないか。兄想いの六が壱の目に触れないように自室に隠すこともあるかもしれない。もしかしたら、心臓に悪いいたずらの可能性もある。
艶はそれをゆっくりと開けていく。恐る恐るではあったが、赤いそれは大きな口を開けてった。
「な、なんてこと…」
思わず、艶は手紙を離し口に手をやる。紙がヒラヒラと地面に落ちた。
かつて未葉家に届いた赤い紙は、宛名が書き記されていた。未葉壱と。しかし今回の赤い紙に宛名はない。ただ、うら若き男女を徴収するとのみ記されていた。日付は最近のもので、過去のものとは違う。現実を突きつけられた。
幸いといっていいものか、手紙の封は切られていなかった。六は見ただけで、しっかり内容までは把握していない。ただ、何となくは察しているのだろう。だから隠したのだ。
洗濯物を干し終え、室内に戻ってきた六を呼び止める。六は何も知らない顔をしていた。まさか見つかっているとは思っていないのだろう。
そして冒頭に戻る。
「六ちゃん、これはどういうこと…説明してちょうだい」
艶は見やすいように掲げ、それを手でぎゅっと握った。つい力を込めてしまいグシャッと紙が潰れるようか音がしたが、ただの紙だ、もうどうだっていい。六はニコニコと口元だけ笑わせて、目を泳がせていた。この子の幼い頃の癖である。隠し事がばれたとき、六はいつも目を泳がせ決して目を合わせようとしない。
「六ちゃん」
艶が怒りを含んだ声で、六を問い詰める。六はそれでも何も言おうとせず、口をまっすぐ結んでいた。
六も六とて馬鹿ではない。だが、言ってしまえばきっと楽になる。この苦しい現実から目を背けているこの状況。この苦しみから解放され、気楽になれると思えば、口が勝手に動きそうになった。泣き言を言うまいと息を吸い吐き出したときに出たのは、声の代わりに涙だった。
「だって…」
か弱い乙女ではない。そう言い聞かせ、流るる涙を止めようとするも、うまく止まってくれない。しゃくりあげてきて、息が詰まる。
苦しい。そう思った。何に対してか、なんて決められない全部に対してである。何もかも辛い。誰かが戦場に行ってしまうのが辛い、死んでしまう誰かを見送るのが辛い、明日は我が身と考えてしまうのが辛い。辛い。辛い。
艶は珍しく涙を流す六を抱き締める。この気持ちは、誤魔化しようがない。女は気高くあるべきで、立役者を支えるのが仕事。丨自分《感情》よりも、と艶はそう教わって実践してきた。だが、この瞬間。暗闇から光に手を伸ばした。
「そうね………私も、寂しいわ」
か細い声だった。六をそっと抱き締め、艶は涙を流す。声を潜めて。その日、月は一段と輝いた。
次の日の朝。六は眠った。珍しく朝食の準備は艶に任せて、六は布団の中で大人しく眠る。
夢の中では、かつての記憶がまるで絵本のように再生されていった。あのとき、何を感じて、どうしたか。それがゆっくりと流れていく。
六は傍観者。ただ眺め、先の出来事を思い出す。詰まらないと思ったが、同時に楽しいと思えた。相反する感情が絡み合い、不思議な感覚に陥る。
ぐるぐるととぐろを巻くように絡み合うと、真ん中から二つに割けてその断面が新たな場面に導いてくれた。自分の記憶にないほど古いものから、最近のちょっとした出来事まで。これが所謂走馬灯というヤツなのかもしれない。
六は身体を起こした。朝日…昼日が顔を照らし出し、徐々に気分を晴れやかにしていく。
今までこれ程ゆっくり寝たことはない。いつも朝日が昇る頃に起きていたから。朝の準備をして、昼の準備をして、夜は寝る。そんな生活を何年も積み重ねてきた。
雀が部屋の窓から見える。ボールのように跳ねて、子供のように高い声で鳴く。起きろと騒がれているようで、渋々六は布団から抜け出した。
「おはようございます」
部屋に入って一礼をした。六が最後のようで、食卓には皆揃っていた。黙々と箸を進める家族を他所に、六はノソノソと席に着いた。どんどん食材が減っていき、六の分までなくなりそうな勢いである。
六はゆっくりと箸を進めた。静かな食卓に、陶器と箸のぶつかる音が響く。誰も注意しない。何も言わないというよりも、何も考えていないようだった。ただ生きるために食事をしているように思えた。
静かな食事を終えると、六は縁側に出た。起きた頃と変わらず、雀が散歩していた。それをじっと眺め、六は彼らの行く末を考える。
ここで生まれた雀は母親に育てられ、いつしか巣立ちを迎える。そして巣立つと将来の伴侶を見つけて、子供を生む。最後は土に還える。何回も何回も同じことを続ける。それが生命。
六は己の手を見つめた。この血、この身体は母親_艶から授かったもの。あの雀と同じように生死を繰り返し産まれたカラダ。怪我をすれば痛いし、なにもしなければノビノビと動かすことができる。人間の進化。
「生きているって凄いのね」
縁側に倒れ込み、空を眺める。蒸し蒸しとした暑さが、身体中の水分を奪っていく。このまま寝ていれば孰れ木乃伊が完成してしまうのかもしれない。
馬鹿馬鹿しい妄想をしてしまうのは、こんなことはもうできないと思っているから。呑気に空を眺めて寝ころぶなんてこれから出来ないかもしれない。もしそうなら、今満喫しなければ。心はもう決まっていた。
「さて…っと、準備しようか」
鞄に詰められるだけのものを用意する。タオルに着替え、家族の写真、筆箱、財布、一応の予備のお金。何がいるか分からないが、備えあれば患いなし。とにかく不安を消し去りたかった。身分の証明をできるものを入れて、あとはお弁当だけになった。パンパンの鞄。まるで遠足に行くようで、微笑ましく思う。行くのは死地なのだが。
ゴソゴソと物置を漁っていると、何処からともなく肆瑠がやってきて六を手伝い始めた。肆瑠は何も聞こうとも話そうともしなかった。ただ無言の背中が、六が何をしでかそうとも支えてくれる。そう言ってくれている気がした。
「ありがとう」
そう呟くと、肆瑠は首を縦に振った。その表情は見えず、埃の所為で涙と鼻水が止まらなかった。
今思えば、肆瑠は置いていかれてばかりだと思う。兄だけではなく、妹までも戦場に。庇われてばかり。顔だけが怖く、その中身は怖がりで口ばかりが達者になっていった己と対称的に兄妹はどこまでも果敢で。追い付けない自分に嫌悪感を抱いたのは何回目だろうか。
肆瑠は六の行動に何も口出しをしなかった。今朝母から聞かされた従軍のことも、それを六が志願していることも、全部後から知った。六は何も言おうとせず、1人で背負い込む。六が重荷を分けようとしないのならば、肆瑠が出来るのは荷物を無理矢理にでも奪い去り負担を軽くしてやることだけ。
妹の尻拭いぐらいしなければならないと思った。"自分だけ"逃げる_今日からは臆病な自分とはオサラバ。
念のため、六は世話になった人たちには文を送ることにした。徴兵に行くとは書かず、親戚の容態が悪く親の代わりに見舞いに行くと嘘をついた。心配させたくはないし、体調を崩している親戚がいるのは本当なのでギリギリ嘘とは言えない。あっちに行っても手紙を書くとか、一緒に遊びに行こうとか、本当にできるかどうか分からないことばかりを綴った。
四通目に差し掛かる頃、墨が切れた。硯に残っているのも少ないため、部屋を出て誰かのものを拝借しようとした。墨液なる墨の液体があるらしいが、我が家にそんなものはない。墨が腐るほどあり、消費するためにひたすら毎日ゴリゴリゴリゴリする。節約のためでもあるが、これがまた体に効く。お陰で妙な筋肉の付き方をしている。
「父さま、墨の残り持ってない?私のものが切れてしまいまして」
父は首だけをこちらに向けた。その手には小さな歯車が収まっている。それをルーペでじっくりとみて使えるモノかどうか判断する。それを何十回も繰り返して、最終的に選ばれたのは5%ほど。5%の中にも歯車の特性はそれぞれである。それを見定めるのが時計師の技術の一つである。
「それ持ってけ、俺は使わん」
「うん、ありがとう」
墨で汚れた箱の中から削れた墨を取り出す。角がすり減っていて、鉛筆のように面を削り切っ先を鋭く尖らせていた。几帳面な父らしい。
部屋を出て、自分の部屋に向けて六は歩き出す。そして徐に足を止めた。後ろを振り返ると父の部屋からは物音が聞こえる。明かりが漏れてきていて、六は光に目を惹かれた。歩いてきた廊下を引き返し、父の部屋を障子の隙間から覗いた。先程と変わらず黙々と作業をしており、変わった様子は見られない。父は六の話を聞いていないのだろうか。少し胸が苦しくなった気がしたが、同時に安心した。私がいなくても、父はいつも通りである。
手紙を書き終えると、六は鞄にそれらを詰めた。意外と鞄にはいっぱいいっぱいだったようだ。折れないように且つ破れないように鞄を肩に提げる。そして出掛ける前に壱の部屋へと向かった。朝食のときも言葉を交わしていなかったことを思いだしたのである。
障子を開けると、壱は部屋の外をぼんやりと眺めていた。六に気が付くと、唇がピクリと動く。しかし言葉が出てくることはなく、また窓の外を眺めた。無表情ではあるが、帰って来てすぐの頃と比べるとマシになったほうである。帰って来た頃は目すら合わせてくれず、ただ足元を見ていた。
「兄さま、おはようございます。今日もいい天気ですね。私郵便物を出しに行くんですけど、ご一緒に行かない?」
壱はなにも言わなかった。それでも六は明るく話す。今日は部屋の掃除をしたとか、手紙を書いたとか。それと、戦場に行くこと。最後の話題には壱は反応を示した。今までそっぽ向いていた壱が初めてこちらを向いた。
「兄さま、いかがしました?」
壱の膝に手を当て、顔を覗き込む。そして壱の手を優しく包み込んだ。温かく、固い手は、壱がこれまで積み上げてきた証であった。その手をピクピクと動かし、壱は何かを伝えようとしているようであった。
壱が何を言おうとしているのか、六には分からなかった。ただ兄のことだから、となんとなく予想はしていた。
「もしかして説教ですか?私には効きませんよ、もう決めたんです」
まだ震える壱の手。兄が前のまま、あの頃と同じようだったなら、きっと珍しく怒って私を怒っただろう。そうに違いない。
六は壱の額に自分の額を合わせる。そして目を閉じた。以前のように話せなくとも、壱は六にとっての兄である。いつも支えてくれたかけがえのない家族。一度目は守られたから、今度は自分の番である。今の話を壱が理解できているか分からない。もしかしたら、ただ反応してくれているだけなのかも。それでも、額を合わせてそこから六の想いが壱に伝わるように。ただ想いを伝えた。
「兄さま、行ってきますね。今日は一緒に過ごしましょう」
そうして六は部屋を出ていった。六の居なくなった部屋は一気に寂れたようだ。残された壱は手を六が出ていった障子に手を伸ばす。だが、その手は空をつかんで膝に落ちていった。
「忘れ物は…ないわね」
鞄の中身を全て確認した。もう忘れ物はない。時計を見ると七時少し前。バスでの送迎があるそうなので、その時間までは自由時間だ。バスが来るのは七時半。集合時間は七時二十分。あと三十分あるかどうか。集合場所までは徒歩になるため、少し余裕をみてもうそろそろ出発しなければならなかった。
文机の上は整理をした。着ない服、持っていかない服はきちんと収納した。本棚もきちんと整えて、手紙も全て返信・確認済み。もう思い残すことはない。
「六ちゃん」
艶が六の部屋に一歩足を踏み入れた。整えられた六の部屋は彼女の瞳にどう映ったのだろうか。
艶は六の頭から足先まで確認をして、そして強く抱き締めた。
「…大きくなったわね、六ちゃん」
「ええ。母さま、私はこんなに大きくなりましたわ」
玄関まで艶と共に行き、玄関で皆に見送られた。皆に背を向けたとき、胸の奥が熱くなった。今まで見てきた景色を、人たちを二度と見れなくなるかもしれない。そう思うと、足を止めてやはり辞めたい。行くのを辞めると宣言しようとした。
振り返り、六は口を開く。
「行ってきます、みんなお元気で!」
六は家を出て、坂道をくだり百貨店の前を通り集合場所まで向かう。目につく周りの人たちは楽しそうに笑っていて、羨ましくなる。
自然と足が重たくなっていった。
「ズルいよ、どうして私たちが引き裂かれないといけないの。代わりに、私たちの代わりならたくさんいるじゃない」
本音がポロリと溢れる。時折、ぎょっとした顔で六を見る人がいるが、六は無視をした。足を止めるわけにはいかない。ゆっくりでも進まなければ。
そうして憎き日は昇る。